王都_その13
『リフター・パーシー』
東方辺境地域で、三つの村を治めるパーシー家の元当主。
若くして妻が病没したのを契機に、独学で薬学を修める。
五〇歳で息子に当主の座を譲り、単身王都に上京する。
スターシフ家が後援する、ヘルミナール学院に籍を置く。
最初は準学生の扱いであったが、その学識の深さを見込まれて教授に抜擢された。
学生や同僚達の信頼は厚く、研究面では評価の高い論文を幾つか発表している。
三度の食事はカフェで摂り、飲酒は一〇日に一度、食前酒を口にする程度。
趣味は旅行で、海外の珍しい薬草を採取しては国内に紹介する。
薬学だけではなく、博物学的な研究を会誌に寄稿するなど、その学識は多岐に渡る。
思想的には保守的で、言動からは王家に対する素朴な敬愛の念が窺える。
アパートに独り暮らし。家事手伝いを雇わず、身の回りのことは全て自分でこなす。
以上が、スターシフ家の諜報部門による、リフター教授の調査報告書の概略である。
本当はもっと長々とした内容なのだが、看破スキルが要領よくまとめてくれたのだ。
報告書の内容からは、典型的な学究の徒の姿が浮かび上がってくる。
読み終えた調査報告書から視線を上げ、正面のカルドナを見据えた。
死闘を終えた俺達は現在、執務室のソファーに向かい合わせで座っている。
俺が座っているソファーは、先ほどの戦闘で破壊されたものだ。
背もたれは真っ二つに裂け、脚がぐらぐらして腰が据わらない。
無傷な方のソファーには、カルドナがちゃっかり座り込んでしまったのだ。
危なっかしいソファーに腰掛ける以外、選択肢はなかった。
「客をこんなものに座らせるなんて、スターシフの程度が知れるな?」
「歓迎されない客をもてなすほど、当家は寛容ではないのだよ」
フフフと、含み笑いする俺とカルドナ。
「譜第貴族にしては、地味で陰湿な嫌がらせだな?」
「床に座らせないだけ感謝しろよ、冒険者?」
顔を見合わせた俺達は、乾いた声でハハハと笑う。
ひとしきり笑うとピタリと口を噤み、お互い睨み合う。
ついさっきまで殺し合いをしていた仲である。
どうしたって友好的な雰囲気になるはずがなかった。
カルドナによれば、霊薬の精製には錬金術というスキルが必要らしい。
その錬金術スキルを、レジーナの恩師であるリフター教授が所持していることも白状した
彼は執務机の引き出しから調査報告書を取り出し、無造作に投げて寄越したのだ。
「王家はかなり以前から、リフター教授が錬金術スキルを所持していることを掴んでいた」
少なくとも五年以上、リフター教授の身辺を探っているらしい。
それをスターシフ家の諜報部門が察知したのである。
「王家はどうして、教授が錬金術スキルを所持していることに気付いたんだ?」
「教授の論文を分析した研究顧問によれば、ごくまれに飛躍した推論に基づく発見があるそうだ」
意図的かどうかは不明だが、錬金術スキルを使用している。それが王家の情報網に引っ掛かったらしい。
「スターシフ家は数世代に渡り、王家が独占している霊薬に関する情報を集めている。それは他の譜第貴族も同じだろう。しかし王家の秘密工房の全容は王城の厚い壁に阻まれ、未だに多くの謎で包まれている」
予想通り、スターシフ家は霊薬の秘密を探っているようだ。
「王家は霊薬の秘密を守るため、霊薬精製に携わる人間の招聘には非常に慎重だ。該当人物の業績や政治的信条、背後関係を数年掛かりで徹底的に洗い出す。学院の学生や同僚には、王家の息が掛かった人物も紛れ込んでいる。あえて見逃してはいるがな」
しかし、ついに王家はリフター教授の招聘を決定した。使者を送り、教授の意向を打診している段階らしい。
この時点で、カルドナは諜報部門を引き上げた。王家の邪魔をするつもりはないのである。
「王家の招聘に応じれば、莫大な報酬が与えられるだけではない。生涯に渡り完全な監視下に置かれるが、王家から研究活動への全面的な支援を得て、王立学院の重要な役職を約束されるはずだ」
研究者としては望み得る最高の栄達だと、カルドナは言う。
「だから教授の協力を仰ぐのは無理だろう。せっかくの好機を、棒に振る危険を冒すとは思えん」
カルドナの忠告じみた言葉に、俺は肩を竦めた。
「そこはまあ、なんとかする」
気軽に答えると、カルドナが醒めた目でこちらを見た。
「また脅迫か?」
それに答えることなく、ソファーから立ち上がろうとした。
本当は、尋ねてみたい疑問は山ほどある。しかし霊薬さえ入手できるのなら、全て些末な問題だ。
ここにも、彼にも、もう用はない。
「レジーナを、裏切ってくれるなよ?」
あまりにも真剣なカルドナの声に、浮かしかけていた腰を下ろしてしまった。
「レジーナは以前、誘拐されたことがある」
両眼に殺気を漲らせ、俺を睨み付けるカルドナ。
「ある事件に巻き込まれ、親しくしていた男に騙されて攫われたのだ」
「…………譜第貴族の令嬢を誘拐するとは、無謀なやつがいたもんだ」
「首謀者も譜第貴族だった。尋常ではない力を望んだ愚かな野望のため、譜第貴族三家の抗争になり掛けた」
カルドナの気迫に呑まれ、身動きができない。
「事件後、レジーナは無事に戻ってきた。だが心に深く傷を負い、男に対して根強い不信感を抱くようになってしまった。部屋に閉じこもりがちになり、通っていた学院も退学した」
――わたしに、さわるなっ!
