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王都_その8

 仮に入手したとして、見たこともない霊薬を判別できるだろうか?

 俺の懸念に対し、冒険者筆頭カティアが答える。

「霊薬は、溶けた黄金そのものを思わせるから、まず見誤る心配はない」


 街を旅立ったあの日、乏しい情報と指示を与えた後、カティアは頭を下げた。

「すまない、こんな雲を掴むような話に巻き込んでしまって」

 顔には出さないが、彼女がひどく疲れ、悩んでいるように感じられた。

 確かに、支援は少なくて噂にまで頼らざるを得ないほど、困難な任務ではある。

「心配しないで任せておけ。俺がなんとかするから」

 だけど俺は、カティアに力強く告げる。根拠などないが、カティアの心労を和らげたかったのだ。

 クリスも、黙したまま頷く。その双眸には、決意の光が宿っていた。

 そんな俺達を見比べてから、カティアはおもむろに口を開く。


「《三重の蛇》に、気をつけろ」

「「三重の蛇?」」

 奇妙な言葉に戸惑い、俺とクリスは顔を見合わせた。

「背信、欺瞞、奸智。三つの悪徳を重ね合せた、冷血漢の異名だ」

 カティアが、忌々しげに吐き捨てる。

「真理の探究と称して世に害毒と災厄を撒き散らす、極悪非道の重犯罪人だ」

 彼女にしては珍しく、嫌悪の情を露わにした。

「やつは霊薬精製の秘密を掴んでいる可能性があるから、その名を耳にするかもしれない。だが、絶対に関わり合いになるな」

「なんでだ!? その男を探し出すべきだろ!」

 そいつを捕まえれば全て解決するかもしれない、そう考えて声を荒げてしまった。

 しかしカティアは、首を振って俺の訴えを退(しりぞ)ける。

「現在、やつの所在も生存も不明だ。当局が血眼になって捜索している上に、やつ自身の敵も数え切れない。藪から出ている尾を掴み、魔物を引っぱり出しかねん」

「しかし、それでも――――」

 上手く立ち回ればいい、あてもなく王都を駆けずり回るよりはマシだろう。そう思った。

「やつは、危険すぎる。もし万が一、やつがヨシタツ達の前に姿を現したら…………」

 苦渋に満ちた顔で、カティアが告げる。

「霊薬は諦めて、王都から即時撤退しろ」

 そんなこと、出来るはずがない。

 しかし彼女が三重の蛇という人物を、どれほど危険視しているか。そして俺達の身をいかに案じているのか、それだけは伝わった


「…………そいつの本名は?」

「ジェフティだ。生きていれば五〇代半ばになっているだろう」


 彼女の忠告を、俺は重く受け止めた。

 海千山千の冒険者共の頂点に立つ冒険者筆頭カティア。その彼女が警戒する相手である。

 もしレジーナの調査で順調に手掛かりを得られたら、あえて危険を冒すつもりはなかったのだ。

 殺人履歴持ちの賞金稼ぎサークを、脅迫してまで雇った理由は、ただ一つ。

 危険を避けて蛇を誘い出す、生餌(いきえ)とするためだった。



「《三重の蛇》が王都から姿を消したのは、一〇年以上も昔の話らしいぜ?」

