偉大なる実験
偉大なる実験
1
世界が悪くなっている!
正義が必要なんだ!
ヒーローが、正義の心を持ったヒーローが必要なんだ!
彼を初めて知った時、そんなことを言っていた覚えがある。
場所は学食だった。
彼は友達と一緒に、既に一人で食事をしていた自分の隣の席に腰掛け、熱く議論を交わしていた。彼の声はやや高い声で、昼食時のガヤガヤとした学食の雑踏の中でも、非常によく聞こえた。
聞き耳を立てるつもりはなかったのだが、ついついそのよく届く声のせいで、聞き入ってしまった。
彼は色々な社会への不満を明確な回答なく、抽象的な議論を発展させることなく、ただ一つ何か言葉にし難い情熱さだけで、解決しようとしていた。
それ以降も、不思議なもので、人生に悩んでいるが、解決しようとする気のないものにとって、彼の言葉はまるで麻薬のように作用するようになっていった。それが、あの大災害をもたらす原因の一つだったと今でははっきりと理解できる。
どうも彼は人の目を見続けて話すことに気恥ずかしさを覚えるのか、目線が相手の左上に向かうことが多かったのだが、それでも彼の闊達な弁論は続いていた。
私は昼食を平らげた後に、普段にはない気まぐれを発揮して、彼に声をかけてしまった。
「君、面白いね。そこまでいうなら、行動に移してみようよ。やってどうなるかはわからないけど、多分面白いことになるはずだから」
私は、さながらメフィストフェレスの役割をそこで買ってしまったと言うわけだ。
2
ここから、ストーリーテラーを宗一郎くんに任せよう。彼の残された日記を元に再構成したのが、これからの文章である。基本的に手を加える必要がないような文体で書かれていたので、極力そのまま使うことにした。出会いの部分から再開しよう。
7月××日
今日も今日とて嫌なニュースが続く。若者が事件を起こせば、若者を「社会的な」問題として取り上げ、老人が事故に見舞われれば、「社会的な」問題としてこれも取り上げられる。でも、実際全て不幸なだけなんだ。色々な不幸が積み重なっているんだ。介護士の問題だって、働く人がトータルで見て幸せと言えるなら、仕事を仕事として割り切れるなら、何の問題もない。問題なのは、一部の人と思いたいが、不幸から抜け出せないことだ。
そして、僕らの最大の不幸は今の時代にどうしたら幸せなのかを誰も決めてくれていないところにある。家庭やマイホームやマイカーなど持たなくても、幸せになることはできる。でも、どうしたら幸せなのかがわからない。何となくみんなの方が幸せに感じるし、頑張っても変わらないなら、どうせ自分は不幸な存在だと言う気になってくる。
そこで、必要なのは、自意識の殻を打ち破るほどの正義である。正義に殉ずれば、自分が幸せにならないといけないと焦る必要はない。正しく在ることに満足できるはずだ。
富・名声・力。資本主義の世の中は、富があれば全て手に入る。少なくともそう言う気がする。でも、実際は手に入らない。多くの人はそう。力もそう。であれば、せめて名声くらいはほしい。それを最近では承認欲求というが、悪いことなんかじゃない。
多分自分の言う正義も承認欲求なんだろう。正義に殉ずることで認め合える。あいつは偉い、と。
でも、正義をするためには悪が必要になる。正義のヒーローは巨悪を討たないといけない。探偵は殺人を犯す犯人がいるから、仕事ができる。もっと言うと、推理小説なんていうものは、探偵に事件を解決させたいから、神の位置にいる作家が、哀れな運命の子羊である犯人を動かし、禁忌である殺人を犯させるわけである。
犯人役の不幸は探偵の舞台装置として用意されてしまうのだ。もし、パラレルワールドがあって、小説の世界が実在するとすれば、何と犯人役の可哀想なことか。そして何より、作者の倫理性なんていうものは、こと推理小説の作家に関して言えば、皆無ということになる。
話が脱線してしまった。現実世界で、今困るのは、悪がないことだ。
大抵のことは許せてしまうし、悪事は悪事としていくらでもあるだろうが、自分と関係のないことに感じてしまう。政治家の汚職など、きっといくらでもあるだろうが、それを正しても明日からの生活は変わらない。それなら、今という時間を何となく、娯楽で消費した方が楽しい。
我々は善の欠如で悪を為すが、同時に現代は、悪の欠如で善を為せないのではないだろうか。
ならば、必要なのは、悪の存在ではないだろうか。みんなの良心を刺激しつつ、それでいて自信満々に倒すことができる悪が。
最近のアニメや特撮に顕著なのだが、妥協または決断を通じて、理解できるが共存できない相手を倒すという展開が多い。話し合いの場面で、譲れない価値観をぶつけ合い、何よりも理解者となった上で倒す。
