竹内まりやでも聴きたい気分
日曜の午後、午睡するほど疲れは無いがどこかへ出掛けるには用事もないし時間も中途半端だ、竹内まりやでも聴きたい気分。縁側に腰掛けて、夏の日射しを楽しんでいる。陽気な曲を口ずさむが、下手だし、歌詞も覚えていないから、LaLaLaLaと意味もなくハミングしていく。毒にも薬にもならない日曜の午後、竹内まりやでも聴きたい気分だ。
イヤホンから流れてくるのは、エルヴィス・プレスリーの『返事の来ないラブレター』である。英語の分からない時分には、あの陽気な曲調に騙されていたが、調べてみれば歌詞は悲痛なものだった。とはいえ私は今でも、この曲の後で謝る彼氏と苦笑する彼女の姿を思い浮かべるのだった。
通りに面しているから、塀の向こうから人の気配がする。今歩いてるのは数人組の小学生。おそらくそのまま我が家に入ってくるだろう……ほら来た!
「お姉ちゃん、久しぶりー!」
「元気にしてた?」
「おうおう、元気だぞぅ。お姉ちゃんは元気だけが取り柄だからね」
「お姉ちゃんは馬鹿なの?」
「痛い所突かれたね。お姉ちゃん、かれこれ三年は風邪を引いてないから、あながち馬鹿なのも間違いではないね」
お姉ちゃん馬鹿なんだぁ、などとキャッキャッ騒ぐ子供らに、さあさお上がりと促すと、サンダルを脱ぎ捨て、縁側をよじ登っていった。そのまま大人しく教室へ向かえばよいものを、子供達は私を構っている。縁側に同じく腰掛けて、あれこれと話をしていく。
「今日、プールに行ってきた!」
「そうかそうか、楽しかったか?」
「あのね、勇二が――」
「ダメー!」
慌てたように、子供らの内の一人、勇二が口を開こうとしていた少年(ちなみに、彼は亮という名前だ)の口を両手で塞いでしまう。楽しそうにモゴモゴとしている亮を見て、何があったのだろうと私も楽しくなる。そんな私を察したのか、左隣に座っていた女の子が、私の腕をつつくではないか。うん、と私が耳を寄せると、こっそりと、ことのあらましを教えてくれた。
「あのね、勇二、溺れちゃったの。大人用のプールに間違って入っちゃって」
「おやおや、大丈夫だったのかい」
「気絶しちゃったの。大人が引っ張り出してくれたんだけど――」
「あっ! 朱里、なに教えてんだよ!」
慌てて朱里に駆けつけるも後の祭り。私は全て聞いてしまったのだから。満足して微笑んでいると、勇二は上目遣いでびくびくと、私を窺ってくる。それがなんとも可愛らしいのだ。
「そっか、勇二溺れちゃったのか。大丈夫だったかい?」
「うん……けど、気絶して……お姉ちゃん、けーべつしない?」
なるほど、軽蔑、上手い言葉だ。どこから習ってきたのか知らないが、その言葉の重さとたどたどしい口振りはなんとも面白い矛盾があった。私はついつい笑いながら、勇二の髪を撫でた。
「なんで軽蔑なんてしようか、大変だったねって撫でるだけだよ。私だって溺れて泣いたことはあるよ。そうだ、勇二は泣いたりした?」
「泣かなかった! けど、亮と朱里、泣いてた。目を開けたら二人が泣いてて、ちょっと困った」
「そっかー、二人泣いたか!よっしゃ来い! 友達思いの子達も頭ワシャワシャしてやろう!」
群がる子供はわいわいとはしゃぐ。勿論私もだ。なんとなく心浮き立ち胸が騒ぐ。それは、子供達の皮膚から立ち浮かぶ汗の臭いがそうさせるのかも知れない。くそう、可愛らしいな。実に可愛らしい。
「さあて、そろそろ兄さん達が降りてくるからね。教室に向かいなさい。豊兄さんは怒らないだろうけど、優兄さんは分からないからね。さあさ、暇なら終わってからお喋りしようか」
はぁいと元気のよい返事をした後、みんな家の中へ入っていった。後ろ姿を眺めていると二階から降りてくる豊兄さんの姿が見えた。子供らは豊兄さんの足元にまとまりつきながら、ゆっくりと階段を上がっていった。
途端に静かになり、暇になってしまう。誰かこないかなと思っていると、門を音もなく男が通り抜けて来た。おやと目を向けると、男もつかつかと私の方に向かってくる。やあと挨拶をしてみれば、おうと返される。訪問者は、私の腐れ縁で、いわゆる「山陽三羽烏」の一人である、村口 恆躬であった。恆躬は箱を脇に抱えながら、額にうっすらと浮かんだ汗を袖口で拭っている。
