母娘対決‗前編
テーブルに並んだ朝食を、もそもそと口に運ぶ。
焼き立てのパンの香ばしい匂いが鼻をくすぐり、スープからは温かい湯気が昇っている。
ソーセージにサラダ、しかも今朝は甘い卵焼きまである。朝っぱらから豪勢な食事だった。
しかし、美味しそうな朝食を前にしても箸がなかなか進まず、思考がふわふわと漂ってしまう。
ふとした時に、胸が痛むことはある。だけど痛みを受け入れられるようになった、そんな気がする。
その境地に至れば、あとは過ぎてゆく日常に身を任せればいい。そうすれば自然と心が癒えていくことを、経験が教えてくれる。
忙しさに気を紛らわせるのもいい。中級魔物の本格的な討伐は、現実味を帯びている。工房に注文を出していた、胸甲が完成したとの連絡もあった。実際に身体に当ててみて、具合を確かめなくては。
そう、引きずっている暇なんてないと、気合を入れる。
さあ、せっかくの心尽くしの朝食だ。ありがたく頂戴するとしようか!
「…………あれ、俺の卵焼きは?」
ふと皿を見てみれば、最後に食べようと大事に残していた卵焼きが、ない!
「え? 私がちゃんと頂きましたけど?」
ゴクリと喉を鳴らし、何かを嚥下したクリスがシレっと答える。
「ちゃんとってなんだよっ!?」
「え? 残しているので、食べていいかと尋ねましたが?」
「『いいよ』って、返事してたけど?」
まったく記憶にないが、フィーが口添えするのなら本当なのだろう。
仕方ない、諦めてソーセージ…………がない?
「え? 食べてもいいか、しっかり確認したのですよ?」
コザクラがパンの欠片を口の端にくっつけたまま、平然と告げる。
やはり、まったく覚えがない。情けないにも程がある。三十路の男が失恋ぐらいで上の空になるなんて。
しっかりしろと、自分を叱咤する。ここで腑抜けているようでは、彼女を諦めた意味がなくなるんだぞ。
そうやって反省していると、フィーがたれ込んだ。
「『ダメだ、やらん』って、断ったけどね? 横からちょろまかして」
「あわわっ! 告げ口はダメなのです!」
その直後、俺とコザクラによる、壮絶なおかず争奪戦が勃発した。
「これから例の工房に行こうと思うけど、二人はどうする?」
消化に悪い朝食を終えた俺は、香茶をすするクリスとフィーに尋ねる。
「洗濯物がだいぶ溜まっているから、一気に片付けるわ」
「ちょ、ちょっとフィー?」
クリスが顔を真っ赤にして、相棒を遮ろうとする。そうか、また溜めているのか。
「シルビアさん、何か買ってくるものとかありますか?」
「いいえ、ご親切にありがとう。でも、もし良かったらリリと一緒に」
「お、お母さん! わ、わたし、ちょっと用事があるの!」
リリちゃんがあたふたと手を振る。最近の彼女は張り切って仕事に精を出し、とても忙しそうだ。
そのせいで、彼女と会話をする機会も減ってしまっている。
「忙しい時には手伝うから、なんでも言ってね?」
「ありがとう、タヂカさん」
いつもと変わらぬ、リリちゃんの笑顔。ふと見回せば、みんなも微笑んでいる。
うん、頑張ろうって気になる。
身支度を整えてから玄関に行くと、シルビアさんが見送りに出てきてくれた。
「無理しないで、気を付けてね?」
「はい、行ってきます!」
気合を入れ直してから、出発した。
▼▼▼
シルビアが戻ると、食堂にはどんよりとした空気が重く立ち込めていた。
リリ、クリス、フィーが椅子に座り、うなだれている。
そんな彼女達を眺めながら、香茶を舐めるよう飲むコザクラ。
「タヂカさん、出掛けちゃったわよ? お見送りもしないで」
シルビアが腰に手を当て、非難がましい態度で彼女達を見回す。
「まあ、気持ちは分かるけど…………ばっさり振られちゃったものねえ」
ぷぴゅっと、コザクラが香茶を吹き出し、少女達がさらに深くうなだれる。
先日の礼拝所裏での出来事を、クリス達は八高弟達と一緒に目撃していた。
タヂカのカティアへの想いと、それを断念した経緯。何よりも、彼が自分達をどのように思っているのか、知ってしまったのだ。タヂカには悟られないよう演技しているが、ここ最近の彼女達はひどく落ち込んでいた。
そんな彼女達の気分を、シルビアは買い物などに誘って晴らそうとしたが、大して効果がなかった。
「ふっ! 振られたのではありません!」
「そ、そうよ! えーと! まだそこまでいってないし!」
クリスとフィーの悪あがきじみた反論に、シルビアが困った顔をする。
「そうね? ――――そもそも最初から相手にされていない感じだし」
「ウグッ!?」
