王都_その1
王都は、白亜の城郭都市だった。
この国の首都について、以前にセレスからレクチャーされたことがある。序列持ちならば、知っていて当然の知識だと言われたのだ。
元々は魔物を防ぐのに適した、卓状の台地に集落を造ったのが起原らしい。
三方が切り立った断崖で、一方向が斜面になった天然の要害の地だからだ。
やがて前王朝が地理的利点に着目し、膨大な人員を投じて大工事を行った。
城壁を築いて台地そのものを巨大な城郭とし、その内側に街を作ったのが現在の王都の始まりだとか。
さらに時代を経て魔物の森が開拓され尽くすと、周辺地帯が安全になる。そうなると無理に城壁の内側に籠る必然性がなくなり、王都は城壁を越えて拡張し始めたのだ。
浅いVの字に切れ込んだ東側の斜面を、棚田のように削って平地を造成し、そこに家屋を建てる。
そうやって王都は斜面を下りながらとうとう裾野まで到達したのだが、今後もさらに広がる勢いらしい。
王都の城壁やその内側の建物は、近くの岩山から切り出された乳白色の石材が使用された。
しかし王都が外側に拡張する頃には、石材の採り過ぎで岩山自体が消滅する。
だから城壁外の建物は木造建築が主流となり、特殊な土を壁に塗って白く仕上げている。王都全体の統一性を重視しただけではなく、防火の意味もあるらしい。
こうして王都は、白一色で塗り潰されることになった。
地元の人間の自慢話に、とある旅行者が遠目に眺めた王都を、雪山と勘違いしたというのがある。俺自身も、斜面に広がる家並みを目の当たりにした時、まるで山を削って下る氷河のようだと思った。
こうして王都は城壁の内側を旧市街、城壁の外側を新市街と呼び、繁栄と平和を享受するようになる。
真偽は不明だが王都の人口は新旧両市街を併せて一〇万を越えるそうで、さらに国内外からの商人や旅行者が大勢訪れているため、王国の首都に相応しい賑わいをみせている。
特に海外との交易は王都の繁栄を支える重要な柱で、南側の断崖を挟んで大規模な港湾施設がある。
そこは陸地が深くえぐられた入り江で、波の静かな天然の良港となっていた。
白い帆を畳んだ帆船が何艘も停泊して、その周囲を小船が盛んに行き交っていた。港では、筋骨逞しい男達がその小さな船から積み荷を降ろしている。
南の城壁に立った俺は、下に見える入り江と、その外に広がる海を眺めた、
つかの間、海の果てにある国々に思いを馳せる。そこに行けばあるいは――――そんなことを、つい考えてしまう。
最後に港の様子を一瞥してから胸壁を離れ、歩哨の背後をすり抜けて立ち去った。
地上に降り立った俺は、城壁伝いに移動した。しばらく進むと、城壁を支える控え壁の陰から、フードを被った人影が現れる。
「お帰りなさい、タツ」
クリスに声を掛けられ、苦笑しながら隠蔽スキルを解除する。
「もうクリスには通じなくなったな」
「何か不都合がありますか?」
ツンと顎をあげて、聞き返すクリス。彼女はとうとう、隠蔽を見破るコツを覚えてしまったようだ。
どうやっているのか、俺には見当もつかない。野生の勘か?