僕から言わせれば生ぬるい。理由なんてわからないけど、世界征服を企み目的のためなら、殺人も辞さないような敵組織を倒す、くらいのわかりやすさがないと、僕みたいな一般人は自信を持てないから倒せない。
だから、やっぱり悪はシンプルでないといけない。
そしてそれをわかっている奴は少ない。
こういった内容を2限の授業をサボって、松田と話していた。昼飯時になっても、話が終わらなかったので、とりあえず学食にいって、飯を食いながら続けていた。
すると、変な奴が声をかけてきた。
身長はだいたい180cmくらいで、メガネをかけた痩せ型の男。目は丸っこい感じで、親しみやすいたぬきのような顔立ちであるが、目の奥は妙に冷たいものを感じさせられた。
名前は小平というらしい。小平は最初松田の隣に座っていたが、僕の話を聞いていたようで、声をかけてきた。
曰く、自分はボランティアサークルの人間で、人手不足とモチベーションの悪化が加速度的に進んでいるらしい。彼は大学院生らしく、彼が大学1年生だった頃は、みんな理由のない人助けの気持ちと、仲間が欲しいという気持ちで、飛び込む人間が多かったのが、今では就職活動の実績作りが大半で、合理的な活動というと聞こえはいいものの、いまいち熱中するような気風もなくなったという。またそもそも人手不足で、できることも減っていく一方なようだ。
彼はサークルの置かれている現状を話した上で、自分たちにサークルに入るように勧誘してきた。正直、新興宗教が背後にいたりなど勘ぐったが、提案の仕方が面白かったので、最終的に参加することに決めてしまった。
提案というのが、現在50人いるメンバーを10人と40人に分けて、10人を悪いことをするメンバー、40人を善いことをするメンバーに指定する。10人が公衆の面前で悪行を働く、そして40人がその尻拭い兼善行を為す。
そうすることで、周囲を巻き込むことができれば、世の中の善は増えるんじゃないか。
例えば、ゴミのポイ捨てに対して、自分が一人であると思えば、注意する勇気がわかないが、もし自分の背後に周りにいる人が味方になってくれるという安心感を持てるのなら、どんどんと指摘する数も増えていくだろう。
それこそ、バズれば模倣する奴らも出てきてくれる。
想像力のある人はきっとこうした状況を良しとしないかもしれない。
なぜなら、そうした模倣する奴らは、面白がってするのであって、内面に道徳的な要素があるわけではないからだ。
でもそれの何が悪い。
今は行動を喚起させる空気作りが大事だ。
そう思うと、こうした提案は非常に僕には重要なものに感じられた。
小平の提案を受け入れ、僕はサークルに明日顔を出すことになった。
宗一郎くんに任せるといったが、今一度登場させてもらおう。名乗り忘れていたが、私は小平という。彼の魅力でもあり、欠点でもあるのだが、非常に饒舌な文章で、解るような解らぬような文章を書くが理解できただろうか。
念の為、再度整理すると、彼は人々が自信を持って、「正義」のための行動を取れる社会が望ましいと考えている。そこに私が自分の所属しているボランティアサークルを通じて、いわばヒーローショーを社会に向けてしようと提案したのだ。悪役が街で狼藉を働き、ヒーローがそれを成敗する。
そうする中で、市民に正しい行動を見せつけ、メディアに拡散されることで、その気風を国中に広める。
これがプランだった。ここで弁解しておくが、私は彼を不幸にしたいと思わなかった。ただ、面白そうと感じたことを進めただけだった。さながら、高校野球をついつい見てしまうような、一生懸命に努力した人間の姿に生じる魅力、それが彼を行動させることで、見られるような気がしただけだった。プロデュースをしたいだけだった。しかし、思わぬ方向に話は進んでしまった。再度、宗一郎くんの残した言葉を元に書いていこうか。
3
(日付は書かれていないが、山中の行方がわからなくなる前日に書かれたメモ)
こんなことになるなんて思いもしなかった。
世界は思ったよりあっけなく、終わっていく。
人の考えを導こうとしたから、バチが当たったんだ。
いや、導かれていたのかもしれない。
元老院のような老人たちの集まりで決められたプランに全ては乗せられていたのかもしれない。よそう。こんなのはカッコよく自分の行いを解釈したいだけに過ぎない。実際は、ただ少し、目立ってしまったから、いい気になってしまったから、ダシにされてしまっただけに過ぎない。世界を良くしたいなんていっておいて、何一つ、達成できなかった。
これなら昔の方が良かったじゃないか。
4
僕は最近、世の中の残酷な一面を知った。
ヒーローと悪役であれば、両方人々の印象に残ることができる。しかし、単なる一般人が単なる善行と悪行を見て仕舞えば、悪行の方ばかりに目が行くようになってしまうようだ。
