プロローグ
いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。こちら何の変哲もないコンビニエンスストアでございます。お客様は神様とまでは申しませんが、どなた様でも是非お立ち寄りくださいませ。今日も我がスタッフ達は汗水を垂らさず、雨にも風にも負けていつも通りに勤務しておりますので、温かい目で見守ってやって頂けると幸いです。長くなりましたが、ここらで私は失礼させて頂きます。では、ごゆっくり。
早朝五時、起床。まだ明るいとは言い難いが、それはそれで顔を出しかけている朝日に申し訳ないので、少し明るいんじゃないかなぁ?と疑問形にしてみる。
そんなことはどうでもいい。とりあえず時間がない。今、俺はどうしようもなく忙しいのだ。
まずは風呂に入らなければならない。最重要事項その一である。夜のうちに入っておくという手段もあるが、朝風呂の方が何かと都合がいい。まず、寝汗を残したまま過ごすのは実に気持ちが悪い。とはいえ理由の八割が寝癖についてだが、割愛していいだろう。
できる限り手際よく、顔を洗い、頭を洗い、体を洗う。床が冷たいとか、洗面器に溜まっていた残り湯がどうのとか、呟く余裕なんか残されてはいない。二十分経てば頭上のタイマーが教えてくれるのだが、それでは遅すぎる。ニ十分?十五分だろ。そうだ、十五分。少し多く見積もっても、与えられた時間は十五分しかない。急がなければ後々泣きを見るのは自分の方だ。
風呂から出ても、寒いだの、床が冷たいだの(以下省略)ぼやく時間は無い。軽く体を吹いた後、その場に干してある服を下着から何から適当に手に取りそれを装備する。ちなみにドライヤーは同時進行が望ましい。地肌が焼けるような感覚に襲われる日もあるがあまり気にしない方がいいだろう。ずぶ濡れのままよりは、多分いい。風邪や外傷の辛さより、病院に行く恐怖の方が遙かに勝る。
ここまで何事もなくこなせれば、多分くぐもったアラーム音が聞こえるはずだ。ジャスト五時二十分。狭い洗面所は、こういう時のみ有効活用できる。一歩左に大きく踏み出し、整髪料片手に風呂場のタイマーを叩く。この際にシャンプーがこぼれていたり、流し残りがあったり、足元を揺るがす何らかの障害があった場合、かなりの大惨事になるので日頃から心得ておかなければならない。とはいえ、実際は一瞬の動作だ。気を付けるも糞もあったものではないが。
先程の騒音で同居人たちの一日も始まる。本人達も毎日毎日騒々しく起こされて苛々しているかもしれないが、文句を言ってくるわけではないのでその辺は放っておこうと思う。
まずは佐藤さんだ。現在俺のふくらはぎ辺りに頬擦りをしている。もっとも、昼間はクールで寝転がっているだけの怠け者なのだが、起きたてばかりは違う。一日の中で一番愛くるしい表情を見せ、甘い鳴き声で俺の足を台所へと誘導する。残念なことに夕飯の時はいつものむんずり面なので、今の内に堪能しておかないと後悔する羽目になる。この辺りも出来れば歯磨きをしながら進行できれば尚望ましい。というか、そうしないと色々な部分に支障をきたすので、そうしよう。
ここらで、小さく「オハヨー」の声が聞こえるはずだ。聞こえない日も少なからずあるが、佐藤さんに負けず居間に戻ることを優先しなければならない。帰宅時、「ダイキライ」だの「アッチイケ」だの言われると地味に落ち込むからだ。言われてから初めて気付くこともあるのだと、俺は経験上から語ろう。蛇足だが俺はその夜泣いて過ごした。勿論佐藤さんからは励ましの声も慰めの声もなかったが。
黒いカーテンに覆われた鈴木さんの部屋へ近付き、驚かせないようゆっくりと、慎重にその布を避ける。元気のいい「オハヨー」が聞こえたら、こちらも優しく返してあげよう。それだけで鈴木さんの機嫌はかなり上昇する。鈴木さんはどちらかと言ったら甘えたな性格だが、朝は格段と可愛い。ただ、ここで眺めたまま癒されてしまうと何もできないので、肩に乗せて台所へ移動する。まだ歯ブラシを咥えっぱなしなので、うがいも含め置いていくのがベストだろう。もしも鈴木さんが歯ブラシへと乗り移り、流し台の中に落ちるような惨劇があったら、もう俺は立ち直れないだろう。
俺の分はいいとして、朝飯だ。二人ともご飯を求めている。愛する二人のためにも、作らねばならない。最重要事項そのニだ。
佐藤さんの分は簡単だ。缶詰めでいい。ここで注意したいのが、缶詰めの種類だ。いや、正確にはここで起きる問題ではない。要は、プルタブ式か缶切りで開けるタイプかの違いだ。今はプルタブ式の物も増えてきたが、値段が高かったりする。ここで、ふと周りを見渡すと、六個セットでニ九八円のありがたき缶詰め様が見つかるのだが、躍らせられてはいけない。近付いて、側面を返す。すると、どうだろうか。それはきっと缶切り式だっただろう。値段につられて買ってしまうと、この段階で時間を消費してしまう。そこにニ、三十円足して、プルタブ式にしておくのが安全だ。
佐藤さん用のお皿に移し終わったら、足元へ置く。佐藤さんは元より俺の足元にいるはずなので、特に呼ぶ必要もない。
