10話 東京異界の掌握
【ご注意】
・本作は2027年の話ですが、医療統計、治療法等は2021年時点ものを使用します。現実世界で2027年になったらその時に改稿して記載を更新します。
2027年8月12日(水)、15時。
藤堂は「第四の創世者」の許可を得て東京異界の管理者として東京の全情報を掌握した。
それらの情報は、藤堂の生脳に注ぎ込まれてゆく。
藤堂は権限を引き継ぐと同時に自身の神体に再構築をかけ、情報負荷に対抗しているが、与えられた情報の流入のほうが早く、脳内でいくつもの出血が起こっている。
嘔吐、吐血がとまらない。
引き継いだ情報の洪水に襲われて溺れそうだ。
手放しそうになる意識の中で、生脳に注がれる情報の一部の流れを変える。
この時から、仮想演算空間、へクス・カリキュレーション・フィールド(六方魔方陣演算空間:Hex Calculation Field)に配置している疑似脳へと転送する。
これで、情報を傍流へ逃がすことができたはずだ。あとは情報の精査を行う。
彼は東京都におけるすべての情報にアクセスすることができるようになった。
東京都民全員、あるいは東京都に足を踏み入れた者はその瞬間、視覚情報を藤堂に共有される。思考も、無意識領域の精神活動も常時読まれる。異界からの襲撃によって都内全域のたった一人にでも危害が加えられそうになったら、人々を操って、あるいは空間を操作して避難させることができる。
しかし、平時に起こりうる事件や事故、病死等は看過する。
都内で自然に起きる事象からは守らない。
超人的な視点を持たなければならない。
この東京で、誰もが不条理な目に遭って死ぬことに、折り合いをつけなければならない。
知ってしまったら、助けたくなる。
しかし、それは見過ごさなければならない。
藤堂は胸を痛めながらも、情報を整理してゆく。
たった今風呂で溺死した子供も、
通り魔に遭って死亡しようとしている女性も、
餓死しようとしている老人も、
DVを受けている子供も、
電車のホームに飛び降りた若者も、
助けられるのに、助けない。
見えるのに、見ないふりをする。
それは丁寧に丁寧に、感情を麻痺させ、壊してゆく作業にも似ていた。
知覚できなかっただけで、この東京は、悲惨な出来事で満ち満ちていた。
それらの痛みを、これまでは「第四の創世者」が引き受けていた。
22時、情報の引継ぎが完了し、東京都内に生じた異変はすべて把握できるようになった。
ファルマ少年の思考は読めないが、ひとたび危機があれば薬谷 完治の脳も操ることができる。
この状態で、実質的な危機は生じえないだろう。
藤堂は帰宅し、あえて風呂を浴びて仮眠をとることにした。
眠らなくてもよく、汚れない身体になったが、眠っておくべきだと考えた。
顔を手の甲でぬぐうと、いつの間にか泣いていたようだ。
(時空管理者、本物の神になるって最悪なんだな……。ユージーンさんのいう通り、権限が現時空だけでよかった。未来まで見えていたら)
人間らしい生活は続ける、医師として勤務もするべきだ。
人と接点を持ち、社会生活を続けるべきだ。
同時多発的に起こる有事に対応できなければ、共存在という分身を使う。
人間らしさを、捨ててはならない。
さもなければ、簡単に人の心を失って自我を崩壊させ、管理者権限を解かれた後、人間として生きられなくなってしまう。
身近な人々を、どうでもいい塵芥にすぎない存在だと思ってしまう。
「そっち側」へ、簡単に行ってしまえる。
第四の創世者が地球上で家族や仕事をもち、人間らしく人々と触れ合いながら暮らしているのも、人の心を失わないための工夫なのだろう。
ただ、彼は全てを知っていながら、ありとあらゆるものを見過ごす。
彼の妻や子供の死も、どんな理不尽な死も、それが自然の営みである限り見過ごす。
何を知っていても、見ないふりをする。
どんなに悼んでも、そうしなければならない。
それが時空の管理者たる創世者の、公平性を担保するために必要なことだ。
(きつい……)
限界を感じた藤堂の心境を見透かしたかのように、スマホの振動に気付く。
ユージーンからメッセージが入っていた。
【そろそろ終わったかな。きつかったね。でも、引継ぎは正常に行われているよ】
藤堂の全ての思考、行動は、第四の創世者に見られている。
彼は藤堂がさきほどまで苦しみ悶えていたのを観測していたはずだが、管轄外のため介入してこない。
【言い忘れたけど、情報は小分けにしておく。きついと感じるなら、全部知覚しなくていい、生脳を使わない、平時は疑似脳を使うこと】
