第二話《魔女の館その2》
牙獣鴉が、朽ちかけた熊の内臓を啜っていた。
この森ではそれが日常なのだろう。奥へと向かうごとに、果実が甘く爛れた匂いと、鉄の匂いが混ざったような不快な異臭が鼻をつく。エルは思わず外套で鼻を覆った。出立前にハーブを焚いて、その香で清めておいたものだ。清涼感のある香りが肺を満たす。
半日ほど歩き倒し、疲労が染みわたっていた身体に、微弱ながら活力が戻るのを感じた。
「見ろ」
不意にアザミが前方を指さした。
ほぼ日も落ちかけ、その八割を暗闇が覆いをかけた森の奥に、エルはじっと目を凝らす。
――灯りだ。
しかし陽の光とも焔の光とも違う、熱を感じられない燐光。青と緑の中間のような光だ。
光と距離をつめると、その正体がよりはっきりとしてくる。
蟲だった。何千何万という蝶々が、翅の表面から光を放っている。それがまるでランプのような球状の群体を形成し、一際大きなオークの木から、いくつもぶら下がっているのだ。その燐光球がびくりと身じろぎすると、輝く鱗粉が舞い上がり、それが近場の木々に飛散し、光を放ち続ける。
幻想的な風景の中にもグロテスクさを内包した空間に、エルは思わず息を飲んだ。
「お疲れ、ここが終点だ」
振り向いてアザミが言う。鼻筋の傷に光が反射して、より陰影を際立たせている。
「あれ、あの木。家、ですか?」エルはオークの大樹を指差す。
「そうだよ。正真正銘魔女の住む家。少女趣味を拗らせてるよなぁ」
「少女は蟲の照明を望みますかね」
「チョウチョと蟲けらを一緒にするとは、風情がないねぇ、お前」
「風情は出発前にクローゼットにしまっておいたんです。必要ないかと思って」
「可愛げがないね。そんなだから俺以外の教官に嫌われ……。さぁ行こうかッ!」アザミはわざとらしい位に明るい声で言った。
「ちょっと待って下さい! 今結構ヤな事言いましたよね!?」
「ごめん、俺も聞く耳を風呂場に忘れて来たらしい」
「ちょっとッ!」
アザミは大声で笑いながら歩みを進めると、不躾に大樹の側面をノックした。
すると、大樹は毛糸のようにほつれていく。巨大な樹に見えていたのは、幾本もの木々が奇妙に捩じれ、編み込まれていた結果だったのだ。
それにしがみ付いていた蝶々が、一斉に舞い上がって渦を成す。深い海の色をした輝きの奔流に飲まれるかのような光景に、エルは思わず目を細める。
そうして全ての蝶が、木々の暗がりに吸い込まれて消える頃には、目の前の大樹は跡形も無く消失していた。
巨木の壁がほどかれると、中には広場程度の空間が広がっていた。その中心に小さな洋館が建っている。魔女が住むとは思えないほど素朴な外観をしている。軒先のランプには、やはりあの蝶が数匹入っており、狭い内部をはたはたと揺らめくたびに燐光が舞った。
そして、此方を招き入れるように、洋館の扉が開いた。
外側の熱を持たない灯りとは違い、暖炉の黄色い光が隙間から漏れ出す。
そして現れたのは――
エルよりも一回り小さい、黒髪の少年だった。
◇
「師匠のお客ですか?」可愛らしい声。
これが魔女? と口に出るよりも先にアザミが話し出す。
「そうだよ。俺はアザミって言うんだ。こっちは生徒のエル」
龍騎士の学院でもかなりの強面であり、初対面の人間からは良くて警戒、悪くて唐突に命乞いをされることもあるほどのアザミだったが、少年は怯える様子も見せず、礼儀正しく頭を下げた。
「僕は師匠の弟子のクオンと言います。宜しく、アザミさん、エルさん」
「あ、は、初めまして」少年の思わぬ反応にエルは面食らってしまった。
アザミの傍に寄り、少年に聞こえぬように耳打ちする。
「教官を見ても物怖じしないとは、やりますねこの子」
「俺は熊か何かかな?」
「ええ、熊に性悪と腹黒を足した感じですね」
「お前、報酬の単位減らすからね」
「お、教え子の可愛い冗談にマジで返さないでください」
「減らすからね」
「――すいません」
耳打ちでの罵り合いが続く中、少年が尋ねる。
「エルさんはアザミさんの生徒……なんです?」
アザミは大きな掌を少年の頭にのせながら、「お前と先生みたいな関係ってことだよ」と説明した。
「あぁ、なるほどッ」