「別に困りはしないけど」
俺が肩を竦めると、クリスは疑わし気にこちらを見詰める。
「本当に? タツがこっそり、いかがわしい場所に行かないか見張りますよ?」
彼女の冗談に、笑い声をあげた。
「それじゃ、次に行こうか?」
彼女に背を向けて歩き出した途端、演技を止める。
自分の顔から、表情が欠落してしまうのを自覚した。
俺達は旧市街の中心部、政庁前の広場を訪れた。ここは王都観光の目玉とされる場所らしい。
広場の左手には優美なアーチで支えられた回廊が、右手にはカフェや宝飾店などが軒を並べている。
そして正面には、白鳥が翼を広げたような優美さを持つ、王都の政庁舎を眺めることができた
遷都以来の由緒正しい建物で、かつては王の住む宮殿だったらしい。
やがて王都の西端に王城が建築されると、宮殿は行政や裁判など、王都の運営を司る施設になった。
政庁前広場には、様々な石碑や彫像が規則正しく並べられている。石碑は記念碑、彫像は神々や偉人。英雄の像らしい。それらのモニュメントの台座部分には。様々な人々が腰掛けて寛いでいる。
この広場は、地元の人には待ち合わせ場所として有名なのだそうだ。特定の石碑や彫像を指定して、待ち合わせの約束をする。つまり渋谷のハチ公である。
しかも験担ぎやシチュエーションによって、選ぶモニュメントが違うそうだ。その話を聞いた時、王都の人達は面白いことを考えるものだと感心した。
俺とクリスも、とある彫像の台座に腰掛ける。それとは他の彫像とは趣の異なる、武人の像だった。
たてがみをなびかせ、獣のような面貌が牙を剥いて威嚇している。背中には弁慶のように何本もの武器を背負い、おどろおどろしい雰囲気を放っていた。
いつものように座ったのだが、隣のクリスが距離を置いていた。
手を伸ばして肩に手を回すと、彼女は腰を浮かせて逃れようとする。
無理に引き寄せると、小さく悲鳴をあげて縮こまってしまった。
ここ三日ほど、俺達はこの彫像の下で同じことを繰り返している。
嫌がる彼女の態度を見て、例の事はやっぱり俺やカティアの勘違いなのだと分かる。
「今日のお昼は、何が食べたい? 好きなものを作るよ?」
申し訳ないと思いつつも、彼女の耳元に小声で問い掛ける。
「な、なんでもいいです…………」
あからさまなご機嫌取りだが、クリスは顔を伏せながらどうにか答えてくれた。
「美味しくて安くて量があればなんでも」
そりゃそうだろう。
「…………あと、食後に甘いものがあれば何も文句はありません」
遠慮しながら、けっこう欲張るクリス。食べ物に関して、クリスに妥協の二文字はない。
とにかく、こんな風に額を寄せ合って囁き合えば、仲睦まじい男女に見えるはずなのだ。
しかし、広場のあちこちにもカップルがいるにも係わらず、俺達の近くを通り過ぎる人々の視線が生温い。一人の女性など、蔑むような一瞥を送ってきた。
やはりどこか問題があるのだろう。色々試してみたが、まずクリスの反応が不自然過ぎると思う。
今後の彼女の頑張りに期待である。
そんな感じで時間を過ごしていると、どこからか時を告げる鐘が鳴り響いてきた。
台座から立ち上がった俺達は、広場を離れて市場の方角へと足を向けた。
市場の盛況さは、さすが王都だと感心させられる。
しかも通りに並ぶ店舗の軒先には、延々と連なる屋根が設けられているのだ。夏の日差しを遮り、雨を避けて買い物ができる、この世界で初めて見たアーケードである。同じような市場は他にもあり、人口の多い王都の需要を満たしていた。
俺とクリスが赴いたのは、主に食料品を扱っている市場である。
まず耳に入る人々の喧騒、次に視界に飛び込む圧倒的な色彩。大勢の人々が通りを行き交い、店先で客と店員が声高にやり取りしている。軒先を覗けば、彩りの鮮やかな野菜や香辛料がうず高く積まれていた。
