本の中の世界
波の音がする。
「うぅん……」
目を開けると海が見えた。
海は好きよ。カナリア島は海に囲まれた島国だから、昔からよく遊びに行っていたの。危ないから子どもたちだけでは行っちゃいけないけれど、夏になればおばあちゃんやハンナの家族たちと一緒に海水浴にいくわ。
波に逆らって泳ぐのはもちろん好きだけど、波打ち際にたたずんで、押し寄せてきた波がすーっと引いていくのを眺めているのが特に好き。いつまでも見ていられる。
――――って、ちがーう!!
「ここどこ!?」
がばっと顔を上げると海の真ん中――たとえじゃなくて、本当にど真ん中にいたの。しかも水面の上。どういうことか分からないわよね、でもわたしにも分からないの。海面がまるで氷みたいに平らになっていて、そこに寝そべっていたのよ。
「どういうこと? わたしは本屋さんにいたはずなのに。いきなり海の上にいるし、立てるし、服も髪も濡れてない――――ハッ!!」
ゆっくり一回転しながら周りの景色を眺めた。まぶしくて青い空、はるかなる水平線、遠くに見えるのは白い砂浜。そして大海原の真ん中にたたずむわたし。
もしかして、もしかして、もしかして。
「わたし、魔法が使えるようになっちゃったんだっ!!」
あぁ、これが魔法なのね。一体なんて名前の魔法かしら。『瞬間移動する魔法』? それとも『海の上に立てる魔法』? なんでもいいわ、あとから考えればいいんだもの。大事なのはわたしが魔法を使えるようになったという事実。
「おばあちゃんに教えてあげないと。あと、ハンナと、エドガーにも。あいつ、きっと悔しがるでしょうね。ふふふ」
エドガーが顔をくしゃくしゃにして悔しがる様子を思い浮かべるとニヤニヤしちゃう。
「あ、でも――、突然いなくなってアレンをびっくりさせちゃったかしら」
がたん、ってイスを蹴る音がしたのはアレンが驚いたからよね。ゆっくり本を読んでいたのに最後の最後までうるさくしちゃった。今度会ったらちゃんとあやまろう。
「なにはともあれ、浜に向かって少し歩いてみようかしら」
水の床がいきなり抜けてぽちゃんって落ちるのは怖かったから、慎重に、一歩ずつ、つま先から進んでいく。なんだか不思議な感覚だった。真っ平な床っていうよりは水面ギリギリに浮いているみたいだったの。その証拠に、右足を前にだせば左足の裏に、左足を前に出せば右足の裏に水がついてきて、ぴちゃんと波紋が広がる。
「わたしの体が浮いている……のよね。これは一体どんな魔法かしら?」
気づいたらスキップしていた。そのうちに走り出していた。
魔法、魔法、魔法。なんてすばらしいの。わたしいま、海の上を走っているのよ。足下に集まっていた魚の大群が驚いて散っていく。なんて面白いの。風になったみたい。
「……変ね」
けっこう走ったはずなのに砂浜が近づいてこない。わたしが近づけば向こうも近づいてくるはずなのに、まだまだ遠いまま。足の速さには自信があるのに。
よし、本気だしちゃうわよ。
靴をぬぎ、素足を海面に押しつけた。
「よぉい――――てぃ!」
水面を蹴って思いっきり走り出した。いままで風や津波にしか負けたことがないの。
それなのに――、砂浜はびくとも動かない。たしかに前に進んでいるはずなのに、どんなに走っても砂浜が近づいてこない。
とうとう息が切れてその場に座りこんでしまった。
「おかしいわね……これも魔法?」
『その場から動けない魔法』? そんなのあり?
海面に映る自分の影を見ながらウーンと考えた。すると真上を大きな影が横切ったのが見えた。わたしが顔を上げるのと同時に一羽の大きな白鳥が降りてきて、海面に降り立った。片羽を広げて毛づくろいをしてから、一言。
「だめだな。行けども行けども境界が見えない」
とつぶやいた。白鳥が、しゃべったの。
「うそ、わたし『動物の声が聞こえる魔法』も使えるようになっちゃったの!?」
一度に二つも魔法が使えるなんて! いや三つ? どうしよう、おばあちゃん腰抜かしちゃうかもしれない――なんて考えていると、白鳥がわたしを見た。
「そんなわけないだろ。おれだよ」
羽の一枚一枚が光り出し、全身が繭みたいに包まれる。それがほどけたときには眉間に深いしわを寄せたアレンがたたずんでいた。
「アレンが白鳥!? もしかして魔法?」
「他にだれがいるんだよ。勝手に“この世界”に引きずり込んだくせに」
「引きずり込んだ? わたしが……?」
目をぱちぱちさせているとアレンは砂浜のある方向を指さした。
「あそこ、あの島に見覚えがあるか?」
「なに言ってるの。もちろんカナリア島に決まっ…………じゃ……ない?」
砂浜の奥には深い森が広がっていて、その先には大きな山がある。カナリア島にはいくつか丘があるけれどあんなに目立つ山はない。赤茶けた山肌と細々とあがる噴煙は絵本でしか見たことのない火山ね。
「知らない場所だわ。ねぇアレン、ここはどこなの?」
「やっとかよ」
アレンは肩を下ろしながらため息をついた。わたしと同じ顔だけど、絶対にこんな生意気な顔はしたくないわね。
「魔法書の中の世界だよ」