2章5話 休息とフライト
買い物から帰ってきた智子は、リビングテーブルの上に三人分のカルピスを出す。
「転校先の小学校の子たちとサッカーの練習したよ。サッカー部に勧誘されたんだ」
「それはよかったわね! サッカー部にするの?」
「考え中かな」
ファルマ少年はあの大規模襲撃のあと一足先に帰ってシャワーを浴び、リビングでくつろいでいたところだった。
ファルマ少年の腕時計型デバイスには、“水の禁域”一発分で18000単位分の神力消費が記録されている。
ちなみに一単位はファルマ少年の許容される一日消費量の上限に設定してある。
藤堂は神術を使えないが、ファルマ少年の放ったたった一発の神術を無限に繰り返すという荒業をやってのけた。
この方法だと見かけの神力消費量は大きく見えても実際には神力がなくならないし、神力切れで倒れないし、体力も温存でき、そのあと余裕でサッカーだってできてしまう。
もしこの反則技がサン・フルーヴ帝国に持ち込まれたら……とシミュレーションをすると、そのインパクトは相当なものであることに気付く。
こんなことができるなら、サン・フルーヴ帝国の神術使いは誰も神力切れになどならないし、神力量の多寡をどうこう言われることもない。
うっかり皇帝を打ち負かすことも可能で、帝政は崩壊するだろう。
完全に神力量の格差是正になってしまう。
(これは絶対サン・フルーヴに持ち帰れない発想だ……あんな発想がぽんぽん出てきて、実力行使もできるなんて。地球人とは恐ろしい発想をする)
カルピスを飲みながら考え込んでいると、ちゆが買い物袋から何かを渡してくる。
「にぃに、カプリコバニラでいい? いちごがなかったの……」
「なんでもいいよ、ありがと」
ファルマ少年は知らないおやつを笑顔で受け取る。
かじってみると、信じられないほど軽い食感のショコラの味がした。
この世界の平民のおやつというものは、まったくよくできている。
三人でくつろいでいると、テレビを見ているちゆがしきりに前髪をはらいのけている。
「かみのけが目にはいるー」
「あら、ちーちゃん前髪が伸びたわね。よく見たら完治も少し長いわ」
智子はちゆの前髪をピンでとめてあげていた。
(これで長いのか。地肌に風を感じるほど十分短く感じるけどな)
サン・フルーヴ帝国は頻繁に髪を切る習慣がない。
貴族専門の理容師を数か月から半年に一度呼びつけて、はさみで切るのではなく、カミソリでそぐように切る。床屋外科であれば、瀉血も同時に行われていた。
毎日の整髪が面倒で、あるいはファッション性のために染毛したかつらを利用している貴族も多かった。
「長いかな」
「うん。明日は三人で美容院を予約しましょうか」
翌日、予約を入れていた錦糸町の母いきつけの美容院に予約を入れて三人で赴く。
雑居ビルの3階の美容院は、ナチュラルテイストのサロンのようだ。
ガラスドアを開けるなりつーんとした刺激臭が漂ってきて、ファルマ少年は錬金術師の館かと錯覚する。
「何のにおいだろう」
「カラーリングかパーマ液でしょ」
智子は慣れているのか、特に気にしていないようだ。一体何が含まれているのだろう、とファルマ少年は気に掛ける。待合でヘアカラーカタログを見ていると、膨大な髪色の見本があった。
(ユニコーンカラーかあ……すごい色だな)
母ベアトリスがここにいたら試したそうな、レインボーカラーの髪色もあった。
母は外出時にはよくブーフという盛り髪をしていたから、このサロンに来たら興味津々だったことだろう。と思い出す。
「今日はどうします?」
繁本という女性の若い美容師が担当についた。
初めての場所だったのでカウンセリングをされるようだ。
「悩んでいます。どうすればいいと思います? 普通でいいんです」
智子が髪型は自由にしていいというが、適切な髪型というものがわからないので、繁本のお任せにしてもらう。
「髪の色は変えないでください」
「染めないから大丈夫よ。金髪とかやってみたいの?」
