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TOKYO INVERSE -東京反転世界-(EP3)  作者: 高山 理図
1章 巨人の肩にのって
12/20

11話 居場所を求めて

 早朝から無人トラックが家の外で大破していたその日。

 朝食の後、ファルマ少年は母、智子に思い切って打ち明ける。


「母さん、今日、墨西病院に行きたいんだけど、いいかな……」

「ええっ、今日は精神科の受診日ではないわよ。だいたい、今日はお盆休みだし外来もないでしょ」

「藤堂先生に会いたいんだ。あんなことがあったし」

「お仕事中でしょ。それに入院中に色々と親切にしていただいたのは完治が記憶喪失の子供の患者で、仕事の中での付き合いでしょ。もう、お前は元気なんだし、担当医でもないのに職場にまで押しかけて困らせたらだめ。お隣さんなんだから、いつかは会えるわ」


 智子に宥められて、ファルマ少年は意気消沈する。智子の言う通りだし、藤堂医師はボディガードを引き受けてくれたが、勤務中でなければという条件がついていた。

 悪霊は夜間になると力を増すが、先日、真昼間に小児病棟で見たように昼間でも現れることがある。

 藤堂医師にたよらず、自力で身を守らなければならない、それも、できるだけ周囲の人々を巻き込まず、悪霊を打ち払わなければならない。しかし彼の傍から離れたら物理攻撃で殺されそうだ。

 藤堂医師が持っている「物理障壁」という技能は、一般人には知られていないようだ。

 図書館にも、インターネットにも、不自然なほどに手掛かりはなかった。

 おそらくサン・フルーヴ帝国における神術の継承のように、師から弟子へ、書物などにも残されず限られたエリートの間でひっそりと受け継がれている技術なのだろうと推測する。

 その技術を何とか教えてもらえないものか、申し出てみようとファルマ少年は決意する。そうすれば、忙しい彼にボディーガードなども依頼する必要がなくなる。


「皇居ならいい?」

「こないだは寺社仏閣めぐりで、今日は病院の次は皇居? 行先が極端ねえ」


 智子はちゆと顔を見合わせながら首をかしげるばかりだ。


「ちゆはいかなーい、こうきょ、つまんなかったもん。はやくかえってきて」

「まあ、ちぃちゃんが楽しめるものはないかしらねえ。たしかに先月行ったばかりね。今日は暑いもんねえ。完治も家にいなさいな」

「一人で行ってくるよ。自転車で行ってきてもいいかな? 30分ぐらいで着くし」

「外なんて暑いのに熱中症になっちゃうわ。また倒れて病院に運ばれたらどうするの!」

「水筒と濡れタオルもってくから!」

「母さんの携帯も持っていきなさい。もう……」


 ファルマ少年は、自分の存在が悪霊を呼び寄せるなら神術陣を使わず現地で機能している結界、東京結界内に身を隠すべきだと考えた。

 理由はなんでもいい、完治を襲ってきた悪霊が何だったのかわかるまで、家族から離れなければ……。

  ファルマ少年は智子に行先を告げ、支度をすると、ちゆを宥めて、勢いよく自転車をこぎ出した。



 ファルマ少年は両国橋の川のせせらぎを聞きながら、皇居へ向けて自転車を走らせる。

 急激な地球温暖化というものに伴い、サン・フルーヴと比較すると確かに猛暑ではあるとは思ったが、自転車で走ると風が頬に心地よい。

 この電動アシスト自転車、いいなあ。

 とファルマ少年は思う。

 薬谷 完治の記憶が少しあるので、乗り方やバランス感覚、簡単な交通規制などは心得ていた。

 馬よりは遅いが、小回りがきき、細い路地にも入れて、充電さえしていればいつでも乗っていい。

 帝都ではシルヴェスタという愛馬に乗っていたが、調子が悪いことも当然ながらあるし、いつも乗っていいわけではなかった。牧草を食べ、水を飲む時間もいる。機嫌が悪い日は梃子でも動かない。


(乗用車の運転はあと8年後からか。自動運転がついてても免許はいるんだよな。その時までこの世界にいたら、早く免許とりたいな)


