慶軻
始皇帝暗殺した男の話
戦国時代、魏に慶軻という男がいた。慶軻は普段から豪侠でしられていた。
ある日慶軻が町はずれを歩いていると、一人の身分卑しからぬ娘が泣きながら慶軻に取りすがった。
「お助け下さい。無体な賊に体を狙われておりまする。」
見ると、白い服を着た男が一人こちらに近づいてくる。
「おい!いいかっこすると痛い目見るぞ!」
そういって男は斬りかかってきた。慶軻はすぐさま素手で応戦して、
相手の刀を奪った。刀を奪われた男はすばやく逃げてしまった。
「もう大丈夫ですぞ。」
慶軻は娘をよくよく見るとなんとも絶世の美女ではないか。
「有り難うございました。なんとお礼を言って良いやら。
どうか、我が家までおいで下さいませ。」
慶軻は再三断ったが、娘の方はどうしてもという。
慶軻も娘の美しさにまんざらでもなかったので、邸に行くことにした。
邸に行くと、腰元達があらわれて、慶軻を歓待した。
席を設けると、早速宴会が始まり、娘が着飾って現れた。
なんと!素晴らしい美しさ!慶軻はたちまち心を奪われてしまった。
そして娘に誘われるまま寝所に入っていった。
その晩、慶軻が疲れて寝入っていると、昼間娘をおそった男が夢の中に現れた。
「私は青といいます。私とあなたが抱いた娘は人間ではありません。
私は白蛇で女は白鼠でございます。
女は長年生きて妖力を身につけ、男を誘ってはその精気を吸い尽くし、
骨だけになったら腰元に食わせるのでございます。
私は、女の所行が許せず、たびたび殺す機会を探すのですが、
屈強な男ばかり好んで誘うのでいつも私は邪魔されてしまいます。
さらにあなたと寝室をともにしたのでますます妖力が増したでしょう。
あなたにお心があるのでしたら、私の変わりに女を刺しては下さいませんか?」
と懇願した。慶軻は目が覚めると、なんとも生々しい夢だったと思い出した。
娘もまた目を覚まし、慶軻を誘った。目覚めてすぐに快楽をともにしたのだった。
慶軻はひどく疲れたが、それでも女は放さなかった。
そうこうしている間に二日が過ぎた。慶軻は疲労がひどくふらふらになっていたが、
娘とはずっと一緒だった。厠に行きたいというと、
女はいっておいでといったので初めて一人で邸の中を歩けることになった。
厠に行く途中の部屋の中から声がした。慶軻が聞き耳を立ててみると、
「明日はご馳走だわ。今度の男は体が大きいから、食べ甲斐があるわね。」
と聞こえた。夢の中の男の話を思い出した。おそらくあの話は本当だったのだろうと思い、
自分の荷物から小刀を取り出し、懐に隠した。
そして娘の部屋に帰ってしばらく話をした後に、
「おや?その尻尾はなんだい?」
とカマをかけてみた。娘は大いに焦り、ばたばたと尻を触って確認した。
慶軻はその様を見て本物だと思い、そのまま小刀で娘の胸を突き刺した。
すると娘は「チュー」と叫んで絶命した。あたりに邸はなくなり、
草ぼうぼうの野原になった。すると白服の男があらわれ、
「ありがとうございました。私たちは神仙について仙術をならった友でしたが、
仙術を利用して殺生し、さらに男の精力を吸い取って妖力を高める術をつかって世を乱すので
私が引導を渡したく思ったのですが、私の予想以上に妖力が高まったので、
とても太刀打ちできず、貴方様にお願いしたのでした。」
「いやいやこちらも殺されるところだったので、お礼を言われるところではない。
こちらこそお礼を言いたい。」
「貴方は人間の身で仙術を極めた妖怪を倒したのです。」
「あれは向こうが油断していたのでしょう。」
「ご謙遜めさるな。なにかお礼がしたいのですが、私で出来ることならなんでもお申しつけ下され。」
「私は好きかってやっている男です。そんな男に何の望みがありましょうや。」
白蛇の青は慶軻に何度も願いを聞いたが、慶軻のほうが固く辞退し続けた。青は
「それでは、貴方がもしも将来大仕事をするようなことがあったら私をお呼び下さい。
泉でも河でも流れのある水の中に、『青』と書いた『竹(このころの紙の代用品)』をお流し下さい。
それだけですぐに駆け付けます。」
といい消えてしまった。
それから大分たった話だが、慶軻は荊軻と名乗り燕の国にいた。
ここでも豪侠の名を得て、名士と交際した。
やがて、燕の太子に懇願され秦王(後の始皇帝)の暗殺を請け負ったが
秦王の御前に躍り出れば、弑殺が成功しても
自分も殺されるのは必至だった。
悩んで悩んだあげくに、
(そういえば、青との約束があったっけ…)
と思い、川に「青」と書いた竹を流した。
しかし、川下にいた漁師がそれを網でひっかけたことを
荊軻は気付かなかった。
後は、文にて記載することもなかろう、
荊軻の暗殺は失敗し、秦王は生きた。