なかでも鮮魚を取り扱っている店が、俺の目を惹いた。王都に来る前まで、海の魚は干物や塩漬けでしか見なかったし、値が張るものだった。しかしここは海沿いの都市、新鮮な魚がお手頃価格で提供されている。
王都に魚介類の生食の習慣はなく、俺自身も寄生虫の危険を冒すつもりはない。それでも料理のレパートリーは一気に増える。
飢えた獣――いや、期待に目を輝かせるクリスに負け――応えて、新鮮な魚を購入する。
ウロコが真っ赤な魚だが、身は白くて淡白らしい。そこそこ高級な魚のようだ。
「クリスは魚が好きだよね?」
「ええ、幼い頃は魚をよく食べていたので」
獅子王なのに? いや、スキル関係ないけど。逆にフィーは肉好きである。
フィーはいつも、川魚の香草揚げをクリスにお裾分けしているが、実は魚が嫌いだと睨んでいる。
朝食のソーセージもたまに食べさせているので、単にクリスを甘やかしている可能性もあるのだが。
その他、魚介類と野菜、生のパスタっぽい麺を買い込み、クリスに渡す。
満面の笑顔で買い物籠を抱えるクリスを見て、密かに胸を痛める。王都では、隷属の首輪をスカーフなどで隠すことが禁じられている。だから、奴隷と主人の関係が一目瞭然だ。主人が荷物持ちをすると目立ってしまうので、どんなに重くなってもクリス一人に任せるしかない。
そもそもあの街では、そんな気遣いも不要だった。王都でも奴隷が過酷に扱われている訳ではないが、あの街は格別に寛容だったのだと初めて知った。
基本的にあの街は、北の森を開拓するために建設された都市だ。貴族など領主以外にいるのかどうかも知らないし、身分などあって無きがごときものだ。魔物との戦いの最前線にある都市では、そんな些事にこだわっていられないのだろう。
頭の中で王都とあの街を比較していると、かつてアステルが語った言葉を思い出す。
――この街は、異常なのだ。
それは強力なスキル持ちが集中している点を指摘したものだが、それは些末なことだと思う。
天敵である魔物でさえ生きる糧として懸命に、したたかに生きている一般人だけではない。世に馴染めず、魔物相手に戦うしか能のない冒険者。闇に紛れて犯罪者狩る賞金稼ぎ。カティアが匿っているという、訳ありのスキル持ちなど、様々な人々が混然一体となって暮らしていることが特異なのだと思う。
あの街を出てから、それほどの日数が経った訳ではない。なのに、平和な王都の景色を眺めながらも、人類の最前線で危険と隣り合わせな街を懐かしく思えるのが不思議だった。
俺と荷物を抱えたクリスが、下町へと移動した。
家並みはどれも年代が古く、狭い道には植木鉢が置かれたりして、雑然とした印象である。
低所得者層が暮らす一画だが治安は良く、犯罪も少ないらしい。隣近所で開けっぴろげな付き合い方をしているので、余所者の犯罪者が立ち入る隙がないのだろう。
「おや旦那、いまお帰りかい?」
俺達が宿泊している木賃宿の女将は、自慢の植木に水をやっている最中だった。
「はい、ただいま戻りました」
俺が挨拶すると、女将は恰幅の良いお腹を揺すりながら大笑いする。
「旦那は冒険者なのに、ずいぶんと行儀が良いんだね!」
「性分なもので」
実際、悩ましいところではある。冒険者らしくぶっきらぼうな態度が目立たなくて良いのか、あるいは礼儀正しく振る舞って好感を稼いだ方がメリットがあるのか。
「リーナちゃんもご苦労さん」
「女将さんも精が出ますね」
リーナは、クリスの偽名だ。ちなみに俺の偽名はアレクである。
「竈を借りたいのですが」
「ああ、いいよ。火の始末だけは気を付けておくれ!」
「薪も買い足したいのですが」
「いま忙しいから、勝手に持っていきなよ。代金はいつものところに置いておけばいいさ」
俺達は頭を下げてから、宿の中に入る。老朽化が進んでいるので、歩くと床が軋む。
カウンターに、心づけも含めて銀貨を置いておく。そのまま廊下を通り抜けて、中庭に出た。
