第2話 ドアマット幼女は屋根裏部屋から虐待を叫ぶ
皆さま、こんばんは。
エルシャ・グリーンウッド六歳です。
家人が寝静まるのを待ち、足音を忍ばせてキッチンへと向かいます。今のわたしでは、気力も体力も足りません。何か食べ物を探しに行くのです。
実のところ、キッチンへ忍び込んでの盗み食いなど、簡単に出来ることなのです。ただし、後先のことを考えなければ……という注釈が付きます。
盗み食いをすれば、必ず使用人から後妻に伝わります。以前、夜中にりんごを食べたことがありました。
次の日の朝、酷く叩かれた上に、一日中何も口にすることを許されませんでした。でも……。もう良いのです。明日のことなど考えなくて良いのです。
わたしは今夜、この家を出るのですから。
それでも見つかったら、作戦に支障が出るかも知れません。慎重に、息をひそめて歩きます。床がギシリと音を立てるたびに、わたしの心臓も小さく跳ね上がりました。
真っ暗なキッチンを手探りで進みます。奥の戸棚に瓶詰めの果物がある筈なのです。
「あ、あった……」
囁くように小さく呟いてしまいました。ネズミのように小さい声です。きっと誰にも聞こえていません。瓶詰めを、そうっと取り出してポケットにしまいます。
テーブルの上のバスケットの中に、硬くなったパンもありました。きっと明日のティータイム用にラスクを作る予定なのでしょう。それもポケットに入れて、屋根裏部屋へと戻りました。
暗闇の中、瓶詰めの蓋を開ける『カポッ』という音が響きます。わたしはこの音と感触が大好きで、母様が生きていた頃は、瓶詰めを開けるのは必ずわたしの役目でした。
だから固い蓋は、スプーンで叩けば簡単に開くことも知っているのです。
今はもう、遠い昔のことのように感じます。あの頃はこんな生活など、想像することもありませんでした。
この家で過ごす最後の夜だと思うと、少し感傷的になってしまいます。楽しいことだってあったのです。母様が元気だったころは……。
ゆっくりとよく噛んでパンと瓶詰めの柑橘類をお腹へと収めます。
食べ物は人間にとって、正しく燃料なのですね。ひと口ごとに、負けるもんかという気力が湧いて来ました。
作戦もじっくり練ります。
わたしに出来ること、無理なこと、利用出来る物、予想出来る周囲の反応、自身の安全を確保する方法……。
走馬灯で得た知識と、もたらされた視点を総動員します。もちろん、ドアマット幼女としての経験も大切です。
しばらく休んだら、いよいよ作戦開始です。
まずは屋根裏部屋に登るための取り付け型のハシゴを、部屋の中へと引っ張り上げます。
幼女の腕力では大仕事ですが、わたしには途中で投げ出すという選択肢などないのです。
シーツをハシゴに括り付けて、綱引きのように少しずつ引っ張ります。音がしないように毛布を噛ませてあります。おーえす、おーえす、がんばれエルシャ!
次に部屋の隅にあった、古い本棚と底の抜けかけたベッドで入り口を塞ぎます。これからのわたしの行動を、邪魔されない為です。
かなり大きな音がしてしまいヒヤヒヤしましたが、誰かが様子を見に来ることはありませんでした。真夜中に厄介者のためにわざわざ起き出す人間は、この屋敷にはいないのです。
正直、少し……いいえ。とても怖いです。成功する保証など、どこにもない。例え成功したとしても、たった六歳の身寄りのない子供となって、生きてゆける世の中ではないかも知れない。
けれどこの家で、人としての尊厳を捨てて這いつくばって生きるよりも、一歩でも踏み出してから倒れる方が余程いい。
深呼吸して息を整えてから、わたしは中身を取り出した木箱を、小窓に向かって思い切り投げつけました。
『ガッシャーン!』
大きな音を立てて窓ガラスが割れました。真夜中の静寂を破ったその音は、思いのほか清々しくわたしの胸に響きました。
それは反撃の狼煙であり、突撃ラッパの音でもあります。この舞台の幕開けとしては、なかなか上等な演出だとは思いませんか?