「何で今いうんですか……モロに生脳で受け止めてしまいましたよ」
【言っても意味がわからないだろ?】
藤堂がメッセージを送っていないのに、藤堂の疑問に対する返信が返ってくる。
もう少し早く教えてほしかったと思うが、体験してみなければ情報に圧殺されそうな感覚は理解もできないのだろう。
【もうだめだと思ったら、権限を戻していいからね】
メッセージには、藤堂の故郷の村の美しい風景写真が何枚か添えられていた。
それがまた、えもいわれぬクオリティで、郷愁をかきたてる。
(てか村の写真送ってくんなよ、決意が揺らぐでしょうが。そして写真の構図とカメラワークうますぎるんだよ、昔から……)
しかし彼がわざと藤堂に負荷をかけたり「やめていい」というのは、彼が初めて時空管理者となったとき、心を壊してしまったからだ。
先輩からの忠告といったところだろう。
【脱出ゲーム得意だっていったでしょ。そんな実家周辺の写真送ってギブ促してきたって、折れませんよ。見てくださってありがとうございます】
藤堂はそんな返信を送って、少し気持ちが楽になる。
たった2194 km四方だ。人口も、1400万人程度。
増減があるとしても、1億にも2億にもはならない。
東京都内の運営を任されて、まだ一日どころか、まだ数時間も経っていないというのに。
まだまだ、なんのこれしき。
それに、彼が予告していたとおり、志帆梨からのメッセージも入ってきた。
【元気? ちゃんと食べて寝てる? 今月末にレイアと日葵と東京に遊びに行こうと思っているんだけど、いつか休みとれない? 一成さんはお店があるから来れないんだけど】
【8月28日と29日の土、日はあいてる、客室あるからうちに泊まっていいよ。どこか行きたいところがあったら教えて】
藤堂は勤務表を確認して返信した。
ささやかだが、楽しみもできた。一軒家に住んでいてよかったと思う。
「東京観光、どこにしようかなあ」
気分を切り替えてスマホをいじっていると。
【日葵がね、ディズニーランドとシーに行きたいっていうんだけど】
「ディズニーは千葉だから無理かなあ……東京に封じられているからなあ。近づけても舞浜大橋までか。きちんと母さんには事情を話しておかないとな。あれ、小笠原諸島と伊豆諸島に、沖ノ鳥島に南鳥島も管轄にされちゃったのか……普通そこは省いてくれるでしょう。でも、あのあたりに行けるのは気分転換になっていいな」
飛行機は使えないので、汎用転移術を使って移動することになるが。
「東京の権限を」と言ったからには言葉通りに都県境で区切って管轄権を付与するあたり、教育的指導といったところだろう。
言葉は正確に使わなければならない。
「よく考えたらレイアは東京入れねーなこれ……一人だけ都外にホテルとってもらうか、全員うちに泊まらせずディズニーのホテルとってあげようかな」
志帆梨と連れ立って東京観光に繰り出そうとしている藤堂の義妹、藤堂レイアは旧神だった。
人間だった頃の藤堂は1%、現在のレイアは5%ほど、人間と異なる部分がある。
このため、レイアは東京異界には入れない。
せっかく来たのに東京に入るなといったら怒るだろうな、と藤堂は唾を飲む。
【ユージーンさん、確認なんですが、旧神は東京に入れないんですよね。レイアが東京来ることになってて……】
【入れないよ。でも、旧神でなければ入れるし、レイアも都内に入れるよ】
もって回ったような返信が返ってくる。
【どうやって! 都内に入れるのはホモサピだけなんでしょ?】
【旧神とホモ・サピエンスは何が違うの? そもそも同じ人類だよ?】
誘導形式で問いかけてくる。メッセージなので表情はうかがえないが、楽しそうな顔をしているんだろうな、と藤堂は顔をしかめる。
【遺伝情報と生体を構成している物質が異なります】
【君が東京異界でできることは、私が許可していることだ。私を出し抜くことはできないんだから、できることならやっていい】
【でも、レイアは旧神だから異界には入れないと】
【そうだよ】
【わかりました。ちょっと一回皐月先生にアドバイスもらいます】
【それは禁じ手】
「おっ、いい反応。もう電話かけちゃうし」
藤堂は彼の唯一の弱点といってもいい妻、吉川 皐月へコールしたが、彼女は電話には出てくれなかった。
履歴すらついていないだろう。
「んー! 遮断しやがった! 頭脳戦で勝てるわけないだろ……あの人、俺の四つ上の次元にいんだから」
しかし、少しヒントをもらった。
