2話 水の神術使い
「友永さんのいうように、アニメか漫画のキャラになりきっている、とかかなあ……」
藤堂医師は患者対応を終えると、先ほどファルマ少年から聞き取った言葉をもとに、当直室で軽くネット検索をかけてみた。
ファルマ・ド・メディシス。
ブリュノ・ド・メディシス、ベアトリス……。
果ては、彼の召使だという、シャルロット・ソレル。サン・フルーヴ……。
断片的にはヒットしても、体系だった作品らしきものは何も出てこない。
水属性の神術使いという設定もなんというか陳腐で、似たような設定のものがネットの創作物の中に埋もれてしまっている。
フランス語で入力してみても、何もひっかからない。
「自作のキャラなのかな」
家庭で問題やストレスを抱えていて、本来の記憶はあるけれど忘れたふりをして、現実逃避をしながら、自作であれ何であれ、好きなフィクション作品のキャラクターになりきっている。
などという状況であればまだ、支援の手段はあるが……。
「うーん……、何か彼の身元の手がかりになるような情報がないか」
身元不明者の捜索など警察に任せておけばよいのだが、彼のあまりに痛々しい様子に、何か手助けできることはないかと考える。
ある日突然記憶をなくし、医療や行政、警察の手を尽くしても遂に身元が分からず過去が一切存在しないまま暮らしている身元不明者も、日本には大勢いる。
自称ファルマ少年には、その一人になってほしくなかった。
悩ましいことはもう一つある。
もし捜索願が出ていて身元がわかったとして、彼が怯えている父親のもとに返してもいいのだろうか?
もし、彼が厳格な父親のもとに帰りたくないがばかりに捜査の攪乱を狙っているのだとしたら……? 精神科のコンサルの結果で、院内の虐待防止委員会にも連絡をした方が良いかもしれない。
当直明けの藤堂医師は、カルテに引継ぎの記録を作ると、同じ内科のチームや小児科の医師らに引継ぎを行い、ファルマ少年に挨拶をしに行った。
ノックをした後個室を開けると、彼は信じられない光景を目にした。
ファルマ少年の周囲には、彼を中心に無数の氷の粒が浮かんで静止していた。
藤堂医師の入室でファルマ少年の集中力が切れたので、氷の粒はすべて床の上に落ち、けたたましい落下音が響き渡った。
「おはようございます、藤堂先生」
「お、おはようございますファルマさん。何が起こったのですか」
「ただの日課の鍛錬です」
「ちょっと見せてもらっていいですか」
藤堂医師は目を丸くしながら床の上に落ちた氷を手に取り、蛍光灯に透かす。
そして、中を割って構造を確認する。科学者の視線から、彼は現象を理解しようとする。
「積層構造をしています。これは雹ですね」
雹であれば、凍結融解を繰り返しながら成長させなければこうはならないはずだが、と藤堂医師は考察する。
「にわかには信じがたいのですが、この部屋で作ったものではないみたいですよ」
「はい、神力で作りました。幸い、こちらに来ても神力が残っていたようで。たったこれだけでも精一杯なんですけど」
神力というものを取り戻したファルマ少年は少し、藤堂医師からみても自信を取り戻したかのようだった。
「神杖と神力計がありませんので、いつまで神術が使えるのかわかりません。ですから、あまり神力の無駄遣いをしないようにしようと思います」
藤堂医師は病室のドアを静かに閉め、一語一語確認をするように問いかける。
「昨日、あなたはたしか、水の神術使いだと言っていましたね」
「はい」
「このことを言っていたのですか?」
「そうです。神術を使えることが、帝国貴族の証なのです。神術が使えない者は平民といいます」
「ではあなたは貴族なのですね。ほかにも何かできますか」
「水、氷、熱湯などを出すことができます」
ファルマは両手にぐっと拳を握りこむと、彼の顔ほどもある水の珠を出して浮かせて見せた。
藤堂医師は驚きながら水を一部とって、手で質感を確かめ、においをかぐなどしている。
「これは……真水ですか」
「はい、神術で作り上げた水は、純水のはずです」
「なるほど。把握しました、ありがとうございます」
藤堂医師は、タオルを持ってきて床をふき始めた。ファルマ少年も慌てて手伝う。
「ごめんなさい、拭かせてしまって。ここには私の召使がいないもので」
「いえ、ひとまず誰かが来る前に拭いてしまいましょう」
「藤堂先生の属性は何ですか?」
「属性とは、その神術というものの属性のことですか?」
「もちろんです。もしかして藤堂先生は、医師なのに神術を使えないのですか? あ、ごめんなさい。確かに平民医師もいるとは思うのですが……」
ファルマ少年は失礼だったと気づいたらしく、しどろもどろになる。
「ええとですね。この世界の全員が、あなたの世界でいう平民だと思ってください」
藤堂医師の明快な返事に、ファルマ少年はしばらく言葉を失ったようだった。
「この世界では、神術を使えるほうが異端なのですね。なにもかも、あべこべの世界です。私が神術を使えるということは、隠しておいた方がよいことでしょうか」
