第七話《魔術を学ぼう『魔導符編』》
エルは朝に弱い。
髪質が柔らかな巻き毛なので、朝起きると、毛を刈り忘れられた羊のような頭になってしまう。その巻き毛に、ゆっくり櫛を通して直すのだが、その作業が嫌いだった。
なんど櫛を通しても、渦が崩れてはまた元に戻る。そんな時間を『不毛』と呼ぶのだろうと、エルは毎朝思うのであった。髪を弄るのに不毛――はは、と鏡に映るエルは半目で笑っていた。
大森林《魔女の館》を南に抜けると、果実と茶葉の村『サイレール』に着く。あれから三日、エルとアザミの両名はこの村で宿をとっている。旅の準備は何かと入り用で、特にクオンは遠出すら初めての経験になるが故に、数日猶予を持ってから出立する事に決まっていた。
エルの宿泊している部屋は二階の角部屋になる。窓からは、丘に広がる茶畑が見える。まだ早朝にも関わらず、数人の村娘が茶葉を摘んでいるのが見えた。
ああいう人生というものがエルには想像できない。もし自分がこの村に生まれ、育ち、あそこで茶葉を摘んでいたとして、そしてその後はどうなるのか。あれを何年も、何十年も続けるのであろうか。彼女らの幸せはどこにあるのか。比較が出来ない。彼女らの暮らしと自分の今を比較するに足るだけの事をエルは知らないからだ。もしかしたら今の自分の何倍も幸福なのかもしれないし、そうでないかもしれない。
「『見識』、ね」ひとり呟くと、学院の制服に袖を通し始めた。
◇
一階のエントランスに降りると、テーブルにアザミが座っていた。手には艶のある薄桃色の果実が握られている。それを大口を開けて、皮の付いたまま噛り付くと、距離があるはずのエルの鼻腔にまで、その瑞々《みずみず》しい香りが届いた。
「おいしそうですね」向かいの椅子に座りながら声をかける。
「名物なだけあるな、コレ」アザミは答えながらも、食べる手を休めない。
「カルス山脈から、清潔な雪解け水が、南のエーブリ海に注いでるんですって。扇状地は日当たりも良くて、盆地でもあるので昼夜の寒暖の差もあって甘くなるんですよ」
アザミは、ほーん、とエルの解説に生返事をしながら二個目の果実に手を伸ばした。
『サイレール』の果実と茶葉は王都でも人気の品で、それらを積んだ荷馬車は、ゲルト海道を通り王都に入る。しかし先述の通り、ゲルト海道周辺の治安の悪化から行商人も減っており、その手前の街で引き返す場合も多いという。入荷数が激減したことを嘆く王都民も少なくない。
宿の女将さんが気を利かせてくれて、エルには紅茶を出してくれた。
礼を言ってから、ゆっくりと口元に運ぶ。甘く薔薇の香りに似た芳香が漂う。少し砂糖を足してくれたのか、苦味は無く、優しい甘さが口内に広がった。すきっ腹に、温かな液体が緩やかに落ちてくのが分かる。
ほう、と息を吐くと、もう一度女将に礼を言った。「美味しいです、とても」
そうかい、と微笑みを返しながら、女将は各部屋の掃除へと向かった。
「荷物はもう整えたか?」三個目の果実をきっちり平らげて、アザミはエルに問う。
エルは指を折りながら、頭の中で旅の必需品を並べていく。
「あー……っと、多分揃っていると思います。消耗品も途中で補充できると思いますし」
「お前、野宿の経験は?」
「過去に《依頼》で何度か」
「そういう時、《護符》とかってどうしてんのよ。お前作れないでしょ?」
――《護符》。
あるいは《魔導符》とも呼ばれる紙片で、簡易的な魔術として機能させることが出来る。《護符》と呼称される場合は、主に身を守るような効果を持たせた場合である。野宿などをしている最中に魔物などに襲われないように清浄な結界を張ったり、あるいは野盗や凶悪な亜人などから視認されないように、認識阻害の効果を付随させることもある。
魔術の素養が無くても、時間と知識さえあれば誰でも作成は可能であり、学院の二巡生ともあれば、難なく作れるのであろうが、エルはその例外にあたる。魔獣だ野盗だに襲われても、斬り伏せればいいと思っている節があり、あまり必要としていないのも一端である。