「いえ、間に合っています」
前は金髪でしたけど、とも言えないファルマ少年である。
シャンプー台を使って寝そべってのシャンプーは毎日でもお願いしたいと言いたくなるぐらい気持ちがよかった。
「気持ち良すぎて昇天するかと思いました」
今日が薬谷完治にとっての初美容院だというのは智子から聞いた情報だ。
それまでは智子に適当にバリカンで刈られていたそうだ。
カット中にこんなに話しかけてくるものなのかと思うぐらい、繁本は世間話をしてくる。
学校や部活動、塾に私生活のこと、好きなゲームの話まで。
サン・フルーヴでは髪の毛はカミソリでそぎ切ってもらうので、手元が狂わないように理容師には声をかけないのがマナーだ。
あまり深入りされてぼろが出てはいけないので、ファルマ少年は逆に繁本について気になることを尋ねてみた。
「美容師さんは瀉血もしているのですか?」
「シャケツって何?」
「その手首の……」
繁本のハサミを持つ手が止まる。
ファルマ少年が凝視している、袖口から出た左手首の幾重にも刻まれた傷跡をそそくさと隠す。
「こ、これは間違えて切ったの!」
繁本は急に小声になり、明らかに周囲に聞かれたくなさそうにしている。
「古い傷と新しい傷がありますが、一週間に一度やっているといったところでしょうか。血管に沿って切開しなければならないのに、あなたは横に切っている。そうなさる目的がわかりません、何のためにそうするのですか」
ファルマ少年にはサン・フルーヴで広く行われている瀉血の知識があった。
貴族は貴族の外科医にやってもらうし、平民は医師ギルドの床屋外科にやってもらう。
自己流というのはあまり聞かないし、だいたい素人がやるとすぐに失敗してこの世からいなくなる。
「そのようなことをして命を落とした人をたくさん知っています」
「小学生でたくさん知っているの?!」
「母も瀉血をしてもらいますが、専門医に頼んでいますよ」
「あのお母さんが……そうは見えないけど」
繁本は別の担当者と会話を弾ませながらヘアカットされている母親を振り返って驚いている。ちゆは母の隣でDVDを見せられながらジュースをもらって待っている。
「あの母ではなく別の母です」
「け、結構ハードな人生を送っているのね……」
「傷が腐敗してはいけないので、専門の場所でやってもらったらどうですか」
ファルマ少年は窓越しに見える、向いのビルの献血ルームを指さした。
よくわからないが、献血にご協力くださいだとか書いてある。
あそこでよさそうだ。
「献血……かあ。考えたこともなかったな。私、AB型なんだ。足りないって書いてあるね」
繁本は左手の傷を眺めて、献血ルームの看板を読みながらつぶやく。
「瀉血会場ではないのですか」
「ううん、違うけど献血かぁ。献血のほうがよっぽどいいね。こんな生きている価値のない私でも、誰かの役に立てるんだもんね。帰りに行ってみようかな……ありがとう、カンジくん。もう少しいい感じの大人になれるようにする」
「それはよかったです。生きていたら、いいこともあると思います。俺は今が一番幸せです」
「そ、そう……カンジくんもなんか色々家庭が複雑そうだけど頑張ってね」
繁本はファルマ少年の言葉で考えを改めたようだった。
ファルマ少年は繁本の笑顔の訳がよくわからなかったが、多分いいことをしたのだと思うことにした。
「ちなみにこの髪型、家でどうやって維持すればいいですか?」
「ドライヤーでちょっと癖付けをすれば簡単よー」
「具体的に教えてください。一人で再現できるように」
そう、日本に来てから傍つきの使用人がおらず、身支度を一人で整えなければならなくなったので、毎朝の髪のセットには苦労するのだ。
おまけにファルマ・ド・メディシスでいたころとは異なり毛質が硬いので、タオルドライで洗いざらしにしていると必ずといって寝ぐせがついてしまう。
毎日智子に注意されていたのだが、身だしなみを指摘されると貴族としては何とも情けない気分になったものだ。
(あれ?)
