【1】 前方不注意
ガラスの靴、推定二十八センチ。
どういうシンデレラだと言いたいのをぐっとこらえ、その違和感の塊を検分する。造形は文句なしに美しい。が、一体これはどういうことなのか。僕は困惑して持ち主を見やった。
少女だった。
年端も行かない中学生ぐらいの少女だった。
ぶっ倒れていた。閑静な住宅街のど真ん中、その路上で。
かく言う僕もぶっ倒れていた。
あのガラスの靴は、まず間違いなく彼女の靴ではないだろう。僕と少女の間、その丁度真ん中あたりにそのでかいガラスの靴は転がっていて、僕と少女はお互いに鏡写しみたいに痛む箇所をさすったりなんだりしながらへたばっていた。
正面衝突、である。
なんでへたばっていたかといえば、それ。正面衝突。曲がり角の出会い頭に僕と少女が正面衝突したのだった。
僕は恐らく学生であろう少女の出で立ちを観察し、そして、ぶつかる前までのことをなんとなく思い出すことにした。
……しばらく立ち上がれそうにないし。
なんでかって、身長差だ。衝突の際、わざとではないのだろうが、僕は鳩尾に全力のロケット頭突きを喰らっていた。
*
ところで回想である。
なんの変哲もない住宅街を目的もなくブラブラと歩き回ることを人は徘徊と呼ぶ。僕は散歩と称してその何の変哲もない住宅街というやつを徘徊していた。
……とはいっても、徘徊を楽しんでいたわけではない。これでも立派な理由があって徘徊していたのだ。
晴天。日曜日。快晴とまでは行かないけれど、それなりにはっきりと晴れた、天気のいい、景気のいい日だ。
景気、ね。なんてすれた溜め息をつく。
悩まなくてもいいような当たり前の事を僕はうだうだと悩んでいた。
どんなことかといえば、『このまま要領よく嘘や建前を使いこなして世の中を生きていくって事でいいんだろうか』とかそういうことだ。
まあ、そんなことだ。いや、そんなとこだ。
普段ならば「当たり前じゃんか」と笑いながら切り捨てるような議題である。
でも、最近、ちょっとした事件があって良心が少し目を覚ましたからそのために少し悩むことになった。寝起きの良心さんはすこぶる機嫌が悪いらしく、僕はその良心に頭を抱えているというわけだ。
具体的に言えば、良心と嘘の問題。
自分が生存のためにまるでドミノのように並べ立てまくってきた数々の気の利いた嘘がたくさんある。自分が為してきたそれらを自分自身の良心が許そうとしない。でも、嘘をつかないと生存できない。
生存というのは社会の波に呑まれないで生きていくこと。そのためには気の利いた嘘がたくさん必要なのだ。食事からおいとまする時とか。学生時代に遡るなら宿題の答えを写したりすることだとか。ズルや嘘を重ねないと生きていけないってこと。
たいそうな言葉を使ってみればいわゆる業ってやつである。
かっこいい言葉を使ってみればいわゆるカルマってやつである。
簡潔かつ抽象的な言葉を使ってみればいわゆる良心の呵責ってやつである。
そういうわけで、僕はそんなことを考えながらボーッと歩いていた。
考えてみるとこれがなかなか頭を悩ます問題だった。昔の自分はどうやってこの悩むべき悩みをねじ伏せたのか、今までの僕はどうやってこの悩むべき悩みを悩まずにこれたのか。思いだそうとしても思い出せないのだ。
ふと手が自由になったときに今までどこに手を当てていたかが思い出せないのと同じように、馴染んで当たり前レベルまでに染み込んでいたその答えは思いだそうとしてもどうにも思い出せないのだ。
その良心と生存にまつわる重大な議題について考え終えなければ僕はこの休日を終えても社会には戻れないだろうと思った。それに対して恐怖さえしている。何かから逃げるように、追ってくる何かをまこうとするかのように、答えが出ないまま僕は早足でぐるぐると町を歩いている。
こんな町を歩いていても答えは落ちていないのだけれど。もし答えが落ちているのだとしたら世の中の人はみんなこの町を歩き倒すだろう。カーバ神殿みたいに。違うか。
まあ言わずもがなだが、僕は何かを捜しているわけじゃなくて、ただ考えごとをするために歩いている。
