婚約破棄から始まる、ジャガイモ令嬢の優雅な畑生活
婚約破棄の手紙を受け取ったのは、昼下がりの紅茶を啜っていたときのことでした。
「うふふ、マリー(我が家の猫)。今日はどんな本を読みましょうか――って、なにかしらこの分厚い封筒」
「ルイ・ド・グランヴィル殿下から、お手紙でございます」
我が家の執事アルフォンスが運んできたその封筒は、王家の紋章が煌々と浮かぶ、実にご丁寧な一品でございました。いえ、封筒が立派なのはありがたいのですけれど、その中身がどうにもいただけません。
手紙の内容は、要約するとこうでした。
『急遽、隣国の姫君と政略的な縁談がまとまりました。申し訳ありませんが、貴女との婚約はなかったことにしていただきたく――』
ふむ、と私は思いました。
それだけ?と。
もっとこう、泣ける別れの言葉とか、君のことは今でも大切だとか、なんなら「だが、これは国のためなんだ!」的な苦悩の一節くらいはあるかと思ったのですが、見事なまでのビジネス文章。宛名の「エリザベート・ラザフォード嬢」の「嬢」が妙に他人行儀で、それが逆に笑いを誘いました。
「……ふふっ」
自然にこぼれた笑いに、マリーがびくりと尻尾を立てて睨んできました。ごめんってば。
とりあえず、その封筒はマリーの寝床に敷いて差し上げました。やや硬めが彼女のお好みなのです。
さて、こうして私は婚約者を失ったわけですが、周囲が思っていたほど落ち込んでなどおりませんのよ。というより、むしろ清々しい。なぜなら、あの方と一緒にいるときの私は、実に――窮屈だったのです。
思い返してみれば、
~殿下がいいと言うまで喋らない、歩くときは3歩下がって殿下に着いていく、食事のときは三口ごとに彼を見て微笑む~
などという謎マナー(※王妃様&マナー講師オリジナル)に縛られておりましたし、なによりルイ殿下は――面白みがない。
「君の今日のドレスは……うん、まあ合格だと思う」
「君の顔は……そうだな、平均より上だと思う」
「君の話は……女性としては短くて助かる」
なんでしょう、あの人。もしかして評価ノートでもつけているのかしら。毎回『良』とか『可』とかで採点されている気分でしたわ。
そんな彼と婚約解消ですって?
ありがたや~~!
さて、話はここからです。
婚約破棄された令嬢というのは、ふつうなら部屋に閉じこもって泣き暮らしたり、肖像画に釘でも刺してみたり、やたら風の強い日を選んで庭に佇んだりするものです。
ですが、私はといえば、翌朝にはスコップ片手に家庭菜園を掘り返しておりました。
「やっぱり、ジャガイモが一番育てやすいですわね!」
泥まみれの手袋をはめたまま微笑む令嬢が、かつて王妃候補だったとは、誰も思うまい。
でも、気づいてしまったのです。薔薇の香水の下で何かに縛られていた日々よりも、こうして土の匂いに包まれている方が、ずっと私らしいということに。
誰の評価もいらない。服の裾が汚れても、誰かの顔色を窺う必要もない。マナー講師の呪詛のような声からも解放されて――
「――ふんっ!」
土を一振りすると、まるまるとしたジャガイモが顔を出しました。ずっと、こういう風に生きたかったのかもしれません。
今の私は自由です。毎朝、土を触り、好きな色の服を着て、誰に評価されるでもなく、マリーと共に過ごす日々。
婚約破棄が、こんなにも私を幸せにしてくれるなんて。
あ、見てください。一昨日植えた種がもう芽を出している――人生も、こうやって始まるものなのですね。
そんなある日。
屋敷に奇妙な来訪者がありました。土埃のついた帽子に、日焼けした顔。背が高くて、声がやけに低く、そして無駄に爽やかなその男は、開口一番こう言ったのです。
「ジャガイモ、分けてもらえませんか?」
私の人生で、誰かがそんな直球でジャガイモを求めてきたことなど一度もありませんでした。
「あの……?どちら様ですの」
「お隣の男爵家の次男坊、リュカ・ベルティエです。あ、王都で農業指導士やってまして」
農業指導士。なんて響きの地味な職業なのでしょう。でも、その肩書きがなぜだか、今の私には金の冠よりも魅力的に思えたのです。
リュカは言いました。
「このあたりの土、硬いけど栄養ある。向こうの畑、もうちょい間隔あけたほうがいいですよ」
「まあ……あら失礼、つい感心してしまって」
彼は笑って、数個のジャガイモを土付きのまま持ち帰っていきました。
数日後、今度は人参と玉ねぎを手土産にやってきました。
「これ、うちの畑で採れたやつ。交換ってことで!」
以来、彼とは不思議な縁が続いています。作物の話ばかりで、とても恋愛の“れ”の字もない間柄ですが、気楽で、なんとも心地がよいのです。
父も最初こそ、「よりによって農業男とは何事だ!」と嘆いていましたが、リュカが土壌改良の相談に乗るたび、屋敷の庭が見違えるようになったのを見て、最終的には畑に出て鍬を振るようになりました。
母は……ええ、相変わらずため息ばかりですが、マリーが彼の膝で寝るのを見てからは、妙に目を細めるようになりました。猫の信頼は万能です。
それにしても――あのとき、婚約破棄されなければ。
私は一生、薔薇の香りのする金の鳥籠の中で、誰かの「良」や「可」を気にして生きていたでしょう。そう考えると、殿下の手紙は、私にとって人生で最もありがたい書状だったのかもしれません。
「マリー、今夜はこの人参でスープを作りますわよ」
彼女はぐるりと尾を巻いて、私の膝の上で眠ります。マリーの寝息と、畑から吹いてくる土の匂いと、穏やかな陽の光と。
ささやかだけれど、満ち足りた日々。
今の私は、婚約破棄された令嬢ではなく、『自分の畑を持った、自由な女』でございますのよ!