 そんな俺の思惑を知らないサークと、テーブルを挟んで向かい合っている。

 彼は懐から一枚の皮紙を取り出し、広げて見せた。

 賞金稼ぎギルド発行の手配書だ。そこに三重の蛇(ジェフティ)の似顔絵が描かれている。

 カティアの話から冷酷非情な、爬虫類のごとき御面相を想像していた。

 しかし、色褪せた皮紙に描かれている男は禿頭で、切れ長の目尻が垂れ、口角が上がっている。

 笑っているように見えるのは地顔なのだろう。どことなく愛嬌さえ感じられた。


 王都にはカフェが多い。瀟洒な店舗から、食堂酒場を兼ねた店まである。

 ここは労働者が愛用している店だが、ランチの前で客は少ない。

 店内の隅で胡乱な男二人が話し込んでいても、見咎める者はいなかった。

「当時の賞金稼ぎ達が総出で捜索したが、まんまと海外に逃げおおせたらしい。その後で、蛇は逃亡先で流行り病に罹って死んだと噂が流れた」

 本当だろうか? カティアが語る人物像からすると、わざと流した撹乱情報のような気がする。

 テーブルの上に乗せた手配書を、サークがコツコツと叩く。

「なにせ一〇年以上も昔の話だ。当時のことを知っている賞金稼ぎは、ほとんどいねえ」

「…………引き続き調査を頼む。霊薬と蛇に関することなら、どんな些細な噂でも知らせろ」

 金貨を一枚、テーブルに置くと、俺は席を立つ。


 唾棄すべき偽善だが、本心から彼の無事を祈った。



 店を出た俺は、道端で待機していたクリスと合流する。

 サークと一人で会うことに、彼女は難色を示した。サークのことを情報屋と説明し、依頼人としか会わないと言い含めたのだ。

 いつ、そんな人間を手配したのかと不審がられ、誤魔化すのに苦労した。

 後で全部報告するからと約束して、ようやく許可してくれたのである。


「その人物は危険だと、カティアさんが注意しましたよね? 絶対に関わるなと」

「あ、うん、はい」

「なのに、どうして黙っていたのですか?」

 賞金稼ぎに関する部分を除いて全てを報告した途端、クリスが剣呑な眼差しになった。

 今にして思えば、カティアは暗にクリスに指示していたのかもしれない。

 俺が馬鹿な真似をしないように見張っていろ、と。

「ごめんなさい、申し訳ありません、反省しています」

 懸命に謝り倒すと、クリスの表情が悲しげに曇った。

「今度からは、事前に打ち明けてほしいです。私の知らない所でタツが危険な目に遭ったら…………」

 言葉が途切れ、俯いてしまうクリス。きりきりと胃が締め付けられる。

「わ、分かったよ! 今度からちゃんと相談するから!」

「私は、タツを信じています。ですからタツも、私を信じてください」

 寂しげに囁く姿が、いつものクリスらしくない。

 うろたえて視線をさ迷わせた俺の目に、一軒の屋台が映る。

 屋台に走った俺は、肉と野菜をたっぷり挟み、香辛料を利かせたパンを五つ購入した。

「…………美味しいですね」

 渡したパンを齧っても、彼女の表情は晴れない。クリスに餌付けが通じないなんて!


