2章7話 横山唯桜は見えていた
「すみません、今日も付き合っていただいて」
「いいよー東京観光のついでだし。ファルマくんの神術も見学したいし」
ファルマ少年は残りの夏休みの間にレイアと東京結界を探訪して回り、今日は水天宮に来ている。
悪霊の発生を防ぐことができないのなら、現地結界を神術で強化しておけば発生頻度を下げることができるかもしれない。そう考えたためだ。
自らが創生者Xの標的となり、悪霊を無限に呼び寄せている。
それが周囲の人々を危険に晒す。
そう思うと、何かしないではいられなかった。
東京結界とは東京五社を繋ぎ皇居を守る結界のことで、東京大神宮、神田明神、日枝神社、水天宮、金比羅宮から成る。
東京五社の構成については他にも諸説あるが、ファルマ少年が利用できそうだと感じたのはこれらの神社の結界だった。
神術陣を保つために何日おきに結界を敷設し直せばよいのかは定かではないが、除霊の効果があるのならば運動を兼ねて通ってもいいなと考えている。
「結界なんてあるものかねえ。全然見えないや。霊能者の才能はないみたいでへこむなー」
白いマキシワンピースのレイアはしゃがみこんで虫眼鏡で地面を見ている。
本気なのかツッコミ待ちなのか、とファルマ少年はくすりと笑う。
「細くて見えないのかなー。ねえ、どんな感じで見えてるの?」
「結界は細い線とかじゃありません、敷地全域ですよ」
「線じゃなくて面なんだ!」
レイアは恥ずかしそうに虫眼鏡をポケットにしまう。
3Dメガネも持ってきていたがこっそりと隠していた。
「結界や聖域は実在しますよ。この世界でも機能していて私としてはありがたいですけど、見えないのは不便でしょうね」
ファルマ少年はそう言いながら神術陣を敷設するポイントを見定めつつ境内を回る。
レイアもファルマ少年の背後から数歩離れてついてくる。
「人々の思いが悪霊を作るように、人々の思いが結界を維持し続けています」
「思いかー。最近は残存記憶を回収しなくなったからその場に残ってんのかな」
「死者の記憶って回収されるものなんですか?」
そんなの初耳だ。
少なくとも、ファルマ少年のいた元の世界にはなかった。
もしそんなことができるのなら悪霊の発生を未然に防ぐことができそうだが、そんな神術は伝わっていなかった。
禁書あたりに記載があるのかもしれないが、ファルマ少年の預かり知るところではない。
「っと、地球ではつい最近まで私達が人間の乖離記憶を回収して仮想世界に保存していたんだよ」
「記憶回収業ってあるんですか。何のために」
「研究と死後福祉サービスってやつかな」
仮想死後世界は人の精神活動の研究を目的に設置されていたが、今はもう廃止されている。データをとる必要がなくなったからだ。
しかしおよそ百年後の未来ではこれを模倣したもの、仮想死後世界アガルタゲートウェイが人々の手により構築される……ということをレイアは知っている。
この東京異界に入ったときに未来の時系列の記憶を取り戻し、思い出した。
「では記憶を回収すれば悪霊も出ないんじゃ……」
「古い記憶は回収できないって聞いてるよ。時間がたつと消えるんじゃないかな」
ファルマ少年の提案に、レイアは首をふる。
「時間が経つと悪霊になってしまいますからね。それで難しいのでしょう」
「そういう仕組みがあるんだ。単に消えちゃうのかと思ってた」
今度はレイアが目を丸くし、悪霊になる仕組みを聞いて感心している。
二人は暑さをしのぐために神社の庇に入る。
「少なくとも私の世界ではですけど」
「オカルト関係は私も知らないことだらけだなー。ファルマくんの話は興味深いよ」
「私にとっては事実であり、私を生かしてきた技術の結晶なので」
「ごめん。今の話から察するに、都内だけでも記憶を回収しといた方がいいのかもね。きっと優しい兄がやってくれるでしょう」
レイアは空に向かってぼそりとつぶやく。
「じゃ、そういうことでよろしく」
「え、今ので藤堂先生に伝わります?」
「伝わったんだな」
少しでも面倒なことは全部藤堂に押し付けるとのこと。
自分の方が強いが兄のほうが聡明だと言っていたので、兄妹で役割分担がはっきりしているのだろうか。ファルマ少年は対等で、互いに尊敬しあっている兄妹関係が羨ましかった。
その藤堂だが、今日は姿を見せていない。
最近は兄妹のどちらか片方が必ずファルマ少年の外出先に同行してくれている。
家族や友人との外出のときには、不可視化領域を纏ってついてきてくれている。
レイアが9で藤堂が1といった割合だ。
「いいですね、兄上とそんな関係で。私のところなんて兄に戦闘訓練で半殺しにされたこともざらですよ。兄には勉学でも戦闘でも一度も勝てたことがありません」
「わかるわー。私は兄二人から訓練で全殺しにされたこともざらだよ」
「全殺しって死んでるじゃないですか」
「そう、四桁くらい殺されたことあるよ。身内に殺されるのは嫌なもんだよねえ……恨みっこなしだとはいっても。まあ、私も倍ぐらい殺したけど」
「……ええと、さすがに盛ってますよね」
「四桁じゃなくて三桁だったかな」
さすがにゲームか何かの話だろう。
あまり深掘りせず話半分に聞いておこう、とファルマ少年は思った。
「もしかして兄妹仲悪いとかですか」
「恒とは仲いいよ。遼生とはあまり絡まないかな。ファルマくんの兄弟仲は悪いの?」
「……………黙秘します。妹とは仲がいいです」
「へー。でも会えないと寂しいんじゃない?」
パッレからはとにかく見下されていたので、仲がいいのか悪いのかすら分からなかった。
一度も腹を割って話したことがない。
神術訓練では毎度のように怪我をさせられ、いつか悪霊にではなく兄に殺されるのではないかと思っていた。