 車の運転には免許が必要だ。善治の乗っているテスラSクラスもスマートな外観で、自動運転ができるとはいえ、他の車に目移りもする。

 ファルマ少年は、自転車で走る隣を猛スピードで通過してゆく乗用車やカーショップに並ぶ車を見て、「かっこいい……」などと思っていた。善治によると、まだ空の道路の法整備中だが、数年以内には空を飛べる機能を備えた飛空車というものも販売されるらしい。


「水天宮-神田明神ラインを越えた。現地で機能している神術陣、東京結界内に入った。今のところ、悪霊は見えない。昼間だからか?」


 東京結界の内部に入る前にも、入ってからも悪霊には遭遇しない。悪霊はやはり夜間ほど出現確率が高くなる。結界内部に入ってからも、特に変わったことは起こらなかった。

 皇居に到着し、自転車を駐輪場にとめる。

 皇居ランナーをよけながら、大手門から観光客に紛れて敷地内を見て回る。一か月前からの予約なしで入れる皇居東御苑と皇居外苑をそぞろ歩きする。なにやらサン・フルーヴ式の宮殿と趣が違うが、ファルマ少年は美を感じていた。


「造形美とは違う、自然を利用した美観か。これはこれでいいな」


 皇居外苑案内図の前で立ち止まる。皇居の敷地内にレストランやお土産物屋まであるのには驚いた。皇居内を見るには、一か月前から予約をしなければならないようだ。


「この国の王の居城か……。サン・フルーヴ宮殿を思い出すな。エリザベート皇帝陛下は恙なくお過ごしだろうか」


 確か、ファルマ少年がこの世界にくる直前まで、エリザベートは重い咳が続いていたはずだ。ブリュノとともに宮殿で調剤の手伝いをしていたので、彼女のことも気にかかる。この世界に来て身に着けた知識をもとに振り返ってみて、ファルマ少年はぼんやりと思うことがある。


「あの長引く咳。血痰。体重減少。もしかして結核だったのかなあ……父上は診断できたんだろうか」

 

 そのほかにも、サン・フルーヴでブリュノが診ていた人々。この世界で「答え」といえるものを手に入れてから振り返ると、「あの病気だったのかな」というケースが多々あった。そして、その疾患に対応する薬が、この世界には存在する。もし、いつか夢から醒めて、サン・フルーヴに戻ることができたのなら。この世界の治療薬の製法を頭に叩き込んで、実際に手を動かしていちから作れる状態にまで極めた製薬技術を持って帰りたいと思う。


「きっと心配は無用だ。父上はきっと、どんな手段を使ってでも陛下の治療法を見つけだす」


 そうでなければ、ブリュノの失脚となり、ド・メディシス家はおとり潰しとなるかもしれない。ブリュノはおそらく、自害するだろう。そしてパッレが当主となる。


(うちも大変だ……帰った時に、ド・メディシス家がなかったらどうしよう)


 ファルマ少年は嫌な想像をかきけすかのように首を振って、ガイドブック片手に皇居の敷地内を、宮殿へと向けて歩いてゆく。視界に入る美しい庭園が、自然と調和して独特の景観を作っていた。


「すごい……中に入らなくてもわかる。十重二十重の結界が機能してる。悪霊からの守りは万全だ。これでいて本当にこの国の人々は全員平民なのか?」


 ファルマ少年は宮殿の付近に、とんでもない霊的な圧を感じた。

 立ち入りのできなかった皇居内部は特に、強力な結界が張られているようだ。

 腕利きの結界師のようなものを置いているのだろうか、と想像しながら警察の面々を見る。歴代の王、この国でいうところの天皇は配下に陰陽師なども置いていたというから、現在もそういった組織があるのかもしれない。


「あるいは、王がこの国最強の結界術師なのか。三種の神器というのを持ってるんだっけ。それで何かしてるのかな」


 サン・フルーヴの皇帝は、世界最強の神術使いでなければならなかった。

 宮殿には神術陣が張り巡らされていたし、悪霊の発生から守られていた。ひとまず、この皇居の敷地内に入れば、悪霊から逃れることはできそうだ。


「よし、今日の調査は終わり。ここを緊急避難場所にしよう」


 ファルマ少年は折り畳み傘を取り出すと組み立てて、神術陣を重ね掛けし、皇居の結界の補強をしようとした。いくら陰陽師だか宮内庁職員だかが皇居に立派な結界を張り巡らせていても、もっとも堅牢な結界を持つ宮殿には、ファルマ少年は入れないからだ。