 ご機嫌取りに終始しながら、俺達は旧ペルセンティア邸へと向かった。


     ◆


 あの不幸な邂逅から、一〇日余りが過ぎていた。


 ペルセンティア邸の敷地の中に入り込み、切り拓いた道をたどる。

 一際大きな樹の周囲は、俺が雑草を刈り込んだので空き地になっている。

 樹の根元に座り込んだ俺達は、先ほど購入したパンで早めの昼食を摂ることにする。

 クリスの機嫌は、三つ目を食べ始める頃には平常に戻ってくれた。

 俺は少し離れた地面に手巾を敷いて、その上にパンを一つ載せる。

 のんびり談笑しながら昼食を楽しんでいると、やがて草むらがガサガサと鳴り始めた。

 俺達が素知らぬ顔でいると、草むらからにゅっと手が伸び、パンを掴んだ。


 キール少年は、その場に隠れながらパンを食べ始めた。


 野生の生き物のように警戒心が強いのに、人恋しいのか離れようとしない。

 初めの頃は俺とクリスが訪れても遠目に窺い、差し入れの食料にも手をつけなかった。

 しかし日が経つにつれて互いの距離が縮まり、今日に至っている。

 キール少年は、街中のゴミを漁って食いつないでいるようだ。

 過去の出来事のせいで、ペルセンティア邸に立ち寄る者がいない。

 彼は一人で、このわびしい屋敷を根城にしているのだ。

 昼食を終えて俺とクリスは立ち上がったが、キール少年が動く気配がない。

 いつもなら、すぐさま逃げ出すはずなのに。不思議に思って隠蔽を発動し、近くに寄って様子を窺う。

 柔らかい日差しの下、キール少年は膝を抱いて眠っていた。

 あどけない寝顔は薄汚れていたが、驚くほど整っていることに初めて気付いた。


 ローブを脱ぎ、起こさないように彼の身体に掛ける。

 俺とクリスは、足音を忍ばせてペルセンティア邸を後にした。


      ◆


 レジーナのアパートに戻って玄関の前に到着すると、扉がひとりでに開いた。

「…………お帰りなさい」

 トルテちゃんがお辞儀をして、俺達を出迎えてくれた。


 あの日、やっぱりレジーナに怒られた。俺だけが。

 正体不明の少年と、そのスキルとおぼしき影響で、トルテちゃんが体調を崩したこと。

 おおよその事情を打ち明け、治療師に診せるように勧めた直後である。

 平手打ちを往復で食らった。

 俺が付いていながら、この体たらくはなんだと烈火のごとく怒鳴られた。

 それ以来である、トルテちゃんの態度が改善したのは。

 自分のせいで他人が責められ、良心の呵責を覚えたらしい。

 俺に対する警戒心を表立っては控え、しおらしい態度で接してくれるようになった。

 それ以上に大事なのは、レジーナにどれほど心配を掛けたのか理解したことである。

 これで無鉄砲な真似は控えるようになれば、叱責を甘んじて受けた甲斐があったというものだ。

 あの時、レジーナがこっそり目顔で謝ったので、気にするなと頭を振った。

 年少者の教育は大人である俺や、保護者であるレジーナの役目なのだから。



 そのレジーナだが、彼女は現在、たいそうご立腹な様子である。

「ヨシタツ、これから一緒に兄の所に行くわよ!」

「お兄さん?」

 話の展開に追い付けず、目を瞬いてしまう。

「カルドナ・スターシフ。スターシフ家の現当主よ。お偉いお兄様が、あなたを連れて来いって」

「俺を? なんで? そもそも、どうして俺のことを知っているんだ?」

 レジーナは手紙らしきものをグシャグシャに丸め、思いっきり床に叩きつけた。

「ヘレンが告げ口したのよ!」

「告げ口とは心外です」

 壁際に並んでいた三人のお手伝いさんの内、最年長のヘレンがすまし顔で応えた。

「スターシフ家の令嬢が男を連れ込んだだけでも外聞が悪いのに、その男を日夜連れまわしているとあっては、縁談にも差し障ります。御館様に報告して、指示を仰ぐのは当然のことです」