「あー、大体友人に都合してもらってます。主に蟲除けですけど。それ以外は返り討ちにすればいいので」
「なーんかお前、逞しいのな」
「今更ですか?」飲み干したカップの底に『幸運を』と絵付けされてるのを見つけ、エルは微笑む。
「だが、今回はクオンもいるんだから、必要になるんじゃないのか?」
エルは逡巡すると、「ザクロさん、ダメなんですか?」と聞いた。
「ザクロは《護符》作りには向かんなぁ。魔女だから」
うーん、と二人して腕を組み首を捻っていると、明るい声が宿屋に飛び込んできた。
「おはようございますッ! こちらの準備は終わりました!」
クオンだった。毎日顔を合わせてはいたが、準備の進捗に関しては聞いていなかった。どうやら向こうも準備を着々と進めていたらしい。
エルはクオンの手元を見やる。何やら分厚い本と、小さい革袋を持っていた。
「なに、それ?」エルが尋ねると、師匠がエルさんに、と言いながら手渡してきた。
エルとアザミはその本の表紙を眺める。タイトルは《ニコニコ魔術入門! 役立つ魔術符百選》と書かれていた。表紙を捲ると、左のページには魔術式が、左のページにはその効果と、用途やお勧めのアレンジ方法などが細かに説明されている。
「これは……」
「あれだな、お前が作れってさ」
「んな無茶な……。ホント二、三回くらいしか作ったことないですよ《護符》やら《魔導符》やら……」
「まっ、旅は長い訳だし。それはザクロからの課題ってことで、百個書けるようにしておけば、将来役立つだろ。多分。いや、知らんけど」
革袋には、羽根ペンとインク、それから何も書かれていない白紙の符が、束になってドッサリと入っていた。インクからは微かに魔力が感じられ、符を作成するため専用のものであることが分かる。ぐおお、とエルは思わず唸った。
「エルさんは、なんでそんなに魔術が嫌いなんです?」
クオンは、眉根を寄せて神妙な顔つきをしているエルに尋ねる。ザクロとアザミの決めた方針上、クオンは魔術に触れずに育ってきた。それゆえに、なぜ彼女がそこまで魔術を毛嫌いするのか理解出来なかった。
「そうか、クオン君は魔術を知らないんですよね」と言いながらエルはアザミを見る。
「もういいんですか? 教えても」
「あー……、そうだな、もう解禁で構わないよ」
それを聞いたクオンは、嬉しそうにテーブル席に座ると、エルの解説を待ちきれない、というように身を乗り出した。上手く説明できる自信は皆無だが、とりあえずやってみるか、とエルは腕まくりをしてみせた。
革袋から羽根ペンとインク、それから白紙の符を一枚取り出す。それからザクロから貰った本をパラパラと開くと、適当なページ開いてクオンの前に置いた。左ページには奇怪な文字と数字の羅列、それを絵のように配置した図が載っている。上部にはこの図のタイトルであるらしい《停止》の文字が大きく書かれていた。
エルは先ほど取り出した一式をクオンに差し出すと、
「その図を、これに真似して描いてみて。厳密じゃなくてもいいけど、明らかに線がはみ出るとかは無しでね」
「この図を描けばいいんです?」
「そそ、とりあえずね」
クオンは羽根ペンの先にインクを付けながら、まじまじと図を見る。
渦巻の中に牙が二本刺さったような文字の上にはいくつかの数字が書かれている。さらにその横には陸に上げられた魚が、地面をのたうっているような文字並ぶ。ここにも数字が書かれていて、先ほどの渦巻に接続するような矢印が引っ張ってある。そんなものが十個程度繰り返されていた。、クオンは目を凝らしながら正確に写した。
「出来ましたッ!」三分ほどしてクオンは顔を上げた。
「どれどれ……ってウマッ!」そこには図をコピーしたかのような正確な符が出来上がっている。
