愛してくれなくて大丈夫
ほぼ読み専からの投稿です
クラリス・フォン・レインハルトは、今日も黙ってジークハルト・ヴァレンティアの隣に立っていた。
舞踏会の夜会で彼女はただの飾りだった。ジークハルトは笑顔で他の令嬢と談笑し、軽やかに彼女たちの手を取ってはダンスフロアへ向かう。
「……もう、慣れたわ。これは政治の舞台だから」
誰にも聞かれないよう、クラリスは微笑のままつぶやいた。
けれど、本当は知っていた。
この“慣れ”は、感情が擦り減っていく音だった。
それは、二ヶ月半後のある夜のことだった。クラリスが体調を崩し出席できなかった舞踏会、
ジークハルトがリーナ・デア・シュトルツ嬢をエスコートし、記者がその写真を新聞に載せた。
そこには、“次期侯爵夫人とのお似合いのツーショット”という見出し。
――クラリスとリーナを記者が取り違えるほど、ジークハルトとリーナが親密に見えたということ。クラリスが婚約者として認知されてない証拠だった。
それでもクラリスは翌朝も笑顔で食卓についた。新聞を読んでいたジークハルトはさすがに気まずげに声を掛けた。
「体調はもう良いのか?」
「あなたが私の体調を気遣うなんて初めてでは?」
クラリスはナフキンで口を拭き、そしてにっこりと微笑み、こう言った。
「婚約を破棄なさるのなら、どうぞご自由に。私はどちらでも構いません」
その言葉は、ナイフのように冷たく鋭かった。
「……君が、そんなことを言うとはな」
「私も、あなたを“そんな人”だと思わなかったので」
彼女はもう、何も期待していなかった。
数週間後、王家の意向と家同士の都合によって二人の結婚は正式に決まった。婚約解消など許されない状況だった。
白銀の礼拝堂で挙げられた婚礼式は形式だけのものだった。
「ジークハルト・ヴァレンティア。あなたの妻として、与えられた役目を果たします」
それは誓いではなく、契約の言葉だった。
その夜から二人は侯爵夫婦となったが、寝室は別。会話も必要最低限。冷えきった日々が始まった。
結婚してからジークハルトはクラリスが屋敷の管理や慈善事業に取り組む姿をよく目にするようになった。
特に彼女が子どもたちに読み聞かせる姿は静かでけれど温かく、彼にとっては見たことのない“本当のクラリス”だった。
(あれが、俺が無視し続けていた女性だったなんて……)
嫉妬か、後悔か、自責か。心の奥にかつてなかった感情が生まれていた。
ある日、ジークハルトは、王都の社交クラブでリーナと再会した。以前ならその場で軽口を交わして笑い合っていたはずの相手だ。だが今、彼の心には別の想いがあった。
「最近、お会いしませんでしたね。奥様に閉じ込められてるのかしら?」
リーナは冗談めかして笑った。
ジークハルトは、ゆっくりと首を振る。
「……俺はようやく自分のすべきことが見えてきたんだ」
「あら。クラリス様と“本当の夫婦”にでもなろうと?」
「ああ。遅すぎたけど、今からでも遅くはないと信じてる」
リーナは少し驚いたように黙り込んだ。そしてふっと笑う。
「つまらない男にはなってほしくなかったけれど……案外、いい顔するようになったわね。せいぜい振られないように、頑張りなさいな」
リーナはそれだけ言い残し、ヒールを鳴らして去っていった。
その背中には未練はなかった。――かつての遊び仲間に戻ることも、もう二度とない。
ジークハルトは贈り物をし食事の席に必ず顔を出し、できる限りの言葉を投げかけるようになった。
「今日、庭にアーモンドの花が咲いていた」
「そうですか。花言葉は“希望”ですね」
彼女の返事は丁寧だが、感情は込められていない。
それでも彼はあきらめなかった。
「もう君に笑ってもらえないなら、せめて君の生きる世界を守る人間になりたい」
クラリスが高熱で倒れた日、ジークハルトは昼夜を問わず彼女に付き添った。
「君がいなければ、俺の人生は何の意味もない。…たとえ君が俺を愛していなくても、俺は君を守りたい」
クラリスの瞳が、わずかに揺れた。
「……昔のあなたなら、そんなこと絶対言わなかった」
それは、最初の“ゆるし”の兆しだった。
季節は春。再び舞踏会の夜。
クラリスの隣に立ったジークハルトは誰とも踊らず、ただ彼女に手を差し出す。
「俺と踊ってくれないか」
クラリスはためらいながらも、その手を取った。
「一度だけ。……試しに、ね」
その瞬間、二人の周囲に咲くアーモンドの香りが、ほんのりと漂った。
これは恋の始まりではない。けれど、確かに“再出発”の気配だった。