「どうしたんだ、それ」
「コピー用紙。豊さんへのお届けものだ」
少し座らせてもらうぞと、のっそり縁側に腰掛けた恆躬は、胸ポケットからフィルムも剥がされていない煙草を取りだし、私に目線を向けてきた。私が同じく目線で、どうぞと、返せばあいや分かったと恆躬はフィルムを剥がした。
「煙草を買いたくてな、財布を見たら、43円しかないじゃないか。そういう訳で豊さんに『駄賃が欲しいので何か頼み事はないですかね』などと。これが戦利品である」
「人の兄にたかるなよ……豊兄さんが優しいからって、困ってたろう」
「ああ。やはりああいう穏やかな人は、困り顔が一番可愛らしい」
「それは否定しないけど……」
「だろう。だから俺は豊さんにたかるんだよ……そうだ、俊治は大丈夫だったか」
ぼんやりとした猫みたいな顔で煙草を吸いながら、何を言うでもなく語る恆躬に私はつい笑ってしまう。
少し悩んでしまったが、まあ、凪の来る前の時間が私を宥めた。
「マスクして、顔を真っ赤にして泣いてたね。あれじゃ美形も形無しだ」
「泣く程度なら、それほど悪くはなかろう。本当にキツい風邪は笑うからな」
「あー、分かる。どうとにでもなれって感じの」
「そうそう」
昨日は眠くて、見舞いにも行けなかったからな。からかってやろうかとも思ったけど。そんな事を語りながら恆躬は、重ねて、俊治から連絡来たかと訊ねてきた。
「朝メールが来た。返してないけど」
「メールじゃなぁ。あれはイケメンを自覚してないからいけない。まったく」
「あんたが言うか、まったく」
「俺だから言うんだ。まったく」
やおら風が吹き、私達を撫でていった。部屋の壁に掛けられた習字の作品が、ぱたりぱたりと音を立てて揺らめいていった。
「……今頃、豊さんは授業だよな。用紙をどうすべきか」
「待つ?」
「暇だしな」
伸びた灰を、携帯灰皿の中に落とす恆躬は、さて、どうするかと、あくびを伸ばす。本当に猫みたいだ。俊治は犬だとして、私は何なのだろうか。人間ということにしよう。
何も語らずにいると、ギィと床の軋む音が響いた。はてなと振り向けば、優兄さんと、生徒の孝くんとが階段を降りてきていた。先に気づいたのは孝くんの方で、彼は小さく会釈してきた。私と、恆躬も何故か手を上げてひらひら揺らして会釈に返す。優兄さんは特に何をするという訳でもなく、のそのそと歩いてくる。二人は、ゆっくりと、確かに、縁側へとたどり着いた。
「そういえば、君は何歳になるのかね?」
恆躬は藪から棒に、孝くんへと目を向けながら訊ねた。家の住人でもないのになんたる馴染み具合か。孝くんも孝くんで、何の疑いもなく答えるのであるから恆躬の存在が、実に我が家的なものであることを示している。
「16です。先週が誕生日でしたから」
「そりゃおめでとう。プレゼントは無いので拍手だけだが……さて、てことは高校一年か」
ふーんと唸るだけで終える恆躬に、なんとなく場が白けたようになった。そんな中で優兄さんは、その手で恆躬の頭を握り、ぐるりと目線を合わさせたのである。
「おう。良いもん吸ってるな、一本寄越せ」
「えー、豊さんからたかった金で買ってきたんですよ、これ。優さんも豊さんからたかって下さい」
「人様の弟からたかってるんじゃねぇよ。お前はホント、成人してんのか」
「ご覧の通り、未成年者の喫煙は法律違反ですよ。知ってましたか優さん」
「知ってるよ。ならたかるな。今度からは俺にたかれ」
「えー、優さんは困らないからつまらないじゃないですか」
だから豊を困らせるなと言ってるんだろうがと言いつつのっそりと、優兄さんは恆躬の隣に腰掛けた。孝くんも優兄さんの隣に座る。私は妙に寂しくなったが、左隣に小さく這い寄る天道虫が来たので、まあいいかと納得することにした。
「そういえば、孝くんは高校で書道部に入らないの。書道部ならタダだろうに」
「ああ、うちの高校、書道部が無いですから。まだお邪魔させていただいてます」
