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第五話《魔女の館その5》

 エルは、一気にクオンとの距離をつめるつもりだった。

 しかしその動きは半ばで止まってしまう。クオンが土を蹴り上げたからだ。

 

 先ほど砕いた葉の残骸ざんがいと、落ち葉を多分に含み半ば腐葉土ふようどと化した土が巻き上がる。それが霧散むさんしエルの眼前に迫る。エルはあからさまに歯噛みすると、外套で土の霧を払いのけた。


 卑怯者ひきょうものめ。


 言葉には出さない。その言葉は戦場で自分の首を絞めると学院できつく教えられていたからだ。卑怯と誇りは兵士を殺す。学院内では有名な格言になっている。だが、それを理解は出来ても許容も起用も出来ないのがエルという人間だった。

 

 眼の端の土煙に揺らぎを感じた。――来る。


 土煙の向こうから、クオンの木剣の切っ先が突き出てくる。この隙に乗じて飛び掛かってきたのだろう。

 浅はかな、とエルは構えを下段に変えた。


 このままあの短剣を弾き飛ばすッ。右下から左上へと腰だめに据えた枝を斬り上げた。


 カン、というあまりにも軽い音と、実体の感じられない手応えにエルが気付くのと同時に、視界の下方から何かが高速で突き出される。それに焦点が合う前に、エルの顎が跳ね上がった。


「ぐ――ッ!」


 クオンの鋭い掌底しょうていがエルのあごを貫く。クオンはすぐに手首を返すと顎が跳ね上がった後の無防備な喉元に、五指ごしを食い込ませた。


 そのまま地面に叩きつけられる。地面は柔らかな土だったが、それでも衝撃で意識が混濁こんだくする。

 時間にしておよそ五秒。仰向けに倒れたエルにクオンが跨っている。


 クオンの右腕はエルの喉に、左手は枝を握るエルの右手を押さえている。エルの左手はクオンの脚に押さえ付けられ、どこも動かすことが出来ない。


 しかもそのクオン本人は――


「勝ちましたよーッ! 師匠―ッ!」


 既にエルを見ていなかった。



 クオンは土を蹴り上げた後、その後ろから自分の得物を投げつけたのだ。

 エルは土煙から覗くの切っ先を見ただけで、その延長線上にクオンが居ると考えた。いや、考えてしまった。相手の態勢を崩すつもりで振り切った自身の枝は、その実、繰り手のいない木刀を弾いたに過ぎず、逆にその視線と意識を斬り上げた方向に向ける結果に繋がった。


 そこまで計算していたのか、木剣の投擲とうてき位置もエルから見るとやや左斜め上で、龍角ドラカケラルの構えで対処しにくい場所だった。そのせいで下への意識が一時的に盲点に入ったところを、姿勢を下げて疾走してきたクオンの掌底に捉えらたのだ。


 その後、顎への衝撃から脳を揺さぶられ、たった刹那ほど意識が断裂したところを押し倒され、組み伏せられた事になる。


 短い。余りにも短い幕引きだった。


 浅はかだったのは自分だった。それは分かっている。分かっているからこそ、自身に対する憤りの感情を、自身の上で無邪気にはしゃぐ少年に向かってエルは思わず放ってしまった。


「ま、負けてないッ!」咄嗟とっさに出た言葉は、存外大きく森にこだました。


 ――瞬間、ザクロとアザミに向いていたクオンの顔が、エルの方を向いた。


「……なんでです?」


 背骨に、背骨の中に、氷よりも冷たい何かを流し込まれた気がした。戦慄せんりつが走る。いや体中を走り回る。捕食者と被捕食者の関係図を頭の中に直接叩き込まれたかのような恐怖。


「ヒッ」エルの喉が高い音をたてた。


 クオンの深緑の瞳から光が消えている。代わりに闇が、その瞳の奥から溢れてくる。


 それはクオンの瞳どころか眼球全体を覆い、表面張力で盛り上がった水面のようにエルに向かって滴り落ちて来そうになっている。無論現実にそんなことが起こっている訳ではない。しかしエル自身の瞳にはクオンがそう映っていた。