できることは、やっていいのだ。
あれもこれも禁止かもしれない、などと考える必要はない。
藤堂はヘクス・カリキュレーションフィールド内の疑似脳で走査させている情報の精査をはじめる。
そして思いがけないタイミングでとある情報に触れ、藤堂は気付いてしまった。
薬谷 ちゆの大脳半球に、小さな悪性細胞塊がある。細胞数はわずか32。
「小児の膠芽腫、がん遺伝子の増幅が多数起こっている。細胞数はまだ少ないけど、きわめて予後不良なタイプかな」
藤堂には未来は見えないが、放っておけば生存期間の中央値は一年半でn%以下、2年生存率は20%以下。
膠芽腫に関しては、現代医学では確実な治療法が何もない。成人と同じく腫瘍摘出術が基本で、放射線治療が組み合わされる。ただ、成人と違いデモゾロミドはあまり期待出来ないみたいだ。ウイルス治療が選択肢に入るかもしれないが、完全寛解を期待するには弱い。
都民全員の生殺与奪を可能とする藤堂ならば、腫瘍を壊死させ何もなかったことにすることはわけもない。
しかしそれは、彼女の運命と生死を変えてしまうことにほかならない。その結果は確実に、薬谷 完治の今後の行動に影響する。
「ファルマくんは医師になってもいいと言っていたが、薬谷 完治は31歳時点で薬学者になっていた。このことが意味するのは……きっと、薬谷 ちゆを膠芽腫で亡くし、それが強烈なモチベーションとなり、薬学者への道を目指した」
自然な成り行きとしては、頭痛、悪心嘔吐、けいれんや神経症状が出て、CTやMRIによる精査になるが、タイミングを計れば症状が出る前に検出出来るかも知れない。
しかし……時空の管理者としては間違っているとわかっていても、知ってしまったからには、医師としては見過ごせない。
できることは、やってもいい。
藤堂は先ほどのユージーンのメッセージを思い出し、彼女の脳内の腫瘍を特定し、細胞へ複数のデスシグナルを入力し、さらにDNAを切断して根こそぎ壊死またはアポトーシスを誘導させようとした。しかし……
「で……できない……のか」
何度試みても、脳内への物理的介入を阻まれる。
薬谷ちゆの腫瘍を、なかったことにできない。
薬谷ちゆの意識に侵入してみるが、そちら側からも介入できなかった。
「異界が発生する前から禁止されているのか。くそ、この世界のことは任せてくれるんじゃないのかよ」
医師 VS 医師。
あるいは経験を積んだ上位管理者 VS 新任の下位管理者だ。
権限だってCEOと新入社員ぐらいの差がある。
ひとたび禁止と定められたなら、勝てるわけがない。
筋書きのかなりの部分は決まっている。
藤堂が「自身で選び取ったと自覚している」選択肢だって、すべては彼の掌の上だ。
藤堂はかつて自我を乗っ取られた彼に殺されかけたことがあるし、現在は味方だとわかっていてもその恐ろしさを知っている。
そもそも第四の創世者は正しい未来に繋がらないと判断した場合は、藤堂の管理している東京異界を上位権限で潰して全てを取り消す。
この時空の藤堂をいとも簡単に葬り去って、別の時空に繋げてしまう。
第四の創世者がINVISIBLE/XEROからこの時空を管理する権限を得てからまだ4年も経っていないにもかかわらず、空間運営の累計時間数がとびぬけているのは、同じ時空を並列的に運営して、あるいは過去に干渉して、うまくいかなかったものを葬り去っているからだ。
やったことが無になる。
薬谷ちゆの治療が禁止されていることがはっきりわかるということは、この時空がまだ「正解」を歩んでいるということだ。
「ユージーンさんが悪役ムーブはじめやがった。ちゆを殺す気なんだな」
殺すというと語弊があるが、ちゆの死に介入せず見逃すということだ。
藤堂は何とかならないか、良心の呵責にさいなまれ葛藤する。
ただ、藤堂の介入は最小限にしなければならない。
「俺が禁止されてるだけだよな? なら俺が極力介入せず、自然なイベントの結果受診を促すにはどうすればいい……? 症状も無いのに検査を勧めるのも難しい」
つまずいたりして頭部打撲をするなどのイベントがあれば、念のため頭部CTを撮るだろう。
そこで腫瘍が見つかればMRIを撮って、その後のことは、現代医学の集学的治療に任せるしかない。
場合によっては腫瘍摘出手術が成功したというていで、藤堂が極秘裏にちゆの腫瘍を徹底的に破壊しつくす、などの介入ができるかもしれない。
だが、ちゆが助かってしまったら未来は変わるのだろうか? そこが分からない。