初めて出会った時の、レジーナの激しい怒り。俺に対して抱いている嫌悪感。
そして、あのアパートには女性しかいない理由。それらの意味が、ようやく理解できた。
「そんな時だ、秘密にしていた誘拐事件を聞きつけたシルビアが、カティア殿に伴われて王都を訪れたのは。おそらく一族の女達が、密かに連絡したのだろう。レジーナのために、シルビアは危険を冒してくれたのだ」
当時に思い馳せるように、カルドナは遠い眼差しとなる。
「無力だったわたしに代わり、シルビアは一ヶ月近くもレジーナと寝食を共にして、献身的に癒してくれた。カティア殿は不眠不休で、王家からの干渉を防いでくれた。あの二人には、返しきれない恩義を受けたのだ。それなのに…………」
そこまで語って、カルドナは息を吐いた。ひどく疲れた、やるせないため息だった。
「おかげでレジーナは一族の許に戻ってきた。そして我々は、妹がスキルに目覚めていることを知ったのだ」
帯電スキル。苦痛と引き換えにしても、再び囚われの身になることを拒絶する意思の表れなのだろうか。
「レジーナはまだ、完全には男に心を許していない、そう思っていた。だから男であるお前がアパートにいると噂になった時には、叔母や従姉妹達は驚いた。そしてお前達を密かに見守っていたのだ」
お茶会の時点で俺達のことは知れ渡っていたが、魔女達は素知らぬ態度を通していたのだ。
レジーナの爆弾発言に対する魔女達のはしゃぎっぷりには、そんな裏事情があったのか。
「――――いや、それは」
「分かっている、単なる協力関係だと言うのだろう? だが、事件直後のレジーナを思えば…………」
カルドナは無念そうに拳を握り締める。
「だから、レジーナを裏切ってくれるな」
それは間違いなく、懇願だった。
譜第貴族のプライドを捨てた、ただ妹を案じる兄の姿が、そこにあった。
◆
「おはよう、ゆっくりと眠れたかしら?」
既に朝食を摂り終えたレジーナが、俺とクリスを皮肉たっぷりな態度で出迎えた。
よほど疲れていたのか、いつもの時間に目が覚めなかった。
気を遣ったクリスが、そのまま寝かしておいてくれたのだ。
「あ、ああ。まあな」
昨夜のスターシフ邸での出来事が念頭にあり。まともに彼女の目が見られない。
ぼそぼそと返事してから着席する。
こっそりと隣の席を窺えば、クリスが顔を真っ赤にしている。ごめん、耐えて。
俺達の前には、朝食にしては豪勢な料理が並ぶ。
「しっかりと食べてね、クリスちゃん?」
「はい、ありがとうございます!」
美味しそうな朝食に目を輝かせるクリスに、優しさと労わりの眼差しを向けるレジーナ。
その視線は、俺に転じた途端に氷点下となる。
「さっさと食べなさい――――食え」
「…………はい、いただきます」
不穏な空気を感じたのか、クリスがスプーンを咥えたまま目をパチクリさせる。
栄養たっぷりな食事の真意を、彼女は理解していない。純粋無垢な乙女なのである。
ヘレンの入れ知恵かな? そんなことを想像しながら、もそもそと食べ続けた。
悩んだ末、リフター教授の件はレジーナにも、クリスにも明かさないことにした。
これ以上、レジーナを厄介な事態に巻き込まない配慮もある。カルドナの願いを無下にはできない。
しかし、それだけが理由ではない。
錬金術スキルを、ポイントで贖うと決意したのだ。
全く未知の、想像すらできないスキルでは、いくらポイントを費やしても取得できる可能性は低い。
そしてスキル取得が失敗しても、ポイントが消費される可能性が高い。
ポイントは、血と命を代償にして得られるのだ。無駄遣いはできない。
しかし看破で錬金術スキルを読み取れば、取得可能となるはずだ。
リフター教授の件を打ち明けるのなら、ポイントのことまで話さなくてはややこしい事態になる。
錬金術スキルのことを知った途端、レジーナが教授の許に乗り込みかねないからだ。
教授の周囲には、王家の影がちらついているのだ。
スターシフ家令嬢の再三の訪問は、王家を警戒させてしまう。
さて、今後どうすべきかと頭を悩ませていると、ヘレンがやってきた。
「お嬢様、お館様からお手紙が届きました」
「お兄様から?」
ヘレンが差し出したトレーの上から、レジーナが封書を取り上げる。
「これ、ヨシタツ宛じゃない」
宛名書きを一瞥し、レジーナが訝しげな表情になる。
俺も困惑しながら封書を受け取る。今さらなんの用件だろうか?
