序 まず七千年は死んでない被害者たちのこと
ヒューンには一つの伝説がある。
《永遠の守護者》
数は十三。絶大なる不死身の魔法使。幾度血を流し死に満ちる傷を負おうとも白き光を纏て蘇り、どんな厄災も永遠に振り払い給う……
《永遠の守護者》。
それはお伽話の住人。
――ひとり。
《永遠の守護者》として信仰を集めている女がいる。
聖女スイージュ。
シミュクシュミズ大陸、海に面した南方から北へ向かい緩やかに湾曲しながら聳え立つヴォート山脈の東、隣り合うサスラ王国よりも広大なる湖に浮かぶ小島の神殿に彼女はいるとされている。
遥か昔、飢饉に喘ぐ人々の前に天から降り立ち、自らの肉体を食物として分け与え飢えと渇きを癒やした奇跡の聖女。その血肉は人々の飢えが満たされるまで何度でも蘇ったという。
その後、彼女の住まいとして古には歌う湖と呼ばれた現在の聖湖に神殿が建立され、今にいたるまで神殿に参拝客が途切れたことはない。王侯貴族も、他神の信仰を持つ徳の高い僧でさえ近くに寄れば立ち寄り敬意を払った。
誰も、聖湖の主である神殿の権威に逆らうことはできない。侵すこともできない。聖なる湖、聖女の神殿。
聖湖には魚を獲って暮らす者、神殿の島に渡る者たちのみ、船を出すことが許されている。
しかし、聖女の実在は既に確かではない。《永遠の守護者》は悠久の命を持つのだから、伝承の通りであれば現在も神殿に在るはずだが、修道女たちが執り行うどんな祭事にも立ち会わず、決して人前に出ることがない。
島の周辺には結界の祈法紋章の石が沈めてあり代々一番年嵩の修道女がその維持を負う。不埒な者もそうでない者も島には近づけない。神殿の塀、神殿の扉を暴くことはできない。神殿は神聖にして不可侵。敬虔に固く守られており、参拝に訪う人々のためだけに開かれる。
祭壇に聖女が現れることはない。だが、不在を証明した者もいない。下々のものに存在の真偽を確かめる術はない。神殿を守り聖女を崇め奉る修道女たちはいらっしゃるとしか答えない。
もしかしたら、彼女たち自身も知らないのかもしれない。
実はその伝説も噂も細部を削り「どの話にも一致しているところ」は真実である。
聖女は《永遠の守護者》だし、これまでに何度も仲間たちと共にヒューンを絶滅の危機から救ってきたし、視力も失うほど腹を減らした者たちに復元するそばから体中の肉という肉を削ぎ落とし内蔵という内臓を抉り出して食べさせたことがある。
《永遠の守護者》は不死身であろうと人間だ。その上、どんな戦いにも必ず勝つためにひどく鋭敏な感覚を持ち合わせている。身を切られるときに感じる痛みは常人とそれを遥かに凌ぐ。
それでもそうしたのは――彼女が『聖女』と、そう呼ばれるだけの人間だったからだ。
聖女は、神殿ではなくその奥、彼女自身が掘削した洞窟の深い地下、斑に青く光る星光岩の天然洞に棲みついている。
聖女は、いつも眠っている。何年も何年も眠っている。彼女のための眠りの御座で。洞穴を流れる幾筋かの細い川のせせらぎを聴きながら。
――聖女は、起きることもある。
夢の世界での旅を終わらせ、目を開ける前に瞼の上を軽く払った。深く暗い地下、数年も眠っていると苔こそ生えないが汚れていることがある。不用意に目を開けて眼球に埃が落ちて来るとそれなりに痛い。内蔵を抉るのに比べれば大した痛みではないとはいえ、痛くないに越したことはない。
起き上がって顔を、髪を、服を、軽くはたく。《永遠の守護者》だから伸びをしたり凝り固まった筋肉をほぐすために関節を回したりはしない。しようと思わなければ。どれほど寝ていようといつだって聖女は健康体だ。血行は良く、筋肉は柔らかくしなやかで、頭は鮮明に冴えて眠気すらない。
一通り終わると、洞窟の天井から下がった薄い帷を左右に開け、魔法でひと薙ぎの風を起こし台座から汚れを落とし帳を清める。滑らないように素足を伸ばして台座から下り、ごつごつした岩肌の床を踏んで、右奥に続く、これもまた彼女が穿った隧道をゆく。
その先は自然の地底湖。高い天井や岩壁は星光岩がキラキラ光る星空だった。そこは聖湖のさらに下、幾重もの地層に濾過された水を湛えた地底湖。広く、ほっそりした手が一抱えほどの光を作り出しても反対の岸は見えない。
歩きやすく均した道を壁沿いに進むと、数少ない彼女の楽しみの一つがある。薄く金気の匂いを発し、惜しげもなく岩肌の壁に開いた穴から噴き出してくる――
温泉。
聖女は湯壺へ先に光を進め、次に自身が追って乳白色の泉に足を入れる。
湯壺の端からこぼれ落ちた白い温水が下の透明な湖水と溶けてどこへともなく散って、湖はまた透き通っていく。
《永遠の守護者》は内側からはほとんど汚れないため、外的な付着物による汚れを落とす以外の沐浴は必要ない。だが聖女は温泉が好きだった。湯のぬくもりに包まれるのが好きだった。
中のちょうどよい大きさの岩に腰かけて、鼻唄をうたった。
しばらく湯を堪能すると湯壺から上がり、白いままの肌と着たままだったスリップに似た白のワンピースと銀の髪から水分を抜いて元の御座に戻る。
帷を閉めて、一見ただの岩肌のように偽装してある扉をすり抜け久しぶりに本当の居住区である私室に戻る。
私室、別名――少なくとも聖女はそう呼んでいる――《停時の図書室》。
図書室とはいってもすべての部屋に本がならんでいるわけではない。巨大な書棚を幾重にも並べているのは奥の部屋で、手前の部分は普通の人間が普通に生活する空間だ。キッチンも、ダイニングも、リビングもある。吹き抜けの二階には稀に訪れる客のための寝室すらある。
そして聖女はばたばたと音を立てて納戸から幾つか桃を抱えて出て来、キッチンに入り、
パイを焼き始めた。