鏡を通して繁本のお手本を見ていると、違和感に気づいた。
繁本の首のあたりに絡みつくように黒いもやが見える。
スカーフだと思っていたが、違うようだ。ファルマ少年は視線を外さず、尋ねる。
「美容師さんって、都外に住んでいます?」
「横浜よー! えっ、もしかして訛ってる?」
「いえ、そういうわけではなくて何となく」
東京異界においての都県境は厳密な意味を持つ、と藤堂が言っていた。
都内には異世界由来の悪霊がいるが、どうやら都外にもこの世界由来の悪霊はいるようだ。
東京都内の悪霊ははっきりと黒く見えるが、都外の悪霊はあまりよく見えない。
(なるほど、都外から悪霊を連れてきたのか)
いくら東京都内を“水の禁域”で無限回浄化しても、こうやって通勤時に悪霊を運んでくる人がいれば、振出しに戻る。
ファルマ少年はやれやれと思いながら、それでも放っておくことができなかった。
「かっこいいじゃない! やっぱり私が切るのとは違うわ!」
繁本におまかせしたファルマ少年のヘアスタイルは、智子には好評だった。
ちゆも前髪をぱっつんに切ってもらって、おまけにあめをもらっていた。
「ちーちゃんも似合ってるよ」
「ちーちゃんいつもかわいいんだもん」
ファルマ少年は美容室を出るときになってバッグに忍ばせておいた神杖傘を手に取るとこっそりと神技を発動する。
(“水の禁域”)
繁本の首に絡みついた悪霊を雲散霧消させた。
繁本は何か違和感に気づいたか、きょろきょろとあたりを見回して首をかしげていた。
きょとんとしたまま、見送りに出て頭を下げる。
「ありがとうございました」
店のガラス扉を通してみると、もうそこに悪霊は映っていなかった。
◆
お盆を過ぎ、ファルマ少年が土曜の午前中に藤堂の家をたずねると、庭の方から二人の返事が聞こえてきた。ちゆと智子は耳鼻科に行って、帰宅はお昼前になりそうだとのこと。
「あ、ファルマくんだー」
「こんにちはファルマさん。果物食べますか」
案内された家の裏庭には庭を覆い尽くすほどの畑があり、トマト、ナス、キュウリ、オクラ、さやいんげんなどの夏野菜に、スイカがゴロゴロなっている。ブドウ棚もあった。
「これは!」
「シャインマスカットです」
「シャインマスカット買ったら高いって! 母が言ってました」
ちゆがスーパーで智子にねだったが、人気のためかかなり高騰していたため却下されていた。
ド・メディシス家では自前のワインのために少し栽培しているが、ワイン用のブドウは品種が違う。
「自宅で育てれば、なんということはないですよ。ご家族にお持ち帰りください」
園芸用ハサミを手渡されたので、遠慮なく一房収穫させてもらう。
ファルマ少年は植物を見るとテンションが爆上げしてしまう。
生育状況を事細かに、葉の枯れ具合や根張り、葉の裏までめくってチェックする。
どこを見ても申し分ない。
「家庭菜園……かなりうまくないですか?」
「実家が農家なので、腕を落とさないために少しだけ土いじりをしています。あまり手をかけていませんので味は保証できませんが、この程度の面積なら管理も楽なものです」
藤堂は謙遜しているが、どの野菜を見ても虫食いひとつない。
作物の瑞々しい生育状況を見ても、かなりの腕前だということはファルマ少年にもわかる。
「どの作物も美しすぎます」
「本業農家はもっとうまく作りますよ。私なんてまだまだです」
ド・メディシス家の薬草園はセドリックら土属性の専門職の神術使いがメンテナンスをしてようやく質のよい薬草がとれる。
それでも、虫食いなどは防げないというのに。
「私も生産技術を学びたいです」
「いやー、肥料と農薬がよかったという学びになるでしょうね。ホームセンターに苗がありますので、何か買って育てては」
「そうします! 急げば夏休みの自由研究に間に合いそうですね!」
「ファルマさん、夏休みの自由研究は1点でいいんですよ」
「すみません、こちらの世界に来て研究意欲があふれてしまって」
ファルマ少年はすでに夏休みの自由研究を2課題も作ってしまっていた。
「ファルマくん、学びや研究? もいいけど夏休み楽しめてる? ていうか遊ぶって言葉知ってる?」
レイアが心配そうに尋ねる。
