大魔法使いのおばあちゃん
「おばあちゃーーーーーーんんんっっっ!!!」
学校の授業が終わるなり、わたしは教室を飛び出した。魔法を抑える魔法陣を抜けるときは一瞬空気がなまあたたかく感じて、寒い冬なんかはその境目で温度の違いを確かめたりするのだけど、今日はとにかく急いでいるの。
空を飛んで帰る生徒や、一メートルずつ瞬間移動する生徒、はたまたビルくらいの高さにまで巨人化する生徒たちのだれよりも速く赤レンガの道路を走り抜けた。これが足の速くなる魔法だったら良かったんだけれど、かけっこするときエドガーは魔法でズルするから負けないよう小さいころからたくさん走り回った結果なの。
幽霊列車が通過する橋を渡り、水のない水路を逆走して、街のはずれにあるカラスの森に飛びこむ。木の枝や葉っぱに化けていたカラスたちがギャーギャーを騒ぎはじめて何羽かがわたしめがけて飛んできたけれど、ジャンプしたりしゃがんだりして回避する。
「遊ぶのはあと! わたしこれでも忙しいの!」
しばらく走ると森が一層濃くなる。そこで一度立ち止まり、慎重にまわりを確認する。
「今日の『入口』は……あった!」
やっと手が届く位置に折り曲がった空間があった(読みかけの本の端っこを折るドッグイヤーみたいなものね。本当に注意深く観察しないと見つからなくて毎回苦労するの)。
空間の端っこを掴んで思いっきり下に引っ張ると、本のページをめくるように景色が一変して、菜の花に囲まれた丘の上に立つ青い屋根の一軒家が見えてくる。
あそこが、おばあちゃんとわたしが暮らす家よ。
わたしは一歩中に入り、いま引っ張ったばかりの空間の端っこをきちんと戻してから歩き出した。おばあちゃんはちょっと特別な魔法使いなので、変な人が入ってこないよう防犯対策のため別の空間にいるの。小さいころは毎日変わる空間の端っこが見つからずに泣いたこともたくさんあったけど、いまでは五回中四回は見つけられるようになったわ。えらいでしょう。
「おばちゃん大変なの! 助けて!」
ドアベルが鳴るのも間に合わないくらいの速さで扉の中に駆け込んだ。
「おばあちゃ……むごほ!」
鼻の中にむわっとした匂いが広がる。ぎゅっと鼻をつまんでもまだ臭い。
「また変なお薬作ってるの……?」
キッチンから漂ってくる紫色の煙。とっても危険な気配がする。四つん這いになって進んでいくと、どんどん臭いが強くなっていった。
「あ、おばあちゃん……くさっ」
キッチンに人影が見える。でも煙のせいで目を開けていられない。コンロにかけた白いお鍋の中でぐつぐつと泡がはじけて、すっごく臭い。
「ふむ。ナツメグを少々、トカゲのしっぽを三センチ……」
ぽいぽいと材料を投入するとお鍋が光った。まずい!と思って床に伏せる。案の定どわんって地響きがした。辺り一面が黒い煙に覆われてなにも見えない。
「おばあちゃん待ってて!」
わたしは大急ぎで窓の鍵を外して全開にした。煙たちがさぁーって逃げて行ったあとには、お気に入りの黒いワンピースに身を包んだおばあちゃんがうずくまって咳をしている。
「けほ、ごほ、まったく、なんて煙だろうね。ごほ、ごほ」
「おばあちゃん、だいじょうぶ?」
「ああエマか。帰っていたんだね、おかえり」
「うん、ただいま」
マリアおばあちゃんの見た目はマティアス先生にも負けないくらい若々しい。おかあさん、って呼んでも不思議じゃないくらいなんだけれど、にっこりと笑うと茶色い瞳の目尻にちょこっと線が浮かぶ。
おばあちゃんは薬師。薬を創る魔法が使えるの。いまみたいに失敗することも多いけれど、五回に一回は成功する。その薬でたくさんの人が救われたのよ。
「あーもう、今日の創薬はやめやめ。お茶にしよう。エマ、お湯を沸かしておくれ」
「うん!」
井戸水を貯めている桶からひしゃくで水をすくい、ヤカンいっぱいにしてコンロにかけた。だけど何回つまみをひねっても火がつかない。困っていると机の上を片づけていたおばあちゃんが叫んだ。
「ブリギット、ちゃんと燃えないと冷たい井戸水をぶっかけるよ」
途端にボンッと音を立てて火が燃えあがる。あまりにも勢いが強くて怖いくらい。
「ブリギッド、アンタたったひとつしかないヤカンを丸焦げにする気かい」
すると今度は火が弱まり、ヤカンを軽く包むくらいに小さくなった。まるでおばあちゃんの言葉が分かっているみたいにね。
「ねぇ、ブリギッドって火の精霊さんのこと?」
わたしはつまみをひねって火加減を調整してから棚にティーカップを取りに行った。
「ああそうだよ。エマに見えないのをいいことに調子に乗っているんだ。ダメなものはダメと厳しく言ってやらないとね。――ほら、また火を強めようとしている。あたしの目はごまかせないからね」
