挿話の10 負け犬
「なあ、英雄って、どんなやつだと思う?」
「また旦那の英雄ばなし、ですか?」
酒場のマスターは苦笑し、注文の酒を酔漢の前に置いた。
この客は、酔うと同じ話題を持ち出す困った癖がある。
「今のご時世、そんな大層なやつ、いやしませんって」
「そんなことないだろう、ほら、あれだ、誰でもいいから言ってみろよ」
「そうですねえ…………まあ、定番なところで《女帝》でしょうかね?」
男が馬鹿にしたように鼻を鳴らす。いつも繰り返す決まり事なのだが、マスターはムッとして臍を曲げる。
「笑うこたあないでしょう。じゃあ王都で売り出し中の《戦鬼》ですかい?」
「ちっとも分かってないな」
男は酒をあおると、おくびを漏らした。
「…………旦那、ここんとこ飲み過ぎですよ」
「いいか? お前さんがあげた二人は、英雄なんかじゃねえ」
男――――仮に名を、ヘイメルとしておこう。
彼はマスターの注意を聞き流し、カウンターに身を乗り出す。
「いいか? ホントの英雄ってのはな」
と、語り出すヘイメルを無視して、マスターは食器を磨きだした。
ヘイメルという名はもちろん本名ではなく、幾つもある偽名の一つに過ぎない。
彼にとって名前とは、仕事の内容で使い分ける符牒である。毎日履き替える靴下のようなもので、特別な感慨など持ちようがない。
しかしヘイメルという名前だけは、彼にとって特別の意味を持つようになった。
それは負け犬の名だった。
ヘイメルを名乗った仕事をしくじり、惨めったらしく尻尾を巻いて逃げ出したのだ。
最近の彼は、とみに酒量が増えてきている。酔い潰れてしまっては、無事に朝を迎えられるか分からない。彼の請け負う仕事とは、そういう類のものである。
だが、正体がなくなるほど、酒精を身体に注がねばいられない気分なのだ。
思えば今回の仕事はケチのつき通しだった。
これまでも仕事に失敗したことはある。命の危険にさらされたことも、一度や二度ではない。しかし生き延びさえすれば失敗などさっさと忘れ、また新たな仕事を請け負ってきた。
だが今回に限り、じくじくと膿んだ傷のように心が蝕まれる。
浴びるほど酒を飲んでも、一向に忘れることができないのだ。
ヘイメルは常々、英雄鑑定という行為に熱中している。スキルの話ではない。
武名や偉業を喧伝された人物を観察し、当世の英雄足り得るか見定めるのだ。
しかし各地で様々な人物を見てきたが、彼の眼鏡に適う逸材に出会ったことがない。
王都で《女帝》を見掛けた時にも、さほど感銘は受けなかった。
英雄探しを続けたが、及第点に達する者が見つからない。
やはり英雄とは物語の中にしか存在しないのかと、半ば諦めた時であった。
ヘイメルは、とある冒険者の噂を聞きつけた。
それは凄まじいまでの悪評に塗れた男の噂だった。
曰く、手当たり次第に女を甘言で誑かす下衆野郎。
曰く、自分の功績の為に他人を罠にはめて蹴落とす策謀家。
討伐に赴けば何十人もの冒険者ごと魔物を焼き殺し、欲しい女を手に入れるために奴隷に堕としたりと、男の悪い噂は延々と続く。話半分だとしても悪逆非道の輩で、とても信じられる話ではない。もしそんな男が実在するなら、誰かが腕の二、三本でも叩き斬っているだろう。
おそらく幾つかの噂に尾ひれがついて、空想上の悪役《魔剣》が産み出された。
そんな風に、ヘイメルは思っていたのだ。
だから《魔剣》のモデルとなった男がいると偶然知り、ひどく驚いた。
そこまで悪い噂の元となった男はどんな奴なのか、興味本位に調べてみた。
しかし実際に調べてみると、あまりに悪い噂ばかりがはびこり、かえって男の正体は掴めなかった。やはり実体のない伝説かと思い始めたところに、ある情報を掴んだ。
かつての取引相手の死に、その男が絡んでいるというものだった。
そして偶然、その男の住む街での仕事が舞い込み、ついでに噂の真偽を確かめようと思った。やがてヘイメルは、ヨシタツ・タヂカという三十路の新人冒険者と邂逅することになるのだった。
「いいか? 英雄と言うのはな、どんな苦境でも身を挺して無辜の民を守るんだ」
「そんなおとぎ話みたいな英雄が、現実にいるはずないじゃないですか」
子供の頃、語り部の老人から聞いた、伝説にしか存在しない英雄の偉業。
それを大真面目に語る馴染みの客に、マスターは呆れかえった。
ヘイメルは顔を上げ、静かにマスターを見詰めた。
