3話 ビニール傘と青い石
「完治! 大丈夫か! 本当によかった!」
「? どなたですか?」
彼の家族だという男性と対面を果たしたファルマ少年は、不審そうな表情で後ずさる。
思わず抱きついてこようとする男からさっと距離をとる。
「誰って……薬谷 善治、お前の父親じゃないか! どうしたっていうんだ」
「別人だと思います。私はその人ではありません、私はファルマ・ド・メディシスです」
ファルマ少年は冷静な対応ながら、名前を聞き取ってもらえるように、少し声を張って丁寧に答えた。
「な、何のことだ? お前は完治だ」
「他人の空似なのでは?」
「なんでそんなことを言うんだ。そんなわけない、お前はお前だ」
「なぜそう思うのですか」
「っ……どうしてしまったんだ。頭でも打ったのか? 指紋だって一致してるんだぞ!」
善治という男は感極まってきたらしく涙ながらに必死にうったえるが、何を言われてもファルマ少年は困惑してしまう。
善治を案内してきた看護師も、どう対応すべきか決めかねているようだった。
善治の剣幕におされて、後ずさるファルマ少年の手を取るものがいる。
ぎょっとして、何事かと見おろすと。
そこには、長い髪を三つ編みに結った、ワンピース姿の女児がいた。
「にぃに!」
「誰?」
「ちゆだよ」
少女はニコニコと可愛い笑顔を向ける。
「お父さん、すみません。担当医師です。ちょっと状況を説明しますので、いいですか」
藤堂医師が、病室に入るなりしまったという顔をして病室の外に善治を連れてゆく。
ファルマ少年は藤堂医師が誤解をといてくれるものと期待して、落ち着きを取り戻す。
看護師とともにあとに残された幼児が、必死に笑顔をふりまいてくる。
「ちゆだよ!」
少女はもう一度、今度は耳うちするように言うと、引き続きニコニコと可愛い笑顔を向ける。
ファルマ少年は天真爛漫な笑顔にあてられて、どことなく居心地が悪い。
「似ている人と間違えたんだよ。ごめんね」
ちゆという少女は、腰を落としてかがんだファルマ少年の頬を両手でむにっと掴む。
「そんなわけないじゃん。ちゆが覚えているもん! にぃにはにぃにだよ!」
彼女がしつこくそう言ってくるので、ブランシュみたいだな、とファルマは郷愁にかられる。
ファルマ少年には、ブランシュ・ド・メディシスという、ちょうど彼女と同じ背格好の妹がいた。
「でも、なんだか今日のにぃに、ちょっと悲しそう」
「……君のにぃにじゃないよ」
「おうちかえろ! お母さんも待ってるよ!」
ちゆは無防備にファルマ少年の手をとった。
どことも知れない、自宅に連れて帰ろうとしているのだろう。
ファルマ少年はその手を振り払うこともできず、握られていた。
◆
東京都立墨西病院9階A棟小児科、カンファレンスルーム。
薬谷 善治は藤堂医師に説明を求めている。
「先生、うちの子はどうしてしまったのでしょう」
「その前に確認をしたいのですが、薬谷 完治くん、息子さん本人に間違いありませんか?」
「もちろんです! 親なので、分からないわけがありません」
善治はスマホをもってきていた。
スマホの写真内のアルバムを見せると、善治やちゆ、母親の智子と一緒に写った、完治少年の写真が山のようにある。
そしてそのアルバムの中の少年は、ファルマと主張する少年と同じ顔をしている。
「まだ検査が終わっていませんが、体調には問題ありません。ただ一時的にか、記憶障害があり、混乱しているようにもみえます。最近、強いストレスなどはありましたか?」
「いえ……特に。学校も勉学も順調だといっていましたし。まあ、成績は中の下ですが」
「家庭で何か困ったことは」
「私が言うのもなんですが、何もないと思います」
「現時点で頭部CTや各種検査値などに異常はありませんしたが、精神科のコンサルテーションの結果を待って、場合によっては精神科に転科が必要です。お父さんはまた明日来ていただいても構いません」
藤堂医師は今後の検査予定などを説明する。善治は長い沈黙ののち、頭を抱えながら藤堂医師に尋ねる。
「ファルマというのは、何なんでしょうか」
「息子さんは、ご自身をその名前の人物だと思っているようですね」
「……ええ?」
善治は取り乱しそうになる。
藤堂医師がカルテを閲覧すると、善治の職業欄には会社員と書いてある。
母親は介護職だとある。善治は絞り出すような声で尋ねる。
「いわゆる、多重人格とかですか?」
「私は専門外ですので、診断がつけられません。記憶が戻るまで、少し話を合わせていてもいいかもしれません。否定をせず、よく話を聞いてあげてください」
「その、ファルマ・ド・メディシスという人物は、有名人か何かですか?」
「さあ……軽くネットで調べてみたのですが、手掛かりは出てはきませんでした。でも、医学にまつわる人物なのではないかと思いますよ。ド・メディシスというのは、かの有名なメディチ家のフランス語読みで、メディチ家は薬剤師の古い家柄です。ファルマは製薬、パッレは丸薬、どちらも医学関連の言葉です。彼が召使だといっていたカトリーヌ・ド・メディシスに至っては、フランス王アンリ二世の王妃と名前が一致していますね。断片的な記憶に基づいたものかと」
藤堂医師は、断定を避けながら情報を提供する。
そして、その間に父親の様子をよく観察する。
完治少年に対し、隠れて虐待などを行っていないか、その可能性はないか。
