神はいない 3
「ファビナ姉様…」
後宮の自室、考え込んでいるファビナをすぐ下の妹が呼ぶ。
「キーリ、どうしたの?」
「レノア姉様は、まだ…?」
「…ええ」
ファビナは悲しげに目を伏せる。それを見てキーリも顔を歪めた。
キーリは王の第四子、第三王女だ。ファビナより二つ年下で、レノアが呪いを受けて後宮から去った後は率先して下の者達の世話を引き受けてくれている。
彼女のおかげで、ファビナは呪いについて調べる時間を得ることが出来ていた。
ファビナの下には、六人の弟妹がいる。
十四歳のキーリ、その一つ下で第二王子のユリファス、双子の王女で十一歳のサリーシャとマリーシャ、キーリと同腹の王子であるトゥーリも十一歳、末王子は十歳のショウン。
母親違いの弟妹達だが、子供に興味も見せずに国財を浪費する側室達の代わりに構ってくれたレノアに皆が懐いていた。
優しい者は報われず、甘い者は潰される。そして弱者はただ淘汰されていく場所。それが後宮だ。
ファビナは、キーリ以外の弟妹達にレノアのことを話してはいなかった。ただ病気で会えないのだとだけ、言ってある。敏いところのあるユリファスは、もしかしたら何か気付いているのかもしれないのだが。
「ファビナ姉様、やはり私も塔へ行きます。レノア姉様のお役に立ちたいの」
キーリの言葉に、ファビナは緩く頭を横に振った。
「駄目よ」
「姉様!」
「あそこは、本来ならば立ち入りが許されていないわ」
元々、罪人を閉じ込めるための塔だ。そのような場所に出入りしているところを見つかれば、容赦なく罰せられるだろう。
「もしものときのためにも、キーリには無関係でいてもらいたいの。如何なる者にも付け入る隙を与えてしまわないように」
ファビナは自分に何かあったとき、子供達を守る役目はキーリに任せることになる。
罪を犯すのは自分だけでいいのだ。
本当はレノアの侍女も巻き込みたくはなかったのだが、彼女は頑固でいけない。表向きはファビナ付きの侍女となったが、彼女の忠誠は今も昔もレノアに捧げられている。そこまでレノアに心酔している者だからこそ、世話を任せられるのだけれど。
「私にもっと力があれば、貴女達にこんな不安定な生活をさせすに済んだかもしれないのに」
ファビナは唇を噛み締めた。キーリも年頃の少女だ。お洒落、舞踏会、恋。したいことは沢山あるだろうに。そうそう出掛けることも出来ず、塔に閉じ込められた姉に会うことも出来ない。心配と苦労ばかりをかけている。
今の状況はキーリの可能性を潰しているのではないかと、ファビナはずっと気にしていた。そういう自分も年頃の娘なのだということを、彼女は失念している。彼女の意識は、常に自分以外の者に向けられているのだ。
「大変なことばかり頼んでごめんね」
「いいえ!」
ファビナの言葉に、キーリは強く首を横に振る。
「ファビナ姉様の方が、ずっとずっと大変なのに…」
悄然と項垂れるキーリの頭をファビナは優しく撫でる。
「ありがとう」
妹の気持ちが嬉しかった。
俯いたキーリの頬に伝う涙をそっと拭う。
「もしもの時は、お願いするわ」
「…はい」
そっと指切りをして、二人が微笑み合った時。
「「お姉様ー」」
少し離れた場所で刺繍をしていた双子の妹が駆け寄って来た。ずっと、姉二人の様子が気になったのだろう。
「サリーシャ、マリーシャ」
一卵性である彼女達は、見比べても判断が付かないほど同じ姿をしている。ファビナ達姉弟でさえ、感覚としてしか区別が付かない。
実の両親は二人の名を呼んだこともないので、それ以前の問題なのだが。
「ファビナお姉様、キーリお姉様はどうなさったの?」