「そうですね……」
「ん。せっかく来たから参拝しとこうかな。知り合いいるし。ファルマくんも、いつか元の世界に戻れますようにってお願いする?」
レイアはそう言いながら参拝の列に並ぶ。
水天宮の祭神の天之御中主神と面識があるという意味で言ったが、神社の職員に知り合いがいるのだと勘違いしたファルマ少年は聞き返さなかった。
この時点ですでに幾重にも勘違いが起こっていた。
「お賽銭五円じゃキレられるかなー。千円ぐらい入れとくかー。でも奮発するとお守り買えなくなっちゃうし。あれ、ファルマくんはお参りしない?」
「異教徒ですから遠慮しておきます」
ファルマ少年の中では、神殿の教えと異教との線引きは厳然としていた。
「それにここ、子授けや安産祈願の神社のようですけど」
「子供も安産も今はご利益いらないね。でもファルマくん、鳥居をくぐるし結界を利用するんだね。いいね、ドライなところ嫌いじゃないよ。異世界の薬神様を裏切ったら神術が使えなくなるから?」
「信仰もありますし、この力を失うわけにはいきません」
彼はバッグの中から折りたたみ傘を取り出した。
「できることは何でもしますよ」
神術陣を張るには杖のほうが取り回しがよいため、晶石は屋外では折り畳み傘につけて杖化している。
「……人通りが少なくなりました。寺社の結界を利用する形で、神術陣を配置して拡張します。今から詠唱しますね。そこどいてください」
人通りがあるときに神術陣を展開すると神力の流れが途切れてしまうこともあるため、できる限り周囲に人がいてほしくない。
レイアはファルマ少年の背後に立って見物する。
「無詠唱使えるようになったんじゃなかったっけ」
「使えます。でも時間がある時はきちんとしたいんです」
「なるほど。美味しい白米食べたいときは早炊き使わないとか、味噌汁作るときはだしの素は使わない感じでしょ」
「ちょっとわかんないです」
「動画撮っていい? 後で解析したいから」
「いいですよ」
“Elementum divinum,
Circumplecte me per virtutem tuam.
Aqua defendat, astra tegat,
In tenebris locus meus sit.
Lustra omnia, finem fac…”
ファルマ少年が詠唱を始めると境内の空気は一変し、鳥が一斉に飛び立つ。
人間には見えないながら、動物は何かを察しているようだ。
「気圧が局所的に上がってきてるね、気温も。エネルギー凝集反応も……あ」
詠唱中のファルマ少年は返事ができないので、頷くにとどめる。
“Per hanc potentiam, aqua, ego te invoco…”
邪魔をしてしまったレイアは口を押さえて反省する。
ファルマ少年は動画を撮られていることを意識しながら長詠唱を終え、最後に発動詠唱を唱える。
"La protection du dieu de l'eau(水神の守護)!"
神社を基点に、ベールを纏うように半径数キロの円柱状の青い神術陣が展開されているのがファルマ少年には見える。
神術陣を使って神社の結界を広げることに成功した。
「面白いね。現実世界に及ぼす変化もしっかりあるんだ」
「職員の方にばれましたかね。彼らは結界を作っているはずですから」
「いや、だーれも気づいてないよ。今のとこ。一人ぐらい霊能者とかがすっ飛んでくるかと思って構えてたけど」
レイアは敷地内にいる人間全員に看破をかけて読心を行い、誰も気付いていないことを確かめた。少し悪寒がした者が数名いた程度だ。
「レイアさんのそれは読心術なんですよね」
「人の思考は100%読めるんだけどね。ファルマくんの思考は読めないんだー」
「私が異世界人だから物の考え方が違うのでしょうか」
「多分そう。んで、ガチで霊感のある人ってそういないみたいね」
「妙な話ですね。都内のいたるところにこんなに強い結界があるのに。私のいた世界では、貴族には全員悪霊が見えていました」
「その世界観怖くない? 東京なんて落ち武者とかそこら中にいそう」
「怖いですよ。だから何があってもいいよう備えているんです」
ファルマ少年はブランシュが悪霊嫌いだったのを思い出す。
悪霊におびえて何度夜中にベッドに潜り込まれ、そして布団を取られたことか。
この世界の人々も、誰一人として怖い目に遭わせたくない。
「これで何事もなければいいんですが。そうもいかないんでしょうね」
「ごめんね。私達も悪霊の襲撃を防ぎきれなくて。大きなこと言っておきながら結局戦力は君がメインになっちゃうのが痛いよね」
レイアは困ったようにため息をつく。
上位次元にある創世者Xの攻撃が絡んでくると、現空間現次元では無敵の恒もレイアも後手に回るしかない。しかも創世者Xは空間を切り裂いて悪霊を送り込んでくるため、発生地点を予期することができない。
管理者といえど、ファルマ少年のサポートに徹するしかできないのだ。
「いつもついてきてくださるの、護衛のためですよね」
「まあね。ちょっと状況が変わってきたからね。一緒にいたいんだ」
「でも、もうすぐ学校はじまりますから単独行動になりますよ……」
「視覚郭清を使えば学校には入れるよ」
ファルマ少年の学校生活の間中ずっと付きそう気なら、完全に不審者だ。
不可視化術を使えると言っても、男子トイレの個室には来ないでほしい。
そう思うファルマ少年であった。
「まあでも、私か恒が隣にいたとしてもだめかもしれないけど」
「どういう意味ですか?」
「空間の守りが固いとなると、創世者Xは別の方法を試すでしょ」