 とうとうヘレンの堪忍袋の緒が切れたらしい。

 きっと今日まで、レジーナに苦言を呈して続けていたのだろう。

 ヘレンの言葉を、右から左に聞き流すレジーナの姿が目に浮かぶようである。

 しかし、ヘレンの両脇に控えるサーシャとトルテちゃんの視線は、かなり冷たい。

「「裏切り者」」

「なっ!? あなた達!」

 声を揃えて非難する二人に、ヘレンが目を剥いて驚く。

「わたし達がお仕えしているのは、お嬢様ただ一人」

「…………お館さまじゃない」

 彼女達の指摘に、ヘレンは二の句が継げない。以前、自分が同じような発言をしたからだ。

 お手伝いさん達の応酬を、レジーナはさっと手を振って制止した。

「まあ、いいわ。たとえお兄様でも、我が家のことに口出しさせないから」

 レジーナは、胸を張って堂々と宣言する。

「出立の準備を! お兄様の所に乗り込むわよ!」

「「かしこまりました、お嬢様」」

 サーシャとトルテちゃんがスカートの端をちょこんと摘まみ上げ、うやうやしくお辞儀した。

 まるで芝居のような彼女達のノリに、ヘレンはしかめっ面だ。

 気持ちは分かる。ヘレンはお目付け役として、レジーナの世間体を考えただけなのだ。

 俺が言えた義理ではないので、口にはしないが。


 同情の視線を送ってみたら、ヘレンはぷいっと顔を背けてしまった。


      ◆


 スターシフ本家の屋敷は、ペルセンティア家よりも規模の点ではひと回り小さい。

 その代り、白一色で塗り潰された王都の建築物には珍しく、随所に木材その他の建材を使っている。

 建材のコントラストで、かえって白さが際立つ、デザイン性に優れた屋敷だった。


 俺とレジーナはいま、スターシフ邸に続く庭の小路を歩いていた。クリスはお留守番である。

 レジーナが語る屋敷の由来を、俺は興味深く拝聴した。

「とにかく他所と違った事がしたいと改築を重ねた挙句、こんなあり様になったの」

「いい感じじゃないか、とても素敵だ」

「違法建築扱いで二百年以上、罰金を毎年払い続けているわ」

 彼女はうんざりしたように首を振る。

「うちの一族って、筋金入りのへそ曲がりなのよ」

 レジーナの顔をまじまじと見詰め、しみじみと頷く。

「なるほどなあ」

「どういう意味よ!」

 レジーナの蹴りをかわしながら進むと、正面玄関に到着した。

 お手伝いさんと、年配の男性が出迎えてくれた。彼は、あれだ。映画とかに登場する執事だ。

「お嬢様?」

 執事さんが渋面を作っている。先ほどのレジーナのお転婆を、しっかり目撃したようだ。

「お説教は後にして、すぐにお兄様に取り次いでちょうだい!」

 何か言い掛けようとした執事さんが、諦め顔になる。

 この屋敷における、以前のレジーナの暮らしぶりが想像できた。



 執事さんに案内されたのは、当主の執務室だそうだ。

 重厚な雰囲気が漂う部屋で、でんと据えた机は城壁のように幅広い。

 その背後には二体の金属鎧が飾られ、威嚇するように胸の前で剥き身の剣を掲げていた。

 視線を転じれば、応接用のソファーに一人の男性が座っているのが目に映った。

 彼は腕を組んで瞑目し、身じろぎ一つしない。

 執事さんを押しのけ、ずかずかと室内に踏み込むレジーナ。

 彼女が向かい側のソファーにドスンと腰を落とすと、執事さんはため息一つ吐いて扉を閉めた。

 俺は入り口の脇に佇み、ひやひやしながら物言わぬ彫像と化す。

 閉じていた目を開き、男は鋭い眼差しでレジーナを見詰めた。

 文字通り、貴族的な風貌の持ち主である。

 後ろに撫でつけた銀色の髪、白く滑らか額、薄い唇に尖った顎。

 面立ちが似ているから、彼がレジーナの兄、カルドナ・スターシフに違いない。


「呼ばれた理由は分っているな?」

