神はいない 4
◇◇◇
レノアが眠ったままの状態で目覚めなくなってから、数日が過ぎた。
呪いが進行したのかもしれない。それとも、現実に絶望して夢の世界に引き込まれてしまったのだろうか。
ファビナは唇を噛み締めた。
今の状況では、医者に見せることも出来ない。
この国の黒に対する拒否感は根深いものだ。下手に余人に見せれば、問答無用で害されてしまう可能性も低くない。
幸いにして侍女には医学の心得があり、伝手を使って症状の原因を調べてもらっている。だが、姉の身体がいつまで保つか。
このまま姉が死んでしまった場合、原因となった父と兄は暗殺でもしてこの世から葬り去ってやろうとファビナは心に決めている。
あんな連中、ファビナ達の為にも国の為にも消えて無くなってしまえばいいのだ。
「…っ」
ふと人の気配を感じて、ファビナは我に返った。
袖の中に隠し持っている投げナイフを片手に振り返る。そして、そのまま動けなくなった。
背の低い木々の間から姿を現したのは、毛艶の良い白馬に乗った一人の人間。
磨き上げた金貨のような明るい金髪と深い森を思わせる濃い緑眼の、美しい男だ。
愕然とした。
姉が夢に出てきたのだと話していた王子様。歌うように繰り返し語られたその姿に、目の前の男があまりにも酷似していたのだから。
「ま、さか…」
こんな偶然があるものなのか。眩しそうに塔を見上げていた男が、ファビナに視線を向けた。
「こんにちは」
馬を下り、優雅な仕草で彼は腰を折る。
「君は…レノアの知り合いかな?」
「…」
その口から出た姉の名に、ファビナは無言で男を睨み付けた。何をしに来たのかと冷えた眼差しで問い掛ける。
そんなファビナの様子のどこかに肯定の色を感じ取ったのか、男はうっすらと笑った。
「会いに来たんだ。夢物語で終わらせたくはなかったからね」
夢。
ファビナは眉を顰めた。
やはり、姉が待っていたのはこの男だったのだろう。
来るのが遅いと思わず怒鳴りたくなったが、ただの夢を信じてわざわざこんなところにまで来たのだと思えばそれも憚られる。
ファビナはナイフを仕舞い、男に背を向けた。
「…付いて来て」
鍵を開け、塔に入る。男はファビナの突っ慳貪な物言いを気にした様子もなく続いて塔に入って来た。
当然ながら馬は置いてきている。どこかに繋いだ様子はなかったが、頭の良い馬だから勝手に草でも食べながら待っているという話だから大丈夫なのだろう。
交わした会話はそれだけで、後は延々と続く螺旋階段を沈黙の中で登る。ファビナは何も話さなかったし、男も口を開くことはなかった。
階段を登りきった先、厳重なだけの扉が見えてくる。中は王女の暮らす場所とは思えないほど質素な部屋だ。
レノアは一つしかない部屋を区切った衝立の奥、簡素な寝台の上に身を横たえていた。
「レノア…」
呟く男の声が震えたのは愛しい女に会えた感激か、それとも呪われた姿に対しての衝撃か。ファビナには判断がつかなかった。
夢の中で姉は、何色の髪をしていたのだろう。
「目を覚まさなくなってもう十日が経つ」
独り言のような口調で告げる。
まるで冬眠のようだと、レノアを看た侍女は言った。飲食も何も必要とせず、ただただ眠り続ける。限りなく死に近い眠り。
少しずつ痩けていく頬、細くなっていく手足。
日に日に儚くなっていく姉に蜂蜜を溶かした水を少しずつ口に含ませることが、最近の日課になっていた。
「姉様は今日も、目覚めたくない夢の中だ」
「…夢の中にも、レノアはいないよ」
「えっ?」
弾かれるように振り返ったファビナを、男は静かな目で見返す。
「だから僕はここまで来たんだ」
男が事実を言っていることを悟ったファビナは動揺した。
レノアは眠ったまま、幸せな夢を見ている。そう思っていたのに。だが、それが違うというのならば何故レノアは目覚めてくれないのか。
男は寝台に歩み寄り、その傍らに跪いた。
黒い髪を撫でるように梳き、頬に優しく手を当てる。
「起きて、レノア。僕は約束を守ったよ?」
甘く優しい声と眼差しは、恋情の熱を孕んでいて。それは、見た夢の内容を語る時の姉と同じ色をしていた。
だからだろうか。彼の行動を、ファビナは止めることが出来なかった。
緩やかな吐息を洩らす場所に、そっと重ねられる唇。
眠っている大切な姉に口付ける男。
普段のファビナならばすぐさま天誅を食らわせているであろう、不埒な行為。
だが今は、まるで神聖な儀式に立ち会っているかのように、ただ見ているだけしか出来なかった。
突然の口付けが何を意味するのか。その答えは、すぐに現れた。
「っ!?」
忌まわしい黒が溶けるように抜け落ちていく。それはまるで魔法のように幻想的で…。
ファビナが我に返ったときにはレノアの髪は元の栗色に戻っていた。
ファビナの待ち望んでいた瞬間。
しかしそれは、あまりにも予想外の状況下で起こったことだった。
姉を救うと誓ったのに何も出来なかった自分が、あまりにも無力に感じる。
ファビナが二年間も探し続けたことを、彼は一瞬で実現してしまったのだから。
ただ、次の瞬間にはそんなことはどうでも良くなった。
レノアの瞼が軽く震えたからだ。
「姉様!?」
「っ…!?」
覚醒の気配に、ファビナは男を突き飛ばして姉の傍らに跪いた。
「姉様。レノア姉様…っ」
「ファビナ…?」
開いた瞳は、ファビナより淡い榛色。
涙を零すファビナを不思議そうに見つめてくる。
「キスが…」
ファビアの喉が震えた。
「キスが呪いを解く鍵だなんて…まるで御伽噺みたいだわ…」
夢での逢瀬で恋に落ちた二人が、現実世界で結ばれる。
呪いを受けたお姫様が、王子様に救われる。
それはまさに予定調和を約束された物語のようで。
これが神の采配だと言うのか。
レノアを絶望に叩き込んだ存在が、この結末を用意したのだと。
「泣かないで、ファビナ」
レノアの細い指がファビナの顔に伸ばされる。
優しい手はファビナの目元を拭い、宥めるように頬を撫でた。
「感動の再会に混ぜてもらっても良いかな?」
苦笑を含んだ声が背後からする。
ファビナは聞かなかったことにしたかったが、レノアは大きく目を見開いた。
慌てて起き上がろうとしたレノアにファビナは手を貸し、渋々ながら場を譲る。
男が再び寝台の横に立ち、そして彼らは対面した。
「来て、下さったのね…」
男を認め、レノアはふわりと笑う。
それはファビナでさえ初めて見る、華やかで幸せそうな笑顔だった。
「来たよ。必ず君を探し出すと、そう言っただろう?」
男もレノアに向かって微笑む。
まるで二人の世界。
ファビナは少し迷ったが、衝立の外に出た。囁き交わす声の内容が聞こえない位置まで移動する。
想い合っている者達の語らいに聞き耳を立てるのは無粋なことだ。それに、夢で見たお姫様を探して遥々こんなところにまで駆け付けた王子様には褒美を与えるべきだろう。
勿論、その情熱が行き過ぎてしまう気配があればすぐさま邪魔する気ではあるが。
「ああ…」
小さな窓から青い空を見上げて、そっと吐息を洩らす。
これからの姉の幸せを、強く強く願った。