「これまでになかった攻撃がくるということですか」
ファルマ少年は固唾をのむ。
今でさえ悪霊はともかく数々の異常現象に対してこうも無力なのに、これ以上の攻撃が来るとどうなってしまうのだろう。そんな恐怖に打ちひしがれる。
「例えば、空間の一部を千切られるとか」
「幾何平面で切断したり、空間を円環状に収縮させて切り取るとかですか。合ってますか?」
「方法は色々あるけどね」
知識不足が死活問題となることを痛感していたファルマ少年は、ここのところレイアに専門書を借りて宇宙物理学の修学に精を出していた。
「私が一歳のときに読んでいた簡単な本なんだけどー」などと冗談なのかもよくわからないことを言っていたが、彼女の貸してくれる本にはいつも著者名がなく、辞書ほどの厚みがあった。
ファルマ少年の速読と完全記憶能力をもってしてもそれを読み終え、理解するのに一日かかった。
「もし、別空間に取り込まれてしまったら」
「助けに行くよ」
レイアはヒーローさながらサムズアップして白い歯を見せる。
その胡散臭さはともかく、気持ちだけでもありがたいとも思う。
「助けには行くんだけどね……来ないかもしれない」
レイアがファルマ少年の反応を待っているようだったので、ファルマ少年は黙考する。
「来ない」と「助けに行く」では矛盾している。
「あっ……到着までの時間ですか」
ファルマ少年は恐ろしいことに気付いた。
レイアは正解と言いながらパチンと指を鳴らした。
「そ。切り取られた空間でも時間は四次元座標系として進行し続ける。だけどその切り取り方によってはどうかな。一秒が別空間の千年になるかもしれないし、内部でどんな変化が起こるかも分からない、ってこと。助けには行くけど、それまで一人で耐えられそう?」
空間が修復されるまで神術を使いながら時間を稼ぎ、自力で対処するしかないということだ。別空間へ取り込まれてしまえば、即死だってありうる。
「……無理そうです」
「そうなの。だから対策しないとでしょ」
「何かありますか」
「完璧な対策はないけど、どうしようかな。お守りでも渡しとく」
レイアは空に手をかざす。
何をしているのか尋ねると、空間の隙間から道具を呼び出しているとのこと。
「Call、PS1 to D-ARK(陽階1位より中央神階へ、次元の方舟を帯出)」
彼女が手を下ろすと、どこからともなく現れた幾何学模様の刻まれた銀色の小さなシールを握り込んでいた。何の変哲もないシールなのでファルマ少年は疑わしく思うが、よく見ると薄く発光している。
「光るシールですか?」
「100均にありそうだけどこう見えて優秀でね。空間異常を検出し、君を中心として現空間法則を維持し続け、ナビゲーションする装置なの。時間遅延が起こっていても修正してくれる。即死回避アイテムだと思って」
「すごい。ありがとうございます。でも、これ私に使えるんでしょうか」
「これはチャージ式で自動展開するから操作は不要なんだ」
彼らの使う特殊な道具は基本的に随時ダークエネルギーを必要とするが、バッテリー型のものも僅かにあるという。
レイアは自身のエネルギーを充填してファルマ少年に手渡す。
一度の充電で五年ほどもつという。
「それは助かります。名札の裏にでも貼っておきます」
「あーそこじゃなくてここに貼って。骨伝導で通信するから」
レイアはふふっと笑いながらファルマ少年のこめかみのあたりにふれる。
くすぐったい。
「汗で剥がれませんか」
「皮膚に同化して剥離コマンドを受け付けるまで剥がれないよ。洗っても大丈夫」
レイアが左のこめかみに貼ってくれた。
シールはぴったりと接着し、接着すると皮膚に同化して剥がれない。
動作テストをすると、音声アナウンスが骨伝導で頭の中に流れ込んできて便利だ。
「AIみたいなもんだから、演算もやってくれる。私が来るのでは遅いかもしれないし、恒は東京の管理者だから助けに来ることができない。だから最寄りの空間にいる空間使いにも発信するようにセットしておいたよ」
話を聞けば聞くほど、藤堂兄妹が特別な存在なのではなく、同等の能力を持った人間が何人もいるのだとわかる。
「ありがとうございます。私と面識ない人が来たりしますか」
「顔を知っておきたい?」
「ぜひ」
レイアはデバイスに入った写真を見せてくれる。
彼女が見せてくれた三人の顔と名前は全員記憶した。
「この人は小学校教師のユージーンさん。ファルマくんをこの世界につれてきた人。来ないと思うけど、一応可能性はあるから」
金髪で碧眼の若い青年だ。とても空間を使えるほど強そうには見えない。
「晶石を持たせてくれた方ですか、ということは恩人ですね。お会いしたらお礼を言っておきます」
「そだね。でも気を許さないほうが身のためかも。優しいけど怖い人だから」
「裏があるってことですか?」
彼は味方ではあるが、時空管理者として空間を最適化させ続けており、最適でないと判断した空間を停止させているという。
藤堂は彼の配下にあり、権限の一部を譲り受けて都内を掌握し空間最適化を行っている。
藤堂は意図的にファルマ少年を生存させるルートを選び続けているが、藤堂の権限の及ばない都外でユージーンに切り捨てられたならひとたまりもないとのこと。
「全てはこの方の気分次第ということですね……口のきき方に気をつけます」
「口のきき方は気にしなくていいけどね。こっちは私の兄の八雲 遼生。恒の保護下にあると言ったら助けてくれる」
「藤堂先生の名前、すぐ出します!」
段々わかってきた。
色素の薄い肌を持ち、紅茶色の髪をした青年。
遼生も穏やかそうに見えるだけに、本当に外見に騙されてはならないと思う。