「こちらの両親が色々と遊びに連れて行ってくれるので、遊べていると思います。ただ、行く先々で色々ありました」
何ならもう、行く先々で悪霊に待ち伏せされているのではないかというぐらい色々あった。
とてもではないが、夏休みの日記には書けないエピソードがたんまりとある。
その一部始終を、ファルマ少年が語らずとも藤堂が見ていた。
「海水浴やレジャープールで、何かに足を引っ張られたりしてましたね。ウォータースライダーから勢い余って外に飛び出していたのも見ましたが」
「死ぬじゃん!? 恒も見てないで助けてあげなよ!」
「それが、冷静に対処しておられたので」
「その状態からできる対処って、なんかある?」
レイアがインフォメーションボードを取り寄せてアーカイブの録画を確認すると、ファルマ少年は空中に投げ出された後、大量の水を宙に放ってその反動でウォータースライダーのコースに復帰していた。
冷静な対応すぎて、藤堂の出る幕はなかったという話の裏付けができた。
ファルマ少年はピンチにも場数を踏んでいるのか、あまり動揺していない。
「わーすごー」
「管理の行き届いていない海や川に入ると悪霊に引き込まれるのは、水に触れる機会の多い水の神術使いではよくあることです。まさかのときにも日ごろの訓練が役に立ちました」
「だからサン・フルーヴ帝国って物騒すぎん? 平均寿命短いのって悪霊のせいもあるでしょ」
「そうかもしれませんが、地球のほうが物騒ですよ」
レイアは驚いているが、サン・フルーヴ流域では特に死者が多いからか、よく足を引っ張られていた。貴族は常に神杖を帯びていないといけないと言われるわけである。
深みに足を取られた時の悪霊に対する対処法は、掴まれている部分に神力を叩き込めば悪霊ははがれると、エレンに教えられた。話だけでもきいておいてよかったと振り返るファルマ少年である。
「あのときはすみません、私が事前に防ぎきることができなくて。そうそう、あの突然の大規模襲撃のあとでも、行く先々で密かに人々を助けて下さったようですね」
「助けたというほどではありませんが、悪霊か何かついている人がいたので浄化しておきました」
「どこに行っても人助けだなんて、ファルマくんは着々と徳を積んでるよね。なかなか真似できないなぁー」
レイアが感心しているが、ふとまじめな顔でファルマ少年を覗き込む。
レイアのウェーブのかかった金髪と、碧色の瞳の輝きはそっくりそのまま妹のブランシュの色合いで、ブランシュは成長したらこうなっていただろうか、などと思うと切なくなる。
「人助けばかりして、心がすり減っちゃわないようにね」
「すり減っちゃうとは」
「全員は助けられないからね。自分の人生もちゃんと生きなきゃだよ。君は地球人ではないけど、場所が変わっても君の人生は続いているからね」
「そうですね……ありがとうございます。自分の人生を優先していいだなんて、そんな風に思ったこともありませんでした」
平民を悪霊から守るのが貴族の務めだと思っていた。
しかし、レイアに言われてみれば確かにそう。
全員を助けることはできない。
目の届かないところで、今日も理不尽に人が死ぬ。
ファルマ少年のいないところで、誰も見ていないところで命の灯火は消え、誰かが産声を上げ、いつしか全身の細胞がそっくり入れ替わってしまうように、世界はひそやかに更新されてゆく。
「よしよし」
レイアは彼に共感しているのか、小首をかしげながらファルマ少年の頭をなでる。
「そういえばファルマくんって高層ビルから突き落とされたりしたら死ぬってことよね」
「死なせませんが」
藤堂のカットインが早すぎるので、レイアは渋い顔になる。
「恒は黙ってて」
「水の神術で衝撃を和らげたりできますが……高層ビルの高さにもよりますが死ぬと思います」
エレンは戦闘時、水を緩衝に使っているので怪我が少ない。
パッレもそのような使い方をしているのを見たことがある。
「そうなんだ。ファルマくんって自力で空飛べないの?」
レイアは深刻そうな顔をしている。
「自力とは、生身でということですか」