中身を開いて看破を掛け、内容を読み取る。
くしゃっと、封書を握り潰した。
◆
急いで準備を整えると、キール君を連れてアパートを出た。
お仕着せ姿で女の子に化けているので、保安隊と出くわしても安全なはずだ。
むしろ、俺自身の風体を記憶されている可能性が高いかもしれない。
魔女達のお茶会に出向いた時とは違い、今日は護衛風に着飾った。
正体を見破られる恐れがないなら、キール君はなるべく身近に置いておくべきだ。
もし彼がスキルを暴走させた時、それに対処できるのは俺だけだ。
クリスやレジーナ達に馴染んだから大丈夫だと思うが、万が一ということもある。
そんなことを心配するようになったのは、カルドナから受け取った手紙のせいだ。
あれを読んでから、不安に苛まれ続けている。
レジーナ達の許には、護衛としてクリスを残した。彼女達には外出を控えるようにと告げてある。
はぐれないように手をつなぎながら、キール君と街路を進む。
彼は、物珍しそうに周囲を見回している。こうして日中の表通りを歩いた経験がないのだろう。
本当なら色々と楽しませてあげたいのだが、今はそんな余裕がない。
立ち止まりそうになる彼の手を引っ張って進むうちに、目的地へと到着した。
庁舎前広場は、三十人規模の部隊によって封鎖されていた。
警察か軍隊か、制服を着た連中が、広場の周辺に集まる野次馬達を整理している。
目を細め、広場のほぼ中央に群れる集団を眺めた。
距離があるが、無意識に発動した看破が視界を拡大してくれた。
情報は読み取れないが、彼らの姿形は明瞭に視認できる。この程度のことは造作もないのだろう。
看破のサービスにちょっと驚きながらも、観察を続ける。
見覚えのある顔もある。保安隊の連中だ。他は捜査関係者か。
彼らは地面を見下ろし、口々に意見を交わしているらしい。
彼らの足元には、一人の人間が横たわっている。
サークだ。血溜まりの中に、賞金稼ぎがうつ伏せに倒れている。
カルドナの手紙によれば、既に死亡しているらしい。
どうして、こんなことになった?
あいつは身を隠すと言っていたではないか?
今頃は王都を脱出しているとさえ思っていた。
それとも、渡した謝礼金では満足できなかったのか。
欲に目がくらんで、深入りし過ぎたのだろうか。
看破が途切れ、視界が元に戻る。頭がくらくらとする。足元がおぼつかない。
きゅっと、手を掴まれた。傍らを見下ろすと、キール君が不安げな顔をしている。
幾分か冷静さを取り戻し、踵を返してその場を離れた。
知り合いだと、名乗り出ることはできない。
うつ伏せになっていたので、死に顔も看取ってやれない。
彼に身寄りはあるのか。表の顔を営んでいたのだろうか。葬儀はどうなるのか。
再び思考が迷路のようにぐるぐると回り出す。
広場からかなり離れた頃、無性に喉が渇いた。目についたカフェに飛び込む。
窓際の席を選ぶと、キール少年には甘味と香茶を、俺は酒を注文した。
酒が届くと一気に呷り――――むせた。
心配そうなキール君に、気にするなと手を振る。
広場で脳裏にこびりついた光景を、何度も反芻する。
あの場にはいなかった、十人委員会の《化け物》を思い出す。
なぜ、あんな真似をする。ひょっとして殺人履歴がバレたのか?