 声は重々しくも、気品に溢れている。年の頃は近いのに、俺とは風格に雲泥の差がある。

「なんのことかしら、お兄様?」

 とぼけたレジーナが、挑むような態度で足を組む。

「最近、方々に顔を出しているらしいが、勘当中であることを忘れるな。大人しく謹慎していろ」

 カルドナの物言いは一方的で高圧的だが、それで畏れ入るレジーナではない。

「勘当されたわたしが何をしようと、家には関係ないでしょ?」

「勘当が表向きであることなど、世間の誰もが承知している。だからこそ、身を慎まなければならん」

 カルドナの視線が、こちらに向けられた。俺は直立不動で視線を上げ、目を合わせないようにする。

「しかも、どこぞの馬の骨とも知れぬ、怪しげな男を女所帯に連れ込むなど、言語道断だ」

 まったくもって、おっしゃる通りです。

「お兄様?」

 声を低め、レジーナが兄を睨む。

「たとえお兄様でも、我が家の客人を侮辱することは許しませんわよ?」

「客人? 愛人の間違いではないのか?」

 レジーナが、もの凄い形相になる。バチッと、空気が弾ける音がした。

 スキルの兆候を示すレジーナを前にして、カルドナは悠然としていた。

 その姿に、どこか違和感を覚える。あえてレジーナを煽っている、そんな気がした。

 ソファーの背もたれに腕をまわしたカルドナが、リラックスした様子で問いかける。


「各貴族家の当主について、情報収集をしている目的はなんだ?」

 虚を突かれたレジーナが、表情を強張らせた。

「お前が行く先々で会話を誘導し、何事かを探っているのは知っている」

 淡々と語るカルドナ。どうやらレジーナの動きは筒抜けだったらしい。

「だが、スターシフの情報網を使わず、個人で動いているのはなぜだ?」

「別に? 大したことじゃないから――――」

 平静さを欠き、動揺するレジーナ。一旦感情的になると、彼女は心に隙が生じやすくなる。

 先ほどの挑発は、これが狙いか。妹の性格を熟知した、肉親ならではの手口だろう。

「お前の許に、手紙が届いたそうだな? ある商会の名で送られてきたが、偽装だったのは突き止めてある。それ以来、ヘレン達に隠し事をして、単独行動が目立つようになった」

 不利を悟った彼女は、沈黙を守って何も答えようとしない。

 しばらく互いに押し黙ってから、カルドナは大きく息を吐いた。

「面倒だから話を端折るが、お前が以前から、カティア殿と連絡を取り合っているのは知っていたのだ」

 再度、カルドナがこちらを見遣る。その目は、こちらの正体を見透かすようである。

「そして彼女が送り込んだのが、その男だ」

 誤魔化すのは無理なようだ。小さく頷くことで、彼の指摘を認める。

 それで満足したのか、カルドナは深くは追求することなく、話を続ける。

「カティア殿の目的は知らないが、即刻中止しろ。現在、王家と交渉中なのだ」

「王家と交渉を?」

 やり込められたレジーナが、不貞腐れた感じで問い返す。

「そうだ。シルビアとその娘を、この王都に呼び寄せる」

 カルドナが告げた内容に、俺もレジーナも驚きを隠せない。

 王家によって監禁されていたシルビアさんは、カティアの手引きで脱出した。

 法的には、彼女は逃亡犯のはずだ。しかもシルビアさんだけでなく、リリちゃんまで?

「我が家で身柄を預かるのなら、シルビアの逃亡の罪を不問に付す。そこまで譲歩を引き出したのだ。シルビア本人は外出を制限されるが、彼女の娘に罪はない。第一、スターシフに連なる子女を、いつまでも辺境都市に放置などできないからな。一族の誰かの養女として迎え入れ、養育しなくてはならん。それが当主としての、わたしの責任だ」

 滔々と語るカルドナの台詞に混乱して、考えがまとまらない。

 つまり、リリちゃんが貴族のご令嬢になるのか?

 それは彼女にとって、望ましい選択肢なのか?