クリスが胸を押えて呻く。
「…………うう」
フィーは涙目でシルビアを睨む。
「毎日一緒にいながら、あなた達は何をやっていたの?」
リリは悔しそうに、でも何も言えずにギュッと膝を掴んだ。
「…………さすがなのです、実の娘にさえ容赦ないのです」
ぼそりと、コザクラが呟く。
「タヂカさんが一生懸命立ち直ろうとしているのに、あなた達はいつまでもウジウジと」
沈黙するしかない彼女達を、シルビアはさらに追い詰める。
「それでどうするの? もう諦めるの?」
非情な響きを伴った、シルビアの最後通牒。
しかし少女達は何も答えず、身じろぎ一つしない。
「…………そう、なら」
シルビアは、ひどく醒めた視線で彼女達を一瞥する。
「タヂカさんは、わたしが貰うわ」
「お、お母さん!」
母親のとんでもない発言に、リリが大声をあげる。
「タヂカさんのこと、要らないんでしょう? なら別に、わたしが貰っちゃってもいいでしょ?」
「で、ですが、タツはカティアさんのことが…………」
自分で口にして、さらに落ち込むクリス。様々な想いが溢れ、フィーの表情が歪む。
「カティアなんて」
シルビアが艶然として笑み、胸を支えるように腕を組む。
そのままスッと右の肘を伸ばし、少女達に向かってピシッと指を鳴らす。
「こうよ?」
気品と絶対の自信を兼ね備えた、まるで女王のような迫力だった。
自分達が知らない彼女の姿を目の当たりにして、クリスとフィーは二の句が継げない。
「ズルい!」
しかし実の娘は、母親に対して猛然と食って掛かる。
「お母さん! ズルい!」
「ズルくないわよ。だってリリは、もう負けを認めちゃったんだもの」
シルビアが余裕たっぷりに笑うと、リリは拳を握り締める。
「なら指を咥えて、黙って見ていなさい」
歯を食いしばり、母親を睨みあげるリリ。
余裕綽々な態度で、娘を傲然と見下ろすシルビア。
交わった視線が火花を散らし、二人が放つ気迫が衝突して渦を巻く。
両者の睨み合いを、ひやひやと見守るクリスとフィー。
そして黒いおかっぱ頭な少女は、こそこそと逃げ出した。
◆
目を覚ましたら、周囲には木々が生い茂っていた。
なんとなく見覚えのある景色、おそらくここは北の森の奥深くだ。
記憶が混乱し、現実感が乏しい。なぜ自分は、ここにいるんだ?
身動きができないのは、縛られているせいだろう。猿ぐつわを嚙まされ、声も出せない。
「やっと目が覚めたか」
重低音の、男らしい声音。それは何度も耳にして、聞き覚えがある声だ。
「やりすぎなのよ、あんたは」
「すまぬ、手加減を誤った」
「まあ、命さえあればいいじゃろ」
いやいや!? 命以外にも色々と配慮してほしいと思います!
彼らが会話をしている内に、徐々に記憶が鮮明になっていく。
確か俺は、工房で胸甲の出来栄えを確認し、寸法合わせの日取りを打ち合わせたのだ。
その後、モーリーのところで茶飲み話をして、それからギルドに寄ろうとして――――
兄弟子達に拉致されたのだ!
ギルドに向かう人通りの少ない小道で、いきなり目の前にラウロスが立ちはだかった。
その後のことは覚えていない。おそらくガーブの仕業だ。背後から襲われ、意識を刈り取られたのだ。
「さて、ヨシタツ。お前に話がある」
ラウロスが重々しく告げる。頑なに婿殿と呼んでいた彼が、俺を名前で呼んだ。
つまり、カティアとの約束を反故にしたことを知られているのだ。
私刑、ということだろう。周囲に視線を向ければ、八高弟が勢揃いしているのが分かる。
覚悟を決めた。カティアを崇拝する彼らに知られたら、いずれこうなることは予測できた。
骨の二、三本で済めば安いものだが…………
「悪いね、手荒なことをして」
ラヴィが、猿ぐつわを解いてくれた。その口調は、予想外に柔らかい。
「縛る必要なんてあったんですかね?」
マリウスが呆れながら、俺の身体を縛るロープを切り刻み、外してくれた。
自由になった俺は、起き上がって胡坐をかく。強張った節々をさすりながら、兄弟子達を見回した。
「なんの真似だ、これは」
警戒を解かず、無剣流を発動する。バッサリやられ、土に埋められる可能性は消えていない。
「話があるのじゃ」
グラスが前にしゃがみ込み、俺の顔をジッと見詰める。
「ただ話をするだけなら、こんな手荒な真似は必要ないだろう?」
「いや、あるね!」
「だって話を聞いたら、ヨシタツは逃げるもん」
ベイルが断言し、ラヴィがその通りだと言わんばかりに頷く。
「いや逃げないよ、話を聞いたぐらいで」
兄弟子達は、俺のことをなんだと思っているんだ?