情報だけ引き出して、無残に殺したのか?
サークの顔を思い出す。そうだ、最初からあいつを生け贄にするつもりだったじゃないか。
今さら動揺することはない。他人に怒りを向ける前に、まず咎められるのは俺自身だ。
あいつは、そんなに悪人じゃなかった。
接触したのは数えるほどだ。その時、あいつは何かの拍子にポツリと漏らした。
殺したのは、女だと。どうして俺に、そんなことを打ち明けたのだろうか。
あいつは、それ以上は何も言わなかった。どんな関係だったとか、なぜ殺したのかなど口にしない。
――――ただ、ホッとしたような表情になったのが、記憶に残っている。
カチャンと食器が鳴る音で、我に返る。
キール君はもう、甘味と香茶を平らげていた。
どのくらい時間が経ったのか。時間の経過さえ意識しなかった。
少女の格好をした少年が、モジモジと腰を揺すっている。
眉根を寄せて困ったような顔をする彼を見て、ハタと気付いた。
「すみません、この子をお手洗いに」
通り掛かりの店員さんに、案内を頼む。
店員さんに連れられたキール少年が、不安そうに振り返った。
そうか、付き添った方がいいか。そう思って立ち上がろうとして――――腰を落とした。
窓の外の通りを歩く、リフター教授の姿が目に入ったからだ。
顔を伏せ、通り過ぎるのを待ってから、窓から身を乗り出す。
去ってゆく背中に看破を発動――――
――――椅子に腰を下ろし、飲みかけの酒に手を伸ばす。
手元が狂い、カップが倒れた。酒がどんどん、テーブルに広がる。
拭かなくちゃ。ゴシゴシこすった袖口に、琥珀色が染み込んでいく。
カチカチと音が頭蓋骨に響く。身体が震えて、歯が鳴る。
額からテーブルに滴り落ちる汗を、無言のまま袖口で拭き続ける。
「大丈夫かね?」
労わるような声に、顔を上げた。
正面に、彼が立っていた。
「具合が悪そうだが? 心得があるので、少し診てみようか?」
「いえ…………ご親切に、ありがとうございます」
彼は俺の顔を見詰めてから、ポンと手を叩く。
「ああ! どこかで見た顔だと思ったら、レジーナ君と一緒にいた!」
彼は正面に、キール君が座っていた席に腰を下ろす。
俺は立ち上がり、頭を下げた。顔を見られないように。
「どうしたんだね?」
「お嬢様から、閣下が貴族だと伺いましたので」
「いまは一介の研究者だ、そんなことはよしなさい」
座りなさいと促され、席に着き――――回避スキルを発動した。
「レジーナ君はどうしているかね?」
「はい、元気にお過ごしです」
「そうかそうか、それは重畳」
彼は満足そうに頷くと、店員さんに香茶を注文する。
「彼女に仕えて長いのかね?」
「いえ、最近雇われまして」
「ほう?」
「あの、教授とお呼びしても?」
「構わないよ」
「ありがとうございます。実は教授に一つ、伺いたいことが」
緊張のため唾が渇いたが、すぐに元に戻る。
回避スキルが、肉体の反応を制御する。
瞳孔、視線、汗腺、呼吸など、思考以外の全てをスキルに委ねる。
「どうしてあの時、嘘を吐かれたのですか?」
「なんのことだね?」
彼は首を傾げる。心当たりがないようである。
「お嬢様に、霊薬は存在しないと仰いました」
「ふむ?」
じっとこちらを窺う眼差しは、観察する研究者のそれだ。
「やはり納得していなかったのだね、彼女は?」
「はい、その後、色々と調べられて、霊薬の存在を確信されたようです」
「うん、人の言葉を頭から信じず、自ら調べたのは、及第点だ」
満足そうに頷く。自分の言葉を疑われたというのに、不快の念はないようだ。
彼は、二本の指を立てた。
「理由は二つ。一つは、万能の妙薬などあり得ないからだ」
中指を折る。
「もう一つは、彼女の動機が不純だったからだ」
人差し指を折る。
「不純、ですか?」
「医療の発展のため。そういう雑念を抱いていては、真理には到達しえない」
「…………どういうことでしょうか?」
「真理の探求は、それ自体が目的であるべきだ。誰のためでもない、何かのためでもない」
こちらを見る彼の顔には、迷いの欠片も窺えない。
「期待や希望に囚われていては心の鏡は曇り、正しい観察結果は得られない」
「…………」
「芽生えた好奇心を育て、探求心の赴くままに真理のみを追い求める。それこそが研究者のあるべき姿だよ」
滔々と語る彼の瞳は、驚くほど澄んでいた。
これほどまでに純粋で、知的な輝きを宿した瞳を、かつて見たことがない。
名称:リフター・パーシー
年齢:六一歳
スキル:錬金術
だが、彼の本当の姿は違う。
鑑定スキルでは届かない、看破スキルが到達できる領域に、真実の姿がある。
名称:ジェフティ
年齢:五六歳
スキル:――――――――――――――
固有スキル:――――
履歴:殺人×
ポイント:二四〇〇
本当の意味でジェフティ――――《三重の蛇》と呼ばれる男との遭遇を果たした。
生まれて初めて、心の底から恐ろしいと感じる人間と出会ったのだ。
◆
――背信、欺瞞、奸智。三つの悪徳を重ね合せた、冷血漢の異名だ。
――真理の探究と称して世に害毒と災厄を撒き散らす、極悪非道の重犯罪人だ。
――《三重の蛇》が王都から姿を消したのは、一〇年以上も昔の話らしいぜ?
