微かな光
朝の笛が鳴った。
耳をつんざく甲高い音が牢舎の奥まで響き渡り、透は重いまぶたを無理やり持ち上げる。全身は痛みの塊のようで、布団から起き上がるだけでも呻き声が漏れた。掌は裂け、血が固まり、ところどころ黒ずんでいる。昨日までで、すでに自分の体は限界を超えていた。
列に並び、作業場へ向かう。
鉄の扉が軋む音とともに開かれると、空気が変わった。汗と血と油が入り混じった、息苦しいほどの匂い。巨大な機械の稼働音が響き渡り、監視官の怒声がそれに重なる。受刑者たちは無言で工具を握り、ただ目の前の作業を繰り返していた。
透も工具を手に取る。が、すぐに痛みが走り、思わず工具を落としそうになる。監視官の視線を感じ、慌てて握り直した。
その瞬間、隣の列で「ガタン」という音が響く。ひとりの男が力尽き、鉄材の山に倒れ込んだ。監視官が駆け寄る。だが手を差し伸べるわけではなく、無造作に電撃棒を叩きつけた。身体が痙攣し、そのまま男は動かなくなる。
「……処分だ」
短く言い放つと、二人の係員が男の両腕を掴み、床を引きずって外へ消えていった。まるで人ではなく、廃棄物のように。
透は震えた。昨日と同じだ。また一人、消えた。
(俺も……いずれこうなるのか?)
頭の中でその未来が形を取る。いくらもがいても結局は力尽き、誰にも顧みられず処分される。それが、この場所の運命。
作業を続けながら、呼吸が乱れる。胸の奥に冷たいものが広がっていく。
「顔に出すな」
低い声が横から飛んだ。晴久だった。目は作業に向けたまま、口だけを動かしている。
「お前……」透が声を漏らす。
「ここで生き延びるなら、感情を出すな。監視官は、それを嗅ぎ分ける」
淡々とした口調に怒りが混じる。
「ふざけるなよ……昨日も今日も、人が死んでるんだぞ! こんなの……」
言い返そうとした瞬間、晴久の視線が鋭く射抜いた。
「お前はまだ三日しか生きてない。……それすら分からないのか」
その言葉に透は息を呑む。
三日。確かにそうだ。気づけばここに入って三日が過ぎていた。三日間、透は必死に耐え、そして今もこうして立っている。
けれど——。
「三日……生き延びれば、何か変わるのか」
震える声で問う。
晴久は少しだけ口を閉ざした。長い沈黙の後、低く呟く。
「生き延びた奴にしか、その意味は分からない」
それ以上は語らず、作業へと戻っていった。
透は言葉を失った。だが、心の奥に小さな棘のように残る。「生き延びた奴にしか分からない」。それは希望なのか、それとも虚無なのか。
昼休憩の時間、透は金属皿を手に並んでいた。支給された食事は冷えたパンとスープ。だが今日は、皿にパンが一つ余計に落ちた。配膳をしていた若い看守が、一瞬だけ目を逸らす。
(……今のは……わざと、か?)
透は息を呑む。周囲に気づかれないよう、そっと余計なパンを服に隠した。監視官は気づいていない。
午後の作業。透はそのパンをこっそり口にした。胃に落ちた瞬間、身体が少しだけ軽くなる。
(……生きてる)
その当たり前の感覚が、涙が出そうなほど嬉しかった。
作業場の片隅で、別の受刑者が倒れかけた。その時、もう一人の囚人が素早く手を伸ばし、工具が倒れないように支えた。監視官の視線を避けながら、ほんの数秒の助け合い。
倒れた囚人はすぐに持ち直し、何事もなかったように作業に戻った。
その光景を見て、透の胸に何かが生まれた。
(まだ……ここには人間がいる)
昨日までの透は、この場所をただの「死の牢獄」だと感じていた。だが今、わずかでも違う。誰かがパンを渡した。誰かが倒れた仲間を支えた。小さなことだが、それは確かに“人”の証だった。
夕方、作業場から戻るとき、透は足取りが少しだけ軽かった。もちろん疲労は極限に達している。それでも心の奥に、ほんのわずかな灯がともっていた。
牢に戻り、硬いベッドに横たわる。天井を見つめながら、透は思う。
(晴久が言った“三日”。……その意味、少しだけ分かった気がする)
生き延びた三日の先に、確かに何かがあった。人の温かさか、逃げ道の兆しか、それはまだ分からない。だが、絶望の闇に針の穴ほどの光が差したのは事実だ。
透は深く息をつき、目を閉じた。
(俺は……まだ死んでない。なら、もう少しだけ生きてみる)
そう心に刻みながら、四日目の夜が静かに更けていった。