救われた悪役令嬢は破滅したヒロインに会いに行く
「以上の証拠からマリアーナが多くの男と淫らな関係を築いていたというのも、その女をはじめ下位貴族や平民を虐げていたというのも全て嘘だったと断言できる。むしろ、全てその卑しい女がしていたことだ。そんな虚言に騙されるなど、オスカー……貴様は王太子に相応しくない。また、女は王家に偽証をしたことは罪に問われる。その二人を連れていけ」
私を庇うように立ったヴィクトール様が騎士たちに素早く指示を出した。王太子であるオスカー様とその横に並んでいた女性エマ嬢が取り押さえられ、卒業パーティーの会場は一層騒めく。先ほどまで高らかに私へ婚約破棄を告げていたオスカー様は顔面蒼白で、小さく「こんなはずでは、何かの間違いだ」と呟いている。
彼女はどんな顔をしているのだろうと思った。婚約者のいる高位貴族の令息に近づき、私をはじめ多くの女性にあらぬ罪をなすりつけて暴虐の限りを尽くした悪女エマ。思わぬ反撃に怒りを燃やしているのか、それともさすがに呆然としているのか。自分の悪事に良心を思い出して、少しは反省してほしい。そんな、細やかな期待を込めて窺った彼女はあまりにもいつも通りの微笑みを湛えていた。
「あーあ、もう終わりか。もうちょっと楽しみたかったなぁ」
近くにいた私たちにしか聞こえないくらいの大きさだった。夜も遅いから絵本はこれでお終い、もう寝る時間よ、なんて言われたときみたいな、残念だけど仕方ないと割り切っているみたいな声色。抵抗することもなく、静かに連れていかれる彼女を私は見送ることしかできなかった。
大騒動の卒業パーティーから一週間が経った。王太子であったオスカー様と私マリアーナと婚約はオスカー様の宣言通り破棄された。それと同時に嘘の情報を鵜呑みにし、私を国外追放しようとしたオスカー様は廃嫡の上、幽閉されることになった。新しい王太子にはオスカー様と同い年でありながら側妃の子どもであったことから第二王子に甘んじていたヴィクトール様が就かれることとなり、私は新たにヴィクトール様と婚約を結ぶこととなった。そして、数多の高位貴族の令息と関係を持ち、オスカー様に嘘の情報を流し、王家が定めた婚約を台無しにし、公爵令嬢の私を陥れようとしたエマ嬢は処刑されることが決まった。
ヴィクトール様が私のことを信じ、事前に私がエマ嬢を虐げてなどいないという証拠を準備してくれていなければ、私は今生きていなかっただろう。ただの貴族令嬢が無一文で国外に放り出されて生きていけるわけがない。そして、私一人では太刀打ちできないくらい、エマ嬢は狡猾だった。
首の皮一枚で繋がったことを安堵すると同時に、エマ嬢が卒業パーティーで見せた微笑みが頭から離れなかった。罪に問われると分かったあの場で、どうして彼女は笑っていることができたのか。あの笑顔の意味はなんだったのか。どれだけ考えても分からなくて、分からないことが無性に恐ろしかった。
だから、今、彼女が捕らえられている牢に来ている。隣ではヴィクトール様が私のことを気づかわしげに見下ろしていた。
「やはり、俺も一緒にいこう。彼女は今まで君のことを傷つけて来た。二人きりで話すのは心配だ」
「大丈夫です、私と彼女の間には鉄格子があります。二人きりと言ったって、大声を出せば聞こえる距離で待っていてくれるのでしょう?」
そう言って両手を胸の前で組んで頼めば、渋々といった様子で「危険なことはしないでくれよ」と送り出してくれた。
一番奥の牢以外に人はいない。男爵家の庶子だったエマ嬢だが、罪が問われた直後に男爵はエマ嬢を除籍した。故に平民という扱いになり貴族牢に入れることはできなくなったが、仮にも貴族令嬢だった彼女を荒くれ者だらけの牢に放り込むわけにもいかない。そんな最低限の気遣いから彼女の周囲の牢は無人となっているらしい。
それでも平民が入れられる牢だ。石造りの壁と床、薄汚れたベッドと仕切りが心許ないトイレ。非常に劣悪な環境に、牢の外にいるだけの私も気分が悪くなりそうだ。そんな牢の中でエマ嬢は簡素なワンピースを身に着け、豪華な夜会にいたときと変わらない笑顔を浮かべて私を迎えた。