「最後にフィドルプレーヤーの荻号 正鵠さん。子供は殺さないから大丈夫……多分」
最後に赤髪の男。一癖ありそうな佇まいだ。
立て続けに裏のありそうな物言いに、ファルマ少年はおそれをなす。
「……皆さん、基本的に何かあれば殺す感じですか」
レイアの仲間はシリアルキラーの集団なのだろうか。
頼むからレイアが来てくれと願うほかにない。レイアは目をそらす。
「全員危険人物だけど、来るからにはきっと助けてはくれると思うから!」
そういうレイア自身も東京を破壊しつくしていたりファルマ少年の目の前で死んだりしていたので、あれ以上のことがあるのかと身震いする。
フィドル(ヴァイオリン)プレーヤーの荻号はチャンネルを持っているというので動画を見せてくれた。確かにライブの動画で超絶技巧の曲を弾いていた。初心者講座なども撮っている。
「チャンネル登録しておきます。私もヴァイオリン弾きますけどさすがにここまでは弾けないですね」
「ファルマくんなに? ヴァイオリン弾けるの!?」
レイアが驚いて食いついた。
「ええ。驚くようなことですか」
「君その歳でほんとなんでもできるね。能ある鷹、爪を隠しすぎだよ!」
「チェンバロとヴァイオリンとヴィオラを弾けます」
パッレもエレンもブランシュも何かしら楽器を嗜んでいるので、誰でもできると思っていた。
「貴族の嗜みってやつ? 勉学に神術に芸術に、馬術もあるんでしょ? はー。貴族って色んな能力が求められるもんだねえ!」
「普通に教養かと……」
「もう嫌味がないから清々しいわ! そうだ、楽器店寄って帰ろ! ファルマくんのヴァイオリンを聴きたいから!」
「ちょっと弾けるぐらいですから」
辞退しようとしたが、楽器店に寄ってまんまとヴァイオリンとピアノを弾かされるハメになった。
「せっかくだから一番高いやつ出してもらお」
レイアが店員にショーケースから180万と値札の付いているヴァイオリンを出してもらっていた。完全に冷やかし状態になっていて迷惑だろうと思うが、仕方がないので手にとってみる。
本来、試奏をするときは飛び込みではなく予約をして、自分の弓を持ってくるべきだ。
「弾いたら買わないといけないですか?」
「そういうシステムじゃないよ」
店員も冷やかしだと思われているのか早く終わってほしそうにしていたので、元の世界でのレパートリーを試奏してみた。
十分ほどの演奏が終わる頃には人が集まってきて、勝手に動画を撮られていた。
レイアも最前列で拍手をしている。
「いい音が出ますね。気に入りました」
「いやあ、お世辞抜きに上手すぎない!? こんなん聴いたらもう恒のカード使ってヴァイオリンを即日買っちゃうレベルだよ」
「……お兄さんのカードで勝手に買わないでください」
「あ、今連絡したけど買っていいって」
「嘘でしょ」
「すみませんこれください。はい、一括で」
「いやいやいや、いいですから」
レイアがその場で買おうとしていたので、ファルマ少年は止める。
だいたい、楽器演奏は貴族としての教養であり義務だったのであって趣味でもなんでもないのだ。
「こんな上手なら音大行くしかないでしょ? 才能が勿体ないよ!」
「行きませんよ。上手かっただけで進路が決まる世界なんですか?」
だいたい何か才能があればそのプロを目指したくなるもんだよ、とレイアは言う。
家業を継ぐ以外の選択肢のなかったファルマ少年には新鮮な考え方だった。
「とにかく、音楽家になるつもりはないので」
「未来の才能が秒で潰えちゃった……」
楽器店にチェンバロがなかったのでピアノを触らせてもらったが、音の強弱がついて長く音が出せるので気に入った。気分良く弾いていると、楽器店の店員に「それ誰の曲?」と訊ねられたので、異世界の楽曲を弾くのは慎むべきだと思った。
レイアに言わせれば、「バロック音楽に似てる」との評だ。
ギャラリーをあしらいながら楽器店での演奏をひとしきり楽しんだ後、帰宅する。
両親にはレイアと寺社めぐりをしていると説明していたので特に怪しまれていない。
寝支度を整えていつものように異空間の寝室に入ると、そこには楽器店で試奏したヴァイオリンと、レイアの「返さなくていいから貸してあげる」という手紙と、楽譜がいくつか用意されていたので吹き出しそうになった。
「……いいって言ったのに、あの人は……」
フットワークの速さに驚き、兄妹二人共ヴァイオリンを弾けないのに買ってもらってと申し訳なくは思いながらも、突き返すわけにもいかず、借り物だということで演奏してみる。
異空間の寝室は音漏れもなく、快適な練習室になる。
すぐにモバイルで藤堂兄妹にお礼のメッセージを送信して、新しい楽譜を読みながら久しぶりに練習に打ち込んでいると、先ほどまでの悪霊襲撃の恐怖を忘れることができた。
「少しずつ練習してみようかな。あ、これ智子さんが見ているドラマの主題歌だ」
レイアは過酷な現実を忘れさせてくれようとしたのかもしれない。
ふとそんなことを思った。
◆
9月、夏休みが明け、ファルマ少年の初登校日がやってきた。
母、智子は朝の身支度を整える息子に気を使いながら、初日のアドバイスをくれる。
「初日は元気に挨拶ができればいいから。いきなり友達を作ろうとしなくていいのよ」
「ありがとう。心配いらないよ。ところで友達って何人ぐらい作るべきなの?」
ファルマ少年は真新しい制服に袖を通し、襟を整えながらふと疑問に思う。
平民の世界での社交の流儀がわからない。
小学校生活を円滑に送るための留学生向けの動画を何本か見て、学校生活のイメージを膨らませ、校則や校歌も覚えて予習をするなどした。
全教科の抜き打ちテストがきても予習をしているし基礎学力はあるので問題ない。
