1/7の誠実な道化師たち①
汗の匂いがする。
茶色の斑点がある白い天井。視界がとても狭い。
下手な口笛が聞こえた。笛の音にもなっていない擦過音の強い息吹。近くで、その規則的な音と共に機械の動く音が聞こえた。口と鼻の周りをプラスチックのマスクで覆われていて、よく聞けば下手な口笛は自分の呼吸音だった。
声が聞こえる。低い声。男が何人かで話している。
「とうげ――した――しかし――せません。そん――おおす――――にはいゆし――――――せん」
「――――――ではせきにん――――まいきんは――――かぞく――――」
肩が熱い。熱くてたまらないのに、寒い。
なに? なに? なにがあったの?
指も動かせない。なんとか男たちがいるほうへ目を動かした。
「ああ、目が覚めたようだ」
髭を生やし、白衣を着た男が嘆息してアークに近寄る。額に手を当てた。
「大丈夫。命は取り留めた。運んできてくれた彼によくお礼を言いなさい」
命?
話をしているあとの二人は知っている。探求師同盟の調査員と、リヴィス。
苦しい。
生温かい医者の手が気持ち悪くて払いたいのに右手が動かない。イヤイヤと首を振ると、視界に妙なものが映った。
腕だ。
腕だけ。誰の体にもくっついていない。
巻かれた包帯には血がにじみ、ベッド横の台に載せられている。それはとても見慣れた腕。
――アークの腕だった。
右腕が動かないのは肩から先が無いからなのだ。焼かれるように熱いのは痛みなのだ。
(――返して!)
返して。返して。それはあたしの腕。なくなると困るんだ。これからも必要なんだ。返して。
喉を鳴らし視線が腕にそそがれているのに、医者は気の毒そうにかぶりを振った。
「可哀想だが、くっつけることはできないよ……。損傷が酷すぎる。肩関節がえぐれてしまっているのだ。縫合のしようがない。
――治療についてはおいおい話しましょう。熱が下がるまで安静にしているんだ」
医者が立ち去ると次に探求師同盟の調査員がベッドの横に立つ。
彼は流れ雲組合との保険の仕組みや報酬について何やら話したが、ろくに耳に入ってこない。
見舞金は出るがそれ以上の手当や世話はないとだけ理解した。元より、流れ雲はそういう存在だ。それを承知の上で仕事をする。
「また、意識がはっきりした頃に来ます」
と、去る。
部屋には、リヴィスが残っている。
左腕を伸ばし、『あたしの腕をとって』と頼もうとしたが、点滴のチューブが繋がれていて動かすと針がつった。むしりとってしまいたかったが、そうするための右腕がない。
なすすべもなく。
「…………あ………………」
旅の目的。こんなところで。あたしはなんのために。どうしたらいい。腕が。どうしたら。父さんは。
父さんはどうなるの。
聖湖の神殿で、聖女に会わなくちゃいけないのに。
何ができなくても涙だけは流せた。
黙りこくっていたリヴィスは、台に載ったアークの腕を掴む。
お願い、リヴィス。返して。あたしの腕なんだよ。なくちゃ困るよ。返して。返して。
くっつけて。ここにくっつけて。
心の中で必死に懇願する。
が、どこか理性的な部分が認めていた。
自分は、片腕を失ったのだ。
「あ……ああ…………」
視界が歪む。目尻を伝って、涙が耳を濡らした。
なんで。
痛いよ。熱いよ。寒いよ。
なんで。
心のない赤い瞳の少女。
可哀想だと思ったのに。出してあげようとしたのに。なんで。どうして。あたしの腕。返して。