「そう。君の使う神力が私たちの使うアトモスフィアと同じくダークエネルギーを生み出すなら、飛べそうな気がするんだ。空飛べないと結構不便なこと多くない?」
ファルマ少年は降ってわいた無茶振りに慌てる。
「空を飛べるのが普通かどうかなんて思ってもみませんでした」
「空を飛べる敵に出会ったらどうしてたの?」
「悪霊になら地上から応戦していますが」
「神術の届かない空に逃げられたら追えないってこと?」
「あっ」
ファルマ少年は飛べないことのデメリットと、形勢の不利を思い知った。
地球に来てから悪霊を完全に浄化できるようにはなったが、逃げられてしまえばそれまでだ。
「でしょー。神力って指向性を持って放出とかできる? その時に抗力を感じる? 例えば神術を撃つ反動で後ろに下がったりとか」
「少しはありますね。でも、神杖は神技と逆向きに力を逃がすようになっていますので、普段はあまり反動を感じません」
「おっ作用と反作用の関係があるんじゃん! 飛べるじゃん」
レイアが目を輝かせている。
ファルマ少年は驚くが、冷静に物理学的に考えてみるとできることに気付いた。
神殿の伝承では空を飛ぶ守護神もいたと聞くが……あくまで守護神だから、と真剣にその原理を考えたこともなかった。
「んじゃ、アトモスフィアみたいに使えるんだねー」
「前から気になっていたんですが、アトモスフィアとは何ですか?」
「ダークエネルギーを纏う化学的環境ってニュアンスかな。私の周りの金色に見えるやつ。これ、視床下部で生合成してるんだー。ざっくりいって君の神力に相当するんじゃないかなー」
レイアが常に纏っている金色の光は化学物質で、彼女の随意にコントロールできるようだ。
彼女を見ていると、ファルマ少年はいつも眩しいと感じるのはそのせいだ。
「いけそうだから練習しよっか」
誰かに見られてはまずいということで、三人は庭からリビングに移動する。
レイアは墜落防止にと、ふわふわのクッションやマットを床に敷き詰めた。
「はい! 飛ぼ!」
レイアがパンと手を叩いて勢いよく煽るので、ファルマ少年はたじろぐ。
「はいって、どうやって」
「神力を下に向けて撃ってごらんよ」
「どこから撃つんですか? 手ですか?」
ファルマ少年は両手を見つめて、どこに力をかけて良いか分からず困惑している。
「しいていえば全身から? んーどこから撃てばいいんだろう? 私英才教育されてて物心がついたときには飛べてたからよくわかんないや」
「レイアさんは無重力空間で育ったとかですか?」
例えば宇宙ステーションのような場所だろうか。
まさか、と話半分で聴いていると。
「やー、重力はあったけど、生まれてすぐ無酸素空間で成長加速されながら育ったよ。無音の世界で育ってたから暫く喋れなかったんだー。ほら、空気がないと音が伝わらないでしょ」
「話が重すぎて脳が理解を拒みます。そんなことってあります?! 人間って酸素がないと生きられないですよね?」
すでにこの時点で、地球上のかなりの情報にアクセスしていたファルマ少年は信じられない。
話を聞けば聞くほど、基本的な身体構造が人類とは異なっているかのようだ。
異世界の人間であるファルマ少年より、彼らのほうがよほど人類から遠いような気がしてくる。
「私たちは嫌気呼吸という呼吸方式に切り替えると、特殊な代謝系になり成長促進されますので」
藤堂がぼやけたフォローをする。
そんな、野菜の促成栽培みたいに言われても、とファルマ少年は動揺する。
「嫌気呼吸って、鉄呼吸とかマンガン呼吸とか硫酸塩呼吸とかですか? それってバクテリアの呼吸様式ですよね? ホモ・サピエンスの呼吸方法ではないですよね?」
「ホモ・サピエンスも解糖系やTCA回路を持っていますが、私たちはもっとエネルギーを産生する別の代謝回路を使っています」
「その話、いつか詳しく聞くことはできます?」
「話してもいいのですが、全部話すと多分ファルマさんの記憶を消されます」
「そんなことってあります……?」
「あるんですよ」
ますますもって彼らが謎生物すぎて何なのか分からなくなるが、謎が小出しにされるばかりで、いっこうに全貌を説明してくれようとしない。
また藤堂はファルマ少年の疑問をスルーした。