少年はわざとらしい程に両の手を打ち合わせた。納得、のポーズらしい。
少し長めの前髪からは、深緑の瞳がこちらを覗いている。身に着けている衣服の裾から伸びる、腕や脚の筋肉の付き方から見ると、何かしらの武芸の手ほどきを受けているらしいことが分かる。
魔女の弟子、にしては余りにも闘士然とした体つきをしていた。この森の中で暮らすなら、ある程度の力が必要か、とエルは先ほど道中で見た熊の死骸を思い出していた。
「どぞどぞ、狭いところですけど」
少年は洋館の扉を自分の体で押さえると、二人を館内へと案内した。
内装はいたってシンプル。羊毛の絨毯と、長テーブルに椅子が四脚。それ以外は本棚と幾つかの戸棚くらいしか物と呼べるものは無い。
黒山羊の頭部がラベリングされて所狭しと並べてあり、部屋のど真ん中でシャボンの膜のような澱んだ色合いのスープがデカい鍋の中であぶくを吐き出している。それを鷲鼻の婆さんがせっせと長い杓子でかき混ぜている、といったような典型的な魔女の家を想像していたエルにとって、少し拍子抜けしてしまう程だ。
「こちらにお掛けしてお待ちください。今師匠を呼びますから」
そういって二人分の椅子を引いてくれた。そしてエルとアザミが腰かけるのを確認すると、少年は大きく息を吸い込んで、二階に伸びる階段を向いた。アザミは何かを察したのか、咄嗟に耳を塞ぐ。
「師匠ぇぇええええええッッ!!!!! お客様がお見えでぇェェええええええええッす!!!」
エルも思わず耳を塞いだ。窓枠にはめ込まれたガラスが音に共鳴するように振動する。なんてアナクロな呼び方なんだ。仮にも魔女の弟子なのだから、魔法を使ってちょちょいと呼ぶとか出来ないものか。いや、それが適わなかったとしても、せめて普通に二階に足を運べば良いものを、なぜわざわざ。
「あッ!」
少年は、またもわざとらしく大口を開いた掌で隠す仕草をした。うっかりのポーズらしい。
「す、すみません。師匠との二人暮らしが長ったので、ついいつもの呼び方を……」
「い、いや構わないよ。いつも通りで……はは……」
中途半端な気遣いが、薄ら笑いとなってエルの口から漏れ出した。
「すまんが、灰皿ある?」
アザミはまたいつの間にか両切りの葉巻を咥えている。酒場か。
「ちょっと教官、子供の前ですよ。あんまりそういうのは」
「ああ、そうだね」言いながらエルを見る。思いっきり眉毛を垂れ下げながら。
「何でこっちを見ながら悲しい顔をするんですか」
「子供の前だと煙草一本満足に吸えんよ。世知辛いね」さも悲劇、と言わんばかりに額に手を当て、背もたれに体重を深々と預けた。
「私は子供ではッ!」反応してエルが顔を真っ赤にして食ってかかる。
「あーもー、すぐカッとなるところがもう、ケツが青いよねぇ。蒙古斑消えてないよねぇ」
「なっ!? そ、そんな訳ないじゃないですか! 綺麗サッパリですよ、んなもん!」
「じゃあ証拠見せろよ」急に真顔になったアザミは、声のトーンを一段落としてエルを見つめる。
「は、え……な、なんでッ!?」
「蒙古斑消えてるかケツ見せろよ。消えてなかったら煙草吸うからな」
「い、意味が分かりませんッ!!」
ワハハと笑いながらアザミはコートの内側に葉巻を閉まった。
性質の悪い揶揄い方が好きな人だ、とエルは思う。しかしこの人柄に助けられたことも少なくないことも思い出すと一概に腹を立て続ける気も起きなかった。
「人の家でケツだの蒙古斑だの、相変わらずね」
緩んだ雰囲気を割って、鈴を転がしたような高い声が入ってきた。
声の方向に顔を向けると、そこにはローブを着込んだ少女を乗せた、太り過ぎた真ん丸の梟が漂っていた。その巨大は梟は、丁度エルの目線の高さを浮遊している。
梟がゆっくりと羽ばたきながら、こちらに近づいてくる。上の少女の重さなど無いかのように、柔和な表情のまま。少女は少女で、ローブから伸びる脚を組み替えながら、こちらを見下ろしてくる。危険な位置関係だ。ともすればローブの中身が見えてしまうのではないか、と思われるような鋭利な角度で、足を組み替えるのは止めてほしい、とエルは顔を伏せながら思う。
「おー、久しぶりだなザクロ。ちょっと太った?」