 そこで、皇居の結界の庇を借りる形で、神術陣を補強する。

 鬼門という方面へ向けて結界が肥厚しているのが見える。晶石から供給される神力を体に通じながら、守りの手薄な部分を検索する。


(宮中三殿と東宮の結界を外苑まで引き込む。江戸城堀の水に神術陣を敷きこむ。馬場先門、桜田門で結界が遮断されている、ここを補強しないと)


 背を伸ばしてぴんと手をのばして傘を構え、詠唱しながら、江戸城堀めがけて神術陣を展開しはじめる。すると、数名の少年たちがファルマ少年めがけて猛ダッシュで走ってくるのが見えた。ファルマ少年は何事かと訝りながら傘をおろす。


「おい、お前。何こっち見てんだ」

「いつまで人に傘向けてんだコラ? 人に傘向けちゃいけねえって、ママに習わなかったかなあ?」


 少年たちは近所の中学の制服を着ているが、だらしなく着崩している。素行不良の少年たちなのかもしれない、ということはファルマ少年にもなんとなく分かった。髪型もどことなくおかしい。


「すみません……見えてなかったので」


 ファルマ少年は慌てて傘をおろした。遮られた神術陣から溢れた神力の流れが、ファルマ少年の周囲に溢れ、不良たちに頭上から大量の水を浴びせる。しまったと思ったときには遅かった。


(傘を人に向けるとこの国では失礼にあたるのか)


 神術に気を取られて、周囲を気にしている余裕などなかった。しかしその態度が気に入らなかったようだ。


「んだとコラ? お前か? この水ぶっかけたの。クリーニング代をもらわねえとなあ!」

「すみません、今、お金持ってなくて」

「あ? お前財布持ってねーの?」

「よく見たらいい傘持ってんじゃん。これすげー高いブランドだろ。メルカリで転売しようぜ」

「クリーニング代払えないんだから、いいよなあ?」


 金髪の中学生がファルマ少年の傘に手をかけた。


「ほんとだ、藤堂先生の仰る通り東京って治安悪いんですね」


 ファルマ少年は藤堂が「傘の盗難に遭うかもしれない」と言っていた意味をかみしめる。藤堂のくれた傘に不良が手を伸ばした時、ファルマ少年は渡すものかと傘を逆さにひねって手首をきめた。

 思いがけない展開に驚いた不良が、二、三歩後ずさる。


「いてえっ! 何しやがんだ!」

「水をかけたことには謝ります。しかし、この傘は大切なものです。差しだすつもりはありません」


 ファルマ少年は傘をベルトに挿し、徒手戦闘の構えをとった。


「テメエふざけんなよ! んだその構え、空手か?」

「やる気あんのかよ。じゃあ、体で払ってもらうしかねえよなあ」


 ファルマ少年は十人あまりの少年たちに囲まれてしまった。

 最初の一人が放った一撃が、ファルマ少年の体に届くことはなかった。彼は軽く拳を弾き、脚を払って不良を石畳に転がした。


「何だこのガキ、強ええ……!」

「戦闘訓練は何時間やりましたか? 私は一万時間以上ですけど」


 ファルマ少年が最後の一人を片付けたころには、通行人に警察を呼ばれていた。駆けつけた警察は不良少年を追いかけて行ったので、ファルマ少年はその場に取り残された。


「口ほどにもない」


 ファルマ少年は無傷で、水筒のお茶を飲み干す。ポケットの振動に気付いて携帯を見ると、智子からの着信履歴がたまっていた。

 時刻は16時。そろそろ帰ってきなさいというメッセージが入っていた。


(気付かなった)