とにかく良心が現実を許さない。そうなったら僕は社会に不適合になってしまうだろう。さながら海に飛び込んだ川魚のように、あれ、川に飛び込んだ海魚だったか。まあ魚の喩えはどちらでもいい。尿量の違いとかそういう問題ではない。浸透圧だ。とにかく川だろうが海だろうがどちらにせよ僕は破裂、いや、破滅する。
だから、この週末中に良心をどうにかしなければ。
そうやってぐるぐると考えていたらあっと言う間に昨日が終わった。週末というのは長そうに見えて意外と短くて、もう下り坂をラストスパートで全力疾走していらっしゃいやがる――
――のだ、とか思っていたときだった。
その少女が全力疾走していらっしゃいやがったのは。
爆走である。
前傾姿勢のガンダッシュである。
本気である。
町中なのに……。
閑静な住宅街なのに。
角からふらりと出てきちゃった僕は驚きのあまり体ごとそっちを向いて、そのまま固まってしまった。
避けようと思ったけれど体が動かないんじゃあ意味がないし、どちらにせよもう遅い。
無防備ながら空きの胴体にロケット頭突き。
鳩尾を小顔な頭に貫かれて僕はあえなく宙を舞った。人に轢かれるのは初めてだなあ。とか思っていたような気がする。車にだって轢かれたことはないというのに。
無慈悲だった。何が無慈悲なのかわからないが。
そんで、その僕と一緒に宙を舞っていたのは、少女が持っていたらしい、一足のガラスの靴だった。
でかい靴だった。
*
回想終わり。である。
上体を起こした僕は装備に欠けがないかとかをサッと確認して、向こうの様子を改めて見た。
少女はとっくに立ち上がっていたらしく、僕の横に立ってこちらを覗き込んでいた。
「えっ、とぉ……す、すみません。……大丈夫ですか?」
首を傾げ、手をさしのべてくる少女。常識はあるらしい。僕はその手をやんわりと断って自力で立ち上がる。腹に力を入れて痛みを押し込める。
立ち上がってみると僕と少女の身長差がよくわかった。百六十センチはまずない。顔立ちもやや幼い。やはり学生だろう。しかし何故ダッシュしていたのか。トレーニングならそれ用の施設だってなくはないだろうに。わけありというやつかもしれない。
僕の目はつい癖で少女の装備を観察していた。アッシュグレイのワンピースの下から紺のボディスーツに絞られた細い脚が覗いている。ワンピースのふんわりしたシルエットを腰でこれまた紺のベルトがきゅっと引き締めている。紺とグレイで統一した装い。ちゃっかり流行のブレスレットを付けたりしているけれど、自分に似合う服を選んで着ているらしい。
そのベルトには銃が二丁、提げられていた。最近導入された安価で使いやすい、学生がよく利用するモデル。恐らく片方は予備で、普段は片方だけ使うのだろう。そんな汚れ方。無難な選択だ。
頑固に剣を振り回すのは僕のような年寄り(まだ三十にもなっていないが)ぐらいで十分だ。時代と共に剣から銃へ現実的に切り替えていくのは賢明だと思う。
僕もそれなりに常識はあるつもりなので少女に声をかける。
「そちらも、怪我はないかい」
「大丈夫です」
営業スマイルのような人付き合いスマイルで彼女は微笑んだ。
落ちていたガラスの靴を拾ってやろうとかがんだら、少女は慌てたように素早く回り込んできて靴を持ち上げた。
ん?
少女の若干失礼な行動に少しムッとしたけれど僕は一瞬で笑顔を作る。空気を壊してはいけない。和を重んじなければ。
「すみませんでした。不注意で」
「いやいや。こちらこそ」
僕と少女はお互いに似たような笑みを浮かべながら一通りペコペコした。生きやすそうな、人当たりのいい子である。
しかしそこで僕は一瞬動きを止めた。
何だろう…………何か、来る。
僕は通りの向こう――少女がやってきたのと同じ方向――から物凄いスピードでやってくる人型の何かを見つけ、それを指さした。
「…………ところで、さ」
「はい?」
「あれは、何?」
僕は腰の剣に手をかけながら、訊いた。
*
少女は僕の指さす先を見てぽかんと口を開け、言葉を漏らし始めた。
「あ……」
あ?