 確かに身分差が現実にある、この異なる世界の常識ならば、得難い幸運だと理解できる。しかもスターシフ家は、王都でも有力な譜第貴族なのだ。

 きっとリリちゃんなら、幸福な未来を掴みとれるはずだ。

 ――――なのに、なぜだろう。俺の心が、こんなにも乱れてしまうのは。


「ふざけないで!」


 レジーナの叫びが、鋭い剣のように俺の煩悶を断ち切った。

「十数年も放置しておいて、いまさら責任なんて言葉を口にしないで!」

 怒りを露わにしたレジーナが、激しい口調でカルドナに噛みついた。

「もっと! もっと早くに手を差し延べていれば! もしかしたらシルビア姉様は病気にならずに――――」

「レジーナ! 止せ!」

 制止の叫びは、一歩遅かった。彼女の言葉を、カルドナが聞き咎める。

「シルビアは病気なのか? 容態は? どうして早く報告しない!」

 カルドナが一喝するとレジーナの感情がさらに昂り、ソファーから立ち上がった。

「お兄様! 助けて! どうしても霊薬が必要なの!」


「それ以上、余計な口を利くな」


 彼女は、喋り過ぎた。もう任せておく訳にはいかない。

 俺は部屋をゆっくりと横切り、レジーナの背後に立つ。

 彼女の肩に手を置き、耳元に囁いてなだめる。

「呼吸を整えて、落ち着くんだ。後は任せろ」

 レジーナの身体から力が抜けて、ストンと座り込んだ。

「…………なるほど。本当の主役は、君だったのだな?」

 カルドナは納得したように頷き、鷹揚な仕草でソファーを指し示す。

「立ち話もなんだから、座りたまえ」

 その時、俺は理解した。カルドナは妹を、とても優しく扱っていたのだと。

 ためらうことなくソファーに座り込んだ俺に対して、彼が向けた眼差しの鋭さ。

 それは獲物を冷酷に狙う、猛禽類のものであった。

「見掛けに騙されたな。カティア殿が送り込んだ人間なのだ、只者であるはずがなかった」

 いえ、見掛け通りの只者です。

 だけど、その勘違いを解くつもりはない。その方が有利にことを運べる。

「恐縮です、閣下」

「最初は気弱そうな男だと思ったが。譜第貴族と対峙しても気後れしない、そのふてぶてしい態度」

 カルドナは愉快そうに笑うが、その目は依然として冷ややかだ。

「それが君の本性か?」

「どうでしょうか? もし気に障ったら、謝罪します」

 カティアは、シルビアさんの病気と霊薬について、レジーナにしか伝えていない。

 つまり当主であるカルドナは助けにならない、あるいは信用できないと判断したのだ。

 もし敵対する相手なら、特に遠慮する必要がないだけだ。

「謝ることはない。先ほどレジーナは霊薬が必要だと言ったが、シルビアの治療のためか?」

「…………ええ」

 やはり聞き逃さなかったか。舌打ちしそうになる。

「あれは貴族家の当主にしか下賜されない。いくら望んでも無駄だぞ?」

 一切の情を交えず、切り捨てるカルドナ。だが、俺にとっては朗報だ。

 霊薬は、間違いなく存在するのだ!

「そもそも治療の手段が必要なら、なぜわたしに相談しなかった?」

 彼はそこで、レジーナを見た。彼女は虚脱したように、俺達のやり取りを眺めるだけだ。

「かつてのヴェルフ程ではなくても、優れた治療師やスキル所持者に伝手はある。すぐに派遣しよう」

 カルドナは妹に、穏やかな口調で約束する。

「ぜひ、お願いします」

 ベストは尽くすべきだ。彼が援助を申し出てくれるなら、断る理由はない。

「――――でもカティア様は、霊薬が必要だって」

「レジーナ、ここは閣下にお任せしよう」

 手を握って、彼女を黙らせようとした。この場は無難にやり過ごすべきだと、目で訴える。

 しかし聡明なはずのレジーナだが、まだ理性が十分に回復していないらしい。

 意固地になったのか、自分の主張を繰り返す。

「だってカティア様は、霊薬でなければ、絶対に治らないって手紙に」


「なんだと?」


 カルドナの声には、今までにない凄みが潜んでいた。

「カティア殿が、そう書いたのか? 絶対に(・・・)霊薬でなければならないと?」

 レジーナが、素直にこくりと頷く。彼は何を言いたいのだ?

 カルドナは、握りこぶしを口にあて、考え込む。


 その肩が小刻みに震え出し、やがて天井を仰いで哄笑した。

「そうか! そうだったのか! まんまとヤツに踊らされていたのか!」

「お、お兄様!?」

「ヴェルフめ! ペルセンティアの末裔め!」

 笑い収めたカルドナが、ほとばしるように怒鳴った。


「よくぞ我らを(たばか)った!」


 ガシャンと、部屋の片隅で異音がした。

 まるで彼の声に揺らされたように、サイドボードの水差しが倒れている。

 溢れた水が、びしゃびしゃと床を濡らした。

「シルビアのことは諦めろ。娘だけは、スターシフの名誉を掛けて庇護する」

 カルドナの豹変に、俺とレジーナは絶句する。

「レジーナ、お前の勘当を解く。すぐに家に戻ってこい」


 譜第貴族スターシフ家当主として発した、それは有無を言わさぬ命令だった。

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