「……あら? 山陽だよね、孝くん」
「はい」
「山爺いなくなったのか?」
「山爺?」
おや、山爺やっとくたばったのか、などと縁起でもないことを呟いた恆躬に、優兄さんは無言で殴り付けた。頭を押さえている恆躬を尻目に、優兄さんは孝くんに向かって答える。
「山瀬先生だよ。恐らく古文を教えているだろうが、知らないか?」
「ああ、山瀬先生なら習っています。書道の先生だったんですか?」
「ああ、俺は先生から書道を習っていたし、こいつらの代にもたしか書道部があったんだが、もうお止めになったのだろうな。お年であるし……今度、山瀬先生に書をやっていると言ってみたらどうだ。先生も喜んでくれるだろうし、恐らく時間があれば教えてくれるだろう」
「はい、伺ってみます」
「その時は、俺の事も宜しく伝えておいてくれ」
四人でのにこやかな談笑。ぼんやりと話していたら、いくらか時間を使っていたらしい。さっきまでは風が吹いていたが、夕凪である。孝くんは帰宅の時間、優兄さんは食事の準備―この時間からということはなかなか手の込んだ夕食になるだろう!―恆躬は、そろそろ用紙を届けに行くと、二階へと上がっていった。天道虫は飽き性だから、談笑の途中でいなくなっていた。また一人である。ああ!
退屈な日曜日、そんな歌があったはず。たしかJポップだが、なんだっけな。メロディだけは分かるので、またもやLaLaLaLaを築いていく。遠くで、中古品回収の車がスピーカーを震わせている。ここにまで音が届いているのに、何故か隔絶した感覚を抱かせるのは、心情のせいか、家という領域のためか。煙草の残り香が、嫌に寂しくさせる。もう、随分と傾いていた太陽に、顔を紅色に染められてぼんやりと宙を見ていると、微細な光の粒子が伝える熱が、顔から消える。根源へと目を向けると、放射されている夕日を遮り、男が一人、立っていた。彼は、肩で息をしながら、私を見下ろしている。
「……逆光のせいで見えづらいからさ、座りなよ」
隣をぽんと叩いて見せれば、おずおずとした雰囲気で、俊治は躊躇いつつ腰を下ろした。口にマスクを当て、額には大粒の汗が浮かび、柔らかい髪が一房、張り付いている。夏風邪は馬鹿が引くものだが、ここまで馬鹿だとも思わなかった。
「……ごめん」
「何が? 私が何に怒ってるのか、分かるのかな?」
わざとにこやかに訊ねてみれば、しゅんとして、俯き加減で俊治は呟いた。もしもしっぽがあったなら、股の間に挟んで震わせていることだろう。
「昨日、風邪引いて、デート出来なかった……」
「そうかぁ! 君の彼女は、風邪引いたら這ってでもデートに行けと無理強いする奴なのか!」
納得とばかりに手を打てば、潤んだ瞳で横に首を振った俊治。さすがに、未だに風邪引きの人間をいたぶるのは可哀想だと思い、私は彼に、指を二本立てて見せつけた。
「いい。私が怒ってるのは二つのこと。分からないようだから教えてあげるけど――ひとつは、見舞いにも入れてくれなかった君の強情に、怒ってる」
「だって、うつしちゃ、悪いし……」
「夏風邪引くような馬鹿は君くらいだよ。マスクすりゃうつらない。馬鹿でも分かる。まあ、そういうのは、君の馬鹿丁寧な優しさだと納得して、二つ目」
馬鹿馬鹿と言われたからかしょんぼりと俯く彼に、私はデコピンとやらをかます。驚いた風な俊治は私を見つめるが、私ときたらムカムカしている。
「病人が外出歩くな! 風邪が酷くなったらどうする!」
「だって、茜、メール返してくれなかったし……」
「落ち着いてから送れ! 元気になったら何度だってメールする! そもそもなに、アレ。何度も何度もデート行けなくてゴメンとか、だからあんたの中の私はそこまで根に持つ人間か!? そんなこと謝るくらいならお見舞いくらいさせてくれないかな!?」
「だから、それだとうつ――」
「ほら堂々巡り。どうせ今のままだとこんな状態になるって分かってたから、元気になるまで会わずメールせずで我慢しようって考えていたのに、君ときたら外を出歩く始末。なに、私が『君が元気になるまでメールは止めて、ゆっくり養生してね』と懇切丁寧に説明しなくちゃいけないのかな!?」