「……それは、私にはなんともいえません。ただ、特殊な能力ではありますから、誰かに話す場合は慎重になったほうがいいとは思います」
「異端は命を狙われます。たしか、この世界に来る前に、皆が平民の世界があったらなと願った気がします。もう、毎朝の鍛錬も必要ないのかもしれない。この世界では、神術がうまくできないからといって叱られることはないのでしょう。私も、この世界の人と同じように、神術を隠して平民として生きてゆけばよいのですね」
つらつらと不安を吐露するファルマ少年に、藤堂医師はなんと声をかけてやってよいものかわからなくなった。
「藤堂先生、お願いがあるのですが。神術のことは内緒にしておいてもらえますか?」
「安心してください。医療従事者には、守秘義務というものがあります」
藤堂医師は、病室に置かれた本の中に分厚い辞書があることに気付いた。昨日借りた図書の中にはなかったものだ。
辞書にはしおりがついていて、最後に近いページまで読み切ったことをうかがわせる。
「昨日の本を読み終えたので、代わりにさっき借りてきて、これも読み切りました」
「辞書を……読んだんですか?」
「私は一度読んだ書物に関しては、殆ど内容を覚えています。言葉を覚えるためには、この辞書というものを読むのが効率的だと考えました」
藤堂医師は半信半疑ながら、試してみることにした。
「虚勢恬淡とはどういう意味ですか」
「あなたのような方のことです。無欲で、穏やかで、落ち着いている。そんな感じがします」
ファルマ少年はもう一度水球を出して顔を洗った。藤堂医師は新しいタオルを差し出し、ほかのページを繰る。
「酔生夢死とは」
「無目的に人生を生きて死ぬことです」
そのほかにもいくつか、推測の難しい日本語を辞書より抜粋して問いかけてみるが、ファルマ少年はまったく動じず答え続けた。
そして、それが記載されていたページ番号すら暗唱することができた。
「……映像記憶の能力があるのですね。この世界でも非常に珍しい才能です」
藤堂医師が覚えている範囲では、画家や建築家など。いないとは言わないが、公表すれば取材が来るのは間違いないほど珍しい能力だ。
「帝国貴族たるもの、速読術とともに、記憶術は当然身につけているべきものです」
「これだけの記憶力があれば、この世界で十分生きていけますよ」
「ありがとうございます、そういわれると安心しました」
ファルマ少年はほっとしたように微笑んだ。
「辞書を読んでもしやと思っているのですが、この世界に悪霊はいないのですか?」
「んー……どうですかね。いないでしょうねえ」
「それはよかった。もう悪霊と戦わなくてもよいのですね」
ファルマ少年の口ぶりからは、どことなく悪霊という存在をごく身近なものとしてとらえているようにも見えた。
「あなたは継続入院しますが、私は当直明けなのでこれでお別れとなります。私の名前と連絡先を教えておきます。もし困ったことがあったら、いつでも連絡してください。あなたからの電話は、できるだけとりついでもらうようにしておきますから」
藤堂医師は、名刺の裏に医局の電話番号を書いてファルマ少年に手渡した。
「私への相談が必要なければ、それにこしたことはありません」
「電話という言葉は辞書で見ました。それは私も使えるものですか?」
「近くの大人に言えば、貸してもらえると思います」
藤堂医師は、果たしてこんな状態のままの彼を一人にしてよいのだろうかと自問自答した。
◆
藤堂医師は当直を終えてカルテを記載し、チームの医師にファルマ少年の周知と小児科への引継ぎをして、ようやく帰宅の準備をする。
更衣室で白衣を脱ぎ、私服に袖を通しながら首をかしげていた。
「不思議な子だ……。本当に別の世界からきたみたいだ。いったいどんな世界から来たと思っているんだろう」
藤堂医師が更衣室から出ると、友永看護師からPHSがかかってきた。
ちょうど、更衣室を出たところに友永看護師がいるのが見えたので手を振る。
「藤堂先生! あの子、捜索願が出て、保護者が見つかったそうです!」
「おお、それはよかったです」
「薬谷 完治君というそうです。お父さんがあと十五分で迎えに来られるそうですが。あ、もう先生あがる時間きてますよね。墨田区在住のようですよ」
「お父さんですか……どんな様子でした?」
「無事に見つかってよかったといって泣いておられました。よさそうな人でした」
「わかりました、大丈夫です。少しお父さんとも話したいので、私が説明をしましょう」
別世界から来たわけではなくてよかった、と藤堂医師は一応笑顔になったものの。
父親からの虐待がないかを確かめるほかに、ひとつ疑問は残る。
藤堂医師は、クーラーボックスに氷を詰めて、先ほど彼が作り出した雹を一つ入れ、詳しく調べるために自宅に持って帰ろうとしていた。
(では、これは何?)
【謝辞】
本項は、
医師・医学博士 村尾命先生
にご監修いただきました。
誠にありがとうございました。