2 癒やしの旅、世界に知られる旅
「ああ――毎回思いますが、久しぶりの外も、いいものですねぇ。仄暗くて水気の多いところは好きですが、太陽と風も気持ちいいです」
桟橋の端に立ち湖面から吹き上げる風を受けて、スイージュは両手を広げる。銀髪やオフホワイトのスカートがはためき、腕のいい写真家が撮ればさぞかし良い値で売れるだろう画が完成していた。
神殿の島から湖岸の港への唯一の船が朝一番に来るのは八時程度で、そこから同じ船が戻るまでは時間がある。
朝の便で来た参拝客が神殿や周辺を回る間、スイージュは湖の側でただ時間を過ごすことを選んだ。アークには観光してきていいですよ、と言ったが、先程までの騒ぎを思うととてもではないが神殿に近寄る気にはならない。
案内された部屋で一休みし、夕食を与えられ、話をし、寝て起き、どうにも現実感の薄いまま入り口正面の広間に行くと、そこには山と積まれた荷物が散乱していた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「おはよう……ございます。はい、よく、眠れ、ました……」
「散らかしていてすみませんね。今、旅に必要なものを倉庫から出していたんです。朝食、簡単にですが用意してありますので食べてください」
部屋の隅に置かれたテーブルを見ると、パンとスクランブルエッグ、腸詰め、サラダ、ジュース、何をするでもなく漫然と荷物の山を眺めているリヴィス。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
「あのさ」
「なんだ」
「あたしの荷物どうしたかな? 部屋の時計が止まってて何時かわからないんだけど、寝坊した?」
リヴィスは既に旅に出る準備を整えていて、服もあとは外套を羽織るだけの旅装で固めている。足元の荷物からアークの袋を出して渡す。受け取って中から時計を出す。
「……止まってるね」
「停時空間だからな。外は十時だ」
「そんなに寝こけたつもりはなかったんだけどな」
「あれだけの怪我をしていたんだ。治ったとはいえ、生命力は疲弊している。ゆっくり休むのは当然だし、アレを見ればまだ寝ていてもよかったくらいだ」
確かに、スイージュの出してきている荷物の量は凄まじかった。すべてを持って行くつもりだろうか。良質な袋があれば不可能ではないが、長い覚書が必要だし、それを作成する時間もかかるだろう。
魔法で運べるはずなのに自分で倉庫と広間を往復しているのはなぜなのか、せわしなく動き回りながらスイージュは声をかけた。
「欲しいものがあればあなたも持って行ってください。一緒に行くにも、何かあったときのために物は分けて持っていたほうがいいでしょう」
とりたてて欲しい物があったわけではないが、朝食を終えてから興味本位で山積した荷物を見せてもらった。
スイージュはただ出して散らかしているわけではなく、種類によって置く場所を分別していた。テントや絨毯のような大物、武具や、茶器のような細々した日用品、食料品、のようにだ。
金銀宝石で出来た宝飾品や細工までもが、薄い敷布だけで無造作に床に置いてあるのは面食らった。
「それ、売ると結構なお金になるんですよー」
親指の爪を二つ揃えたくらいの大きさのエメラルドの首飾りをそっと持ち上げて見ていると、遠くから声がした。なるほど。着飾るためではないのだ。
アクセサリーになっているもののほかにも、裸石のままや何かしらの形に加工してある宝石がごろごろ転がっている。中には祈法図形や紋章が彫ってあったり、魔術的な力が付与されていると見受けられるものもあった。
「こういうのってどうやって手に入れてるんですか?」
「ほとんどは貰い物です。わたしの歓心を買おうとお金の代わりに納められることが度々あります。女であることだけは知れ渡っていますからね。こういうものも好きなのではないかと思われるんでしょう。この通りの姿なので使い道ないんですけど。
それも好きなものを選んで持って行きなさい。旅の途中でお金に困って足を止めたくありません。身につけるために欲しいだけでも結構ですよ。あげます。わたしには必要のないものです」
勲章を連ねたような豪華な金のネックレスや十カラットはありそうなダイヤにはあまりの凄さに心動かされるものもなくはなかったが、こういうもので自分を飾ろうという気にはならなかった。合う服もない。代価もなしに貴金属を持ち出す行為は気安くもない。
なるべく旅で役に立ちそうなもの、アークの知識で使える祈法的、魔術的意匠の施されたものを、と手にとって検討する。
「?」
一つ、丸くて赤い石をトップにしたネックレスが指に触れた。ルビーやガーネットとはまた違った風合いの石だ。手のひらに転がして見ても、紋章の意匠もなく文字の一文字もない。ただのアクセサリーなのだろうけれど、妙に心惹かれた。綺麗だ。