 電話をかけて、皇居散策に夢中になっていたこと。

 熱中症にはなっていないこと。17時ごろには着くと思う、と連絡する。智子は心配していたので、早く帰らなければと帰り支度をはじめる。

 電話を切ったところで、ファルマ少年は背後に巨大な気配を感じてすぐさま傘を抜いた。

 覚悟を決めて背後を振り向くと、藤堂が手を振っている。


「え、藤堂先生?」

「通りすがって声をかけようと思ったら揉めているのが見えて。助けに入ろうかと思いましたが、問題なさそうなので少し離れた場所から見ていました」

「本当に藤堂先生、ですか?」


 ファルマ少年は固唾をのみ、傘から手を離さない。

 警戒されているのに気づいた藤堂は、表情を緩めておっとりと話しかける。


「本物です。なぜ偽物だと思うのですか」

「気配が全く違うので。私はこの気配が何なのか知りません。ただ、藤堂先生ではないことはわかります。アトモスフィアと言っていましたか、神力のような紫の光。あれもなくなっていますが、どうなったんですか。でも、悪霊のようでもないし……うーん……」


 ファルマ少年は困っている。

 そして彼の予想がただの勘ではなかったとはっきりした。


「あなたが実際に悪霊に狙われているのがわかったので、警戒レベルを引き上げています。アトモスフィアは、私の周囲だけでなく広範囲に拡散させているというとわかりますか。これでいいですかね」


 藤堂はファルマ少年に見抜かれて、人への擬態にしくじったことを悟る。第四の創世者は一切のアトモスフィアの放散をたち完全に人間に擬態することができるのに、巨大な気配を残して違和感に気付かせてしまうとは、まだまだ空間管理者として未熟だ。

 藤堂は丁寧に擬態をし直して、ファルマ少年の視線を気にしながらその場でくるりと一回転してみせる。


「あ、ほんとだ。紫の光が戻りました。気配も戻りました」

「これでは警戒が不十分なので、さっきの状態に戻しますね」

「すみません。勘違いして。新しい藤堂先生の気配、覚えました。今朝、フィジカルギャップで暴走トラックから守っていただいてありがとうございました」

「気がついたら引っかかってましたが、あれも悪霊の仕業なんですかね」

「間違いありません。残渣がありました」

「へぇ……それでここに来て結界を張ろうとしてたんですね。そういえば、さっきから見てましたが喧嘩うまいんですね。相手の気力を折りつつ、怪我させないようにまで配慮できていて。なかなかそこまで気を遣える人はいないです」

「平民と揉める時は、無傷で返せと教えられましたから。無傷で返せばその場でおさまり、怪我をさせれば報復があります。また、貴族が平民に加害するのはご法度です。父からはそう教えられてきました」


 ファルマ少年は特権階級としてふるまいの教育を受けていたようだ。


「なるほど。その教えをよく守っているのですね」


 ちなみに、ファルマ少年が揉めた相手は地元の素行不良のグループで、おそらく次に遭遇したら一方的に殴られるのは避けられないだろうと藤堂は予想する。

 彼らの一部には反社とのつながりもある。

 小学校を特定されたら、「生意気な奴がいる」と呼び出されるかもしれない。ここ日本では、反社に誇り高き騎士道精神など通用しない。


「藤堂先生。私はどこにいたらいいですか? これから夜になりますが、また悪霊が出るかと思うと家には帰るのは躊躇われます。でも、帰らないと智子さんが心配しますし。もう、遠くに行ってしまいたいです」

「……不安なのですね」


 藤堂はファルマ少年の吐露を受け止める。

 不安と孤独、そして疲労。

 異世界からきたファルマ少年のストレスは限界に達しているようだった。


「それでは思い切って少し遠くに行ってみましょうか。17時に帰るとお母さんに伝えていましたね。間に合うようにしますので、一秒目を閉じて、開けてください」

「え、はい」


 ファルマ少年は言われたとおりにすると、足元のアスファルトの感覚が消え、靴裏にごつごつとした岩礁の感触が伝わる。

 そして、瞼を閉じていてもわかる強烈な夕焼けの光と、あたりを吹き渡る、潮のにおいを含んだ海風に気付く。

 ファルマ少年は1秒カウントしてから瞼を開く。


「ここはどこですか?」


 目の前には海と、背後には原生林が広がっている。ここは島の山頂だ。


「東京都の小笠原諸島、北緯24度14分にある南硫黄島といいます。環境保護のため一般人は一切入れないのですが、人に聞かれたくない話もできるかと思いまして」


 藤堂は携帯のGPSを示す。ファルマ少年は飛び上がって驚く。


「な、なんでこんなところに! 一秒で来たんですか!?」

「ここは人が住んだことがなく、人が死んだことがありません。悪霊が人の霊ならここには悪霊が近づいてこないのではないですか? ひとまず、落ち着いてください。あなたには落ち着ける場所が必要です」