楽しそうな写真アルバムはあるが、別人の写真かもしれないし、一見幸せそうな家庭でも虐待は起こりうる。
「どこから出てきた知識なのでしょうか……歴史にもさっぱり興味がありませんし」
善治はほとほとまいったようだ。
「完治君は、写真記憶の能力を持っていましたか?」
「写真記憶というのは?」
「一度見たものを、写真のように脳に焼き付けて忘れないというものです」
「いえ……暗記物は苦手だったはずです。地理なんかも苦手のようで。英単語のテストも少し残念なことに」
「そうですか。記憶の混乱はみられますが、現在の完治君は写真記憶ができるようです。専門用語も含まれる、大人向けの辞書一冊分を暗記して、今日もまだ記憶が保たれています」
藤堂医師は、精神科にコンサルを求めた結果が返ってきていないか確認しながら伝える。
まだ、見解は届いていない。
「……わかりました、いえ、何もわかりませんが、息子にじっくり付き合ってみます」
「もしご家族での支援が難しいと感じたら公的な支援を受けてください。少し、さしでがましいことを言ったかもしれません。ご容赦ください」
藤堂医師は公的機関、専門病院の支援先のパンフレットを手渡した。
「次に来ていただくときには、精神科になるかもしれません」
「何がおこっているのかわかりませんが、本当によろしくお願いします、先生」
善治はふかぶかと頭を下げる。
藤堂医師は、彼の見た「かもしれない」神術という不思議な現象については伝えなかった。
まだ、マジックの一種であるという可能性も捨てきれないし、少年が知られたくないことは、伝えない。
ファルマ少年との約束は守る。
もし、彼が善治に見せたいと思えば、マジックなりなんなりを実演してみせるだろう。
藤堂医師と善治が相談室を出て再び病室を訪れると、帰り支度を促す日勤の看護師に、ファルマ少年が拒絶の意思表明をしていた。
「帰りません」
「薬谷さん、そんなこといわないで。ご家族が待っておられますよ」
「ですから、私の家族は違うのです。あの人は私の父ではありませんし、この子は私の妹でもありません」
悲痛な声で訴えるので、善治は傷ついてうなだれてしまう。
藤堂医師は二人の気持ちを汲んで、こんな提案をした。
「一旦帰ってもらおうかとも思っていましたが、検査が長引きそうですので、もう二泊、泊まってから帰りましょうか。記憶の混乱もありますし、それで明日、落ち着いたらもう一度今後どうしたいか、気持ちを聞いてみましょう」
藤堂医師はぐっと唇をかみしめると、先ほど脱いだばかりの白衣に袖を通した。
◆
藤堂医師は救急当番明けをものともせず、医局に戻って、精神科の教科書で解離性健忘の項目や、文献をあたっていた。
「藤堂先生っ、何でまだいるんですか? たしか、日勤のあと、夜勤で救急当番でしたよね」
内科医、斎藤医師が藤堂医師に声をかける。彼女は藤堂医師の同期で、同じチームだ。
「今日は非番なんですけど、ちょっと気になることがあって」
「さっき小児科に引き継いだ子ですよね。電カルも見ましたよ、心配な子が来ましたね」
「そうなんです」
「それで。貴重な休日をつぶしてまで付き合うんですか?」
斎藤医師が勘ぐるような視線を向けてくるので、藤堂医師はコーヒーを飲み干した。
「……ちょうど彼と同じぐらいの年齢かな。私も小児のころ睡眠障害を抱えていて、精神的に不安定だった時期がありまして……小学校五年生までずっと不登校児だったんですよ」
「そうだったんですか」
斎藤医師は驚いたような表情で耳を傾ける。
「不眠が続いたからか、この世界が夢か現実かもわからなくなって、頭の中がぐちゃぐちゃで。もう死のうかと思っていた時に、助けてくれた人がいるんです。だから、立ち直ることができました」
「すてきな話ですね。だから、今度はその子に手を差し伸べると?」
斎藤医師は少し涙ぐみながら藤堂医師を見つめる。
「いやまあ、そんな大層なものではないんですが、専門の先生に診てもらうまでの間、二、三日なら付き合えますので」
「落ち着いてくれるといいですね。でも、特定の患者さんにあまりべったり付き添わないほうがいいのでは? 知り合いとかなんですか?」
「いえ初対面です。たしかにまずいのかもしれませんが、少し気になる部分がありまして。検査から戻ったら、体調をみて院内の散歩に誘ってみようかなと思いまして。あ、結果出たようです。行ってきますね」
藤堂医師はデスクにかけていたビニール傘を手にして席を立つ。
「そのビニ傘は? 藤堂先生のです?」
斎藤医師は、大きな青いクリスタルのついたストラップが持ち手に巻き付けられたビニール傘を指さす。
「ああ、これ。これは彼が倒れていた場所に、一緒に落ちていたようなんです」
「傘ですか。ここ数日……晴れでしたよね」
「五日ぐらい晴れでしたね」
「なんですかねこの青い石。小学生の好きそうなパワーストーンですかね」
親戚の子も、ガチャガチャでついてくる小さな天然石を夢中で集めてて!
などと斎藤医師は教えてくれる。
「アクアマリンかトルマリンのようにも見えます。ほかの所持品と一緒に渡しておこうかなと思いまして。このストラップにも見覚えがあるかもしれませんし」
「何か好転するといいですね。頑張ってくださいね!」
斎藤医師は手を振って藤堂医師を激励した。
【謝辞】
本項は、
医師・医学博士 村尾命先生
にご監修いただきました。
誠にありがとうございました。