「まさか、こんなところにマリアーナ様がいらっしゃるとは思わなかったわ」
ベッドの上に座り足を組んだ彼女が私の様子を窺うように首を傾げる。ストロベリーブロンドの髪がろうそくの淡い光に照らされて輝く。風呂にも入れていないその髪は汗と埃にまみれているだろうに、それでもなお美しさを失っていなかった。
「そういう貴女は、こんなところでも元気そうね」
「ええ、想像していた牢よりもずっと居心地がいいわ。他の囚人はいないから静かだし、硬いベッドもパッサパサのパンも防寒具が足りなくて寒い夜も慣れっこだもの。お日様の光が浴びられないことだけはちょっと嫌ね」
エマ嬢はなんでもないことのように肩を竦めた。それは全く強がりなんかじゃなくて、本心から言っているように見える。
「ねえ、マリアーナ様。貴女は私にそんなことを聞きに来たの? 違うわよね?」
「……貴女は、後悔していないのですか?」
「後悔? 何に?」
「オスカー様に虚言を吐いて、死刑になることに、です」
死、という言葉にぐっと胸が重たくなる。エマ嬢からされたことは、許せるようなことではない。だが、殺してやりたいほど憎かったかと言われると、肯定はできなかった。結果論ではあるが、私はヴィクトール様に救われた。それだけではなく、本当は、幼い頃からずっと慕っていたヴィクトール様と婚約することができて、幸運だったとすら思っている。だから、エマ嬢の減刑を申し入れた。しかし、下位貴族の令嬢が王族を騙して高位貴族の令嬢を陥れようとしたのだ。しかも、エマ嬢は男爵家から除籍されたから平民に戻ってしまった。そうなれば、私が何を言ったって刑を変えることなどできなかった。
「いいえ、全く。あれくらいの嘘を吐かないとオスカー様に興味なんて持ってもらえなかったでしょう? はあ、上手くいったと思ったのに、ヴィクトール様がマリアーナ様の味方になるなんてね。読みが甘かったわ」
「そんなに、オスカー様のことを愛していたのですか?」
「愛? アッハハハハ、マリアーナ様、貴女って真面目なだけじゃなくてジョークも上手いのね。愛なんかないわよ、私は贅沢な生活をおくりたかっただけ」
きゃらきゃらと、心の底からおかしくてたまらないと言いたげに笑っている。大口を開けたその顔は凡そ貴族令嬢に相応しくない。下品で、みっともなくて、でも令息たちの前で儚げな微笑みを浮かべて同情を引いていた姿よりもずっと生き生きとして素晴らしく見えた。
「いっぱいお金を持っているなら誰でも良かったのよ。王子様って国のお金を好きにできるんでしょう? それなら誰よりもお金持ちよね。だからオスカー様と結婚しようと思ったの」
「王族の持っている金銭は民から国の運営のために預かったものです、好き勝手できるわけではありません。それに、豊かな暮らしをしたいというのなら、こんな卑怯な手ではなく教養を身に付けて高位貴族や王族に相応しい人間になれば良かったのです」
「教養なんて無理でしょ。私、文字も読めないのに」
「……は?」
「15歳で男爵家に引き取られるまで娼館にいたのよ。引き取られてすぐに学園にポイッだったもの。ああ、入学の手続きのために自分の名前だけは書けるように教えられたっけ」
「え……え? そんな、じゃあ、授業は? テストはどうしてたんです?」
「授業はなんにも分からなかったわよ、教科書も読めないし、先生の話もちんぷんかんぷん。テストは選択式だったでしょ? 全部勘で答えてたわ」
「そ、そんな……でも、貴女の周りには優秀な人がいっぱいいたでしょう? 教えを乞うたりは……」
「今更文字を読むところから始めて、どれだけできるようになるっていうの? そんな無駄な努力をするくらいなら、色仕掛けをした方が早いじゃない」
無駄なんかじゃない、そのはずだ。確かに、この年から学んで貴族令嬢として恥ずかしくない教養を身に付けるのは並の苦労ではない。だが、少なくともその道を選んでいれば、こうやって処刑されることなどなかった。
「ねえ、もしかして、マリアーナ様は私が18歳で死んでしまうことを憐れに思っているの?」
「そんなの当たり前じゃない。18歳なんて早すぎるわ」