「ううむ?」「ふひ?」
ガレスとフルが疑わしげに首を傾げながら、こちらを見る。
「ヨシタツ、お前には強くなってもらう」
ラウロスが命じた。一切の反論を許さない、厳めしい面持ちだ。
「八高弟の誰よりもだ。そのために俺達が全員で、お前に稽古を――――」
「――」
「ガーブ! 逃がすんじゃないよ!」「右じゃ、右に追い込むのじゃ!」「あははは、こっちですよ!」
「ヒヒッ」「むうんっ!」「こら暴れるでない!」
「あ、チクショウッ! おっさん噛みやがったな!」
◆
「お帰りなさい…………どうしたの?」
宿に戻ると、出迎えてくれたシルビアさんが訝しげな表情になる。
「いえ、なんでも…………水を一杯、飲ませてくれませんか?」
喋るのも億劫で、それだけ頼むのがやっとだった。
「今日は帰れないと、ギルドから連絡があったけど」
だいぶ夜も更けた時間である。クリス達はもう寝てしまったのか、宿の中は静かだ。
「ええ、まあ、色々とあって…………」
正直、死ぬかと思った。いや、死ぬことさえ許されない目にあった。兄弟子達は、実に狡猾だった。
常にこちらの限界を見極め、気絶一歩手前で押し止める手口を駆使するのだから、たちが悪い。
そしてこちらが気を緩めれば、殺気の籠った容赦のない一撃を放ってくる。
そのせいで体力は元より精神まで削られ、街の門を潜った途端に気を失ってしまったらしい。
目覚めたのは冒険者ギルドの仮眠室だった。起き上がる気力さえなく、そのまま眠ってしまいたかった。
しかし、みんなに心配を掛けたくないので、きしむ体に鞭打って宿に戻ったのだ。
どうやら起きているのは、シルビアさん一人だけのようだが。
食堂でぐったりしている間に、シルビアさんは竈の火をわざわざ入れ、食事を用意してくれた。
つまみを捻れば火が点くガスコンロとは手間暇が違う。温かいというだけで、ごちそうなのだ。
スープを口にした途端、ぬくもりが腹から全身に染み渡り、気分が安らいだ。
食事をする俺の前には、シルビアさんが座っている。
テーブルに頬杖をつきながら、笑みを浮かべてこちらを眺めていた。
就寝前だったのか、寝間着にケープを羽織っただけの格好である。
「こんな夜も久しぶりね」
彼女の言葉に、この宿に来た当初を思い出す。
賞金稼ぎをしていた頃、張り込みのために帰りが遅くなることもしばしばだった。
しかし、どんなに夜が更けても、彼女は待っていてくれた。
食堂のテーブルにうつ伏せになり、眠りこけていることもあった。
その姿を見た時には母を思い出し、胸が詰まる思いだった。
「そうですね、ずいぶんと昔の気がします」
この世界に馴染めずにいた俺を、彼女はお帰りなさいと迎えてくれた。
最初は無視した。次いで、頷いて応じるようになった。
最後には、ただいまと告げることができるようになった。
その時からこの宿を、自分の家だと心の片隅で認めていたのかもしれない。
「あまり無茶をしないようにね?」
思い出に耽っていると、そんなことを言われた。
それは兄弟子達次第なんだけど。どうやら漠然と、察するものがあるらしい。
深く尋ねないのは、信頼の表れだろうか。
「タヂカさんは、なんでも一人で抱え込むから心配だわ」
「大丈夫ですよ、大したことじゃありません」
「ほら、そうやってすぐ強がる」
シルビアさんに苦笑され、顔が熱くなる。俺が軟弱な人間であることを、彼女は先刻承知なのだ。
「あの子達には、もう少し本音で話してあげたら? 大人ぶるのも良いけど、あまり似合わないから」
ひどいっ!? 三十路の男を捕まえて、それはない。
もしもと、続けるシルビアさん。
「素面じゃ言えない弱音があるのなら、一緒に呑みましょうね?」
「…………その時は、ぜひ」
彼女には、さんざん無様な醜態を見せている。これ以上恥を掻きようがないという意味では、気楽な相手ではある。実際に相談を持ち掛けなくてもいいのだ。いざとなれば胸の内を吐露できる相手がいると思えば、安心感がある。
気が付けば、食事は全て胃の腑に収まっていた。身体が温まり、眠気を催す。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「ゆっくり休んでね?」
シルビアさんは食器を片付け、台所の奥に引っ込んだ。
申し訳ない気持ちになったが、彼女の気遣いをありがたく頂戴することにした。
部屋に戻ろうと席を立とうとした時、ふと首筋に冷たい空気を感じた。
反射的に振り返り、硬直する。窓の扉が細く開いていて――――
四つの目が、扉の隙間からこちらを覗いていた。
テーブルに向き直り、自分の膝を見詰める。
落ち着け、落ち着け。疲れが見せる錯覚だろ?
深呼吸してから向き直れば、扉はぴったり閉ざされていた。
ほら、やっぱり気のせいだった!
「シルビアさん、お休みなさい!」
台所に声を掛け、急いで部屋に戻って装備を外す。
そのままベッドに飛び込んで、頭から布団をかぶって寝た。
――夜更かしをする悪い子の部屋を、妖怪『覗き見さん』が障子の隙間から
思い出の中のばあちゃん! お願いだから余計なことを吹き込まないで!