慟哭する力も入らなくて涙だけをこぼす。苦しい。酸素を送り出すマスクが気持ち悪い。
リヴィスはアークの腕を両手で大事に抱えて側まで来て、膝を折った。
「助けてやる」
と、睨むほど強い目で頷く。
「……は…………」
「治してやる」
と、力づけるようにアークの涙を強く指で拭った。
「泣くな。必ず治してやるから、泣くな。泣かなくていい。大丈夫だ」
そうして、ぎこちなく笑った。
次に目が覚めると、天井はずっと近くになっていた。窓があり、外の景色が移動している。ルー……っと絶え間なく静かに続く動力音。翼の動力音だ。翼に乗って、横たわっているらしい。
近くにリヴィスが座っていた。渇きが込みあげる。水が欲しかった。冷たくて綺麗な水が。でも、口の中がカラカラで、みずを、と言おうとしたのに呻き声にしかならない。
けれど、リヴィスは気づいてくれた。
黙って荷物を探り、先端で小指を立てたような形の縦長のボトルを出す。首の下に手を入れ、小指になっている部分をアークに咥えさせ水を流し込む。欲しいと思ったよりもぬるかったが、おいしい。いくらでも飲めると思った。また涙が出た。
十分満たされる前に吸い口は外された。
欲しいのは感じ取ってくれたろうに、くれなかった。
「一気に飲むな。体に良くない」
でも、もっと。無言の訴えは、唇に布を押しつけられることで退けられた。
アークはずっと朦朧としていた。窓の外は樹木が途切れずに茂っている。森を通っているらしかった。
次の瞬間、辺りが暗くなった。祈法の明かりが目を刺さない薄さで燈されている。麻酔でもされているのか、痛みはなかった。
空が赤く焼けた。
朝日なのか、夕日なのか――。曖昧な時間に揺られ、時々水を含ませて貰った。アークの意識があるときリヴィスが視界にいないことはなかった。
そうして過ごしたのはどのくらいだったのだろう――。緩やかに動力音が止まる。
視界から初めて消えていたリヴィスが外で何かをしていた。誰かと喋っている声がした。
「……たい。俺がしくじった。……傷口も酷い。循環の制御をやめたら……。なぜわかる? 人柄? 人柄が関係あるか? ……真っ直ぐで……しい奴だ。多少妙な印象があるがそれは……。……のか?」
とぎれとぎれに聞こえる。他に人がいる気配はない。通信機だろうか。誰と話しているのだろう。
「ありがとう。すぐに行く」
そして戻っきて、
「悪いが、ここから先は寝かせたままでは進めない。苦痛だろうが我慢してくれ」
抱きあげられる。動かされると痛みが走った。悲鳴をあげた。
彼は上と正面が空いた、箱のような物の中にアークを座らせ、固定した。それを背負う。
目を動かして周りを見ると、いつの間にか乗ってきていたはずの翼はなかった。
翼では進めない理由は自ずと知れた。洞窟に入るのだ。森が丸く狭くなって行く。岩肌が森を覆っていく。
疑問が頭を占めた。――ここはどこだろう。リヴィスはあたしをどこへ連れて行こうとしているんだろう。あたしはどうなるんだろう。聖湖に行くはずだった。なぜこんなところにいるんだろう。そうだ、腕が、
「……うで…………」
「安心しろ。冷却材で包んである。心配しなくていい……何も心配しなくていい。大丈夫だ。治してやる。もう少しだから、できれば寝ていろ」
信じていいのだろうか。腕が、治る? 肩がないのに?