そして、鈴木さんの分だ。これが少しばかり面倒なのが現状だ。水、主食、野菜、フルセットで渡さねばならない。そして部屋の掃除だ。下敷きを変えるだけなのだが、それもそれで手間がかかる。だが、その間、「ガンバッテ」とか「ダイスキ」とか耳元で囁かれる度、やる気ゲージは何度でも回復する。ここのチェックポイントとしては、ご飯の配置だろうか。もとあった場所にちゃんと置かないと、今まで築き上げた信頼が地へ落ちる危険性が高い。この後機嫌を取るのはかなり骨の折れる作業だと言える。その上、拗ねて引きこもられてしまうと、もうどうしようもない。次の日も「オハヨー」が聞こえなかったり、可愛らしい仕草が見られなかったりする。気を抜いてはならない。
そこまで順調にこなせば二つ目のアラームが鳴るはずだ。今度は携帯のアラームなので、自分の寝ていた付近を漁ると大抵すぐ見つかる。これで見つからない場合、スルーしてもよい。俺は決して携帯依存者ではないと自負している。単に料金が上がりそうで怖いだけなのだが、まぁ使わないに越したことはないだろう。今日は見つかったので持っていくが、実際弄る機会は無いに等しい。
時刻は五時四十分。本格的に急がねばならない。昨夜のうちに必需品を詰め込んだ鞄とよれよれの上着を手に取り、鈴木さんを気にしながら装着する。完了したら、鈴木さんは佐藤さんの背中に乗せてあげればいい。基本仲のいい二人は俺の帰りを仲睦まじく待っていてくれるだろう。今までもこうしてきたが、鈴木さんがご飯代わりになっていたという事例はない。とはいえその逆として、佐藤さんの頭がちょっと禿げていた、なんてことは過去に何回かあるので、鈴木さんの機嫌はしっかり把握しておかなければならない。
二人が玄関まで見送りに来てくれる中、俺は振り向きもせず自転車の鍵を探す。可愛い姿を見られないのはかなりの苦痛だが、26号が動いてくれないとなると、今までの努力がおじゃんになる。それだけは避けたい。2、3分で見つかるはずなので、いつもより早く見つかった時は、二人の雄姿を刹那的に眼球へと捉え笑顔で「行ってきます」と言う。二人の頭を撫でることができたなら、今日一日が幸せであったと断言していい。
挨拶を済まし、玄関の鍵(自転車の鍵と一緒に付いている)でしっかりと施錠をし、26号の発進準備をする。チェーンを外すだけなのでこれといった手間はないが、油断すると上手く外れなかったりして無駄な時間を食うことになる。心して取り組まなければならない。
今日も赤いボディーが輝いているぜ、26号。頼むな、全速力で運んでくれ。
漕ぐのは俺だがなぁ!
あくまでも謙虚に、だ。そして脳内の台詞は、間違っても口にしてはならない。不審者として通報される恐れがある。鞄を籠へと押し込んだらサドルへ飛び乗り、軽快に走りだす。
上り坂二つと、大きな下り坂が一つ。これらを越えても長い一本道が待っている。所要時間大よそ十分から十五分だ。時間帯的に歩行者は皆無に近いので、思いっきりスピードを上げて走る。だが、車は流石に走っているため信号には注意したい。轢かれると、思いの外、痛いのだ。痛みで済めばいいが、もしそれで二度と家に帰れないような事態になったら家で待つ二人が餓えてしまう。慎重に、慎重に、だ。そろそろこの愛車も修理に出さなければ不味いのだが、今は給料日前。少しばかり待っていてくれ、26号。例えお前のブレーキが動かなくても、俺は今日まで生きて来られている。
旋風の如く駆け抜けたあと、俺を待っているのは自動ドアだ。気前よく開いてくれるので、素直に通る。ここで不思議なモーションを掛けるのは、絶対によろしくない。ツンデレーションやらヤンデレーション等はいらない。スムーズに通過することをお勧めする。
食べたいパンをコンマ三秒で選び、パックの飲み物を適当に掴む。そのままレジへ直行し、おはようと言いながら会計を済ます。もう残された時間は殆どないので、変に絡んではいけない。
もう一度パンの売り場へと戻り、最寄の壁沿いにあるトイレの右隣、ぼろ臭い扉を押し開けば段ボールの山が聳えている。怯むことはない。左を見ればロッカーがあるのだ。そこに鞄を押し込む。上着も一緒に収納するので、出来る限り潰して押し込むのがいい。その際、鞄からジャンパーを引っ張り出しておく。皺だらけだが、気にしている余裕はまずないだろう。
そこまできて、朝食だ。先程買ったパンを手際よく開け、味わう間もなく平らげる。出来れば、一緒に上着の収納及び圧縮も行えれば完璧だ。咀嚼しながら、先程取り出したジャンパーを羽織り、飲み込みながらチャックを閉める。最後にロッカーを閉めれば、準備は万端だ。
寝癖は付いていない。服装に乱れはないし、清潔感もばりばりだ。めやにも付いていない。よだれの跡もない。鼻毛も出てない。靴下も同じ色だ。社会の窓も閉まっている。
そしてレジへ向かう。
「はよーす」
「はよ」
夜勤の方はもうすぐ帰るので、特に絡む必要はない。先輩を押しのけて、ちんまりとした小部屋に向かう。トイレよりも小さく、可愛らしく見えるかもしれないが、決して妖精さんのお家などではない。メルヘン的要素は微塵もないと言って正しいだろう。
「はよーす」
「おう」
ヤニ臭いオッサンが一名、のみだ。萌え要素を求めてはいけない。正直に言えば、残念すぎる。ただ、あからさまに表現すると後々オッサンの機嫌が急降下するので、ぐっと耐えることだ。
こうして俺の朝は始まる。いつもの朝というか、とりとめて何の変哲もないが、コンビ二店員としての朝をお伝えしてみましたと、さ。
おしまい?
んなわけないでしょうよ。
とりあえず、
「いらっしゃいませー」