第10話 ドアマット幼女と辺境への旅立ち
皆さま、こんにちは。
エルシャ・グリーンウッド六歳です。
おばあ様からの手紙が届いてから三日がたちました。わたしの体調は回復しています。ですが、ダグラスさんたち警ら隊の捜査の結果は、芳しくはありませんでした。
母様の遺言状や日記は見つからなかったのです。
母様の部屋は後妻が使っていて、好き勝手に振る舞っていましたから、あの人が『要らない』と判断した物は、処分されてしまったようです。
あの人が母様のアクセサリーやドレスを自分の物のように身につけているのを見るたびに、吐き気がするほど嫌でした。
エバンスさんに聞いてみましたが、家長である父が認めているので、窃盗ではないと言われました。わたしの私物を、後妻の娘に取られてしまったのも、同じだそうです。
けれど、エバンスさんはグリーンウッド邸へ戻れと言わなくなりました。提出した『エルシャの虐待日記』を読んで、命の危険を認めてくれたようです。……嫌な名前の日記ですね。
虐待された子供が親元へ帰らない場合は、他の親族や縁のある大人に引き取られたり、国や教会が運営する養護院へと入るそうです。養護院は事情のある子供や身重の女性を保護する施設です。
本来、家族間の虐待案件は関係者の聞き取り調査が終わった段階で、役所の養護院や貧民救済を担当する部署へと引き継がれるのだそうです。
エバンスさんは犯罪を担当する取り調べ官です。
ですが、エバンスさんが捜査の継続を決めてくれました。わたしが伯爵家の跡取りの総領娘であることや母様が亡くなっていること、それを祖父母に隠していたことで、何らかの犯罪の疑いありと判断したからです。
そして警ら隊長であるダグラスさんが、辺境の祖母のもとへ捜査員として向かうことになりました。
「ダグラスさん、わたしも連れて行って下さい! お願いします!」
今度はしっかりと最後まで言えました。
西の辺境は遠いです。この街から汽車に乗って港のある街へ行き、そこからは船旅です。船を降りてからも馬車でいくつもの街を越えなければなりません。お金も時間もたくさん必要なのです。
わたしは幼女なので、乗り物運賃や宿代は無料(ものによっては半額)ですが、それでも足手まとい以外の何物でもありません。
「急ぐ旅だし、経費もそう多くは出なかったから、楽しい旅にはならないかも知れないが……」
わかっています、わかっています! ダグラスさんの負担ばかりが大きいです。けれど走馬灯から、目覚まし時計の音が聞こえるのです。ドアマット幼女の本能が『行け!』と叫んでいるのです。
それに、おばあ様の具合は相当悪いらしいのです。この機会を逃したら、きっともう会えません。
「わたしは邪魔にはなりません。ごはんも寝る場所も、ほんの少しで大丈夫です! だから、だから……わたしも連れて行って下さい!」
沈黙が流れます。ダグラスさんが良いと言うまで、頭を上げないつもりでした。
でも……こんな無理を言ったら、嫌われてしまうでしょうか? そうしたら……どうしたら良いのでしょう。ダグラスさんのような人にまで嫌われてしまったら、わたしは……。
「エルシャ、こっちを見ろ。そんなことを言っては駄目だ」
怖くて目が開けられません。言ってしまった言葉を全部取り消して、『良い子でおるすばんします』と言った方が良いのでしょう。でも……、でも!