「どうして泣いていらっしゃるの?」
キーリの涙に、二人して不安そうな顔でファビナを見つめた。
「大丈夫よ」
目を僅かに赤くしたまま、キーリは微笑む。
「私が我が儘を言って、姉様を困らせてしまっていたの」
自分が悪いのだと言うキーリに僅かに苦い顔をしながら、それでも真実を言うわけにもいかずファビナは二人の頭を撫でた。
「心配させてしまったわね」
姉達の笑顔を見て安心したのか、双子は擽ったそうに笑ってファビナの手を受け入れる。
その時、扉を叩く音がした。
「ファビナ姉上? ユリファスです」
「お入りなさい」
「失礼します」
応える声を受けて扉が開かれ、顔を出したのは金髪碧眼の少年。まだ十三歳ながら穏やかで優雅な物腰の貴公子だ。今も柔和な笑顔で頭を下げる。
そんなユリファスの腰元から、子供達が顔を覗かせた。ファビナ達姉弟の下の二人、トゥーリとショウンだ。三人は先程まで馬に乗っていたのだろう。簡素な乗馬服のままだ。
やんちゃで活発なトゥーリと、おっとりしているが好奇心旺盛のショウン。勿論、部屋で大人しくしていてくれるはずがない。
少年と少女では興味を持つものが違う。勉強はともかく、刺繍や詩集など十分ほど保てば良い方だ。姉妹も剣を使い遠駆けに出掛けることはある。
だが年々成長していく弟達の相手をするにはキーリ達に体力が足りず、ファビナは呪いについて調べているせいで時間がない。ここ数年、遊びたい盛りの弟達の相手はユリファスが買って出てくれていた。
「お帰りなさい」
「「お帰りなさーい」」
キーリと双子が笑顔で出迎える。
そのキーリの目が僅かに赤いことに気付いたユリファスが、問うようにファビナを見た。ファビナは軽く首を振る。聡明な彼はそれだけで察したのか、何も言わずに頷いた。
その口から出たのは違う話題だ。
「姉上、少し耳に入れておきたいことが」
「何?」
「王太子殿下のことです」
耳元で囁かれた内容にファビナは眉を顰めた。王太子殿下とは、すなわち腹違いの兄のことである。しかし、今では兄と呼ぶ者は誰もいない。ファビナに至っては、あんな奴と半分でも血が繋がっている現実を今すぐ抹消してしまいたいと思っている。
「あれがどうしたの」
「また碌でもないことを考えているらしくて」
「…そう」
ファビナの怒気に殺気が混じる。
キーリが心配そうに姉の顔を窺った。それに気付いてファビナは素早く表情を取り繕う。
「ありがとう、ユリファス。また後で詳しく教えてくれる?」
「はい」
溜め息を堪えて、ファビナは窓際に佇んだ。
物思いに沈む姉の邪魔をしないよう、キーリとユリファスは窓から離れた場所に腰を下ろす。
ユリファスにレノアのことを伝えていないのと同様に、ファビナはキーリに王や王太子が起こす問題について最低限のことしか伝えていなかった。
ただでさえレノアのことで気を遣わせているのに、あの馬鹿共の面倒まで見させるつもりがないからだ。
王達を含めた俗人連中のことは、意外と政治向きな性格をしているユリファスに頼っている。
「煩わしいこと…」
内心に留めておくつもりだった呟きが、ふと堪えきれずに唇から零れ落ちてしまった。口元を指先で抑える。
周囲を見回すが、近くにいたキーリもユリファスもこちらを気にした様子はない。言うつもりのなかった言葉は、幸い誰にも聞き咎められることはなかったらしい。
ほっと息をついて、ファビナはまた窓の外に目を向けた。
鬱蒼とした森が眼下に広がっている。この森に隠されるように、レノアのいる塔はあるのだ。
本当は、姉や弟妹達のことだけ考えていたかった。だが、それは現実が許さない。