おばあちゃんににらまれて火がまた弱火になった。
「そうなんだ……」
おばあちゃんは正真正銘の「魔法使い」。
魔法使いっていうのは、魔法自体を仕事にしている人たちのことね。
魔法の才能を持っているだけじゃなく、たくさんの本を読んで勉強し、いろんな魔法を使いこなせるの。おばあちゃんはその中でも更に珍しくて、ふつうは見えない精霊を見て、言葉で従わせることができる。とにかくすごい大魔法使いなの。それなのにわたしは……。
「エマ、浮かない顔してどうしたんだい。お茶にしよう」
机の上をきれいに片づけ、淹れたての紅茶とパウンドケーキを三切れ、満月型のお皿に並べた。たっぷりの生クリームと庭でとれたブルーベリーを並べれば、とっても美味しそうなデザートのできあがり。
「おばあちゃん、今日はなんのお薬を創っていたの?」
「好きな人に告白が成功する薬だよ。惚れ薬さ」
「そんなお薬があるの?」
「薬で人の心をどうにかしようなんて間違っていると思うけどね、前金をもらってしまったから創るだけ創ろうと思ったんだよ」
「それで失敗しちゃったの?」
「腹立たしいね。せっかく高い金だして特別な魔法書を借りたっていうのに。文句のひとつも言ってやらないと」
机の上に広げてあった本を乱暴に閉じた。表の裏も黒くて、厚切りベーコンみたいに幅があって重そうだ。
「見てもいい?」
「構わないけど、気をつけるんだよ。足に落としたら大変だ」
魔法が書いてある本。それを見れば魔法が使えるようになるかもしれない。
両手で受け取った本は予想以上に重い。黒い表紙には金色の線が綴られているけれど文字なのか模様なのかも分からない。ぱら、と一枚ページをめくる。
次の瞬間、黒いものが一斉に飛び出してきた。
「え、虫!?」
いいえ、文字に羽が生えているわ。びっくりしている間に風がやんで、気がつくと、本の上はまっしろ。なにも書いてない。
「おやおや、どうやら逃げてしまったらしいね。魔法が――いや、関係のない人間が本を開いたら文字が消えるよう魔法がかけてあったんだよ。そのうち戻ってくるだろうけど」
わざわざ言い直してくれた。
おばあちゃんは魔法が使えないわたしに気を遣ってくれたんだ。
「ねぇ……おばあちゃん。どうしてわたしは魔法が使えないの?」
膝の上でぎゅっと握りしめた手が、痛くなった。
「わたし、才能がないのかな。なにか悪いことしちゃったのかな。わたし……わたしも魔法を使いたいよ。どうして、ダメなのかな……」
まぶたが熱くなってぽろぽろと涙があふれた。おばあちゃんみたいな大魔法使いは無理でも、空を飛んだり、植物の声を聴いたり、植物を操ったり、ほんのちょっとでいいから魔法を使ってみたい。
「エマ」
立ち上がったおばあちゃんがぎゅっと抱きしめてくれた。わたしも腕を伸ばして抱きしめ返す。
「だいじょうぶだよ。焦る必要はない。きっともうすぐ魔法が使えるようになる。周りが腰を抜かすような、とっておきの魔法がね」
「……ほんとう?」
「本当さ。大魔法使いのばあちゃんを信じなさい」
あたたかい指先で涙をぬぐいながら、おばあちゃんがウインクする。なんだか少しだけ元気が出てきた。
「自信を持ちなさい。あたしにとって孫のエマは魔法なんかよりずっとずっと素敵で大切な存在なんだよ」
「わたしも、おばあちゃんのことが大好き。お父さんもお母さんもいないけれど、おばあちゃんがいてくれて本当に良かった」
薬のにおいが染みついている髪の毛も、あたたかな手も、笑うとしわくちゃになる顔も、ぜんぶ好き。
「さて、紅茶が冷める前にケーキを食べよう。お使いを頼みたいんだよ」
「お使い?」
「さっきの本を返してきてほしいんだ。魔法書専門の貸本屋にね。レイクウッド王国から来た魔法使いが営んでいるだけあって、びっくりするような魔法がたくさん並んでいるんだよ。もしかしたらその中にエマが読める本があるかもしれない」
魔法書専門の貸本屋。その言葉を聞いた瞬間、胸がどきどきした。
「行く! すぐに行きたい!」
「そんなに焦らなくても逃げたりしないよ。ちゃんと食べてから」
おばあちゃんになだめられて、仕方なく紅茶カップを引き寄せた。いつもは砂糖とミルクをたっぷりかき混ぜてから飲むのに、今日はそれすらももどかしくて一気飲みしてしまう。
最後にパウンドケーキのお皿を引き寄せると空っぽだった。
「ない、ないわ! ひと切れも残ってない!」
「どうやら風の精霊アオスに横取りされたみたいだね。あとでお仕置きしてやらないと」
おばあちゃんが天井に視線を向けると、閉めたはずの窓が突然開き、生クリームをつけた風がそそくさと逃げていった。