第5話 ドアマット幼女とダグラスさん
皆さま、こんにちは。
エルシャ・グリーンウッド六歳です。
目が覚めたら、西区八番街警ら隊詰所の仮眠室にいました。太陽はすでに真上近くにあります。
わたしは、ダグラスさんに抱っこで運ばれながら、その腕の中で泣き疲れて眠ってしまったみたいです。しかもかなりのお寝坊さんです。さすがに恥ずかしいです。
起きてすぐにダグラスさんが、温めたミルクを持って来てくれました。そしてカップの中に、はちみつ飴をひとつチャポンと入れてくれました。
「熱いが……飴が溶ける頃には、ちょうど飲み頃だ」
ホカホカとカップから上がる湯気を眺めていると、窓から通りを歩く人の声が聞こえて来ました。物売りがお客さんを呼ぶ声や、犬の鳴き声も聞こえます。
もうここは、屋根裏部屋じゃない。
不思議と現実感が薄いです。もう一度目が覚めたら、変わらない日々がはじまるような気がします。
次第に湯気に、はちみつの匂いが混じりはじめました。ダグラスさんを見上げると、うん、と頷いてくれました。もう飲んでも良いようです。
はちみつ風味のミルクは、ほのかに甘くて美味しいです。ですが、温かいものが入ったわたしのお腹は、早速活動をはじめてしまいました。
キュルキュルキュルキュルっと、やけに長く鳴りました。温かいミルクを喜んでいるみたいな音でした。滅多にないことですからね。
その音を聞いて、ダグラスさんがほんの少しだけ口角を上げました。その変化が見て取れたのは、ドアマット幼女の悲しいサガでしょうか。
あの家では人の表情に敏感でなくては、余計に酷い目にあってしまいましたから。
そういえば、ダグラスさんの表情が緩んだのは、はじめて見た気がします。ヒゲモジャラだし、どちらかというと『コワモテ』と称されてしまうお顔です。小さな子供は泣いてしまうかも知れませんね。
でもわたしは平気です。笑いながらムチを振り上げる後妻の顔は、もっとずっと恐ろしかった。
せっかく出られたのに、あの家のことばかり思い出してしまいますね。今はわたしの身体が、生きることに前向きだと、誇るべき場面です。
「もうすぐ君の診察をしてくれる医者が来る。何か食べてから着替えよう。本当は風呂に入れてやりたいんだが、ここにはなくてな」
「着替え……は、ないです」
わたしは何も持たずにあの家を出て来たのです。替えの服など、ある筈がありません。
「年の離れた妹がいる部下に、見繕って持って来てもらった」
ダグラスさんが紙袋を渡してくれました。中には秋らしい、芥子色のチュニックと膝丈のスカートが入っていました。靴下と少し草臥れた革靴もです。
「その部下が『妹はもう着られないサイズの物だから、もらってくれると嬉しい』と言っていた」
ありがたく甘えることにしました。今のわたしは、スラム街の家のない子供よりも酷い有様です。
ダグラスさんが一度部屋を出て、トレーを二つ持って戻って来ました。お湯でギュッと絞った熱いタオルと、正方形の小さなサンドイッチが、それぞれのトレーに山盛りです。
お腹は空いていましたが、先にタオルを使うことにしました。身体と髪の毛を丁寧に拭います。
うわぁ……気持ち、いい……!