だが、数日は目立ったことをせず、様子をみるべきだろう。
そして智子を心配させない程度に、周囲の付き合いはするべきだと判断した。
「……作るべきというか、気が合う人が数人いればいいと思うわ」
「わかった。緊張してないよ。友達はそのうちつくるし、サッカーで仲のいい人もいるし、俺のことはあまり心配しないで。母さんも忙しいんだし」
「あら優しい。なんだか急に大人っぽくなったわね、母さん戸惑っちゃうわ」
ファルマ少年の経験ではサン・フルーヴでの皇帝陛下への往診の付き添いの際には少し緊張はしたが、それ以降は対人で緊張したことはあまりない。
事前訪問のときに担任に学校案内をしてもらったので、敷地内の校内で迷う心配もない。
転校先で馴染めるかを考えるより、学校周囲に悪霊が出るほうがよほど怖い。
挨拶をしながら敷地内に入ると、学校玄関に活発そうな印象の女性教師が迎えにきてくれていた。
小柄でファルマ少年とほとんど身長が変わらないが、彼女が担任だ。
「薬谷さん、おはよう! 坂本です。今日からよろしくね」
「坂本先生、よろしくお願いします!」
坂本は元気よく話しかけ、ファルマ少年の緊張をほぐそうとしてくれる。
「では先生、よろしくお願いします。私はこのあたりで」
「お母さん、付き添いありがとうございました」
母智子は坂本に挨拶をし、必要書類を提出した頃合いで帰っていった。
教室までの廊下を歩きながら、坂本はクラスの様子を話して聞かせる。
「自己紹介のときに趣味と得意な教科を聞くからね。何か皆に話したければ自由に話していいし……思ったより緊張してないみたいね」
「はい、新しいクラスの皆さんと会えるのが楽しみです」
5年2組の教室に入ると、好奇と歓迎の視線がそそがれた。
サッカー部の男子と三人ほど面識がある。
彼らが手を振ってきたので、黙礼する。
坂本の紹介を受け、ファルマ少年も全く緊張することなく自己紹介を行う。
趣味は読書、得意な教科は算数でサッカー部に入部予定ということにしておいた。
特技は神術、乗馬、楽器演奏などとは言わない分別を持っていた。
「じゃ、薬谷さんの席はそちら。座って」
日当たりのよい窓側の一番前の席に案内される。
行儀よく着席していると、横の席の女子がこっそり話しかけてきた。
「薬谷さん。私、横山 唯桜。多分だけど斜向いに住んでる。上田さんから色々聞いてるよ」
「どんなふうに聞いてる?」
ファルマ少年はどぎまぎしながら尋ねる。上田には一度水の神術を見られている。
変人だとか、怪しいとか、悪い噂でないことを祈る。
噂が立つとこの世界の家族を悲しませることになる。
「足が速いって。どれぐらい速いのか気になって」
「たいしたことないよ」
「えー、上田くんが凄いって言ってたもん。後で競争してもらえる?」
横山はよほど脚力に自信があるとみえる。
ファルマ少年はひとまず悪い噂が振りまかれていたのではないことにほっとしつつ、競争するつもりはない。
「やめとく。横山さんの勝ちってことでいいよ」
「お願い、一回だけでいいから」
「そこ、楽しそうね。授業中に盛り上がらないの!」
坂本から早々に注意をもらってしまったので、二人はばつがわるそうに顔を見合わせた。
「ごめん。私が話しかけたから先生に一緒に怒られて。登校初日なのに」
「全然気にしてないよ」
休憩時間になって、ファルマ少年は横山に平謝りされていた。
注意を受けることなど、ファルマ少年は意に介していなかった。
教師が鞭を持っておらず、何のペナルティもない。
口頭注意だけなど全くこたえない。
それより、横山が気にしているようだったので気まずい思いをしていると、上田 陽介と数人が近づいてきた。
「薬谷、転校初日にあのマジックお披露目しねーの?」
「何のこと?」
「こいつ水を使ったすげーマジックができるんだぜ。俺、見たし」
「見たい!」
上田が自慢げに神術、もとい水のマジックのことを男子に話してしまったらしい。
少々面倒なことになってしまった。
「タネがないからできないんだ」
「まじかー。前もそんなこと言ってたけどいつ見せてくれるんだよ。あれも一回見たいんだよ」
「今日はこれぐらいしか」
ファルマ少年はやむなしと、消しゴムを消す簡単な手品をやってみせた。
神術を使わない手品で、神力切れを起こしたときにそれを敵に見抜かれないための小手先の技だ。エレンから教えてもらった。
そんな子供だましでよければいくらでもネタはある。
多くの子供達の目もあることだし、ファルマ少年は学校では神術を使わないことに決めていた。
次に念じた数字の透視をやってみせ、タネをすべて公開すると、小学生には大受けだ。
「すげー! 薬谷ってマジックの達人じゃん」
上田はどうやらクラスの人気者のようで、積極的に話しかけなくても周囲に絶えず人が集まってきていた。
上田がファルマ少年を紹介してくれたので、クラスの半分ほどとやりとりをすることができた。
上田に感謝といったところだ。クラスの子どもたちの顔と名前はすぐに一致した。
友達になろうと言ってくれた子も何人かいたので、智子の心配が一つ減りそうだ。
初日は四時間だったので、給食を食べずに帰る。
上田は委員会に出て帰るというので、家の近い横山に誘われて一緒に帰ることにした。
帰り道、横山 唯桜は嬉しそうに話しかけてくる。
あまりこちらの情報を出さないようにしながら、ファルマ少年は彼女の話を聞く。
彼女は三人姉妹の真ん中で、成績優秀、スポーツ万能。生徒会の副会長。朝のランニングが趣味。ゴールデン・レトリーバーを飼っている。とりとめもない話だが、ファルマ少年は情報として頭に入れてゆく。