 どこか近くで、小石を打ち合わせたような音が断続的に鳴っている。

 それが自分の歯列しれつが震えて鳴っているのだとエルが気付くまでに、そう時間はかからなかった。


「エルさんの負けじゃないんですか? まだ、続けるんです?」


 気管が細く、細くなっていき、自身の筋肉の緊張で締め上げすぎているのか内側がひっついている。ヒッ、ヒッ、と吃逆のようにしか呼吸をする事が出来ない。


 喉元に食い込む爪が、さらに深くエルの首筋に侵入する。自身の気道が音を立てて軋むのを感じる。

 カハッ、と最後の一息が出切ってしまうと、それ以降空気は入ってこなかった。視界が黒に食いつぶされていく。


 ――くすくす。

 

 この場に不釣り合いな程可愛らしい声で笑う声がした。エルは縋る様に、その音に眼球を向ける。半分以上が欠けた視野の端に嬌声きょうせいの主が映った。


 ザクロが笑っているのだ。そしてエルをじっと見るクオンに言い放った。


「――その子の鼻っ柱でも食い千切ってあげれば負けを認めるんじゃない?」


 一瞬の間の後、先ほどまで闇をたたえていたクオンの瞳に、徐々に光が戻る。エルの白磁のような首元にかけていた手も若干緩み、喘ぐように息を吸った。咳き込みながらも、唾液が口の端を流れるのを感じていた。

 

 クオンは、そんなエルの様子を気にするでもなく、まだ闇の混ざった瞳のまま妙に納得したような声で「そっか、こっちも手が使えないですもんね」というや否や、口を大きく開けてみせた。


「あーん」


 その語尾にハートマークさえついていそうな可愛らしいセルフ擬音とは裏腹に、喉の奥さえ確認できるほどパックリと開いたそれがエルに迫る。常人に比べたらやや大き目な糸切り歯が嫌に目に付く。その糸切り歯は、てらてらと唾液で濡れていて夜光蝶の冷たい光を反射して艶めかしく照っている。

 

 唾液は糸切り歯の先端に集まると、雫になってエルの頬に落ちた。


「まッ! 負けでいいですッ! 負けッ! 負けということでッ!」


 エルは半狂乱で叫んでいた。本当に喰われると思った。少なくとも鼻っ柱は持っていかれると。

 いや、それよりなにより単純に恐怖が勝った。得体の知れない『圧』が、エルの心をへし折っていた。先ほどまで頭に渦巻いていた勝ちだの負けだのと言う妄執は全て吹き飛び、ただクオンの下敷きにされている状況から脱したいと心の底から願っていた。


「うわー。お前の命乞い初めてみるわー」


 アザミがやってきて、頭の方向からエルを見下ろす。心底面白い光景を見ていると言わんばかりのにやけ面に唾を吐きかけてやりたくなったが、今はこの状況下からの脱出が先決なので、下手に出つつ解放してもらった。

 身体は冷え切っている。恐怖が抜けていない。あれは何だったのだ? 少なくとも今まで感じたとことも、感じかけた事すらないが、おそらく《死》を直接流し込まれたら、先のように感じるのではないだろうか。ならば、それを繰る彼は一体何者なのだろうか。

 しかし、エルの思考はそれ以上深度を増すことはなかった。なぜなら既に別の思いに囚われていたからだ。

 負けた。結構格好つけて。手加減できませんよ? とか言って、負けた。五秒に満たないくらいで、年下に、みっともなく、無様に、あっけなく、負けた。一太刀浴びせるとかそういう以前に、実質的に剣すら交えていない。飛んできた棒っきれを引っ叩いてたら、負けた。

 

 はは、笑えねぇ……。笑ってるけど……。笑っちまうほど笑えない……。なら――。


 アザミが差し出した手には頼らずヨロヨロと自力で立ち上がると、外套にまとわりつく土と落ち葉の欠片を払った。


 そして、ワザとらしい咳ばらいをすると、三者に向き直って言った。


「じゃあ、気を取り直して二回戦を――」



「やだやだッ!! もう一回だけッ! 後生ですからッ! ホントちょっと、一瞬でいいんでッ!」


「お前、娼館で追加料金なしで二回目を頼むスケベ爺みたいになってるよ?」


「なんと言われようと、恥を重ねようと、もっかいやりたいんですッ!」


 エルはアザミのコートに縋りながら、クオンとの再戦を懇願した。


「だってさっきの――」


「おっと、卑怯とか、正々堂々とか、そんな言葉を使おうとしてるなら止めときなよ。教えてるはずだ、『死にたがりの言葉』だよって」


「グゥウゥウゥウウウウウ」辛うじてぐうの音は出るようだ。


「大体、やっすい挑発に自分から乗ってったでしょ。ほんで地形条件もなんも考えずに得物の優劣だけであの構えを選択したのも自分。地の利はクオン君にあることなんて露ほども考えずにね。