――まんまと海外に逃げおおせたらしい。その後で、蛇は逃亡先で流行り病に罹って死んだと噂が流れた。
眼前にいる男の容貌は、手配書の似顔絵とは掛け離れている。
わずかに灰色が混じる髪だけが、彼の本当の年齢をしのばせる。
紳士的な振舞い、知的な風貌、穏やかな言動。
今の彼を見て、この男が重犯罪人だと疑う者は皆無だろう。
だから余計に、怖い。
ジェフティ―という男が消息を絶った後、リフター・パーシーという男が王都に現れた。
ジェフティは一〇年来、リフター・パーシーという男を演じてきた。
鑑定スキルは上手く誤魔化せたとしても、重犯罪人であることには変わりはない。
なのに堂々と人前に姿を現し、あまつさえ教鞭を執るなど、常識離れした行動だ。
綱渡りのような、偽りの人生だ。一本糸がほつれただけで、切れてしまいそうな危うさである。
しかし王家とスターシフ家の諜報部門は、彼の正体を見抜くことは出来なかった。
彼の双眸が恐ろしい。
自ら語る通り、そこには一切の予断も思い込みもない。
ただ、ありのままの俺を観察している。
偽りの仮面を剥がし、その裏にあるもの全てを見透かされそうな気がする。
彼の正体に気付いていることを悟られたら、何をされるか分からないという恐怖がある。
その意味では、彼の観察眼は攻撃にも等しい。
剣士が相手の挙動を窺うように、戦いが始まっている。
そんな俺の認識を、回避スキルが共有する。
こちらの内面を読ませないように、回避スキルが瞳孔の縮小や汗の分泌、ボディランゲージなどを制御する。
兄弟子の光剣マリウスと対峙した時、彼にこちらの行動を先読みされた。
その経験を活かし、自分の意思ではコントロールできない肉体の反応を制御しようと思ったのだ。
とにかく、この場を逃れ、態勢を立て直さなければ。
怪しまれることなく立ち去る方法を考えていたが、ふと大事なことを忘れているのに気付いた。
「あの、わたしの連れはどうしました?」
傍らを通り掛かった、先ほどの店員さんを呼び止める。
キール君がお手洗いに行ってから、だいぶ時間が経っている。
あら? 首を傾げた彼女は奥に引っ込み、間を置いてから慌てて戻ってきた。
「あの、お連れのお嬢様がいらっしゃいません!」
勢いよく立ち上がった弾みで、椅子が倒れる。
ジェフティに向かって叫ぶ。
「すみませんが失礼します!」
「ああ、構わないよ、行ってあげなさい。支払いは任せておきなさい」
ジェフティは、訳知り顔で頷いた。
「女性を怒らせたら、とにかく謝るのだ。言い訳など論外だからね?」
世迷言をほざくジェフティを残し、急いで現場へと急行した。
お手洗いは、店の奥にあった。もし姿を消したのなら、裏口から外に出たとしか考えられない。
いや、自分の意思で出て行ったのだろうか?
裏口から通りに出て左右を見渡すが、キール君の姿はどこにもない。
広場での光景が脳裏に蘇った。
血溜まりに倒れたサークの姿が、閃光のように視界に映る。
迷うことなく、探査スキルを全開で発動した。