「お、落ち着かないです! でも、確かに皇居の結界の外なのに悪霊の気配はありません」


 夕焼けの海を前に全身で風と光を浴びて深呼吸をしていると、ファルマ少年は恐怖心が薄らいできた。


「また藤堂先生の、一般人には秘密の技能というものですか?」

「汎用転移術というものです」


 あまりにもさらっと言われてファルマ少年はリアクションにも困ってしまう。ファルマのいた世界で空間転移なるものができるというと、おそらく守護神級の存在だ。

 それが、神秘ではなくただの科学技術を応用した技能ですというのだから信じられない。

 勇気を出して希望を伝えてみた。


「……その技能一式、どうか教えていただくわけにはいきませんか。どんなしごきにも耐えてみせます」

「教えてもいいのですが、私の持っている技能を使うには、ダークエネルギーを産生、制御するとある遺伝子群が存在することが必須条件です。遺伝子群だけ持っていてもだめで、発現を制御するための苛烈な訓練を必要とします。一般的には百年ほどかかります。ファルマさんも、神力のない平民の私に神術を教えても意味がないと思うように、教えてあげようにも、あまり意味がありません」

「えっ、百年? 藤堂先生って何歳ですか?」

「比喩です。私は28歳です」

「うう……そうですね。神術と逆のことですね。では私は私にしかできない技能、神術を磨きますね」

 

 われこそは貴族でございと、サン・フルーヴ帝国では当然のように享受していた特権。

 その特権を持たざる側に立たされる。

 選ばれなかった側はこんなに惨めなものなのか、とファルマ少年は屈辱を頬の裏にかみしめる。

 ファルマ少年の心境を慮った藤堂は海の向こうを見つめながら、ぽつりぽつりと話す。


「私の技能を得ようとする必要はありません。個性を生かすべきです。ここには悪霊はきませんので、落ち着いて、あなたができることを確認していきましょう。悪霊を見抜く目と力を持っているのは、この世界であなただけです。自信をもってください」

「そうなんですね……」

「先日、ファルマさんは病院図書館で化学の教科書を読んでいた時に、水の神術は水素と酸素を作り出す神術なのだろうと解釈しました。そして、私は東京都内ではそういった化学物質を作り出す練習をしないでくださいと伝えましたね」

「はい。何が起こるかわからないので言いつけを守っています」


 やるなと言われたことはやらない。

 この世界に来たばかりの異邦人としてのふるまいは守っていた。


「今なら、見てますので練習してもいいですよ」

「え、でもここには貴重な原生林があるって……そこに鳥の巣もありますし」

「絶滅危惧種のオガサワラヒメミズナギドリがそこに営巣していますね。失敗しても私の物理障壁フィジカルギャップ内で吸収します。衝撃を外に出さないので、自然環境には一切影響しませんよ」

「藤堂先生は、私の話をよく覚えてくださっているのですね」

「実は視覚のみならず全感覚器の完全記憶というものを持っています。あなたと同じですね」

「えっ。できたんですか」


 それなのに、自分の記憶力に驚くふりをしていたのか、とファルマ少年は恥ずかしくなる。

 能ある鷹は爪を隠す、というこの国のことわざを思い出す。


「ちなみに驚いたのは本当です」

「でも、H₂O₂も、O₂も、H₂も、生成できたかどうかわからないですよね。分かるのは水か液体酸素、水素だけですよね。研究室で物性を確認することはできるかもしれませんが、ここは無人島なので」

「では単体を固体にすればいいのではないですか」


 藤堂のヒントともいえる提案に、ファルマ少年はすばやく答える。


「固体酸素(solid oxygen)のことを言っていますか? 確かに酸素を加圧すれば金属酸素になりますし、桃色から変化してO8の状態では赤になったり、変化する色で見分けがつきますが……危険すぎます」

「難しく考えすぎです。もっと単純で、安全な元素ではどうですか?」

「酸素と水素、どれも固体化しようとすると安全ではありません」

「水の神術使いではなく、水を構成する元素、酸素と水素の神術使いかもしれないと思うなら、それらの元素とほかの元素は根本的に同質のものです。ではあなたの神術は、すべての元素を創造できる能力、という意味にはなりませんか?」