「……うめぇな」思わずアザミも唸る。
「絵は得意なんですッ」クオンは笑顔で言う。
「ま、まぁ、これはこっちに置いておきます。じゃあ、道具を私に、今度は私が同じものを描きます」
エルは符をもう一枚取り出すと、非常に真剣な面持ちで、先ほどクオンが描いた図と同じものを写し取り始めた。異様に顔が近い。目が悪くなってしまうのでは、と心配になるほどだ。
クオンが描き終わった三分を過ぎ、五分、十分経っても、頭を机に付けんばかりに近寄らせたままエルは顔を上げない。
「おっそ……」アザミが思わず言うと、
「うるさいッ!」と怒号が飛んだ。
十五分して、「出来たッ!」とエルが顔を上げる。お世辞にも上手いとは言えず、模写とすら呼ぶに値するか迷ってしまうほどに、乱雑な図形がそこにはあった。
アザミが吹き出すのをキッと睨み付けると、先ほどのクオンの符を摘まみあげ、クオンの眼前に持ってきた。エルの符とクオンの符、二つの符を見せながらエルは言う。
「今ここに、描いた人が違うけど、同じ図を写した符があります」
「同じに見えないです、先生」アザミが横槍を入れる。
「……」エルはテーブルの下のアザミの脛を蹴り飛ばした。
「いったッ! なにすんの教官に向かってこの子はッ!」
「ちょっと静かにしててください」
エルは咳ばらいを挟んで、もう一度説明する。
「クオン君、ちょっとこっちの符を持ってください」クオンが描いた方の符を渡す。
クオンはそれを受け取った。エルは続ける。
「じゃあ、それを破って」
「いいんです?」
「うん、説明はあとでするから」
クオンは、自身が描いた符を縦に引き裂いた。
――何も起きない。
「何も起きませんけど……」少し眉を下げてクオンは尋ねる。
「それはね、クオン君が描いた符が、符として成立していないからです。君はこの図に描かれた模様の意味とか、数字の意味とか分かりますか?」
「いえ、全く分かりません。というか意味があるとすら思わなかったです」
「ここ、ここ見てください」エルは渦巻に牙が二本刺さったような模様を指差す。
「これは、この魔術の効果範囲を表します。前方直線状、歩幅二歩分に効果を及ぼすような式になります。次にここは魔術の効果を表します。それから効果の継続時間。
ここは追加効果で、もし相手が範囲内に存在しなかったら、発動自体をキャンセルするのか、それとも自動追尾で効果範囲を再設定するのか、再設定時間はどれくらいか、等々、これらの図形と数字には全て意味があり、複雑に組み合わさってます。
で、描いた者がそれを理解しながら描かないと、ちゃんとした効果は発現しません。」
と、エルは言いながら自身の持っていた符を引き裂いた。
――え? 向かいのクオンが声を上げる。が、実際に発せられることは無かった。
動かない。手足どころか、眼球も動かせず、呼吸も止まってしまっている。それどころか心臓まで……。
「ぶはッ!」大きく息を吸い込む。ほんの一秒程度完全に動きがとまっただけだったが、クオンにはひどく長く感じられた。
激しく咳き込むクオンに向かってエルは言う。「どうでした、《停止》?」
「す、凄いです。何か、死んだッ、て思いました……」
「とりあえず発動してたみたいですね。とまあこんな感じで、予め決められた効果を発動させるのが《魔導符》になります。速効性と安定性能は高いですけど、一回で使いきりなのが難点ですね。あと、描いている時と発動時には、微力ながら魔力を放出し続けないといけないので、私はそれも嫌いです」
言いながらエルは自分の後頭部を叩いた。
「あ、あの」クオンがおずおずといった態度をとりながら質問する。
「魔力の放出って、どうやるんですか?」
エルとアザミは顔を見合わせると、そこからか、といった風に頭を抱えた。
「いやぁ、まあ一切触れさせないでくれって言ったのは俺だしなぁ」
「教えれば案外飲み込みはいいかもしれないですよ?」