煮炊きの道具が揃った竈とテーブルがある。木賃宿は食事が出ないので、自分で用意するか外食となる。
一旦部屋に戻り、前回の残りの薪や調味料を持ってきたクリスが、竈で火を起こす。
薪の山から料金分だけ抜き取って彼女に渡すと、俺は桶を持って裏口から外に出た。
近所の共同水場で水を汲むと、えっちらおっちらと戻る。
難攻不落の城郭都市で、全てが揃っているように思える王都だが、実は水源だけが泣き所なのである。
何しろ高い場所にあるので、近くを流れる川を直接引いてくることはできない。そこで固い岩盤をくり抜き、雨水を溜める巨大貯水槽を何ヶ所も造った。さらに、都市中の屋根や路面の傾きを計算し、雨どいや側溝を都市中に張り巡らせるなどして、無駄なく効率的に貯水槽へ流れ込む工夫が施されている。
宿に戻ると、洗い場で鍋をこする。こびりついた焦げをタワシっぽいもので落とし、水を注いで竈に掛ける。
「沸いたら教えてくれ」
クリスに頼むと、今度は買ってきた魚介類の下拵えだ。切れない包丁を、庭に転がる適当な石で研いでから、一口サイズに切っていく。その頃には湯が沸いたので、生の麺を入れて茹で、いったん脇に置く。
そしてフライパンで魚や貝や名も知れぬ甲殻類を油で炒め、火が通った所で茹でた麺を投入。
麺と具を絡めるようにざっくり炒めて、最後に調味料で味を調えて出来上がりである。
海鮮風な焼きそばである。欲を言えば、片栗粉でとろみをつけたかった。
「おいしいです! タツは本当に料理上手です!」
「アレクね? まあ俺の腕というより、素材が新鮮だからなんだけど」
中庭のテーブルに焼きそばを盛った皿を並べ、二人きりの食事を楽しむ。
食事が終わったらしばらく休み、午後も同じように王都を歩き回ることになるだろう。
夕食と朝食の食材を買い込み、宿に戻って食事を摂り、汗を拭ってから寝る。
そんな日々を、王都に来てから繰り返している。
カティアに与えられた使命は、まるで進んでいなかった。
焼きそばをがっつくクリスを眺め、彼女がいてくれて本当に良かったと思う。
そうでなければ今頃、責任感に押し潰されていたかもしれない。
◆
「シルビアには持病がある。どんな薬も治療も効かない難病だ。その症状を抑えることができるのは、《霊薬》だけだ」
カティアの説明に、モーリーが病気を見落とした理由に気付く。治癒術は、怪我や毒で損なわれた肉体を、本来のあるべき形に戻そうとする能力だ。だから新しい傷は治せても、既に癒えた古傷は消せない。
ただでさえ病に効果のない治癒術だから、持病を本来の状態だと認識してもおかしくないのかもしれない。
「だが、霊薬は王家が厳重に管理している上に、一般の庶民には入手不可能だ。その製法も秘匿され、探ろうとする者を決して容赦しない」
それがわたしの動けない理由の一つだと、カティアは語る。
「わたしはもちろん、ラウロス達も王都から警戒されている。王都に入れば常に監視されることになるだろう」
確かアステルも、そんなことを言っていた覚えがある。
「普段なら、そんな監視など気にしないで済むが、こと霊薬に関しては事情が異なる。必ず妨害工作を受けるだろうし、最悪王都と戦争になる――――まあ、それは別に構わないんだが」
「構えよ、冒険者筆頭」
俺は即座に突っ込んだ。カティアと王都にいざこざが生じれば、その影響は他者にも及ぶだろう。
「騒ぎが大きくなると、肝心の霊薬が入手できなくなる。王家の管理する霊薬には手を出せない。もし無理に王城に押し込めば、やつらは奪われる前に全ての霊薬を破棄するだろう」
「だから、これか?」
俺は、霊礫の入った袋を持ち上げてみせる。
「そうだ。警戒が厳重な王城に忍び込むのは、例えスキルがあったとしても不可能に近い。だから、霊礫を霊薬に精製できる人間を探し出してくれ」
カティアの言葉に胸苦しさを覚える。俺はまた、間違えたのだろうか?