◆◆◆
「……精が出ますね」
感心したような声に、私はスコップを手に振り返りました。
「ええ。何か問題でも?」
「ないっす。よく似合ってるなって」
その声の主、リュカ・ベルティエは、私の畑の畝の端に立って、例によって麦藁帽子を片手に持っています。王都の農業指導士という肩書きに相応しく、彼は日焼けした健康的な青年で、しかし妙に遠慮がちなところがある男性なのでした。
「それにしても……畑、広がりましたね」
「ええ。屋敷の裏手まで使えば、少しは作物の種類も増やせるかと思いまして」
「気がつけば、婚約破棄された令嬢が一番農業してるって噂ですよ」
「……まあ、令嬢だって土は掘れますので。むしろ、私にはこちらの方が性に合っているんですのよ」
「知ってます。もう泥付きで光ってますもんね」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
彼は笑い、私はふふんと鼻を鳴らします。
いつもの、くだらないようで、どこか安心するやりとりです。私と彼の距離感は、まだ“友人”とも“ご近所”ともつかない曖昧なものでしたが、それが心地良いのです。無理に詰められることもなく、かといって放っておかれることもない。
今日も彼は、ジャガイモの土寄せを手伝ってくれました。さすがに指導士だけあって手際がよく、なにより――うん、腰の動きが実に力強くて頼もしい。つい見入ってしまって、マリーに尻尾で顔をはたかれました。ええ、そうですとも。私はいま、少しだけ彼に、気を許しているのかも知れません。
夕方、作業がひと段落した頃でした。
「そういえば、この前持ってきた人参、どうでした?」
「あれは素晴らしかったですわ。甘くて、えぐみがなくて、スープにしたら父までおかわりしましたもの」
「へえ。お父様、あんな厳しそうなのに」
「最初は農業など言語道断と申してましたわよ。今では農具を私から取り上げるほどですが」
「筋金入りの転向ですね」
「ええ。まるで小さな子供のように、手を土で黒くして誇らしげですの」
「……そうやってご家族が変わったのって、エリザさんの誠実で真面目な人柄のおかげじゃないですかね」
突然、真顔で言われたので、私は手に持っていたタマネギを落としかけました。
「な、なにを言い出しますのあなたは。冗談にしては温度が……妙に高い」
「いや、ほんとにそう思ってて」
「……リュカさん、そういうのはちゃんと、冷めた声で言ってくださいません?」
「え、冷めた声?」
「ほら、もうちょっとこう……“へぇ~、エリザさんって意外と真面目なんすね”みたいな、棒読みで」
「どんなリクエストですかそれ」
「私もそのほうが動揺せずにすみますの」
リュカは、まぶしそうに笑いました。
ああもう、その笑顔はやめてほしい。婚約破棄された令嬢にとって、その種の柔らかな好意は毒に近いのです。
けれど。
けれどその夜、私は無意識にスープにリュカの人参を多めに入れていました。家族に「今日のスープ、妙に甘い」と言われて、私は知らんふりを決め込みます。
数日後。
市場へ作物を持っていく用事があり、久しぶりに王都に足を踏み入れました。人混みに揉まれるたび、かつての自分の姿が浮かびます。薔薇の香りと笑顔の仮面。殿下の隣で、緊張に硬直していた日々。
偶然にも、広場でその殿下の一団とばったり出くわしてしまいました。隣国の姫と婚約中とのことでしたが、彼は今も変わらず、氷のように冷たい表情でした。
「エリザベート……元気そうで、何よりだ」
「ええ、おかげさまで前より絶好調でございますわ!ジャガイモも人参も豊作ですの」
「……そうか。それは……その、よかった」
彼はきまり悪そうに去っていきました。昔なら、殿下のひと言ひと言をノートに書き留める勢いで意味を探っていたのに、いまや土の中のミミズのほうが興味深い。
不思議なことに、私は本当にもう、彼を何とも思っていなかったのです。
帰り道、荷馬車の上で日暮れを眺めながら、私はぽつりと呟きました。
「……ねぇ、マリー。私、もう一度くらい、人をちゃんと好きになってみたいと思うの」
マリーは尻尾で返事をしました。たぶんそれは、「まあ、気が向いたらね」という程度の同意だと思います。
家の畑のそばの小道で、リュカとまた出会いました。彼は泥のついた手で、自分の畑の収穫を抱えています。
「またタマネギ、採れましたよ!」
「まあ、うれしい。……あの……お礼に、今度うちの畑で採れた野菜で夕食など、いかがです?」
そう聞くと、彼は一瞬だけ目を見開いて、そしていつもの調子で笑いました。
「やった、最高!タマネギと焼きチーズのスープ、期待してます!!」
やけに具体的なメニューに、私は思わず笑ってしまいました。
そう、これは恋ではないのかもしれません。
でも、心の土壌は耕されつつあります。水も陽も、ちゃんとある。種を蒔けば、芽が出るかもしれない。そんな気がしました。