そう取り上げるメディアも悪いかもしれないが、近頃、僕らの悪行担当部隊が、「ブラック・ノーフェイス」と呼ばれているらしい。
僕自信、調べていないが、いや責められている気がして怖くて調べられていないのだが、ネットで誰かがつけた名前が定着してしまったらしい。
大方、黒い服を着て、顔を覆うようなサングラスにマスクをしているから、顔が見えなくなっているためだと思う。単にそれだけだ。
これまでにやっている悪行は、自転車の二人乗りやポイ捨てや路上喫煙などの、違反行為だが、黙認されているような行為であったり、カツアゲなどは演技で、実際外部の人間をターゲットにすることは断じてない。
大袈裟にやった後に、それを丁寧に解決していこうとしただけだ。
それなのに、どうしても善行の方は注目されないのだ。
コメンテーターはカラーギャングの復活や家族関係の不安定さが引き起こした問題など、相変わらず紋切り型の意見を述べているが、実際は大学サークルのボランティア活動に他ならなかったのだ。
それに、必ず後片付けはしている。
にもかかわらず、残念なことにそちらは取り上げられない。
SNSに発信するように団員の中に広報を担当してくれる人を用意したのだが、これもまた残念なことに、再生数が悪行の方が伸びていると弱音を吐いていた。
例えば、初期の方によくやっていた、ポイ捨て注意はだいたい次の通りである。
悪行団員がゴミのポイ捨てをする。それを善行団員の一人が大きな声で呼び止める。
「ちょっと、そこの人たち。ゴミを捨てるのはよくないんじゃないか」
と言った感じだ。
それに対して、「なんだよ、どうせ誰かが拾って捨ててくれるだろうが、俺だけじゃないしいいだろう。なんか文句あるか」
と言った感じで返す。
あえて、一度は怯むが、次第に加勢していく。「ちょっと、その人の言っていることは間違ってないでしょう」みたいな感じで。大体、1回につき悪行団員は4、5人程度で、善行団員は10人ほどでこの試みを行うので、最終的には倍の人数差になる。
その人数差に圧倒される形で、悪行団員は捨て台詞を吐いて退散する。ゴミは残したままだ。残された善行団員はお互いに助けてくれてありがとう、という感謝の言葉を述べあい、協力しながら、ゴミ拾いをする。
大体、お年寄りは善行団員の味方になってくれる人が多い。若い人は素通りが多かった。
それが、続けていくうちに味方になってくれる人が増えてきた。トラブル、と言っても演技なんだが、それに参加してくれる人が増えてきた。多分、本当はみんな人の役に立つことに喜びを感じられるんだと思えるようになっていた。
悪行団員の負担は大きい。演技といえど良心が痛むのは事実であり、そこを責められるのは相当に堪える。なので、役回りを全団員で分担したところ、実体の見えない黒ずくめの団体が、近頃、このエリアで暴れているといったように映るようになった。
そんなことを想像もできなかったため、僕らは拡大することを選んでしまった。
他大学のボランティアサークルに今やっていることを共有して、賛同してくれる学生たちのネットワークを作り上げてしまった。
社会を裏側から汚れ役になって、変えていくという殉教者意識は、思いの外広まるのが早く、また秘密組織的な側面が、功名心に働きかけるのか、この活動が外部に漏れることはなかった。
そうして、拡大していく中で、認知が高まるのだが、皆が揃いも揃って、黒い服に顔を隠すのだから、そちらが目立ってしまうことになった。
これからどうすれば、巻き返せるだろうか。
ネットにあげられる動画は、ショートである場合、善行部分を収めることはできないし、再生数を稼ぐために、ハイライト的に悪行部分だけをアップしている人が多い。
そうした結果、次第に世間の論調も、同時多発的な若者の反社会的行動の増加、そしてその原因は何かといった形で、議論が深められてしまった。
そこを議論しても仕方がない。本当は善い行いを引き出したいだけなのに……。
5
嫌な事件が起きた。とうとう、模倣犯が出てきたようだ。カツアゲ事件を起こしたらしく、警察が動くことになった。
どうやら、ブラック・ノーフェイスと自称した上で、男子高校生から金品を巻き上げたらしい。大体、そんな組織なんてものはないのに、勘弁してほしいものだ。
長いものに巻かれるなら、良いことをしてくれよ。
(別の日の日記)
先日の事件だが、犯人は呆気なく捕まった。曰く、今の社会の方が間違っており、持ってないものが持っているものから、奪うのは当然だそうだ。
気になって、色々調べたところ、犯人の卒業アルバムとともにSNSアカウントがネット上で晒されていることがすぐにわかった。