「できることはやっていい……薬谷ちゆの死亡を、俺以外の誰かの介入で阻止することまで、禁止されているかはわからない」
自然な成り行きで脳外科の受診を促す、それぐらいは自然な現象として起こってもいいのではないか。
ただ、そのタイミングが重要だ。
腫瘍が大きくなりすぎては治療が間に合わないし、小さすぎてもだめだ。
一度撮影すると、しばらくは「こないだ撮ったし何もありませんでした」となる。
「まだだ。まだ小さすぎる。MRIで捕捉できない」
藤堂は腫瘍細胞数を見積もり、増殖速度から最適な受診時期をはじき出す。
「受診するのは3か月後だ……」
ファルマ少年に協力を仰ぎ、ちゆが夜間に痙攣をしていたなどと言って自分の救急当直の日に来てもらえれば、MRIの検査オーダーを出せる。などと考えていると、
「おや? フィジカルギャップに何か引っかかった」
◆
8月13日、午前5時20分。
薬谷家の全員は大きな音と衝撃で目覚めることになった。
「びゃあああ、こわいー!」
ちゆは大泣き、智子もパニックに陥っている。
善治とともに、折り畳み傘を手にしたファルマ少年が家から飛び出てみると、無人の10トントラックが薬谷家のわずか10メートル先ほどで大破していた。
トラックは何か壁にぶつかったかのように前面が潰れているが、薬谷家の外壁も無傷だし、運転手は乗っていない。
「何で有人運転タイプのトラックで運転手がいない。ブレーキかけてなかったのか、運転手が逃げたのか。いったいどこの会社のだ!?」
ファルマ少年が近づこうとすると、善治に止められる。
「完治。爆発する可能性がある。近づかないほうがいい」
あやうく死ぬところだった、といって善治は怒り心頭で警察に通報しにいった。
ファルマ少年は悪霊のいた痕跡を見つけて、神術陣を張りなおした。
(昼間も張らないといけないのか。神力の消費がゼロだといっても、精神力が持たない。この世界の悪霊は念動力のようなものを使って物理攻撃を仕掛けてくるのか? こんな調子だと、おちおち寝れないぞ?)
この大型トラックを動かしたとすれば、かなり強力な悪霊だったということだろう。
(あ、もしかしてこの距離は)
隣に住んでいる藤堂の展開している、最大半径50メートルといっていた物理障壁に衝突したのだろうと考えた。
(藤堂先生が守ってくれたんだな。あとでお礼を言わないと)
こんな時間に藤堂の車がないので、外出中なのだろう。あの衝突を物理障壁で防いだあと、すぐどこかへ行ってしまったのだろうか。ファルマ少年が色々と考察しながら納得して家に入ると、智子がちゆとともに仏壇に手を合わせている。
「ほんと、九死に一生だったわね。あの大きさのトラック、助からなかったわ。きっと、ご先祖様が守ってくださったのよ」
「ご先祖様?」
「さ、完治もちゆも手を合わせなさい」
仏壇に手を合わせることは、異端の神(仏?)を信仰することになる。
薬神を信仰しているファルマ少年にとっては薬神への裏切り行為となるが、手を合わせるだけで祈らなければ問題ないだろう。ファルマ少年は仕方なく、手だけ合わせた。仏壇を見て思い出す。
(8月13~16日はお盆だったな……先祖供養のための死者が戻ってくるという祭りだ)
その期間、先祖の霊も戻ってくるが、現地の悪霊も発生して凶悪化するのだろうか。
などと考えてみても、そうなる理屈がわからない。
「そういえばお盆だっけ。だからこの世界には霊が増えるのかな」
などと智子に尋ねると、
「東京のお盆は7月でしょ。霊の仕業なんかじゃないわ、きっとトラックの運転手が逃げたに違いないの」
と返された。
確かに東京のお盆は7月だったはずだが、全国的にはお盆期間のはずだ。
(トラックは無人だった。それに、わずかに残るあの気配は悪霊のせいだ。やっぱり俺が悪霊を祓っているから恨みをかっている?)
しかし、この世界でたった一人、人を死に至らしめる悪霊を診る目、それを祓う力、尽きない神力を持ちながら、何もせずに人々が死ぬのを見過ごすのはファルマ少年と帝国貴族の主義信条に反した。守らねばならない。そのための神技を磨いてきた。
それがたとえ、異世界人の命であっても。
(俺は……この世界の家族を失いたくない。ちゆも、善治さんも智子さんも)
怯え切った小さなちゆの手を握る。
必死にしがみついてくる彼女の体温を感じながら、彼は虚空を見つめる。
対処は自分にしかできない、早急に対策を打つ必要がある。
【謝辞】
・本項の医療描写部分は、医師・医学博士 村尾命先生にご監修いただきました。
誠にありがとうございました。