「…………本当にそう思うか?」
酒で濁った眼が、不気味な威圧感を放つ。マスターは思わず唾を呑みこんだ。
「本当に、おとぎ話にしか存在しないと思うか?」
グビリと酒を飲み干すと、カップを差し出してお代わりを催促した。
「俺はその姿を、実際に目撃したぞ?」
ヘイメルは、タヂカという男に英雄の資質を見出した。さらにタヂカの実像と悪評の落差のため、両方を結び付ける者がいないことにも気が付く。
自分だけが知る英雄だと、優越感さえ抱いた。
そしてタヂカのことを調べ、その実態を知るほどに、ある欲求が高まった。
自分がなぜ、英雄を探して求めていたのか、ようやくその動機を自覚した。
英雄を、墜としたい。その名誉を汚し、絶望の淵でもがき苦しむ様を見たい。
その願望を叶える機会は、予想よりも早くに訪れた。
「堕ちろ、英雄」
そう呟き、ヘイメルは街路で遊ぶ子供に矢を向けた。
お前が阻止しなければ、無関係な子供が殺される。
ヘイメルの意図を理解し、逆に驚き混乱するタヂカ。唐突に、まったく無関係な子供に武器を向ける意味が分からず、ごく単純に罠だろうと判断したのも無理はない。
まさか自分を苦悩させるためだけに、子供を殺そうとする人間がいるなどとは、想像の埒外だろう。
ヘイメルはまず、一の矢を放った。
矢が宙を飛んだ直後に、神速の動きで二の矢をつがえた。
矢は、子供を貫くだろう。しかし手当てさえ遅れなければ、助かるはずだ。
しかしタヂカには、そんなことは分らない。
子供が矢に串刺しにされて死んだと思い込む。幼い命が指の隙間からこぼれる絶望を味わった瞬間、射殺しようと狙いを定めた。
だが、タヂカは子供を守った。瞬きする間に、剣で矢を弾いていたのだ。
自分が見た光景が信じられずに、反射的に二の矢を放ってしまった。
タヂカの致命的な部分を矢じりが貫いた時、ヘイメルは己の失敗を悟った。
英雄が、英雄のまま死んでしまう。
子供の危機を救って自らの命を失うなど、ヘイメルにとって至上の英雄像だった。
その時、彼は怒りと嫉妬で身を焦がしそうになった。
英雄とて所詮は人間、どれほど死力を尽くしても、目の前の命を救えない時がある。
それを証明するためにタヂカを罠に掛けたのに、彼は不可能を越えてしまった。
タヂカが下から、ヘイメルを睨み上げた。
瞳の奥に狂気が宿る、冷酷な殺意の視線だった。
あと一分にも満たない内に死ぬであろう男の目ではなかった。
苦い敗北感を味わったが、事は終わったとヘイメルは思っていた。
まさか再び、タヂカと相まみえるとは完全に予想外だった。
「なんで生きてやがるタヂカ!!」
殺したはずの人間が、再び自分の前に立ちはだかる。
その恐怖に抗うように、ヘイメルは雄叫びをあげた。
怒りと憎悪をたぎらせて戦ったが、返り討ちにされてしまう始末だった。
まるで悪夢のような、いや物語みたいな出来事だった。
ヘイメルは、自分が英雄に倒される、しがない敵役に成り下がった気がした。
「ヘイメル、お前は必ず俺が仕留める」
全てを投げ捨て、ヘイメルは逃げようとした。
危険察知のスキルが、この場から逃げ出すように最大限の警告を発したからだ。
そんな彼の背に向け 人の形をした悪夢は告げた。
冷酷な眼差しの奥に、相変わらずの狂気を灯しながら。
「もうお前に安穏な夜は訪れない、いつも俺が後ろにいることを忘れるな」
まるで呪いのように、その言葉はヘイメルの心に刻み込まれた。
◆
「ああ、すいません。もう店仕舞いなんです」
「一杯だけ飲ませてくれ」
新しい客が店に来たらしい。マスターと客のやり取りが耳に入り、ヘイメルは夢現の状態から醒めた。
最近のヘイメルは、寝不足に悩まされていた。
寝床に入ると、暗闇にあの男の双眸が浮かぶのだ。
顔はおぼろげだが、その昏い瞳だけは鮮明に思い起こされる
いつか、あいつと決着を付けなければならない。そうヘイメルは決意する。
あの男を殺さなければ、自分は恐怖に捕らわれたまま立ち直れない。
いつか心身共に病み疲れ、ボロボロになる予感がした。
気が付くと、カップを持つ手が震えていた。
「言っただろう? いつも俺が後ろにいることを忘れるなって」
背後で、あの男の声がした。
「約束したよな、お前は必ず俺が仕留めるって」
――――冷たいナイフで首を切り裂かれ、ヘイメルの意識は暗転した。
しばらくして悪夢から目覚めたヘイメルは、ふらつきながら店を出た。