SNSを覗くと、自分の不遇さは生まれ落ちた周りの環境が悪いからである、という恨み節が溢れていた。自分は本当は凄い人間なのにもかかわらず、社会的肩書きがないために認められていない。その社会的肩書は自分の努力ではなく、親によって決まるため、自分のような親ガチャ失敗民は成功などできない、などが延々と書かれていた。
それが最近になると、うちの悪行団員の行動、念のため書くと、演技なのだが、それに対して好意的なコメントが目立つようになっていった。
大体読んだものから彼の主張をまとめるとこうなる。
今や、テレビからも暴力は追放された。あんなのは台本なんだ。真剣にふざけていただけなんだ。それにもかかわらず、しょうもない大人たちは、何かやったという自己満足が欲しいからという理由で、どんどんと世の中から「理不尽」を追放した。しかし、追放したところで、僕らの生活は楽にはなっていない。むしろ、理不尽の連続だ。
その理不尽に対して、ここまではっきりと好きなように生きている若者がいるのは、仲間を見つけたようで嬉しい。オレはオレだと主張していたい。それの何が悪いのか。できることなら、仲間に入れてほしい。
彼は非常に学歴に対してのコンプレックスを持っており、裕福な家庭の学生を憎んでいた。矛先が男子高校生に向いたのも当然かもしれない。きっと、進学校の学生だったのだろう。身なりが良かったとかで、何かを察したのかもしれない。
善悪は違えど、正直共感してしまえる内容だった。現状への苛立ちは変わらない。ただ、破ってはいけないラインを自分たちの行動のせいで、超えてしまう人が出てくることにショックを受けたし、それがかなり辛い。
6
自分でもまだ整理がついていないため、とりあえず思ったことを書き付けることにする。ブラックノーフェイス(以下、BN)はもう自分たちの手を離れて、概念として独り立ちしてしまった。創設者を名乗る人間が、ネット上に乱立しているようだが、そのうちの一人が、自殺をしたようだ。
一度、その人のネット配信を見てみたが、延々と絶望について語っていた。曰く、我々は、持たなくて良い欲望を持たされている。そのせいで、自分が劣った存在のように思えて仕方がなくなる。
それは洗脳であり、暴力である。それから自由になるためには、絶望するしかない。絶望することは、全ての執着を捨てることができることに他ならない。絶望することで、我々は根源的欲求が理解できるようになる。
根源的欲求とは何か。本来得られたはずの幸せを奪ったものに対する復讐心だ。我々は絶望を通じて幸福になるのだ!
まとめると大体このような主張であったが、ほとんど宗教的であり狂信的であった。しかし、その当時で1000人近い人間が視聴していたので、影響される人間は少なくなかった。
その彼が死ぬことによって、さらに神聖化されてしまったのだ。
彼の支持者は彼の言葉を広めようと、四方八方に教えを伝えるために、情報を発信しまくった。SNSアカウントで、バズった投稿には必ずコメントに短いが強い言葉を使った彼の言葉が貼られることになった。
次第に、BNは貧困の問題や移民問題と結びつくことになり、誰も大っぴらにはいえないが、心のどこかで、思っていることを汲み取る存在となってしまった。それが意味するのは、BNが新しい正義になったということである。
絶望が伝染してしまい、救いを求めて、絶望に至る。
正義なんてこの世にはなかったのかもしれない。
多分それは、僕が甘ちゃんだったからものを知らなかったんだ。
7
突然だが、これで終わりだ。最後は直接の著者である小平が締めさせていただこう。
これは物語でもなんでもない。ただ、運命に巻き込まれただけの可哀想なお話。
私の目から見れば、語り尽くせないほどの魅力ある名場面がたくさんあったのだが、それは宗一郎くんにとってはどうでも良いことであったということだ。
その証拠に彼の日記帳には常に内面の混乱だけが書かれていた。
これはいわば、話のオチに当たる。
実際、彼が消えてから世界はどんどんと不安定になっていった。宗教が流行し、人々はより学ばなくなった。上の世代は下の世代に関わることをしなかった割に、常識がないと文句ばかりを言いながら、たまたま植え付けられた概念に囚われ続けた。その息苦しさから、自由になるために脱落する若者が増えた。
でも、それに私たちのサークルが始めたことがどれだけ影響しているというのか。
宗一郎くんはどうも、自分を主人公と思いたがる癖が強いようで、いちいち刺激に敏感に感じ取っていた。まるで、世界を自分が壊してしまったように思っていたようだが、そんな大したことはしていない。
彼は贖罪意識を持ちたかったせいか、どうやら現実を正しく認識できなかったようである。
現実を変えるよりも、自分の認識を変え、悲劇のヒーローになることを選んでしまった。
ここでは、何が起きたかを細かくつもりはない。
それはまたいつかどこかで。