「よかった。ずっと薬谷さんと話してみたかったの」
「まるでどこかで見てたみたいなこと言うね」
「ちがっ、そんなつもりじゃ」
横山は恥ずかしそうに顔を赤らめる。
横山は斜向いに住んでいると言ったので、室内から見ていたのだろうか。
何をしているところを見られていたのだろう、とファルマ少年は肩がこわばる。
「夜、家族に内緒で外に出てたでしょう。何してるのかなって気になってたんだ」
「まいったな」
「バレたらまずいことでしょ。なら内緒にしとくよ。ちなみに、薬谷さんといつも一緒にいる女の人……気づいてる?」
思わぬ話題になった。そして、これが一番彼女が訊ねたいことのようだった。
「あの女の人って?」
「金髪の、めっちゃ美人のお姉さんで……」
元の世界では「誰?」となるが、この世界で思い当たる知人はレイアしかいない。
「お、お隣さんだよ。よく遊んでもらってるんだ」
お隣さん呼びは他人行儀な気もするが、何も間違っていないはずだ。
「今朝も電柱の影や校門の横で薬谷さんのこと心配そうに覗いてたの、知ってる?」
「知ってる。心配症なだけのいい人だから。ほんとだから。今度紹介するよ」
「ちなみにそのお姉さん、生きてる?」
「もちろん。普通の会社員だよ」
普通の、というところを強調してしまった。
通報されてエリアメールに配信されたり、事案になる前に教えてくれてよかったと思う。
それを聞いた横山はほっとしたように見えた。
「よかった、生きてた」
「へ、変な人じゃないから気にしないで」
「変な人っていうか、透けて見えた気がしたの」
「透けて見えた?」
それを聞いたファルマ少年は不審に思った。
視覚郭清領域を展開しているときのレイアと藤堂は、ファルマ少年には透けて見える。
だが、一般人には見えないはずだ。彼女は普通の人間とは違うのだろうか。
「あれ?」
横山がぱたっと足を止めた。
「待って、学校に戻ってる」
ファルマ少年はその言葉にはっとして周囲を見渡す。話に夢中になりすぎた。
学校を出て通学路を歩いていたはずが、いつの間にか学校の敷地内に戻っていた。
校庭は無人で、校門のあったあたりに空間の歪みができている。
更に学校の敷地の外は黒くなっていた。
(藤堂先生!)
(レイアさん!)
ファルマ少年は藤堂兄妹を呼ぶが、二人共応答しない。
少なくとも藤堂は念じただけでどこにでも現れる。
応答しないということは、ここはもはや東京ではない。
「しまった……」
ここは別空間だ。レイアの懸念が的中した。
何の前兆もなく、沼に沈むように別空間へと引きずり込まれているとは。
(呼吸が……)
段々と息切れと動悸がしてくる。
「横山さん、しっかり」
横山がよろけたので、ファルマ少年は彼女をかばう。
意識が途切れそうになった瞬間、こめかみにチクっとした痛みが走る。
【空間異常を検知しました。変異率82%、時間軸遅延24%、生命維持不能につきDimension ARKを起動】
【疑似脳に接続不能】
D-ARKが起動したのだ。
次々と骨伝導で情報を伝えてくれる。
【直前の空間環境を固定、時間遅延を26%修正、ARKを径325mで堅持し、救援要請を行います】
D-ARKはファルマ少年を囲うように青い帯状の領域を展開して空間異常を修正してくれている。
その領域が立ち上がると同時に呼吸の苦しさがとれる。
横山も何とかもちこたえた。
レイアの判断でD-ARKを貼っておいてよかった。
「取り残されている人は」
【バイタルコード 99D34s6p 横山 唯桜、一名です】
残りの人間は元の空間にいる。巻き込まれたのは横山一人。
彼女のみを庇えばいい。
【救助者応答しました。到達まで368秒、367……】
超空間通信が成功した。救助者が来る。誰が来るのだろう。
誰かが来ないと元の世界に戻れない。
頼むからレイアであってくれと願う。
(それでも来るまでに6分……!)
地面から、複数の黒い蛇のようなものが現れはじめた。
それら一本一本が寄り集まって、大きなうねりになろうとしている。
これまでの経験からして、あれが巨大な悪霊へと発展するに違いない。
「薬谷さん、これ、黒い蛇みたいな……! どうする!?」
横山には悪霊が見えている。
別空間だからといって悪霊が見えるようになるわけではないだろう。
彼女はそういう体質なのだ。ファルマ少年は慎重に尋ねる。
「見えてたのは昔から?」
「時々変なのが見えてた。でもこれが一番やばそう……」
見えているなら話が早い。横山にも協力してもらう。
「横山さん、さっき走るの得意だって言っていたよね。黒いのに当たらないよう避け続けて。 動きは早くないから避けられる。そうすれば……」
ファルマ少年は傘を強く握り込む。
「攻撃に専念できるから」
戦闘神術と防御神術は同時に使えない。
これだけ悪霊の数が多いと連続攻撃をしなければならないが、横山を守りながらでは効率が悪い。
横山の前で神術を見せることを躊躇わない。
全力を出さないと二人共やられる。
生還できたら、藤堂かレイアに彼女の記憶を消してもらえばいい。
横山の背中にそっと手を添え、加護として神力を送り込む。
彼女を自身の延長のように、彼女に薄い神力をまとわせた。
これで、悪霊に触れても即死は免れる。
「わかった! やってみる!」
「行って」
横山の背中を押しだすと、彼女は走り始めた。
ファルマ少年は対悪霊戦闘で使用する最大領域とD-ARKの網羅範囲を算出する。
“Mur de glace(氷の壁)!”
横山がD-ARKの防御網羅範囲の外側に出ないように念詠唱で氷壁を築き、彼女に背を向けて悪霊の前に立ち塞がる。
“Flèche de la glace(氷の矢)!”