 挙句の果てには鼻っ柱惜しさに保身に走る走るは猛ダッシュ。負けだねぇ。完膚なきまでに粉々ってとこだよ」


「鼻っ柱は大事でしょうがッ!」見境なくアザミの言葉に噛みつく。


「はいはい、じゃあその大事なものを失わなくて良かったじゃない。戦場なら鼻じゃなく、命だよ」


 しつこく食い下がるエルに対して、若干諫める口調も交じり始めたアザミを制するように太った梟が二人の間に割って入った。その上に腰かけるザクロがアザミに問う。


「別に何回だったやればいいと思うけど、後にして。それで、あの子は合格?」横目でクオンを見る。


「うん、十分だね。俺の想定よりも上々な能力だよ。お前さ、学院の教官とか向いてるんじゃない? 後人育成の才能あるよ」


「いやよ。あたし子供嫌いなの。クオンだって別にあたしがどうのこうのじゃないわ。勝手にああなっただけ」


「育成環境論者な訳ね。じゃあ、ここに学院の分校でも建てれば人材育成には困らないかな? 議会で進言しておくよ」


「止めてよバカ。野生動物やら魔獣やらに食われて残る生徒なんて一握りになる。先行投資にしても対費用効果が釣り合わないでしょ?」


「冗談だよ。でもお前のおかげだと思うよ、ホント」


 そういわれてザクロは帽子のつばを少し下げる。照れているのかもしれない。しかし相変わらず表面的な感情は何も読み取れなかった。


「あの――」


 先ほどまでの態度とはうってかわって縮こまったクオンが、アザミに話しかけた。


「僕は、龍騎士学院に入れるのでしょうか」


「それなんだけどね」とアザミは合否を告げる。――かと思いきや、意外な事を言う。


「お前は、龍騎士になりたいの?」


 ――そうなのだ。実はここまでの過程において、クオンは一言も『龍騎士になりたい』と明言していない。アザミが一方的に切り出した上に、返事を待たずに『試験』に入った。


 故に、クオンの本心はこの段階で明らかにされてはいない。


「お前は、龍騎士になって――、それで?」アザミが続けて問う。


 ザクロは、樹に背を預けながら三白眼をクオンに向ける。


「僕は」クオンは顔を上げた。


「僕は、龍騎士になりたいです。なって、自分を探したい」


「自分を探す……?」エルが疑問符を浮かべる。


「師匠は知っているんですけど、僕、たまに自分がここじゃない何処かにいるような気がするんです。凄く暗い暗いところに。そこで僕は膝を抱えて泣いている……」


 先ほどの事を言っているのだろうか。確かに闇状の落涙をエルは視ていた。


「すごく寂しくて、誰か、誰かって呼んでるんです。それで、その僕が顔を上げて、僕の名前を呼ぶんです。クオンじゃなくて、僕の本当の名前を。でも僕にはそれが聞こえないんです。でも僕の名前だって、そう思う……。僕は、僕を探してあげたい」


 彼の中では、それと龍騎士がイコールで繋がっているのだろうか。アザミは神妙な面持ちでそれを聞いている。思うところがあるのか、ザクロに視線を向けると、その視線と合わせずに、ザクロは頷いた。


「まぁ、手段と目的は時として入れ替わるみたいなそんな感じだね」


「やっぱり曖昧ですよね。自分でもうまく言葉に出来なくて……」


「いいよ、それで。まだ若い。成すべき力で成すべきことを成せ、が学院の校訓だしね。成すべきことは曖昧でも、いつか必ず必要になる《成すべき力》ってもんがある。それを養うチャンスだと思いなさい」


「それって――」


「ん、願書は俺が提出しておいてあげる」


 やったッ、とクオンは小さく飛び跳ねた。しかしその喜び様を遮る様にエルがまた右手を上げる。しかも表情は嫌な予感がしているのか、妙に歪んでいた。


「教官、今『願書』の提出って言いました?」


「そうだけど?」


「そうですよね、『推薦書』じゃなかったですもんね。うわ、気付くべきだった……」


「ど、どういうことですか?」先ほどまで喜び勇んでいたクオンの表情が一転、不安げなものに変わる。


「いや、私も今気づいたんだけどね……。

 えーっと、実は学院に入る方法は二通りあるんだ。一つは志願。所謂一般的な入学方法だね。試験を受けて合格すれば入れる。二つ目は推薦。これは試験無し、軽い面接のみでほぼ確実に入学することが出来る。アザミ教官クラスの推薦なら絶対って言ってもいいくらいにね。

