1 いつか勇傑女帝と呼ばれる少女①
いつだって、前を向けば埋めつくされるカードの奥に行くべき道が視える。
襲われてしまえば区別することにさしたる意味は無いが、獣と、禍繧あるいは魔物と呼ばれる生物の大きな違いは血液の色だ。色域に差はあるが獣や、人間の血は三種族共に赤、匂いは鉄錆に似ている。対して、カウンの血は水銀のような光沢を帯びた灰色で、消毒液を甘くしたような匂いがする。
次に、人間種族の視点から共通して言えるのが、カウンは摂食に向かないこと。どの種族にとっても食べられる味ではないことを差し引いても、カウンは獣と比べて途轍もなく風化が速い。生命活動を停止した瞬間から風化が始まり、屋外ならば一日後には一部の内臓を残して灰の塊となり、三日後には風に消える。殺してすぐ肉を切り出し、袋を使って保存を試みてもことごとく失敗する。時間が経って袋から出すとその瞬間に崩れ落ちるからだ。
三つ目。獣は食物連鎖の下と見なしたり、危害を加えられたり危険を感じたとき――理由がある場合にのみ人や他の獣を襲うが、カウンは何もなくとも人間、特にヒューンを見ると高い確率で殺そうとする。
重ねて。
襲われてしまえば、相手が熊でも鴉でも、もしくはクワガタ状の鋏を頭に付けた狼型の禍繧カウンでも命の危機を区別することにさしたる意味はない。
もう一つ。襲われてしまえば、先天的に戦うための爪や牙を持たないヒューンの年若い娘は最低剣でも振りまわさなければまず勝つことはできない。
「ひぃ、ふう、み……よっ」
タイミングを計り、ハーケンが歌うような音を立てて鋏を鳴らすコトンの突進を紙一重接触しない距離を空けて避ける間に、アークは灰色の血で汚れてなお朱に輝き、灼熱の炎を放ち続ける剣の柄を握り直す。恐るべき速度で身を翻し、もう一度コトンは狙いを定めて鋏を拡げる。
目は逸らさない。二秒数えないうちにその鋏は閉じ始め、完全に閉じた時にはその刃に抱かれているだろう。その速度を見つめる。立っていたら三秒後には体が鋏に咥えられ命はない。鋏の下にある牙が揃った口に下半身から貪られる。もちろんそうならないように行動しなければならない。そうならないように行動する方法は自分で考えなければならない。でも思索は必要ない。
狙いに合わせて、向こうの目算からずれてやればいい。簡単なことだ。そうすれば、四秒後に右足が胴体から離れる未来を回避できる。
本物の三秒後。鋏の間はすり抜けた。剣を抱き込んだまま体を低くしコトンの顎の下に入り膝を突いて少しだけ前へ肩を出す。
「……やっ!」
気合いを入れて、熱を帯びる愛剣を縦に構え柄頭に手のひらをあて荷物を持ちあげる勢いで突き上げる。顎の骨の内側、柔らかいところに的確に刺さる。切っ先は喉を通り、剣の纏う熱が延髄を焼き切る。
何秒か前足が痙攣して暴れたが、コトンは動きを止めた。
幅五十セルテ、体長二メルテもある巨体は長く支えていられない。仕留めきったと判断すると同時にコトンを横倒しにする。
「はっ」
一緒になって倒れた体を起こし、息をついた。
立ちあがりながら汗で額に張りつき目にかかった黒髪を払う。足で顎を押さえて抜いた剣を軽く左右に振って血を飛ばし、目を閉じ、もう一度息を吐く。この遺跡に入って一番の戦いだったろう。労力をさほど多く必要としたわけではなかったが、それでも体力を消費したことには違いない。
目を開けると、変わりなく遺跡の苔むした通路に四頭分のカウンの血が飛び散っている。ただ、時の流れを制御していた――そんな感覚から覚め、鋭く鮮明な戦闘中の時とは違う通常の視界が戻ると、湿気の多い空気に漂う甘ったるい薬臭さも共に戻ってきた。アークは思わずえずきそうになるのを飲み込む。
現在までの討伐数はおよそ二十匹。服は返り血で既に半分以上鈍色に染まっていた。風化の速いカウンの血とはいえ次から次へと出くわすので乾く暇もない。赤い血と違って落ちやすいため衣服が駄目になる心配はしなくていいのはいいのだが、匂いやぬらりとした感触だけは耐えるのに気力が要る。
鞘に剣を収め、後ろの男を振り返る。
「こう、立て続けに出てこられると本当、疲れちゃうよ」
嘆息混じりに大人ぶって低めに抑えても少女であることが隠せない声は、苔とカビがゆっくり吸い取った。
男は返事をしない。聞こえなかったことはあるまい。先に自分の分担を終えて大剣の血を手巾で拭っていた彼は一瞥した。それだけだった。剣を背中に背負い歩き出す。
些か気分を害したが、文句は言わずに追いかける。
遺跡調査。それが今回の仕事だ。
このまだ番号しかついていない遺跡は一ヵ月ほど前の大雨で土砂が崩れ、壊れた扉が露出した。探求師同盟が国の許可が下りるのを待って調査に乗り出す告知を出したのは、アークが支部のある街に着いた翌日。
遺跡調査の仕事は嫌いではない。探求師同盟の依頼料の値段もそうだが、今は失われた技術で作られた武具や宝――遺物を見るのは好きだ。そうした古い宝物を見つけるために遺跡を冒険するのも子供っぽいがわくわくする。第一発見者となれば取引によってはそれ(例えば既に探求師同盟が研究するのに十分な数を持っているものと同じであり、秘匿する必要がないもの)が手に入ることもある。