「あ」


 ファルマ少年の口がぽかんとあいた。

 パラダイムシフトが起こったのだ。


「考えたこともありませんでした。思い通りの物質が造れる。そんなことができるなんて。でも、化学を知った今なら意味がわかります。これってもしかして、薬も作れるってことですか? それって、薬神様の伝説のとおりです。薬神様にはそういう知識があったのでしょうか」

「もし、あなたが元の世界に戻ったら、薬神として認識されるのではないでしょうか」

「ええ……? 私がですか?」


 科学技術は最終的に神の権威を奪い、神を殺す。

 そして、この世界に神がいなかったとわかるときがきたら、かの存在はそこに到達できなかった者たちから神として認識されている。

 藤堂は神話をそう理解している。

 ファルマ少年は藤堂の意図するところを察して、傘型の神杖を通じて、まるで水を作るように固体の純金を生み出し、小さな手の中におさめた。


「できた……。金ですよねこれ。錬金ができるなんて。錬金術師の夢だったんですよ!」


 ファルマ少年が嬉しそうに触ろうとしているので、藤堂はまってととどめた。


「成功して喜ばしいのですが、あいにくと、これは反物質の金です」


 反物質は、物質とまったく同じ外観をもち、物質と見分けがつかない。

 ただ、電気的性質が反転している。


「ええっ……! じゃあ、これが金に当たったら対消滅して消えちゃうんですね」

「ちょっとまずいですね。反物質ではなく物質ができるようにしてもいいですか?」

「もちろんです。でも、どうやって?」


 藤堂はポケットに入れていたと思しきペンダントのようなものを取り出し、空へと放り投げる。放り上げられたペンダントが宙に放物線を描く。夕日が彼の顔を赤く染めていた。


「申請。東京異界に限り、局所物質反転操作を行います。

 相間転移星相装置(SCM-STAR)を交換。

 ה י ב ו מ ך ה±(HARMONICS±)を拝領します」


 ファルマ少年に聞かれてもかまわないので、肉声で宣誓する。

 藤堂は遠未来の精密装置、神具を基空間、つまり時空の隙間からこの時空へと引っ張り出す。西暦に換算して8200年代の神具管理機構に預け、そして時空間転送によって現時空に取り出して使っている。

 あらゆる時空にある神具を一元管理している神具管理機構の原則として、神具の貸し出しは一つずつという原則がある。藤堂は最上ランクに位置するものばかり使っているので、めったに利用者がかぶらない。

 藤堂はペンダントの代わりに現れたディスク状の神具を流体状に変形させて、ファルマ少年が手にしている晶石を包み込む。


「ええーっ! な、なにをしてるんですか?」

「あなたにはこの晶石を通じて反物質を作る能力があるようです。ですが、反物質のままだと不便なので物質創造の能力へと転換しますね」


 第四の創世者が異世界から反転させこちらに投じた現象を、藤堂が物質反転神具、HARMONICS±を用いてこの世界の物理法則を用いてさらに反転する。

 せめて物質創造と消去については、ややこしいので反転させず、ファルマ少年の直感的に使えてほしい。

 賢いファルマ少年ではあるが、直感に反していると使い勝手が悪い。


「ああっ、晶石の色が変わってしまいました!」

「ちょっと特殊な物質でコーティングしているだけです。これで使いやすくなったと思います。物質を創造すると、反物質ではなく物質が出るようになりました。問題なく使えますよ」

「晶石が虹色になりましたが……もとに戻るのでしょうか」

「戻りますよ。反物質創造が使いたくなったら、ה י ב ו מ ך ה-と念じると戻ります。ה י ב ו מ ך ה+と念じると物質創造モードになります。反物質創造を使う機会はそうないと思うので、つけっぱなしでいいかもしれませんが」