 私も話の流れから勝手に推薦だって思いこんでたけどよく考えれば、出してきたのも志願書だったし、つまりそれって――」


「そうだよ。こいつには『オータムルーキー』になってもらう」


 やっぱり、とエルは頭を抱えた。


 ――オータムルーキー。


 ウィンダムの龍騎士学院は年に二度、新入生を募る。


 一度目は春。この試験は年齢制限と受験回数が明確に決まっていて、数え年で十五になる少年少女が、人生で一度だけ受験が可能だ。倍率は高いが、それでも秋の試験程ではない。


 二度目の秋試験は、年齢制限も受験回数の制限も何もない。何歳でも受けられるし、また春に落ちていたとしても、いや春秋合わせて何度不合格だったとしても何度も挑戦することが出来る。その代わり、倍率も難易度も春の比ではなく、秋試験に関しては『確実に』死亡者が毎年出ている。


 そしてこの試験を勝ち抜いたものはこう呼ばれるのだ。《秋の新星(オータムルーキー)》と。


 つまりアザミは、クオンにその試験を突破させる気らしい。

 しかし、クオンの出自を考えると、来年が丁度数え年で十五なはずだ。半年待って普通に春試験を受けたほうが良いに決まっている。しかもこれは『飛び級』にあたるので、十五になる前に秋試験を受けた後は、例え十五になったとしても春試験の受験資格を失う。


 単純にリスクが高すぎる。そうでなくとも、元々アザミが推薦さえすればこの煩わしい流れはなくなるのだ。

 クオンを自分の手元に置くというのは、アザミとザクロが何年の前に決めた事であり、おそらく学院への入学もその決定事項の一部なはずだ。何故ざわざわそんな回りくどい手段をとるのか、エルには理解できない。


 そしてそれをそのままアザミにぶつけた。

 だが、アザミはその質問も想定内、といった飄々とした風で答えた。


「――お前は、龍がどんな風に生まれるか知ってるよね? 龍っていうのはある日急に自然発生的に卵が出現する。そんで勝手に生れ出てくる。

 犬猫に比べれば随分と上等な生き物だけど、それでも生まれた瞬間は脆い。熊ぐらいなら喰い殺せるけど、魔獣や亜人、装備を整えた人間の集団には適わない。しかも守ってくれる親なんて初めから存在しない。じゃあ龍はどうやって生き延びる?」


 一呼吸おいて、


「学習するんだよ。自身の鱗を剣で切り裂かれながら、自身の実力と周辺の脅威を学ぶ。今の自分に何が出来て、何が出来ないのか。この脅威の攻略に何が必要なのか。自分の成長の速度から逆算して、いつ奴らを八つ裂きに出来るのか。その時を虎視眈々《こしたんたん》と狙いながら、あるいは隠れ、あるいは逃げながら学ぶんだよ。龍が人間の上位生物なんていう奴もいるけど、それはこの学習能力の高さに起因する訳だ」