最大出力の神力を込めた矢の連撃で悪霊を射抜く。
神力を蓄えた氷の矢に触れた悪霊は雲散霧消。
瞬く間に大蛇を削ってゆく。
彼は杖を持たない方の拳をきつく握り込み、神力を込め地面に一撃を浴びせる。
“Anneau de cristaux de glace(氷晶盤)!”
神術の氷が地を覆い、怒涛の勢いで氷板を展開させてゆく。
それは薄い氷板というより氷山ほどの分厚さを備えている。
地面、そして地中。空間内に生じる悪霊を、根こそぎ凍てつかせてゆく。
攻撃を察知した黒蛇が、四方八方から襲いかかってくる。
ここ一ヶ月の間に戦歴を積み重ねているファルマ少年は冷静に行動し、神力を出し惜しまない。
“Interdiction de l’eau(水の禁域)!”
移動しながらも彼の周囲に生じさせた水滴に指向性を与え、一気に弾丸に変える。
それらは傘で示した先へと飛び、眩く青い軌跡を描き悪霊の頭部を破壊する。
「すごー! 薬谷さん、あれと戦えるの!?」
横山はファルマ少年の神術に驚き悲鳴を上げながらも走り続ける。
「横山さん、避けられてる!? 足を止めないで。狙われるから」
「てか全然当たってない。薬谷さんが全部防いでくれてる!」
ファルマ少年はその走りっぷりを見て感服する。
走るのが得意というだけあって、持久力もスピードも十分だ。
とはいえ横山には一匹も悪霊を寄せ付けていない。
「横山さんの脚が速いからだよ」
安堵しつつ自身も疾走していたファルマ少年は、突然目の前に現れた何かにぶつかりそうになり、急ブレーキをかける。
もう少しでぶつかるところだった。
黒い光を纏い、空間を捻じ曲げて現れたのは荻号 正鵠だ。
写真を見ていてよかった。
空間の歪みの中に立つ彼は、まるで魔術師のように見えた。
「知らない奴だな」
彼からは殺気のようなものを感じないが、敵意はある。
もし荻号に悪霊が見えないなら、不審者はファルマ少年ということになる。
この世界の異物とみなされれば、殺されても不自然ではない。
ここは藤堂の管轄を外れている。
どうする、藤堂の名前を出すか。判断が遅れた。
「っ……」
ファルマ少年は本能的に彼と距離をとる。
「薬谷さん! その人は!?」
何も喋らないでくれ、とファルマ少年は横山を視線で牽制する。
「お前……Dimension-ARKと ה י ב ו מ ך ה±(HARMONICS±)を帯びているな。中央神階管理者の庇護下にある。ユージーンにしては権限が弱い。分かった。管理者は藤堂か」
悟られすぎている。
藤堂の話だと、ファルマ少年には読心術が使えないそうだ。
にも関わらず僅かな情報から十を察している。
「荻号さん、動かないで!」
言うが早いか、ほぼ殴りつけるような動作で、ファルマ少年は荻号の背後に迫っていた悪霊に神力を当てて撃破する。
荻号はファルマ少年に殴りかかられても微動だにせず、背後を振り返りもしない。
悪霊の残骸が空中から降りかかってきたので、ファルマ少年は傘を振りかぶってそれらも消す。
「あのな……今、即死だったぞ。お前が」
彼が何を言いたいか、ファルマ少年にも見当がつく。
「すみません。物理防壁を解除している、もしくは解除してくださると予測し、悪霊を祓うことを優先しました。藤堂 レイアさんから伺っています。はじめまして、荻号 正鵠さん」
「ああ……それでお前は誰だ? 俺に何をしてほしい」
ファルマ少年は手短に告げる。
藤堂兄妹の庇護を受けている異世界人であること。
人間には見えない悪霊と戦っていること。
この場では横山を庇護し、戦いを終えたら元の世界に連れて帰ってほしいこと。
「お前のことは守らなくてもいいのか?」
「援護は不要です。その子をお願いします!」
ファルマ少年は確信を持って頷く。
横山を庇わず、一人なら悪霊を仕留められる。
「俺に戦力を期待しない奴に会ったのは初めてだ」
彼は舌打ちをすると、ファルマ少年の頭上を飛び越えて横山の鳩尾に手を回し、ひょいと片手で抱き上げる。
「存分にやれ」
そう言い残し、瞬間移動としか思えない速度で上空に滞空した。
「ちょっ……飛んでる――!」
横山が荻号にしがみつきながら悲鳴を上げている。
荻号はD-ARKの網羅する防御の範囲を外れ、周囲に立方体状の黒い結界のようなものを作り上げ高見の見物とばかりに空から見下ろしている。
D-ARKが彼の行動を分析して報告する。
【NS1荻号 正鵠が上空250mにて第七次元方向に位相遷移領域を展開中です】
横山が暴れているにもかかわらず、安定した飛翔姿勢を保っている。
飛んでいるというより、座標に楔を打っているかのように静止している。
藤堂やレイアの飛翔姿勢より練度が高く見えた。
ファルマ少年は彼女のことを彼に任せて問題ないと判断した。
「その領域の剛性や強度は」
【かの領域は二段階上位次元に存在するため、現空間と干渉しません】
「……了解」
ファルマ少年は微笑む。
ならば背後を気にせず、無限の力を解放できる。
「ה י ב ו מ ך ה-(HARMONICSを逆転)」
HARMONICS±によって晶石に施されていた物質反転の制御を解き、逆の逆をとる。
論理を順転する。
邪神ファルマ・ド・メディシスとしての本来の能力、反物質創造、反物質消去を解放する。
数歩踏み込んで大きく飛翔し、上空に舞う。
反物質創造を知らなければ、こんな戦術はなかった。
飛翔術を習っていなければ、上空からの急襲を使えなかった。
そして思う、飛翔は戦術の最低ラインだ。
この世界に来て、少しは成長している。
そんな評価を自身に与え、鼓舞する。
“Des lances de grêle tombent(降雹の槍)!”
