神はいない 8
千を超える階段を登りきった先にあるのは、冷たく堅牢な扉。
壁のように強固なそれについたノッカーを叩き、扉を開ける。
「失礼します」
部屋に入ると、椅子に座ってリュートを弾くレノアと窓枠に腰掛けたアルフィードの姿があった。柔らかな音色は美しく、ひどく懐かしい。
レノアがリュートを弾くのは久し振りだ。塔に入ってから、彼女がリュートに触れるのは初めてだった。
「姉様」
「レノア様」
掛けられた声に、レノアが顔を上げる。
「お加減は如何ですか?」
「起きておられて平気なのですか?」
心配のあまり詰め寄ように問い掛ける侍女と妹に、レノアはおっとりと笑った。
「大丈夫よ。不思議ね、何だか身体が軽いの」
リュートを抱え直し、弦を爪弾く。その顔色は、昨日よりも格段に良い。
食事を入れた籠を置き、レノアを看ていた侍女も表情を緩めて安心したように小さく吐息を洩らした。
「だいぶ調子が宜しいようですね」
「ええ。今日にでも塔を下りられそうなくらいよ」
「まあ! 本当ですか?」
はしゃぐ姉妹と、それを微笑ましく見守る侍女。
その勢いのまま、何でもやってしまいそうな雰囲気である。
「こらこら」
横から口を挟んだのは、今まで黙ってアルフィードだ。苦笑しながら、レノアの頬を撫でる。
「気持ちは分かるんだけどね。無理をして怪我でもしたら大事だよ」
それでなくとも、塔の階段は長いのだ。幾らかでも体力を戻してからでないと、確実に途中で力尽きる。
それは三人とも身に染みて理解しているため、特に反論の声は上がらなかった。
実際問題として、レノアがどれほど動けるかも分からない。
「僕の手が必要だと言ってくれたら幾らでも貸す。だけど、君はそれを良しとはしないのだろう?」
「…ごめんなさい」
レノアの小さな謝罪に、アルフィードは苦笑した。
彼が抱きかかえて行くというのならば、今すぐにでも塔を下りることが出来る。だが、レノアは自分で塔を下りたいのだ。ここでの生活の終わりに、明確な区切りを付けるためにも。
そんな彼女の気持ちを尊重し、今回のことでアルフィードは助けを求められない限り余計な手出しをしようとは思っていない。
かと言って、今日いきなり下りるのは流石に無謀だ。思わず口を出さずにはいられなかった。
ファビナと侍女も罰が悪そうに顔を見合わせ、首を竦める。直接言われた訳ではないが、少しばかり怒られた気分になったのだ。
窘められた本人であるレノアは大きく溜め息を吐いた。
「駄目ね。つい気が急いてしまって。あと数日くらい、我慢しなきゃ」
自分の足を見下ろし、そっと撫でる。
「やっと、ここから出ることが出来るのね…」
その言葉には万感の想いが籠もっていた。
「まずはちゃんと歩けるようになるわ。塔の階段は長いのだもの」
顔を上げ、笑って見せるレノアの瞳には強い意志が浮かんでいる。その頭をアルフィードが優しく撫でた。
侍女はその手を包み込むように握った後、卓上に朝食の準備を始める。
ファビナはレノアの足元に跪いた。
その身に "黒" はもう現れる気配を見せず、レノアが眠りに囚われる様子もない。
それの、何と嬉しいことか。
「姉様」
ファビナは持っていた白薔薇を姉に渡した。
「レノア姉様にと、キーリが早朝に摘んで来ましたの」
「綺麗…」
薔薇を受け取り、レノアは吐息を洩らす。
「あの子達に会うのも久し振りね…」
「キーリ達も、姉様に会うのを楽しみにしてますよ」
レノアとファビナは、泣きそうな顔で微笑み合った。
◇◇◇
レノアが塔を降りられるようになったのは、目覚めてから三日後のことだった。
萎えていた足に筋力を戻し、時折アルフィードから支えられながらも一歩ずつ確実に段を下りる。
外に出てからはアルフィードの馬に乗って森を抜け、後宮の裏庭に入り込んだ。