思わず声が漏れました。
走馬灯の知識によると、こういう時には『はぁー、極楽極楽』と言うみたいですよ。
ちなみにダグラスさんは部屋を出てくれています。昨夜は大勢の人の前でワンピースを脱いだりしたけれど、慎みがないわけではないのです。
タオルを使い、頂いた服に着替えてからサンドイッチを手に取りました。茹でたまごと、ハムの二種類です。両方ともにキュウリが入っています。
えっ? サンドイッチ伯爵? 幼女なので何のことか分かりません。
白くてふわふわのパンです。パンにはバターが塗ってあります。食欲をそそる匂いに、唾液が口一杯に湧いて来ました。
これ、食べても良いのでしょうか……。
サンドイッチと睨めっこをしていると、ダグラスさんがタオルを回収しに来ました。
「どうした? 違うものの方が良いかい?」
「いいえ! いいえ! これが……食べたいです……」
つい大きな声を出してしまいました。ダグラスさんが取り上げたりしないことはわかっているのに。そんな意地悪をするのは、後妻の娘くらいのものです。
「いただ、き……ます」
パクリと噛みついた途端に、甘辛いグレイビーソースのからんだ茹でたまごの黄身が、口の中にほろりとこぼれました。
そこからは、もう夢中でした。
淑女の慎みのギリギリを攻める食べっぷりです。噛むごとに、飲み込むごとに涙がこぼれました。何だか、色々なものに腹が立って仕方がありません。
身体をきれいにすることが出来て、清潔な服を着て……わたしが食べてもいい食べ物が目の前にたくさんある。
それらは全部、屋根裏部屋では望んではいけないことでした。欲しいと思えば思うほど、苦しくなる。
わたしは嗚咽を漏らしながら、サンドイッチを食べました。淑女の慎みなど、サンドイッチに比べたら何の価値もありません。
頭の中が、罵詈雑言で埋め尽くされます。とても口に出すことなど出来ない、汚い言葉です。
後妻とその娘は地獄に帰れとか、やっぱり父親の首を絞めてやれば良かったとか、いっそ屋敷に火を放ってやろうかとか。
でも、それよりも……何よりもサンドイッチが美味しいのです。罵られることなく、叩かれることなく食べて良いサンドイッチが美味しくて、美味しくて……。
「もっと……もっと早くに、助けに来てくれれば良かったのに!!!」
そうしてわたしは、あろうことか、ダグラスさんに謂れのない暴言を吐いてしまったのです。
言ってしまってから後悔しました。警ら隊の隊長のダグラスさんが、わたしが虐待されていることを知るすべなどありません。助けに来てもらえなかったのは、わたしがあの日まで、助けを呼ばなかったからです。
「ごめっ、……さい! あのっ!」
『陽だまりのエルシャ』の主人公ならば、絶対にこんなことは言わないでしょう。彼女は9年間も続くあの地獄を乗り越えたのですから。
謝罪を続けようとしたわたしを、ダグラスさんの大きな手が抱き寄せました。
「すまなかった。気づいてあげられなくて、すまなかった。助けに行くのが遅くなってすまなかった」
ふわりと抱きしめて、背中を撫でてくれます。
「間に合って良かった。生きていてくれて良かった」
酷い八つ当たりをしたわたしを『助けを呼べてえらかったな』と褒めてくれました。
ここが『陽だまりのエルシャ』の物語の中の世界だと気づいた時に、わたしは絶望しました。
こんな世界に生まれたくなかった、と。
ですが、ダグラスさんのような人がいるならば、この世界もそう悪くはない。
生きて、大人になって、『陽だまりのエルシャ』よりも、ずっとずっと幸せになってやる。
そうして『ざまぁ見ろ!』と言って、父や後妻の前で、高らかに笑うのです。
とは言え、わたしの涙は一向に止まらず、ダグラスさんの背中にしがみついて、診察の為に来てくれたお医者様を困らせてしまったのです。
羞恥と自己嫌悪で、穴があったら入りたい。そして蓋をして閉じこもりたい。エルシャ六歳、そんな心境です。
読んで頂きありがとうございます。
ダグラス・リードさん。西区八番街警ら隊長、実はちょっと訳ありのヒゲモジャラ三十二歳。本作の1人目のヒーローです(意味深)。
明日の投稿は19:10、『第6話 ドアマット幼女と取り調べ官 その壱』です。少しでも興味を持ってくれた方、☆での評価と応援、よろしくお願い致します!