「待ってください、そうとも言い切れませんよ」


 ファルマ少年はなにかひらめいたように空を見上げた。


「たとえば、あの工事現場で上から鉄筋が降ってきたとき、私は反Feを作れば助かったのではないでしょうか」

「なかなか冴えていますね。でも、対消滅をしたときに生じるエネルギー、2mc²を吸収できる技術を持っている場合に限ります」

「すみません、浅知恵でした。対消滅のエネルギーが発生して死んでしまいますね」

「いえ、悪手だとは言っていません。できるようにしてあげましょうか? 具体的には三日間何があっても死なないようにできますが」

「ええっ! 遠慮しておきます。本気ですか?」


 何があっても死なないように、など到底良い話だとは思えない。

 悪霊から身を守るためには心強い能力だが、自分の身に降りかかるとなると、即答してはいけない気がした。


「ではやめましょうね」


 ファルマ少年はえっ、と気抜けした。嫌だといったらすぐやめる。

 藤堂は時計をみて、あと20分猶予があると呟いた。


「ところで、あなたの世界のことが知りたい。ファルマさんの守護神である薬神様について伺ってもいいですか?」


 藤堂はファルマ少年の疑問を置き去りにして、別の話をはじめてしまった。

 サン・フルーヴでは嫌がっても拒否権などなかったのに、藤堂はファルマ少年の意思決定を尊重する。


「どうして今、無理やりしなかったんですか? 私の国だったら、泣き叫んだってやられてました」

「あなたは自己決定権という権利を持っており、それは尊重されるべきものです。子供であってもです」

「あなたみたいな人、初めてです。なんでここまで私を気にかけてくれるんですか?」

「似ているからです。私と。迷惑かもしれませんが、勝手に過去を重ねて共感しています」


 ファルマ少年が首をかしげているので、藤堂は打ち明け話をする。


「私は子供のころ、ファルマさんが今遭遇しているようなレベルの、人智を超えた厄介ごとに巻き込まれていました。そのころ、10歳の私は大人が大嫌いでした。大人は卑怯で、無力で、弱くて、誰も助けてくれない。繰り返される不条理を、ただ受け止めるしかなかったんです」


 今は遠未来にいる藤堂の父は、旧神たちの長だった。

 藤堂は殺されるためだけに数々の特殊能力とともに創造され、この時空に生を受けた。父は人間の母親を強制的に受胎させ、10年もの間彼女を寝たきりの状態にし、幼少期の藤堂を執拗に加虐し続けた。周囲の大人たちを、誰も頼ることができなかった。


「私は自分のことも嫌いでした。嘘つきで、他人に迷惑をかけて、警察にも睨まれて補導歴も数多、堕ちるところまで堕ちていました」

「そんなふうに見えませんが、更生したのでしょうか」


 たしか前科があれば、医師になるのも難しかっただろうにとファルマ少年は法律を思い出す。


「ええ。信頼できる大人と出会いました。その人は私のような嘘つきのクソガキが勝手にくたばるのをよしとせずに、命がけで守ってくれました。損得勘定なしにです。だから私が大人になった今、あなたのような、わけのわからない苛烈な運命に翻弄されている子供が私の前に現れたら、絶対に放っておくわけにはいかないんですよ。しかも異世界から来たあなたは私と違って堅実な人で、地球で産まれた当時の私よりよほど酷い目に遭っています」


 その言葉には静かに熱がこもっていて、ファルマ少年の心にすっとはいってきた。

 ファルマ少年にとって大人とは、信用のできない、畏怖と嫌悪の対象でしかなかった。

 大人に失望してほしくないから。

 自然の営みから外れた暴力によって不条理な目にあって苦しんでほしくないから。

 たったそれだけの動機で、異世界から来たという得体のしれない子供、それも悪霊に付きまとわれている子供にここまでしてくれる意味もわからないが、とファルマ少年はやや混乱する。


「もし、藤堂先生を渦中に巻き込んでしまっているならごめんなさい。あなたの過去の出来事や倫理観や善性にもとづいて、私を見捨てることができないというなら、卑怯なのは中途半端に病院で神術を見せて、助けてくださいと言ってしまった私です」


 もし、罪悪感のようなものを負わせてしまったのなら、とファルマ少年はうなだれつつ胸を痛める。潮騒音が彼の心をかき乱すかのようだ。

 

「いえ。私は自分で飛び込んだのです。何年、何十年かかったとしても、二人でこの地獄から脱出しますよ」


 藤堂が片手を差し出すので、ファルマ少年は躊躇ったのち、おずおずと握り返した。

 大きくて温かい、そして頼もしい大人の手だと思った。

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