この裏庭は周りを高い生け垣に囲まれているため、宮からは切り離され、外からも見えない。庭師と王子王女達だけが知る、秘密の花園だ。
今の季節は春。色鮮やかな季花が、競うように咲き誇っている。
今日レノアが塔を下りることは、前もって弟妹達に伝えていた。前の日から張り切って用意をしていたものだ。
花を部屋に飾るのではなく、華やかな庭でお茶会をすることにしたらしい。既に用意を調えたのか、全員が席に着いている。
レノアを見て目を輝かせた。立ち上がり、駆け寄って来る。
「レノア姉様っ」
「レノア姉上」
「「レノアお姉様ー!」」
「レノア姉っ!」
「レノア姉上様!」
彼らは零れるような笑顔を浮かべかけ、次いで不思議そうな顔をして首を傾げた。
レノアと共にいる見知らぬ男に戸惑ったようだ。
「お姉様?」
「この方は?」
「あー…」
額を押さえて、ファビナは小さく唸る。
自覚していた以上に、自分は浮かれすぎていたようだ。
アルフィードのことをどう説明すべきか、考えるのを忘れていた。
「…薬をね、持ってきて下さったの。レノア姉様のお知り合いなのよ」
言いながら、苦しい言い訳だとファビナは内心で苦く笑う。
後宮の敷地内からほとんど出たことのないレノアが、どうやって他国の王族と知り合えるというのだろう。ましてや、アルフィード・カイン・クラトリスが公的にディナントへ訪れた記録はない。
そこはどう誤魔化そうかと迷いながら助けを求めて侍女を見るが、彼女も困ったように首を傾げている。
もし突っ込まれたらアルフィードに丸投げしてしまおうと考えていたファビナだが、その心配は杞憂だったようだ。
キーリを始めとした弟妹達は、ぱあっと表情を明るくする。
「ああ、そうなのですね」
「レノア姉様のために、ありがとうございます」
いきなり態度が軟化した。レノアの恩人、つまりは良い人だという等式がなされたらしい。
無邪気な様子でレノアとアルフィードの周りに群がっている。
純真で素直すぎる子供達に若干の不安を感じるが、幼い内はそれで良いだろう。
「それで、何者ですか」
一人冷静なユリファスが小声で問うて来る。
「クラトリス国の王太子様よ。レノア姉様に求婚しにはるばる来たの」
「クラトリス? 親しい付き合いはなかったように思いますが」
怪訝そうな顔も当然だ。彼の国がディナントに興味を持つなど、今までなかったことなのだから。
「色々と事情がね。問題はないわ」
「本物ですか」
「ええ。王家の紋章が剣に刻まれていたし、絵姿でも確認したわ。それでなくとも、レノア姉様を助けて下さったのは事実なのよ」
二人の視線の先で、レノアとアルフィードは椅子に座り、キーリ達は姉の快癒を言祝いでいた。
花冠を頭に乗せられ、レノアがくすぐったそうに笑う。その微笑ましい光景に心洗われるかのようだ。
「姉様が幸せなら、それで良しとしましょう」
「そうですね」
飛び跳ねながらこちらに手を振る双子に二人も手を振り返す。
姉や弟妹に対してのみ向けられる優しい笑顔を保ったまま、ユリファスは口を開く。
「ですが、クラトリスの王子がレノア姉上に結婚を申し込んだなど、あの人にどう納得させるのですか」
ユリファスは父である王のことを "あの人" と呼ぶ。ちなみに、他の子達は "陛下" だ。
もはや親という認識すらない。向こうも自覚がないようなので構わないだろう。
「納得は無理かもね」
"あれ" は、自分の知らないところで話が進められることが嫌いだ。捨て置いていたとはいえ王女であるレノアの結婚にも口を挟むであろうし、聞き入れられなければ間違いなく機嫌を損ねるだろう。
だが、そんなもの知ったことではない。
「でも、納得しなくとも承諾させれば、何の問題もないでしょう?」
ファビナは深く笑う。
そう、却下しようにも出来なくさせれば良いのだ。
「偶然にも、効果的な舞台が用意されているのだから」




