逃げ場なんてない
翌朝、透は再び笛の音で叩き起こされた。
体は重く、全身が鉛のように軋む。睡眠はほんの数時間。まともに休まる暇もなく、彼は他の受刑者と同じように列を作らされ、作業場へと連行される。
通路の壁に埋め込まれた監視AIの赤い光が、隊列を歩く囚人一人ひとりをなぞるように動いた。透は思わず視線を逸らす。その光に捕らえられた瞬間、自分の存在すら数値化され、機械に管理されている錯覚に陥る。
(逃げ場なんて、どこにもない……)
胸の奥で膨らむのは昨日より濃い絶望感だった。
作業場に着くと、機械の轟音が耳を塞ぐ。昨日と同じ作業、昨日と同じ光景。しかし、透の視線は自然と囚人たちの数を数えてしまっていた。昨日、隣にいた男の姿がない。二日前に会話した老人もいない。
「また、減ってる……」
誰もそれを言葉にしない。ただ淡々と手を動かし、命令に従う。消えていった者の名前すら呼ばれない。
昼休憩。支給されたのは硬いパンと薄いスープだけだった。透は食堂の隅で座り込み、無言でそれを口に運ぶ。味を感じる余裕すらない。
向かいの席に晴久が腰を下ろした。無言でパンを噛みちぎり、冷たい目で透を一瞥する。
「考えているだろう。……どうして消えていくのか。」
低い声が投げかけられる。透は驚き、スープを持つ手を止めた。
「し、知ってるのか……?」
問い返す声はかすれていた。
晴久は一瞬だけ視線を落とし、パン屑を払うように言った。
「知る必要はない。ここでは知らないことが、唯一の生存術だ。」
その声音には確信めいた重さがあった。まるで「真実に触れた者は必ず消える」と告げているかのように。
食事を終え、午後の作業が始まる。透は工具を握りながらも、周囲の様子に敏感になっていた。汗を拭った若い囚人が、一瞬だけ手を止めた。それを監視AIが見逃さず、鋭い警告音を鳴らす。
すぐに監視官が現れ、その囚人を無理やり立たせ、列の外へ引きずっていった。必死に叫ぶ声が工場内に木霊する。
「違う!休んだんじゃない!俺は……!」
だがその声はすぐに途切れ、機械音に飲み込まれた。
透は目を逸らした。見れば自分まで壊れてしまいそうだった。
(ここでは、働けなくなった瞬間に“処分”される……)
昨日抱いた疑念が、確信に変わっていく。
夜。独房に戻された透は、薄暗い天井を見つめていた。
数日で囚人の数は確実に減っている。死体を見たわけではない。だが倒れた者、連れ去られた者が戻ってきたことは一度もない。
「やっぱり……これは刑務所なんかじゃない。能力者を消すための施設なんだ……」
震える声で呟いた。
隣の独房から、鉄格子越しに晴久の声が響いた。
「お前がそれに気づくのは時間の問題だったな。」
「じゃあ……本当に……」
「黙れ。」
鋭い一言が透の言葉を断ち切った。沈黙が訪れる。晴久はそれ以上何も言わず、ただ闇に紛れるように気配を消した。
透は布団に顔を埋めた。思考は恐怖に支配され、希望はどこにもない。ただ、数日後には自分も同じように消されるのではないか。その予感だけが脳裏にこびりついていた。
「逃げられない……ここから、生きて出ることなんて……」
声にならない呻きが、独房の冷たい石壁に吸い込まれていった。