彼の繰り出す攻撃の全ては、反物質の氷槍に変換されている。
それが物質に触れた瞬間、質量へと変換され対消滅を引き起こす。
質量、エネルギー兵器はもはや空襲に近い。
身を引き裂くほどの衝撃波と爆音に晒されながら、彼は校舎、校庭、植栽、何一つ残さず、対消滅の閃光の中に沈めてゆく。
そこに残ったのは悪霊ごと削り取った空白の空間のみ。
【空間構造物の65%の対消滅を確認】
水の神術に組み込んだ反物質創造を駆使して、悪霊ごと破壊する。
閃光の中で、彼の視線は攻撃を免れた悪霊の、僅かな残滓を捉えている。
それも逃さない。
“Mur de brouillard(濃霧の霧)!”
彼は空から上位の水属性神術を連射し、霧を爆発的に展開し、残りの悪霊を一網打尽にする。
「っ!」
呼吸をした瞬間、空気中に潜んでいた小型の悪霊を吸い込んでしまった。
悪霊を取り込んだ場合、ただの人なら即死か悪霊に憑依されてしまう。
ファルマ少年の体内が悪霊に侵食されてゆく。
それを拒絶するには……
「ה י ב ו מ ך ה+(HARMONICSを順転)」
念入力で神術の水を物質創造モードに切り替える。
神術、科学、知識、今持っている全ての能力を使う。
(祓え、血潮よ!)
計算上、電解質のバランスを損なわず許容できるだけの、神力を込めた水を体内に創造する。
体内を侵食する悪霊を、彼の肉体を武器に変え駆逐してゆく。
この別世界は閉じた胞構造を持ち、境界が明瞭だ。
だから、空間全てを水で満たすことができる。
悪霊を一片たりとも逃さないためには、空間全域を水の中に漬け込んでしまえばいい。
“Sanctuaire de l'eau(水聖域)!”
今回彼が放出した反神力は普段の数十倍。
水聖域は過去最大の容積に達しようとしていた。
晶石に蓄えられた反神力は無限にある。
ファルマ少年は肺の容量の半分ほどに神力を込めた水を入れ、水中で一回転して肺の中の悪霊を浸漬し、肺に溜まった水を吐き出す。
水聖域を解除し、水を失った彼の身は宙に投げ出される。
奈落へ落ちてゆくかと思いきや、足元に氷の足場を作り、ゆっくりと神力を制御しながらそこへ静かに降り立った。
「滅しました」
ファルマ少年は告げる。
【NS1荻号 正鵠が位相遷移領域を解除しました】
手出しをせず、戦いを見届けた荻号もまた、領域を解除し横山を氷板の上に下ろす。
「お前、何か色々ぶっ壊れてんな」
呆れたよう腕組みをしている。
それは神術のことを言われているのだろう。
「藤堂はこんな異物を抱え込んでいたのか。東京に入れないと思ったら」
「薬谷さん!」
横山が足をもつれさせながら、ファルマ少年のもとに駆け寄ってきた。
彼女もファルマ少年も制服が汚れてしまったぐらいで、傷ひとつついていない。
「薬谷さん、怪我してない!?」
「してないよ。そっちも無事みたいだね。荻号さん、彼女の記憶は……」
「ああ、消しておく」
荻号が指先を横山の額につきつける。
「ひっ……」
記憶を消されると聞いた横山の体がこわばる。
「き、記憶、消さないでください……私、ずっと昔からあの黒いものが見えてたんです。やっとあれが見える人と出会えたのに……また一人になるなんて。だ、誰にも言いませんから」
彼女は両手を合わせて懇願する。
もし、周囲の誰にも悪霊が見えなくて、悪霊を目撃し続けていたのだとしたら、彼女はさぞかし孤独だっただろう。
そんな中現れたファルマ少年に、彼女は親近感を持ったに違いない。
ファルマ少年は涙を浮かべる彼女に面食らったが、これほどの大規模な神術を見られて彼女の記憶を残しておくことはリスクにしかならない。
荻号は小首をかしげたあと、彼女に突きつけた指をおろした。
「気が変わった。見逃してやる」
横山は身構えながら恐る恐る薄目を開ける。
「……!」
「ただ、俺が見逃しても藤堂が見逃すかは知らん」
彼が指を鳴らすと、気がつけば二人とも校門の前に立っていた。
校門の外は黒い空間ではなく、街の風景が繋がっている。
ファルマ少年が振り向くと校庭には生徒たちの歓声が聞こえる。
元の世界に戻ってきた。
荻号はその場にいないが、元の空間に戻してくれたのだろう。
横山は覚えているのだろうか、覚えていないのだろうか。
彼女の記憶をさぐるように声をかけた。
「横山さん……帰ろうか。お腹すいたね」
「ありがとう、薬谷さん。すごくかっこよかった」
横山に手を握られる。
その手に込められた力の強さと彼女の体温が、全てを覚えていると語っていた。
荻号と藤堂は、横山の記憶を見逃した。
横山が覚えているということは、そういうことなのだろう。
「……何についてかは聞かないよ」
「うん、言わない」
「ごめんね、危険な目に遭わせて」
「……薬谷さんと一緒なら怖くないかも」
ファルマ少年はため息をついて、天候にそぐわない雨傘をバッグにおさめ、制服を整えた。
秘密を共有した二人は帰途につく。
残暑と強い日差しが二人の肌を焦がしていた。
何かありましたら、ご意見、ご感想ください。
●ウェブ拍手
★tp://clap.webclap.com/clap.php?id=Tliza
★をhtに変更してください