知りすぎない方がいいということか、とファルマ少年は解釈するが釈然としない。
「話を戻します。飛翔の方法ですが、骨盤内の重心に乗っかるよう意識するといいですよ。つま先立ちをして、地面との接地面を減らしてゆき、段々力を抜いてゆくとできます。最初はそんな感じでした」
藤堂が実演ということで腹部を押さえてみせながらつま先立ちをし、そのままふわりと室内に浮かんで天井に手を触れて見せる。
レイアも空中を平泳ぎで泳ぐジェスチャーをしていて楽しそうだ。
まるで彼らの周りから重力が消えてしまったかのようにも見える。
「とりあえずやってみます」
ファルマ少年も説明を受けた通り見よう見真似でやってみるが、うまくいかない。
つま先立ちでバレエの練習のようになってしまう。
しまいには足の指を痛めてしまった。
「まあ無理もないかー、神力とアトモスフィア、似ていても違うものだもんね。なんか期待させてごめんねー」
レイアはそそのかしてしまった手前、気まずそうにしている。
しかしファルマ少年は見当はずれだとは思っていない。
「気のせいかもしれませんが、神力を込めるとふわっとは感じます。体の方が重くて持ち上がらないんです。ほら」
ファルマ少年はその場でジャンプをしてみる。
1秒、2秒、3秒……着地までの滞空時間が明らかに長くなっている。
レイアはぱちぱちと拍手をした。
「いいじゃん! おしい! 斥力は働いているんだ?」
「神力不足で飛べないのですね。晶石で神力を増幅してみてはどうですか?」
レイアと藤堂が状況分析して提案する。
確かに晶石に神力を込めて指向性を持たせると斥力は増幅されるようだが、晶石を介すと神力の伝達効率が悪化しそうだ。
「いっそその傘で飛んだら? 強度ぐらい恒がどうにかできるでしょ。というか傘で空を飛ぶリアル魔法少年が見たい!」
「傘の構造的に普通に幌か骨の部分が折れませんか。それに片手がふさがると悪霊の対処が難しくて……」
面白半分のレイアに対し、ファルマ少年が面白くない返答をする。
「では手があくように、こうしますか」
藤堂が晶石を複製し、それを等分に加工してビーズ状に穴をあけワイヤに通す。
自身がつけていたベルトを外して縫い込み、ファルマ少年の上腿と腰にたすきのようにベルトをかけて、即席のハーネスを作った。
藤堂は一言ことわってハーネスを持ってファルマ少年をつるし、強度を確かめる。
「晶石の効果を宿したベルトができました。先ほどのジャンプ、もう一度やってみてください」
「はい!」
ファルマ少年は少し興奮しつつ、半信半疑で神力を腹部に集中させて指向性を持たせる。
体が羽のように軽いので、床を蹴る力加減を間違えて猛烈な勢いでジャンプしてしまった。
「おっと! 頭!」
室内遊泳をしていたレイアが先回りして天井にぶつけそうになったファルマ少年の頭部を守った。
ファルマ少年はレイアに抱えられ、驚くやら恥ずかしいやらだ。
「最初の飛翔時あるあるですね」
藤堂は自分もやったと言っていた。
ファルマ少年は神力の調整をしながらクッションの上に無事着地する。
暫く感動に浸ってへたりこんでしまった。
「できました! 神力で空が飛べるなんて、私の世界では聞いたことないです!」
ファルマ少年は嬉しそうに声のトーンが高くなる。
それを見ていたレイアはもう一回り大きな声を上げる。
「しまった! 初飛翔の動画とっとけばよかった!」
「嬉しい気持ちは分かりますが、極力証拠を残さない方がいいです。ご両親に見られないよう部屋に鍵をかけて練習してくださいね」
「確かにそうですね」
ファルマ少年の喜びようとは対照的に、既に飛べる二人のリアクションは薄かった。
晶石の力を頼っているとはいえ順調に人間の域を超え始めていることに戸惑いながら、ファルマ少年はそれでも貪欲に知識や技能を吸収しなければと思いなおす。
それにしても、この世界の薬谷家の面々には告げられず、誰とも感動を分かち合えないというのも寂しいものである。
「そのベルト、バランスが悪いですね。では登山用ハーネスを改造して体重を分散させ、飛翔時のバランスを整えましょう」
「ありがとうございます。これは日常的に装備していた方がいいです?」