――信じよう。ずっと隣にいてくれた。行きずりなのに、ただ仕事で一時的なパートナーになっただけなのに。何より、こんな目に遭ったのはアーク自身の間抜けさのせいで、彼は何度も止めてくれていたのに。
どうなっても自分のせいだ。だけど、リヴィスは隣にいて水を飲ませてくれて、大丈夫だと言ってくれている。
彼が、大丈夫だと言う。なら、信じる。
泣くのをやめた。目を閉じる。泣かなくていいと彼は言った。なら、泣かない。
しかし――ずっと寝ているのは無理だった。なるべく揺らさないようにしているのは通じてくる。下へ下へ続く勾配は緩い。が、足元は整備されない凹凸の酷い岩で、まったく揺れずに歩くのは不可能だと、後ろ向きのアークも考えた。揺れれば傷口に障った。
時間が経つにつれ、勾配が急になり、痛みが強くなる。息があがる。楔を打ち込まれるかのように頭も痛い。喉が渇いた。吐き気が止まらない。けれど、不服は決して口にしない。
痛いのは自業自得。でも大丈夫。大丈夫なのだ。
ひたすら、耐える。水を飲ませて欲しいとすら、望まなかった。
どのくらい経ったのか――急にリヴィスは言った。
「アーク。目を開けるといい」
「う……」
重い瞼を持ち上げる。目元に溜まった汗が涙のように頬に流れ落ちる。
頭上には満天の星空。
「……?……」
どうしたことだろう。ずっと洞窟を下へ潜ってきて、上に向かったことなどないのに、外に出た? 夜? 闇の中に青い星が光る。違和感があった。星の位置が目茶苦茶だ。アークは流れ雲になる前から星くらい読める。
「星光岩だ。ここから先は純度の高い星光岩の岩窟になる」
わずかな疲れもにじませず、リヴィスは歩き続けた。
「綺麗だろう?」
聞いたことがある。シミュクシュミズ大陸の南にのみ存在する微かに光る石。結晶化したものは青いものが飛青石、赤いものが飛紅石飛紅石と呼ばれる高価な宝石になる。採掘が過ぎて、今は結晶化するほどの鉱石が集まらないとも。
ここは、周囲すべてが星光岩。天然の宝石箱だ。
綺麗だったが、まさかこれを見せに来たわけではあるまい。
「……どこ、」
いくの、と吐息の隙間に挟むようにして精一杯囁く。
「お前を救ってくれる人物がいる。そいつのもとへだ」
「いしゃ……?」
「どちらかといえば癒師だな。医療職ではないがお前のことは治せる。だから、もう少し辛抱しろ」
洞窟に入る前ももう少しと言っていた。彼の言うもう少しとはどのくらいを指すのだろうか。不満にしたくなかったので、素直に尋ねた。
「どの、くらい……?」
「もうそう長くはかからない。待たせてすまない」
口元に笑みが浮かべられそうだったが、揺れて痛み、叶わなかった。
「……人でなしなんて言って……ごめんね……」
「気にするな。俺は気にしていない」
時間の流れ方はでたらめだった。目を閉じて次に瞼を開くのが一秒後なのか一時間後なのかもぼんやりしている。星の位置が違う光景なことだけで時間が過ぎたことを推し測った。
ついに、一度も休まなかったリヴィスが足を止め、アークを背中から下ろした。何もされなかったが、固定が緩む。体勢が変わると激痛がした。体中すべてに苦痛しかない。もう肉体そのものを捨ててしまいたかった。捨てれば、楽になれるかもしれない。
でも、だめだ。この体は必要なのだ。いくら痛くても。どんなに苦しくても。
「スイージュ! いるか」
アークを横向きに抱き上げて、聞いたことのない大声を出す。
スイージュ?
その名は、聞いたことがある。
なんとか今いる場所を把握しようとした。そこは通ってきたトンネル状の洞穴ではなく、学校の教室程度の空間だった。きらきらしい岩に包まれて、水流の音が幾重にも重なる。端の大きな台状の岩の上に、中を隠して内側から光る帷があった。
「いるから来たんでしょうに」
水流の上を、玲瓏たる響きが通った。帷が開いて人が出てくる。小さな影だった。リヴィスの半分ではないかと思うほど小さい。
リヴィスはアークを差し出した。
「頼めるか?」
およそ、アークを受け取れる大きさの体ではないはずなのに、アークはリヴィスの腕から簡単に離れた。
「了承したから来たんでしょう。残りの腕は?」
問いは美しい星光岩によく似合って響く。反響音にリヴィスの低い声が被さる。
「これだ」
腰から吊るしていた袋から、筒状の物体を取り出して彼女に渡す。
彼女は両腕で温かく包むようにそれを受け取り、胸に抱き込んだ。
「よろしい。リヴィスにしては上出来です」
「俺にしては、は余計だ」
「リヴィスにしては大変上出来です」
勝ち誇ったような吐息を鼻腔で響かせて、スイージュと呼ばれた人物は、アークの瞳を覗き込む。
「大丈夫ですよ。もう心配いりません。わたしが治してあげます」
と頭を撫でる。
彼女は――
もっとよく見ようとして、