滑らかな表面を指で擦る。吸い付くようで、離し難い。石だけれど親しみがあって、可愛い、とまで思う。
「ああ、それいいじゃないですか。ちょうどいいから首に下げておきなさいな」
「いい、ですか?」
「どうぞ。プレゼントします。あなたのものにしなさい」
早速つけようと留め具を外そうとしたが、困った。普通の留め具ではない。どうやら装飾の一部となっているらしく外し方が不明である。無理に引っ張ったら切れそうだ。
「リーヴィース。あなた何のために生きていて何のためにその背丈で何のために男性やってるんですか?」
「………………」
辛辣な言葉に、困っているアークをただ眺めているだけだったリヴィスが近づき黙ってネックレスを受け取った。彼の指が少し留め具をいじる。簡単に外れた。
「後ろを向け」
言われた通りにすると、大きな手が上のほうから首を回る。カチリと金具が鳴って胸元に石が落ちた。振り返る。
どうかな、と尋ねる前にリヴィスはスイージュに向かってため息混じりに言った。
「これでいいか?」
一切作業の手を止めず、リヴィスを見もせず、
「あら? 何のために男性をやっているんでしたっけ?」
「俺にピートやキューのようなそつのなさを求めるな」
「キューはともかくピートがそつのない人だとは思いませんけど」
居心地悪そうに彼はアークの目と首元を見た。
「よく似合っている」
「なんだろう。あんまり嬉しくない」
「スイージュ。俺は何のために生きていて何のためにこの背丈で何のために男だったんだ?」
「知りません」
素っ気なく言い放ってから、スイージュはアークに向かって微笑した。
「あ。ありがとう。やっぱり嬉しい」
「ありがたい」
苦々しげに、彼は椅子に戻る。スイージュは軽く指差した。
「その人と関わるときのコツはやらせたいことはちゃんと言葉にすることです。気を利かせてくれないものかなどと期待してはいけません。がっかりします」
「悪かったな」
「わたしは慣れてますけど、知り合って間もないお嬢さんに対して開き直るんじゃありませんよ」
「開き直ってはいない」
「いや、いいよ」
難詰を続ける彼女を止める。
「そういう欠点とか、飲み込んで慣れるのが友達になるってことだと思うよ。お互いにさ」
リヴィスは首を掻き、スイージュは機嫌良く鼻唄を響かせ始めた。
武具や野宿に必要なものなどをアークが吟味しているうちに、積んであった荷物は少なくなっていった。スイージュは身長より大きく口が広がるとんでもない伸縮性の袋に荷物をひょいひょい入れている。口が閉まると、なんとそれはポシェット大の鞄だった。
アークが選び終わっているのを確認すると、残ったものが足が生えたように去る。――なぜ出すときはこうしなかったのだろう……。
終わりかと思いきや、次にスイージュは服が大量に掛かったハンガーラックをいくつかと姿見を持ってきて、衣装を選り始めた。
リヴィスはうんざりした顔を見せたが、スイージュが着ているのは飾り気のない白のワンピースで、それも丈が短い、下着と呼んでいい代物である。自然体でその衣装だったため違和感を覚えなかったが、外を歩く格好ではない。
ラックに掛かった服はどれも時代の違いを感じさせる服装だった。お嬢様風のものから、野良着、流行遅れのものから、まだ早すぎるのではと思われるものもある。
「今風だと、どのあたりでしょうかね。外に出たら新しいものを仕入れますけど、町まで着るものを見立ててもらえませんか」
「俺に服のことを聞くな」
「誰があなたに聞いたんですか。アークにお願いしたんですよ」
「あたしも、ファッションに敏感なほうではないんですけど」
「あまりにも珍妙に見えなければいいです」
ラックに隙間なく詰まっているので、見るのにいちいち引っ張り出さなければならない。それで時間がかかったが無難そうなものを選んだ。
ようやく、旅立ちの準備ができたのは昼過ぎのことである。
アークの生まれ故郷、サメリュメ大陸のイズカ村まではヴォート山脈を北に迂廻して東へ向かわなければならない。往路では最短ルートを通ったが、スイージュは地図上に指を滑らせて、マテラス帝国の都トア・ハラに寄る道筋を希望した。
アークは気が進まなかったが、聖女の望みを否定できる立場でもない。
ここまでで既にアークは疲れていたのだが、出発してからすぐさま一騒動起きた。リヴィスの使った地下を通る裏道は遠回りなので、どうせだから正面から出て、神殿の小島から湖岸の港までの往復船を使おうというスイージュの提案が、アークとしては間違いだったように思えてならない。
長い洞窟の階段を登って、突き当たりの扉を開けるとそこは礼拝堂だった。しかも祈りの最中だったのか修道女たちが集っていた。
驚愕か歓喜か恐怖か、叫び声が飛び交った。
刹那、台風で六メルテ飛ばされたときの暴風の如き厳然たる圧力がスイージュから広がる。修道女たちに劣らないほどアークもびっくりしたのだが、口から出た「わ」という声は甲高い悲鳴に掻き消された。