木箱はバキバキと木の枝を折りながら中庭の花壇へと落ち、木っ端微塵に砕けました。
さあ、反撃開始です。突撃します!
「助けて下さい! 助けて下さい! わたしはエルシャ・グリーンウッド、六歳! この家の全ての人間に虐待されています!!!」
わたしは窓から身を乗り出して、声の限り叫びました。
「父親の名前は、エドワード・グリーンウッド! 後妻のキャサリンとその娘エミリーに毎日暴力を振るわれています! 今日はキャサリンに紅茶を頭からかけられて、ティーカップを投げつけられました! エミリーには背中を蹴られて手のひらを踏まれました! 父親のエドワードは、ため息をついて見ていました!」
わたしの叫び声に、いくつかの家に灯りが灯ります。よし、イケる!
「助けて下さい! 助けて下さい! 誰か警ら隊を呼んで下さい! お願いします! 助けて下さい!」
このまま助けが来なかったら、この騒ぎを起こしたわたしを後妻は許さないでしょう。名指しされた父親も後妻の味方をするかも知れません。
もう、後戻りは出来ません。戻るつもりは、毛頭ありません!
「一日に一度しか食事をもらえません! 使用人の食べ残しのスープだけです! 熱を出しても倒れても、医者を呼んでもらえません! このままでは殺されてしまいます!」
使用人が起きて来て、塞いだ入り口を何かで叩きながら『叫ぶのをやめろ!』と怒鳴っています。
「下男のジョンが来ました! 後妻のキャサリンの愛人です! 捕まったらまた蹴られます! 閉じ込められてしまいます! どうか早く警ら隊を呼んで下さい!」
後妻の金切り声が聞こえます。不貞がバレて癇癪を起こしているようです。後妻の娘の泣き叫ぶ声も聞こえます。『学校へ行けなくなる』と言っています。わたしは庭へすら出してもらえていません。
「使用人のリサは、わたしが殴られるのをいつも笑って見ています! アンナは自分の仕事をわたしに押し付けて遊んでいます!」
父親も来たようです。『やめろ! 降りて来い!』と怒鳴っています。
「父親のエドワードが『やめろ』と怒鳴っています! 半年ぶりに声をかけられました! わたしが後妻のキャサリンに殴られても、エミリーに蹴られても、一度も庇ってくれなかった父親の名前は、エドワード・グリーンウッドです! 母が死んで半年で浮気相手を後妻にした父親の名前は、エドワード・グリーンウッドです!」
恨み骨髄の父親の名前は、何度も叫んでやります。『陽だまりの……』と称される主人公と、今のわたしの行動は程遠いのでしょう。ですが、叫ぶごとに気分が晴れやかになってゆきます。
『黙れ! 性悪め! なんてやつだ!』と父親が怒っています。
性悪……当たり前ではないでしょうか。虐げられれば心は歪むのです。物語のエルシャが真っ直ぐに育ったのは、フィクションだからです。
真夜中にも関わらず、近所の人が屋敷の前に集まって来ました。門番が起きて来て対応しているのが見えます。そのうち誰かが警ら隊を呼んでくれることでしょう。
まだまだ叫ぶことは山ほどあります。
わたしは警ら隊が保護してくれるまでの二時間。屋根裏部屋の窓から虐待の詳細と、この家の全ての人間の醜聞を名指しで、声の限り叫び続けました。
読んで頂きありがとうございます。
早々にタイトルは回収しましたが、物語はまだまだこれからです。次話からは新キャラも登場して、短篇とは少し違う展開になってゆきます。続けて読んで頂けると嬉しいです。
『第3話 ドアマット幼女と警ら隊 その壱』は本日の10:40に投稿します。続きが気になる方は、ブクマや☆での評価応援、どうかよろしくお願いします!
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