 続ける。


「でね、今回の秋試験の主任試験管、俺なのね。だから」


 アザミはそこで言葉を切る。しかもそのあとの二の句はどうやら存在しないらしい。

 だから、で察しろと、そういう事なのだ。だから――


「面白そうですねッ!」


 笑顔で、クオンは言った。


「クオン君、マジで言ってる?」エルは苦笑いのままクオンに聞く。


「アザミさんの試験、受けてみたくないですか? うわぁ楽しみだなぁ」


「あー、マジでイッてるんだ……」


「何がです?」


 エルは自分の側頭部の近くで人差し指をくるくると回す。クオンはその意図が分からず首をかしげる。


「ともかく、これも決定事項だがら宜しく」


 軽く敬礼の動作を挟みながらアザミは言い放った。そのまま続ける。


「でなッ、話はこれで終わらないんだよエル君」


 急に名前を呼ばれ、エルの肩が跳ねる。


「まだクオン君に難題を吹っ掛けるんですか?」


 アザミは笑顔のままゆるゆるとかぶりを振った。


「ちゃうちゃう、キミの事だよ。エル君」


「――は?」


「あのね、キミ自覚ないみたいだけど、進級マジでやばいのね。俺今回の同行を《依頼》扱いにするって言ったけど、ぶっちゃけまだ足りんのよね」


「え?」


「俺もさ、鬼じゃないからさ、道中ボーナスポイントも設けてたけど、全然ダメ。

 ほらさっきのとか、オートマトンとか。大体魔術方面の単位があと二千は足りないの」


「う、嘘ですよッ!? 二千って、大体半年毎日魔術の講義を受け続けないとならない計算になるじゃないですかッ!?」


「あれ、知らなかった? 今年から進級基準に一部変更があって、バランス良くって事になってんのよね」


「いつだれが決めたんですかッ!?」


「俺が、今」


 クソ野郎ッ! エルがえた。

 そんな事は意にも介さず、アザミは人差し指をびしっと立てた。


「そんな留年危機迫るエルくんに朗報ですッ! なんと俺からもう一回《依頼(クエスト)》発注しちゃうッ!」


「クッソッ! 絶対ろくなもんじゃないッ!」エルは聞きたくないという風に耳を塞いだ。


「いやいや、俺がそんな酷い依頼を君に押し付けるわけが無いじゃない?」


「どの口が――ッ!」


「単純な事だよ。至極単純。単刀直入に、お前にはクオン君の教育係になって貰いたい」


 え? とエルとクオンが同時に声を上げる。


「難しい事じゃないんだ。『先輩』として何かと面倒を頼むってことだよ」


「それは――」とエルが言いかけた所で、ザクロが口を挟む。


「でも、エル君には大したメリットじゃないんじゃない? 三巡生に上がるのは春な訳だし、ここから半年我慢して毎日魔術の講義を受ければ進級できるんでしょ? 別にガキのお守りなんてしなくてもいいんじゃないの?」


 チッチッチ、と先ほどから立てっぱなしの人差し指を揺り動かしながら、アザミはさも愉快という風に言った。


「違うんだよねぇ。こいつが三巡生に上がるのはあと一ヶ月後なんだ」


「それって――」クオンが息を飲む。


「ははは、そゆこと。こいつも《秋の新星(オータムルーキー)》だったって訳さ」


 へぇ、とザクロが小さく感嘆かんたんの声を出す。クオンは完全に尊敬の眼差しを向けていた。


「文字通り、『先輩』な訳だよ。適任も適任だね」


「そういう理由なら、飲むしかないわね、エル君」ザクロも可笑しそうにしている。


「――分かりました。背に腹は、です」エルは降参、と両手を上にあげた。これも自身の至らなさのせいなのだ、致し方あるまい。


「はーい決まり。もう不履行出来ないからねー」パンと両手の平を打ち合わせながらアザミが満足げに言った。


「で、具体的には何を?」


 というやいなや、エルは気付く。あの意地悪い笑顔がまだアザミから消えていない。

 コイツさっき言ってたな。もう不履行出来ない――。なんでわざわざそんなことを付け加える必要がある?


 身体から血の気が引く。次の言葉を聞く前に耳を斬り落としてしまいたくなる。しかしそんな思いなど知る由もない――いや、知りながら、アザミはとんでもないことを言い出した。


「お前、クオン君と二人で、王都まで来い。もちろん海路は禁止ね」


「はぁッ!?」


 今日一番の大声が、静まり返った森に響いた。何匹かの獣がつられて咆哮する。


「しかも山脈の南側、ゲルト海道を通ってきてね」


「バッ、馬鹿言わないで下さいッ! それってッ!」


「そうだよ。烈火の国ガヴェリンとの国境線沿いを通る事になる。講和条約が結ばれたとはいえ、あの辺まだピリピリしてるからねぇ」


「何の為にそんなところを通らなきゃいけないんですッ!?」


「見識だよ見識。クオン君だけじゃなく、おまえも広い世界を見て来い。これ一般教養の単位代わりね」


 ガクン、とエルは膝から頽れた。王都の新聞ではゲルト海道沿いの街の治安の悪さをひっきりなしに騒いでいるのを知っているからだ。


 更にその海道の右手には二つの山脈が並んでおり、その間に広がる樹海には凶悪な亜人が住み着き、近くの村をいくつも壊滅に追い込んでいるとも書いてあった。討伐隊を派遣するも、樹海に逃げ込まれては深追いしてきた兵士を八つ裂きにし、バラバラの死体が森の奥から投げ返される――。


 そんな場所を通過しなければならない事になる。


「因みにもうコレ《依頼(クエスト)》扱いになってるから、一方的な破棄は退学ね、退学」


 バカな。


「そんなバカなァアアアアアアアア――――――――ッ!!!!!!!!」


 二度目の咆哮ほうこうにも、獣のオーケストラは追奏してくれた。


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