問題だらけの王太子に利己的な王、不安定な国政、私腹を肥やす奸臣達。今はまだ良識ある大臣や貴族達が抑え込んでいるが、国のバランスは確実に崩れ始めている。
国税で生活している以上、国民に貢献するのは国を動かす者達の責務だ。それを放棄すれば当然、国は成り立たない。それを忘れている連中と共倒れになるなど願い下げである。
だがファビナ達は王族で、王家に生まれたからには義務を果たさなければならなかった。しかし、まだ幼い者達にすべてを背負わせる訳にはいかない。いつかは知らねばならないことだが、それはまだ先のことでいい筈だ。だから今はファビナがそれらを引き受ける。彼らを守ると、姉に約束したのだから。
「ファビナ姉上ー」
双子の姉やすぐ上の兄と何事か話していた末っ子が、ファビナに声をかけた。
「どうしたの?」
ファビナはそんなショウン達に歩み寄る。
年少組四人は顔を見合わせ、小さく頷いた。口火を切ったのはマリーシャだ。
「レノア姉様のことをお聞きしたいのですわ」
「レノア姉様について口外できない事情があることは理解しているつもりですの。けれど、どうしても心配なのです」
マリーシャの後にサリーシャが続ける。
「レノア姉上様とは、まだ会えないのですか?」
「病気だって言って、もう二年だぜ? レノア姉、大丈夫なのかよ」
ショウンがファビナのドレスを掴みながら寂しげに小首を傾げ、トゥーリは伝法な口調の中に心配そうな気配を滲ませていた。
ユリファスも黙ったままファビナを見つめている。
「…まだ、何とも言えないわ」
ファビナは苦しい口調でそう切り出した。
双子が青ざた顔で次の言葉を待っている。
「調子が悪いわけではないの。良くもなってはいないけれど。ただ、症状が停滞していて治療法が分からない。ずっと探しているのに…」
ファビナは顔を伏せた。キーリがその肩を優しく抱き締める。
目が熱い。瞼が僅かに震えた。だが、ファビナは込み上げてくるものを必死に飲み下した。自分が弱さを見せては、弟妹達を不安にさせてしまう。
一度強く目を瞑ってから上げた顔に浮かべたのは笑顔。
「…あと、半年。半年だけ待って。そうしたら会えるから」
ファビナは強い光を宿した目で言い切った。
レノアに会いたがっている彼らのためにも、早く呪いを解かなくては。
◇
ファビナの決意も虚しく、現実とは無情なものだ。
ファビナが密かに感じていた危惧は、思いの外早く形となってしまった。
「レノア姉様」
ノックと共に扉を開けたファビナは、レノアの姿が見えないことに首を傾げる。
まだ寝ているのだろうか。もう昼も過ぎているのに?
「…姉様?」
嫌な予感に声が震える。衝立の影になっている寝台を覗き込んだ。
「っ…!」
動揺して揺れた手から水差しが滑り落ちた。
支えを失った硝子製の瓶は重力に従って床に落ち、大きな音を立てて砕け散る。
それを気にする余裕もなく寝台に駆け寄った。レノアの額に手を当てる。
…熱くはない。むしろ氷のように冷たくて、ファビナはぞっとした。
「姉様!!」
その肩を揺するが、何の反応も返ってはこない。
口元に手を翳すと、微かに空気が動いているのを感じた。
「っはぁー…」
ファビナは崩れ落ちるように床に座り込み、姉の傍らに突っ伏す。
その振動で寝台が僅かに跳ねたが、レノアが目覚める気配はない。
「眠って、いらっしゃるのですか…?」
そっと囁きかける。返事はなかった。
寝台に顔を伏せたまま耳を澄ますと、微かに空気の動く音がする。レノアが生きている証だ。
しかし、息をしていないのではないかと不安になるほど呼吸が深い。
「姉様。まだ、この世界を見限らないで…」
掠れた声は、誰にも聞かれることなく空気に溶けた。