かつて、王城に忍び込み、霊薬を盗むことが可能な少女がいた。しかし、名もなき彼女はもういない。
ちらりとコザクラの様子を窺うが、彼女は相変わらず顔を合わせようとしない。
岩に腰掛けたコザクラは、足をぶらぶらさせながら空を眺め続けていた。
――――いや、絶対に間違っていない。それだけは断言できる。
ならば後悔など打ち捨て、やるべきことやる。それだけだ。
俺は幾つかの指示を受け取ると、王都へ続く街道へと戻った。
コザクラは最後まで、こちらを見ることがなかった。
◆
そして俺とクリスは五日ほど前、王都に到着した。
カティアから渡された手形を検問で提示し、冒険者アレクと奴隷のリーナとして王都に潜入した
しかしその後は、何事も起きずに時間だけが過ぎ、焦りだけを募らせていた。
俺は窓の扉を薄く開け、外の様子を窺う。誰かが監視している気配も、探査に反応もない。
まだ俺達の存在は明るみに出ていないようだが、それがいつまでも続く保証はない。
もしあと二日経っても状況に変化がないなら、カティアの指示から外れた独自行動も起こそう。
危ない橋を渡ることになるが、時間は限られているのだ。あの時点で、カティアが残り三ヶ月と言っていたが、症状が急速に悪化する可能性もある。
だから最悪の場合、俺は王城に潜入するつもりでいた。
それだけは絶対にやるなと、カティアに念押しされた禁じ手を使う覚悟を決めていた。
「タツ、終わりました」
背後から声を掛けられ、驚いてしまった。どうやら思考に没頭しすぎていたようだ。
俺とクリスは、同じ部屋に泊まっている。彼女が身体を拭いている間に、俺は外を監視していた。
交代して、今度は俺が身体を拭く番になった。
「分かった。それとアレクだからね?」
「二人っきりの時でもですか?」
「いざという時に間違えないように、習慣づけた方がいい」
「…………分かりました」
表情を曇らせたクリスと、窓際の場所を交代する。彼女は偽名などという小細工が苦手そうだが、今の状況では仕方ない。
俺は丹念に身体を拭く。お湯ではなく水なので、あまりさっぱりしない。
そして身支度を整えると、ベッドに横たわった。
「おいで、クリス」
毛布をめくって声を掛けると、彼女はビクッと身を竦ませた。
俺達の部屋に、ベッドは一つしかない。若い女性の奴隷を連れた冒険者が、ツインに泊まるのは不自然だからだ。
当然、クリスは嫌がって、自分は床で寝ると主張するのだが却下する。代わりに俺が床に寝る訳にもいかない事情がある。
いるのだ、虫が。ダニだかノミだか知らないが、初日に床に寝た俺は、猛烈な痒みに襲われた、
ベッドに寝たクリスも同じだったが、彼女の方がまだ被害が少なかった。
翌日、俺達はベッドのシーツを洗い、毛布を天日に干し、徹底的に部屋の清掃を行った。
しかしベッドはなんとかなったが、床は駄目だった。どうやら吸血虫どもは、床からベッドに這い上がれないらしい。
犠牲を払い、俺はベッドに脚がある理由を理解した。
たかが虫と侮れない。吸血する虫は、病気を媒介する。感染症にでも罹ったら、使命達成の妨げになる。
クリスも頭では理解はしているが、やはり年頃の女の子だから抵抗があるみたいだ。
彼女を寝かし付けるのには、それなりのエサが必要なのである。
「不思議な果実から産まれた勇者は、大人になると旅に出ました」
クリスが、ベッドに飛び込んできた。
枕もとの壁に掛けてある、燭台のほの暗い灯りでも、目がきらきらと輝いているのが分かる。
昨夜から公開された、果実から産まれた勇者の物語に、彼女は夢中になっている。
「ある日、勇者は霊獣と出会いました。獰猛そうな顔に太い四つ脚、黒々とした毛並みで、大きな顎には鋭い牙がずらりと生えていました。」
クリスが固唾を呑み、ぎゅっと拳を握る。
「勇者は恐れることなく、霊獣に語り掛けました。汝、我がしもべとなれ。さすれば腰に下げた、この――――」
クリスは、非常に寝付きが良いみたいだ。
勇者が最後のお供である霊鳥と出会う前に、寝息を立て始めてしまった。
壁に掛けた燭台の火を息で吹き消すと。俺ももぞもぞと毛布に潜り込む。
クリスは、冒険者として俺よりも数段上だと思う。
眠れる時に眠る、その鉄則を身体で会得しているのだ。
いつまで経っても眠れない俺は、ずっと暗い闇を眺め続けるしかなかった。