「有事に備えて、バッグにハーネスを入れて持ち歩くだけでいいのでは」
それもそうかとファルマ少年は赤面する。
神杖傘に加えて登山用ハーネス装着とか、また悪目立ちしてしまうところだった。
さすがに職務質問とまではいかないまでも、警察に呼び止められてしまうかもしれない。
「藤堂先生たちはこの飛翔技術をどういうときに使ってるんですか?」
先日の大規模襲撃の際に、飛翔ができていればかなり行動範囲が広がっていたかもしれない。ファルマ少年にはいまいち使いどころが分からないが。
「主に移動ですかね。あとは高所落下時の対応などに。戦闘時にはできないと即死です」
「戦闘時って、悪霊以外の敵とかいるんですか?」
「もっと俯瞰的な視点でみれば、この宇宙は常に脅威に晒されていますよ。ここ数年は表向き平和だったのですが」
「すみません、私が来たからこんな物騒なことになったのですね」
ファルマ少年は自責の念から俯いてしまう。
そんなファルマ少年の肩を、レイアがぽんとたたいてわざとらしく白い歯を見せる。
「今までに比べたらマシなんだな、これが」
「えっ、これで?」
「そ。ファルマくん。私と今晩一緒に都内上空をフライト練習に行ってみる? ODF(視覚廓清領域)を使えば見えないから平気だよ」
「ではよろしくお願いします!」
ファルマ少年はレイアの誘いに乗ることにした。
悪霊に対抗する力を持つのはこの世界で自分だけだが、より修羅場をくぐっていそうな二人が手厚くサポートをしてくれるので、何とかプレッシャーにも耐えられそうだ。
「生死にかかわる危険がないかは私が見ていますから、ファルマさんはあまり心配せずに夏休みを満喫していてください」
「満喫といえば。ファルマくん、突然だけど来週ディズニーいかない? 義母と、ファルマくんぐらいの歳の義妹が観光で上京してくるんだー。チケットは恒が買ってくれてるから、人数多い方が楽しいしどうかなと思って」
「ディズニーとは千葉のですよね」
そのテーマパークの存在は知っている。
一緒にサッカーをした少年が行くと言っていたので少し調べた。
パーク内の動画を見るとそのファンタジックな世界観にひきこまれる。どことなく、サン・フルーヴで見たような光景もある。
殆どの乗り物に身長制限がついているが、小さい子供用のアトラクションもあり、ちゆも喜んでくれそうだ。
「そりゃフロリダや上海とかでもいいけど。パスポート持ってる?」
持っていたらそっち行く? といわんばかりのノリだ。
「千葉でいいです。予定あいてると思います!」
「そ! じゃあ薬谷ファミリーも誘おうね。こっちは私、義母、義妹の3人で……」
「すみません、私は行けないです」
藤堂は理由があって都外に出ることができないと言っていた。
ということは、都外で悪霊が出ても藤堂が助けてくれないという話になる。
「藤堂先生は来られないのですね」
また奥多摩の時のように急に悪霊に襲われでもしたら、と気が気ではない。
「妹の庇護で問題ないですよ」
「悪霊のこと心配してるなら、私がついてるから平気だよー。悪霊は見えないけど、突発的ななんやかんやには対応できるし」
「あ、ありがとうございます……レイアさんって力加減とかできます?」
「ん? 細かい作業はあんま得意じゃないなー」
無人環境だったとはいえ、別世界の街をよくわからない大規模攻撃で破壊し尽くしていた破壊神のごときレイアの姿を思い出す。
そして有事の際にはうっかりオーバーパワーでテーマパークごと破壊してしまわないだろうかと、ファルマ少年の心に一抹の不安がよぎった。
やはり悪霊には神術で対処するのが無難そうだ。
「ファルマくんたち、コスプレしてくる? 私エルサで、日葵はアナで行くけど何にしたい? オラフ?」
「よくわからないですけど、私服で行っていい場所ですよね……私服にします」
突然のサブカル談義についていけそうにない、とファルマ少年は自覚した。
ちなみに帰宅してから色々と検索してみると、「サン・フルーヴ帝国の貴族の私服なのでは」という装いの人々がパーク内にあふれかえっていた。
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