遺跡が発掘されると、探求師同盟はまず始めに流れ雲組合を通して旅人である流れ雲たちにいけるところまでのマッピングを依頼する。
探求師同盟は流れ雲組合の良心的なクライアントで、当然発見した遺物の提出は要求するが依頼を受けた流れ雲たちを使い捨てのようには扱わない。こういった初めてのマッピングには何が起こるかわからず危険が伴うから、怠慢が発覚しない限りたとえ調査が一時間で終わっても報酬の額は守られるし、危険な獣やカウンの出没が認められる遺跡には大人数を用意する。安全規定として仲間を持たない単独の流れ雲は調査責任者によって強制的にパーティを組まされる。
聖女スイージュにある願いを聞き届けてもらうため、アークは旅に出た。東のサメリュメ大陸から、このシミュクシミズ大陸中央南に位置する聖湖の神殿へ向かって、やっと広大なマテラス帝国の横断も終わりに差し掛かってあともうひと旅――というところで路銀が尽きた。短時間でそれなりの金になる仕事が欲しい思っていたので、タイミング的にも依頼料的にもこの仕事はおいしかった。腕には自信がある。
――組まされたのがこの人でなければもっとよかったんだけど。
胸中で小さく愚痴る。
調査員は用意した流れ雲たちを入口のすぐ側、三股に分かれた通路で均等に分散して担当させた。その後は分かれ道があるごとに半分ずつ手分けしてマッピングしていく。契約上、遺跡の罠や敵の強襲によってペアになった者が死んだ、動かせないなどの理由がない限り一人で行動してはいけない。
予め最後までのペアとして割り当てられた相棒がこの男なのだが。
……良くいえば寡黙、悪くいえば根暗なのである。無口な人間は苦手だった。生来、人と話すことは好きなほうだ。これまで度々見ず知らずの人間とパーティを組まされたことがあるが、概ねすぐ打ち解けて気持ちよく仕事ができた。
『概ね』、の範囲外にいるのが、女子供と見れば侮ってかかる粗暴なごろつきか、人と喋ることを厭い必要なこと以外一切言葉を交わそうとしない者。
無口にも二種類ある。感情を見せるタイプと見せないタイプ。見せるタイプはいい。小さな仕種から望んでいることを察するのは難しいことではない。望んでいる役割をこっちが果たせば会話をしなくても調子を合わせることはできる。
アークが極力避けたいのは、感情も表さず言葉にもしない、つまりは、このパートナーのような男だった。
身長は百九十以上ある。肩幅がそれほど広くなく、頭が小さいから遠目には大きいように見えないのだが、頭一つ分よりも背が高いので並んで彼の顔を見るにはかなり見上げる形になる。前文明の遺跡特有の、岩でも金属でもない滑らかな材質で継ぎ目のない通路はあまり広くないので首をだいぶひねらなければならない。
見た目は至極良い。年齢は二十歳程度、流れ雲なのに垢じみたところもなく身に着けている衣服や武具にも安っぽさがない。数多の危険をくぐり抜けてきた精悍な雰囲気は男としてかなり魅力的である。アークはそうしようとは思わないが、色恋の盛りにある乙女たちなら、隣にいれば頬を染めて、そそと小股で歩きそうだ。
戦闘のせいだろう、髪が乱れていた。
「ねぇ、あのさ」
返事はない。
髪が乱れてるよ、と教えようとしたのだが視線すらくれないのでは続けづらかった。先程のように無視されたら空気が悪い。けれど、話しかけた以上、何事か言わなければ収まりが悪い。
「――ええと。名前だ。なんだっけ」
これは珍しい質問でもない。即席パートナーの名は入口で告げられるきりで、以降使わなければ忘れることはままある。
「リヴィス」
答えてくれた。低くて、根拠は何もないのだが歌い慣れているような響きだった。
「リヴィス、か。どこかで聞いたことある名前だな」
「よくある名前だからだろう」
会話が続いた。嬉しくなって両手を腰の後ろに回し、覗きこむように上半身をひねる。
「あたしの名前は覚えてる?」
「アーク。十七年前の国境防衛戦争の英雄、アクロノクト――アーク皇子と同じ名だな」
肩が小さく動いてしまう。自分の名前に深く触れられるのは避けたい。実は『アーク』も通称で、本名はもっと変なのだ。ちょっと、墓穴を掘った。
「あはは、変だよね男の名前なんて」
「誉れ高い名だ。変ではない」
愛想を見せたのか心からどうでもいいのか、無表情のため見極めはつかないが、この話題を続けるのはアークのほうが苦しくなって、やりとりは途切れた。
普通なら名前の語源はそれなりにお互い聞きあえて、少しはお喋りの話題になるもののはずだ。が、アークの本名は男か女か以前のレベルである。付けたのは父で、隠された意味がありそうなのに由来を訊いても「我ながらいい名をつけた」としか答えない。同意できたことは生まれてからこの十五年一度もないため、人に「いい名前でしょう」と誇るのも気が進まず、ゆえに本名の話は極力避ける。せめて人間の名前をつけてほしかった。
「いい名だ」と一人で満足げに笑う父を思い出そうとして――それは背を丸めて座った後ろ姿になってしまった。うなだれる。
早く聖女のもとに行かなければ。残された時間は少ない。
少ないが……まだ。
まだ、急げば間に合う。