「ご、ごめんなさい……」
「うん、私もごめん。君が背負い過ぎるのを分かっていたのに、安静にするよう言わなかったのは私がいけないね」
お互いにしょんぼり。なんだこのシチュエーション。隣に座る俊治はコホコホと咳をこぼしているし。とりあえず、帰らせよう。喉だと長引く可能性があるし、そうなるとそのなんだ、私も寂しい。
ほら、帰るよ。私が彼の手を引き立たせると、ドタドタっと階段を駆け降りる音。亮・朱里・勇二のトリオだ。
「ごめんね、お姉ちゃんはこの大きな子供を帰らせなくちゃいけないのだ。また明日じゃダメかな。明日も来るでしょ?」
「えー、お姉ちゃん約束違反!」
「そう、約束を破っちゃった……明日、冷えた羊羮で手を打とうじゃないか!」
キャッキャとはしゃぐ子供らに、明日の分の羊羮を買わなきゃいけないなと考え、それじゃあねと手を振った所で、朱里ちゃんが素朴かつ、ごく普通の疑問を提言をしてきたのだから、少し驚いてしまう。
「その人、お姉ちゃんの彼氏?」
おいおい、最近の子供はマセてるな。私は苦笑いしながら、繋いでいた俊治との手を掲げ、答える。
「そうだよ、お姉ちゃんの恋人だ……それじゃあね」
後ろでヒューヒューなどと冷やかされられ、私なんぞは赤面してしまう。マスクで顔は見えないのだが、俊治の熱い手から察するに、彼も赤面しておろうことは分かるのだ。
「可愛いね、あの子たち」
「大丈夫、君も充分可愛いよ。大きな馬鹿犬みたいで……そんなしょんぼりしないの」
「だってさぁ……」
「じゃあ、頭がいい人が、風邪引きながら外を出歩く? 夏とはいえ身体に悪いし、そもそも、治す気あるの?」
「……茜の顔、見たかったし」
「なら見舞いくらいさせてよと堂々巡り、厄介だね」
にへらと笑って答えると、ふいと顔を逸らされた。なんたることか。
夕暮れの帰り道。勿論、私にとっては行きなのだが。風のない坂を、二人で歩いていく。離す機会を失ったので、手は繋いだままだ――勿論、繋いでいたかったのもある。とはいえ、愛情は世間からの圧力をくわえられるのが世の常だ。知り合いの多い町だから、通りすがりにニヤニヤと、嫌な笑みを送られていく。燃え立つ耳を我慢して、私達は、俊治の家にたどり着いた。町の中でも、比較的大きな家が立ち並ぶ一角。その中でも一番豪勢な家が、俊治の家だ。ブルジョアめ。
私達は、知らず知らずの内に向かい合っていた。玄関前。遠くでエンジンの音が響いている。私は、彼に微笑みかける。
「養生するんだよ。ひとまず、薬は飲むこと。暖かくして、汗をかいたら、熱いお湯に浸かって、湯冷めしないように早く乾かす。分かったね」
「お母さんみたいだね」
「おばさんも呆れてたよ。言うこと聞かないって。一体君は何歳なんだね」
「19です……」
「そろそろ分別を持って私の言うことを聞くんだね。元気になったら、遊びに行こうよ。街は逃げやしないからね」
小さく頷いた俊治に、そうだとばかりに、マスクを外してと頼んだ。何故と聞かれ、最後に、顔を見ておきたいというと、赤面した顔を見せてくれたが、やはり190近い人間だと顔が遠すぎる。もっと近づけてと頼めば、少し屈んでくれたので、私は爪先立ちで彼に口寄せた。
それはもう、ほんの一瞬の接触ではあったけれども、私にとっては2日の寂しさを追い払うに足る喜びだった。額まで赤くする彼は、風邪引きとはいえなかなかに美男子と言えよう。
「それじゃあね! ちゃんと養生するんだよ」
やはり、こういうのは気恥ずかしい。にへらと赤面しつつ、私は帰途に着く。振り返り見れば、彼はぼんやりと立ち尽くしている。早く家に入って寝ろと叫べば、あたふたと入っていった。やれやれ、まったく、困ったものだ。風邪をうつされたわけじゃなかろうがね!
赤面も、夕日に紛れてくれることだろう。凪は過ぎ、夜の匂いを含んだ風が私の熱を掻き乱してくれた。こういうのはやはり慣れないなと苦笑しながら私は、二人で歩いた道を一人、戻っていった。