「お、おに……」
鬼?
「おに……おに…………」
鬼ですか。この閑静な住宅街に鬼ですか。確かにすんごいダッシュですが、あれが鬼ですか。へえ、そうですかそうですか。鬼ですか。僕も初めて見ますよ。へえ、鬼、鬼ねえ……。
腰を沈める。
どうみても全力ダッシュでやってくるそれは人間なのだが、あれがいわゆる鬼というものなのならばさぞかし手強い相手に違いない。油断してはならないな。うむ。剣をさらにしっかりと握り直し、唾を飲む。間合いをはかって最善で飛び出そう。だから――
「おに……おに……お兄ちゃん!?」
「お兄ちゃん!?」
……人の話は最後まで聞こう。
鬼ではなくて、お兄ちゃん。じゃあ、道の向こうからなにやら叫びながら爆走してくる彼は少女の兄か何かなのだろう。そうじゃなきゃただの不審者だ。
……そうでなくても十分不審者だが。
確かに髪の色は二人とも灰色。血が繋がっているのかもしれない。
で、その兄が跳び上がった。
で、少女をぶん殴った。
ちょっと予想外。
少女の方はとっさに腰を落としてガードを取ったみたいだが、思い切り体重の乗ったパンチはそれじゃあ防げない――
――はずだった。
「痛っ!?」
パンチが当たる直前、なんだか金属音のようなものがかぁんと響いて、兄らしき人物がその場で跳び上がった。そしてどさりと着地――というか不時着というか――して、拳を押さえてうずくまる。
きっと少女は篭手のようなものを付けていたのだろう。でもまあ、そういう世の中だ。紺の八分パーカーの下にそんなものが入っていても別におかしくはない。厳しく見積もらないと痛い目を見る。
少女は、兄らしき人物に吐き捨てるように言った。
「ゴミ兄貴。間抜け。アホ。死ね」
へ?
耳を疑った。
目も疑った。彼女、横顔がすごくえげつないことになっている……。豹変である。
でも一瞬後には少女はくるりとこちらを振り返って優しい笑顔で僕を見た。
「あ、すみません。ちょっと家の事情で色々あってこんなことになってるんです」
世渡り上手というか、和を重んじるというか、なんというか。
「そっか……」
若干呆れる。
「さっきはすみませんでした。それに今も。色々とお騒がせしてしまって……」
「いや、いいんだけどさ」
ちゃんと応対する彼女となんだか適当に返事をする僕。ゆらりと立ち上がる鬼お兄ちゃん。
少女はなんだか僕を追い払うように話を終わらせようとしているように見える。家庭の事情なので踏み込まないでください的な感じ。
鬼お兄ちゃんは少女に、なかなか無遠慮に「その人は誰だ」と訊ねて、それの答えを待たずに「おまえはなんでここにいるんだ」と少女に問った。
「この人はさっき私が……」
遮るように鬼兄。
「なんでここにいるんだよ。靴持ってさ」
靴……もちろん、履いている灰色のスニーカーのことではないだろう。さっき彼女が抱えあげた、あの、でかいガラスの靴。あの靴がどうかしたのか。何かあるのか。
兄の問いに少女はもごもごする。
「それは……その、でも今は人がいるからさ、後で話そ」
鬼お兄ちゃんはそれを聞いて少し考えるそぶり。なんだか真っ直ぐな少年だ。
「いや、うーん…………そうだな」
結局うなずく。正論には抗えないらしい。二人の小声な話し合いが続いていて、その場を離れていいのかよくわからない僕は適当に視線をさまよわせた。で、気が付くと僕は少年の剣を見つめていた。何かが頭の中でひっかかっていた。使い込まれて傷だらけになった鞘とボロボロのグリップが巻かれた柄。鬼お兄ちゃんは少女より一個か二個年上といったところだが、体格はしっかりして鍛えられていた。やはり、何かが頭の中でひっかかっていた。
そして僕は、少女が「じゃあ、失礼しました」と言って去ろうとしたのを
「待ってくれ」
と引き留めてしまったのだ。