ダグラスさんが、わたしの頬を両手で包んで上を向かせてくれました。
「行こう。一緒に行こう。エルシャの初めての旅だ。同行出来るなら俺が光栄なくらいだ」
太くて硬い指が、涙を拭ってくれます。わたしはこの優しい人に、どう報いたら良いのでしょう。
そこからは大忙しでした。旅も、その準備も初めての経験です。
往復二週間の長旅ですが、着替えなどはそう多くは必要ありません。ワンピースを1枚、寝巻きを1セット、ズボンとチュニックを1枚ずつ。それから肌着を2セットと靴下。
衣類に関しては足りない物はないのです。妹さんや娘さんのいる警ら隊の方々が『不用品』だと持って来て下さった物がたくさんあります。古着などと呼べないくらい状態が良いものばかりです。
肌着はダグラスさんのおばあ様が、手ずから縫って下さったものを持って行きます。小さな赤いリボンが付いていて、とても可愛らしいのです。
ダグラスさんのおばあ様には、何度かお風呂を借りに行った時にお会いしました。あまり似ていない二人ですが、瞳の色は同じヘーゼルです。
旅立ちに際して、ダグラスさんが編み上げのブーツと大きな肩掛けカバンを買ってくれました。
ブーツはピカピカの牛革で、肩掛けカバンは丈夫な布製です。警ら隊の人たちはタオルと雨合羽をくれました。
「具合の悪いおばあさんに会いに行くんだよな? 状況は状況だけど、エルシャちゃんの初めての旅なんだ。楽しんでおいでよ!」
そう言って、道中のお小遣いをくれた方もいます。
お医者様のハドソン先生は酔い止めのお薬と、飴を小さな巾着袋にギュウギュウに詰めて渡してくれました。屋根裏部屋で初めて会った時に、ダグラスさんがくれた黄色い縞模様の飴です。
「酔い止めは、船に乗る前に必ず服用すること。それから旅行中だからといって、不規則な生活はいかんぞ。水分補給を忘れずに、あと寝る前には歯を……」
ハドソン先生は少し口うるさいです。でも、わたしの診察が必要なくなってからも、何度も顔を見に来てくれたダンディなおじい様です。心配性なのです。
そしてなんとなんと! エバンスさんがツバ広の素敵な帽子をくれたのです。エバンスさんはわたしのことが好きではないと思っていたので、びっくりしてしまいました。
少しブカブカですが、リボンが付いていて顎のところでギュッと結ぶタイプなので、風が吹いても安心です。
「ダグラス隊長は仕事なのですから、邪魔にならないように。はしゃぎ過ぎてはいけませんよ」
エバンスさんは警ら隊本部の会議で、経費をもぎ取るために奮闘してくれたと聞いています。今日も神経質そうに、片眼鏡をクイッとしています。
肩掛けカバンが膨らむごとに、わたしの心もふくふくと膨らんでいった気がします。
グリーンウッド邸では、カチカチに心を硬くしないと潰れてしまいそうでした。大切なものなど、何もありませんでした。
それがどうでしょう。肩掛けカバンは、大切なものでパンパンに膨らんでしまいました。
大切なものが増えるのはとても怖いです。しっかりと抱えていても、取り上げられてしまう気がして不安になります。
わたしのドアマット人生は、今すぐに順風満帆とはいかないのでしょう。グリーンウッド邸には今も後妻とその娘が住んでいて、父親はわたしを連れ戻そうとしているのです。
でも、わたしは負けません。
空に浮かぶ雲のようにふくふくに膨らんで、優しい人たちの風を受けて、あの人たちの手の届かないところまできっと逃げてみせます。
それと……。
わたしはおばあ様に、話そうと思っているのです。『陽だまりのエルシャ』の物語の全てを。
おじい様とおばあ様に愛されて、エルシャがどんな風に大人になり、幸せになったのかを。
わたしが変えてしまった、もう叶うことのない未来です。そのせいで、おじい様とおばあ様の幸せを奪ってしまったのかも知れません。
そのことを、直接……伝えなければいけない。そう思っています。
少し重い肩掛けカバンを、お腹の前でポンポンと叩いてから、見送りの人たちに大きく手を振ります。
目指すは西の辺境、『陽だまりのエルシャ』の舞台のど真ん中です。
「行ってきまぁーす!」
こうして、わたしとダグラスさんの二人旅がはじまりました。
読んで頂きありがとうございます。二人は汽車、蒸気船、乗り合い馬車を乗り乗り継いで、辺境の地を目指します。そして毎日投稿ここまでです。週に2回くらいを目標に頑張ります。『第11話 ドアマット幼女と汽車の旅 その壱』は10/8の19:10に投稿します。
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