アザミは梟に問いかける。なるほど、あの梟はザクロというのか。となると上の少女が魔女なのだろうか。位置関係が悪く、顔がはっきりと見えない。脚ばかりが目に入り、エルはなおも俯いてしまう。
「ワザとでしょ。ザクロはこっちよバカ」
感情も無くそう言い放ちながら、少女は梟から音もなく降りた。
「ごめん、ワザと」
「知ってるわ。相変わらず、相変わらずで安心したわ」
椅子に座ったエルとほぼ同じ目線に少女の頭が来ている。かなり小柄だ。
腰まで伸びた髪の色は濡烏、いやそれよりもやや緑がかっており、長く人の立ち入らなかった湖の水底の藻のような、暗澹とした輝きを放っている。
体つきは華奢ではなく、むしろ見た目を十三、四と仮定すると、かなり豊満な肉付きをしていることになる。しかし、腰はいやに括れていて、エルの頭の中で大人と子供の判断が追い付かない。唇は薄く、その身長からか、人を睨め上げるような、暗い紫の瞳の三白眼が印象的だ。
「お前も元気そうで嬉しいよ」
「口ばっかり」
アザミと交わす言葉の中には、友人に対して、といったニュアンスが含まれているのを感じる。知り合い、よりも深い何かがこの二人にはあるらしい。その場で二言三言交わすと、少女はエルに向き直った。吸い込まれそうな程大きな目には不釣り合いな瞳の小ささは、相対するものに緊張感を与えるらしい。
エルは肩を縮こまらせて、自らが先に動くことが出来なかった。それを察してか、魔女――ザクロの方から言葉をかけた。
「あたしはザクロ。まぁ貴方達は魔女って呼ぶ存在よ。どうぞよろしく」ニコリともせず告げる。
それに対したのはエルではなくアザミだった。
「紹介する。学院の生徒で、今回従者をしてもらってるエルだ」
自身の名を出されて、エルは慌てて対応した。
「よ、宜しくお願いします」少し声が上擦る。
「三巡に上がる単位が足りないから、それをダシに連れてきた」
「よ、余計な事言わないでください。足りないのは魔術と一般教養で、武芸と龍学は五巡生クラスに溜めこんでますッ!」慌てて脚注を挟むが、結局足りていないことは事実なので、何の自己フォローにもなっていない事には気づいていない。
割って入ってきたのは、ザクロではなく、お盆にティーカップを乗せてやってきた少年の方だった。
「学院って、あの龍騎士学院ですか? いいなぁ、いいなぁっ! お話聞きたいですっ!」
持っているお盆を放り出さん勢いで、純真無垢な目でエルに詰め寄った。エルは思わず身を引きながら、また後でと苦笑いを浮かべた。
ところで、とエル自身も口を挟む。
「この子は誰なんですか?」
至極当然の疑問だった。先ほどからアザミもザクロもあえて触れないようにしているかの如く、視線すらそちらに向けようとはしなかった。
しかしエルがこの質問を投げかけたことで、二人の視線は少年に注ぎ込まれた。そして両者ともバツが悪そうに、頭の後毛をくしゃくしゃと掻き回した。
「うーん……この子がな――」
言い難そうに目線を伏せるアザミ。
かなり珍しい事だ。
エルがまだ一巡生だった頃、アザミの武芸講義の最中に二人の生徒が言い争いから乱闘を始めた時も、アザミが率先して賭けを取り仕切ってたことを思い出していた。
あの後学院長にしこたま怒られた後に、今度は龍学講義の際、龍の危険性を伝えるための板書で全ての被害者を学院長を模した絵にして、再度大目玉を喰らっていた。
特に、早贄の習性を持つ龍に、食後のおやつ用にと鍾乳石に串刺しの状態で放置されている学院長の絵は秀逸だったと思う。
自由奔放なエピソードが尽きないアザミだが、逆にこんな風に気後れしている様をみるのは、ほぼ初めてに等しかった。
「説明してないの?」
ザクロが向かいの椅子に腰かけながら、呆れ顔で言う。
当事者の少年はきょとんした顔で、二人の顔を交互に見やった。
「別に言わんでもいいかと思ったんだがね」
「連れてきたのは貴方なんだから貴方が言いなさいな」
「うーん……」
じゃあ、まぁ、と短く言うと、アザミは少年の頭を引き寄せ、自分の小脇に抱えた。
そして、相変わらずきょとん顔の少年を指差しながら、エルに告げた。
「こいつがな、『昔貸したもの』だ」