「何者です……! どこから侵入を……! そこは聖女のお休みになる神聖な場所と心得ているのですか!」
若い修道女が握りしめた拳を戦慄かせながら毅然と立ち向かうのに、スイージュは平然と背を向けて扉を閉め、掛けてあった『在中』の札をひっくり返して『不在』に変えた。
ただぼそりと小さく、
「そこから出てきたのだから、誰かくらい想像できてもいいでしょうに」
「なんとか答えなさい!」
「おやめなさい、おやめなさい!」
年嵩の、被り物に刺繍のある修道女が横から抱きかかえるようにして彼女を抑え、床に膝を突かせ、自らも跪いて頭を垂れた。
「申し訳ありません、聖女様……! 物を知らぬ若い娘ですので、どうかお許しを!」
「聖女、様……!?」
年若い修道女は目を見開いて、スイージュとアークを見比べた。スイージュが半目で応える。
「久しぶりですね、ノーラ。怒ってませんので気にしなくていいですよ」
「ありがとうございます……名を覚えていただいているとは光栄でございます。して、聖女様におかれましてはこの度はどのようなご用事でお出ましに?」
「出かけます」
「お出かけ……どちらまで……?」
「報告する義務がありますか?」
反語だ。スイージュはどこまでも冷たい。慌てて修道女は頭を振る。
「いいえ……しかし、お戻りがいつ頃かくらいは……」
「さあ。何年か戻らないつもりです」
「何年か……ですか……。そ、その方々は?」
怯えながらもこれだけは確認しておかなければと思うらしい。アークはスイージュを挟んで左にいるリヴィスを見る。視線が合った。肩を竦める。目が語っていた。『こんなことは初めてではない』。
「友人です」
あくまでもスイージュの態度は傲岸不遜極まりなく、『これ以上不要な詮索をしたら縊られる』とまで思いつめてしまいそうな空気を発し続ける。
修道女は悄然と項垂れた。
「そうですか……」
「そうです。じゃあ、行きましょう」
彼女は微笑して、互いに抱き合う修道女たちのほう――扉のほうへ歩き出す。小さな体から聖女たる圧力感を広げ威風を吹かせながら歩みを進めるスイージュを追いかけるのはアークとリヴィスだけだった。
遠巻きに道を空ける修道女たちの間を通り礼拝堂から出て、廊下を行くのに早歩きをやめないスイージュにやや大股でついていく。
「『留守をお願い』とか、そういうことは言わないんですね」
「言う筋合いがないですからねぇ」
〝聖女〟をするのはもうやめて、のんびりと、但し不快そうに呟いた。
「まだ説明をしていませんでしたっけ。わたしとあの人たち――ついでにこの神殿」
古い石造りの天井を指差す。
「なーんの関係もないんですよ。なぜか、彼女たちは聖女宛の寄進を受け取って自分たちの生活費にしているんですが。物は献上してきますけどお金は勝手に使っています」
「え? それはどういう?」
「遡ること随分昔の話なんですが、わたしがここを住まいにすると決めて《停時の図書室》や寝床や温泉を拵えた後、十何年か眠って起きたらいつのまにかこんな神殿が立っていて、あんな感じの尼が『聖女様にお仕えする者』として世俗を捨てていたんです。湖岸から離れた小島で、世捨て人するにはちょうどいいところでもありますからね」
コメントのしようがなくていると、スイージュは前かがみにため息をつく。
「大勢の生活基盤ができてしまっていたので散らそうにも散らせず。ですけど、わたしが出ていくのは釈然としませんし。せっかく安住の場所を作ったのに。仕方ないので彼女たちは好きにさせて、わたしはわたしでやっています。何か勘違いしてわたしを管理しているつもりになっている尼がたまに出るんですけど、そういうのは強めに殴ります。さっきのノーラは以前わたしが何人かぶちのめしたところを見たことがある女です」
『ぶち』に力がこもっていた。道理であんなに怯えていたわけだ。ぶちのめした、の程度がどのくらいのものだったのかは聞いてみたいが怖いような気もするので、精神的に安全なほうをとって聞かないことにした。
「この神殿って、そんなだったんだ……」
旅の道中、音に聞こえる神殿の厳格さに、どう頼めば聖女に会えるか考えて、必要ならば神殿に仕えるのも辞さないつもりだった。神殿と聖女が無関係なら、その通りにしたとしてもまったく無駄だったといえる。その無駄をしないでいられたのは直接運んでくれたリヴィスのお陰だ。アークは深く深くリヴィスに感謝した。どこかでこの恩を返せたらいいのだが、《永遠の守護者》相手にそんな機会はあるだろうか。
「もう起源を覚えている者はほとんどいません。『聖女様の祝福を受けたお守り』――なんて詐欺商品を売らずに、芯から聖女様をお守りしているつもりで慎ましく暮らしているので悪気がないのは認めます。地上との最短出入り口の門番程度には役に立ってますが、出かけようとするたび騒ぐのでわたしには迷惑な話です」
もう一度、愁傷的なため息をついた。