「……レナは21歳のときに出産に耐えられなくて死んだ。マギーは16歳のときに不機嫌な客に殴られて死んだ。マーサは19歳のときに貧乏な恋人と駆け落ちしようとしたのがバレて死んだ。ルーは14歳のときに不細工で客がつかないからってご飯を抜かれて死んだ。ああ、母さんは32歳まで生きたの、運が良かったわよね。性病をうつされて死んだから相当苦しんでいたけど」
「え……?」
「同じ娼館にいた娼婦たちよ。上手いこと金持ちに身請けされなきゃ長生きできないの。高位の貴族が使うような娼館なら話は別でしょうけど、スラムにある店ならこんなもん。だから、私も上手くいかなかったんだから仕方ないわ」
あっけらかんと話すものだから、物語の中の出来事なのではないかと錯覚しそうになる。だって、そんな世界があるなんて知らなかった。貴族は民を守るために存在しているはず。それなのに、その手からあぶれて紙屑のように命を捨てている人たちがいるの? それも、エマ嬢が男爵家に庶子として引き取られたということは、男爵はそんな世界を知っていたのでしょう? 知っていて、放置しているの? 吐き気がした。人を人とも思っていない傲慢な貴族の悍ましさにも、そんな世界を知らずにのうのうと生きていた自分の浅はかさにも。
彼女が知識を身に付けなかったのはその必要性を知らなかったからだ。それは、最低限の命の保証があってやっと役に立つもの。生きるか死ぬか、そんな毎日の中で教養を磨くなんて余裕があるわけがない。そして、必要性を知らないまま学ぶ場に連れてこられたって、身に付けようなんて考えないだろう。
「何故……何故、助けを求めなかったの。何故、こんなやり方をしたの」
ああ、なんて醜い。自分の不甲斐なさを棚上げにして、虐げられていた彼女を責めるようなことを言うなんて。けれど、エマ嬢は不快感などないように、にこにこと無邪気な微笑みのままだ。
「助けなんていらないわよ。私は全部自分でどうにかできたわ。だって、学園にいた3年間、色んな令息からいっぱい贈り物をもらって、娼館に居たときには行けなかったような場所にも連れて行ってもらって、贅の限りを尽くしたのよ。本当に楽しかった。あの娼館にいた誰よりも、私は幸せな人生をおくったって胸を張って言えるわ」
違う、全然どうにもなっていない、こんなの幸せな人生なんかじゃない。その言葉を口に出すことはできなかった。女性をただ金稼ぎのための道具としか思っていないような娼館にさえ生まれなければ。人を陥れなくたって誰かと愛し愛される関係を築けたはずだ。けれど、自分の努力ではなく、幸運にもただ高位貴族に生まれただけの自分がかけられる言葉なんて存在していなかった。
「……めん、なさい。ごめんなさい、こんなことを言ったって仕方ないって分かってる。でも、何もできなくて、ごめんなさい」
ぽろり、と零れてしまったと気付いたときにはもう遅かった。次から次へと涙が溢れて止まらなくなる。令嬢としてこんなに感情を表に出すなんてみっともない。分かってはいてもどうにもできなかった。
「まあ、驚いた。今までの全部を謝罪しなさい! って言われると思っていたのに、まさかマリアーナ様の方が謝るなんて。自分を陥れた平民相手に謝るなんて、将来の王妃として相応しくないんじゃない? 大丈夫?」
「自分の非を認められない方が、問題です。貴族として、将来の王族として、苦しんでいる民に気付けなくて申し訳ありませんでした。私が王妃になった暁には、スラム街を整備して誰も不条理な死を迎えなくて済むようにします」
エマ嬢は驚いたように目を瞠ったあと、声を上げて笑った。朗らかなその笑顔は太陽のように眩しくて直視するのが難しかった。
「どうしたって死んじゃう私に言うなんて皮肉が効いてるわね!」
「ちがっ、皮肉のつもりなんかじゃ」
「私は私以外がどうなろうと知ったことじゃないからスラム街が良くなったって別になんとも思わないけどね。でも、好きにすればいいんじゃない。頑張ってね」
これが私とエマ嬢の最後の会話になった。
後の世では、スラム街を整備し多くの民草を救ったマリアーナは賢妃として讃えられることなった。そんなマリアーナだが「全ての人は救えなかった。私の手はあまりにも小さい」という言葉を残している。