「お前、感覚掴むのに何年かかった?」
「五年。っていうか未だに感覚がどっかに飛んでいくこともあります」
「まぁ、お前は論外として……まぁ、これも訓練だな」と言いながら宿屋の女将を呼んだ。
はいはい、と女将がやってくると、アザミは裁縫道具を貸してくれと頼む。女将は快く引き受けてくれて、いそいそと裁縫箱を持ってきてくれた。エルは正直引くわーと言った顔をしながらアザミに言う。
「今時、時代遅れのやり方じゃないですか」これから何を行うか分かっているようだ。
アザミは、俺の時代はみんなこれだったんだよ、と言うと、裁縫箱から二本のマチ針を取り出す。
「な、何です?」嫌な予感がしたのかクオンが聞くが、アザミは、「いいから」と、笑顔のまま、その二本をクオンの後頭部と額の上部に突き刺した。
「イタァァアアアアアアアアアアアアア――――――――――ッ!!!!!」
クオンの絶叫が宿内に響く。
「ちょ、深く行き過ぎたんじゃないんですかッ!?」
「だ、大丈夫だって、薄皮一枚だよ。怖い事言うなよ」クオンの声量に驚いたのか、言いながらアザミはちょっと冷や汗をかいている。
「あ、ああ、あ……お、おお……」クオンと言えば、これ以上深く突き刺さるのが怖いのか、目を見開きながら、身じろぎをしないように身を固くしていた。
「いいかクオン。痛いだろ。その痛みを同時に感じろ」
「ど、同時に? ぜ、全部痛いんですけどぉ――ッ!!」
「ああ、違う違う。その針の刺さっている二点だけ、同時に感じるんだよ」
「は、はいッ!」相変わらず身動きはしないが、クオンなりに理解はしたようだ。
そんな様子を見てエルは思う。自分の時代は氷法が主流だった。とはいっても針が氷に置き換わっただけで基本的には原理は変わっていないのだが。頭の後ろと前に同時に意識を集中していく。その集中が高まってくると、やがて自分の頭頂部が前後に裂けていくような感覚に襲われる。
その開いた傷口からチョロチョロと泉が湧くような感覚が生じると、その時点で自身の魔力を知覚することが出来るようになる。とはいえ、エルはこの感覚が非常に苦手で、先ほどの魔術式の難解さも相まって魔術が好きになれなかった。
アザミは針をクオンから引き抜く。抜いたとしてもあと十分程度は痛みが続くはずだ。その痛みをその間で追い続けることになる。額の方に開いた小さな穴から、鮮血が表面張力で丸く盛り上がる。そしてそのまま、たらりと鼻筋に向かって垂れた。
クオンは集中しているようで、目を瞑ったまま、それを拭おうとしない。
エルが代わりに拭ってやろうと、自身の制服の内ポケットを弄っていると、唐突にアザミの「うおッ!?」という声が聞こえた。
慌てて顔を上げると、信じられない光景が広がっていた。
クオンの身体から極々微弱ではあるが、魔力が流れ出ている。
しかも当の本人は、喜ぶでもなく、微妙に強張った表情をしてこちらに助けを求めるような目線を送っている。
「は、早ぇえ……」アザミもあまりに現実離れした状況に苦笑いを浮かべている。
「あ、あの……これ、何か出てるんですけど、これが魔力なんです……?」
クオンの泣き声交じりの問いに、二人は無言で首を縦に振る。
「こ、これ止まらないんです? こ、怖い……」
クオン本人からすれば、今まで体が出したことのないものが、内側から滾々《こんこん》と湧き出ている状況である。例えるなら、普通に生活していた人が、ある日耳の穴から、謎の汁が垂れてきて止まらないとか、多分そんな恐怖に近いのだろう。完全に怯え切っている。
「い、意識切れクオン」
「頭の前後に集中するのやめればいいんですよッ!」
と二人は言うが、
「そんな事言ったって、まだ痛いんですぅぅ」とクオンはかぶりを振った。
エルはアザミを睨む。絶対深く刺し過ぎたのだ。アザミは明後日の方向を向いた。
「ふえぇぇえん」
結局二十分ぐらい魔力を垂れ流したままだった。




