わたしの真実
妹が死んだ。
自殺だった。
電車に飛び込んで、だ。
わたしは、何もできなかった。
妹の名前は、柚亜。
可愛い可愛い、愛おしい愛おしい、わたしのたった一人の妹。
柚亜の精神が、危険な状態になっているのは、知っていた。
柚亜は、目の前で人が、その、目の前で、自分を助けた人が二人、死ぬところを見てしまっていた。
きっかけは単純で、本当にどうしようもない事故だ。
柚亜は自転車で買い物をした帰り、買い物袋をぶら下げて踏切を渡っていたそうだ。
それで、自転車が引っかかったんだか、足を引っ掛けてしまったんだか、体勢を崩してしまい、柚亜はこけてしまったらしい。
さらに、その拍子に自転車に足を挟まれてもしまったらしい。
焦りもあって、なかなか思うように動けずにいて、直後警報が鳴り響き、それで。
柚亜を助けに来た夫婦が最後はぎりぎりの所で柚亜を押し出したらしい。
その夫婦は電車に撥ねられて、死んだ。
悲しい事故だ。
誰が悪いってこともない。
でも、柚亜が自分を責めない理由には、ならないよね。
その日から柚亜は自分を責めた。自分を嫌った。
夫婦には一人息子がいたそうで、柚亜はその息子さん、綾文紀実くんという人に頭を下げたそうだ。
これでもかというくらいに謝った柚亜は、けれど。
「俺に謝るなよ。俺の見えないとこで勝手にやってろ」
の一言で一蹴されたみたいで。
親が死んでしまったその胸中はわからないから、なんとも言えないんだけど。
でも、柚亜はそれを気にして。
自分という存在を貶めて。
自分を、殺してしまった。
最初に聞いた時、信じられなかった。
実感が湧かなかった。
柚亜と過ごした部屋で。
わたしが下で、柚亜が上の二段ベッドを見て。
柚亜がここにいないことを知ってしまって。
「もう会えないの?」「一緒の高校通おうって言ってたのに」「今度またお買い物行こうとも話してたのに」「わたしも柚亜、どっちが先に彼氏できるか競争してたのに」「もう二度と、話せないの?」「一緒のお布団に入ったりとかさ」「一緒にお風呂入ったりとかさ」「これから先、まだまだもっと沢山楽しいこと、あるはずだよ?」「部屋が広く感じるよ」「わたしが苦手な茄子が夜ご飯に出た時、お母さんにばれないように食べてくれないと困るよ」「集めてるキーホルダー、一人じゃ集めても楽しくないよ」「受験終わったら一緒にお花見行こうとか」「海行こうとか」「そんなことじゃなくてもいいんだ、そんなことじゃなくて、もっとさ、もっとCD貸し借りしたり」「お洋服共有したりさ」「カラオケ行ったり」「美味しいパンケーキ食べに行ったり」「ケーキはんぶんこしたり」「ちょっと夜更かししたり」「色々、困っちゃうよ」「柚亜がいないと、困っちゃう」「そう、だよ、わたし、こまっ、ちゃ、う、よ…………」
「あいっ、たい、よぉっ!! ゆ、あ!! ゆぅあぁっ!! なんで、なんで死んじゃったの!? あいたい、あいたいよ!! わたしっ、ま、だっ、まだっ、なにもっ!!」
「なにもっ、でっ、できてないっ!!」
わたしの悲痛な叫びは、世界を変えることはなかった。
変えることが、できなかった。
わたしはそれ以来、家から出るのを、拒んだ。
外に出てしまうと、嫌になってしまいそうで。
柚亜がいなくて、変わってしまったのはきっと、家の中くらいで。
世界はきっと、何も変わっていない。
それを見るのが、怖い。
柚亜がいなくても、何事もなく動いてしまっている世界を知ってしまったら。
まるで。
まるでわたしまで、柚亜がいなくても大丈夫になってしまうんじゃないかって。
怖くて怖くて、怖かった。
だからわたしは家から出なかった。
たまに萌映とか悠とか宇理とかが心配して来てくれることはあった。
でも、駄目だ。
わたしは知っている。
生徒会室で、見てしまった。
わたしに宿った不思議な力。
確率を操る力、『確率制御』。
幸魂高校の学生が過去にも遭遇している、親しい者の死。その際に現れる異能。
わたしの場合これは、柚亜の死によって生まれたのだろうけど。
わたしは、この力で柚亜を救うことなんて、できなかった。
柚亜の死に際して現れたって、柚亜のことを救えないならこんな力。
「くっだらない……」
わたしが綾文紀実を見たのは、偶然だった。
第一わたしは綾文紀実の顔を知らなかったし、学生だっていうのは聞いていたけど、具体的な年齢は知らなかった。
知っていたのは、お母さんだ。
お母さんもお母さんで柚亜を失ったショックを引きずっていたけど、そこはさすが、ちゃんと、なんとか、頑張って、強く生きていた。
そんなお母さんがある日、言ったのだ。
「あの、柚亜を助けてくれた、綾文さんとこの息子さん、親戚の家に引き取られたそうだけど、どうにか高校受験、無事に受けれるんですって」
奥様方の話で聞いたみたいだ。
踏み切りで助けてくれたくらいだからご近所さんなのかとは思っていたけど、その親戚さんも割と近所なのかもね。
なんてことを考えたのが一つ。
そういえば、お母さんは柚亜が、その紀実くんとやらに何を言われたのか、知らないんだよねって事実確認が一つ。
そう、お母さんは知らない。
柚亜が、綾文紀実の言葉で自責の念を増して、自殺したっていうことを。
そうか、高校受験、するんだ。
その瞬間、わたしは、感情を爆発させてしまった。
綾文紀実は、高校受験する。
するんだ。
わたしの大切な柚亜はできないのに。
あんたが柚亜を殺したくせに、平気で未来に進むんだ。
一体どんな神経してたらそんなことができるの?
柚亜を殺した奴がどうしてのうのうと生きていられるの。
そうだよ。
殺さなきゃ。
柚亜を殺した奴に天罰を下さなきゃ。
柚亜が味わった苦しみを、全部与えて、絶望のまま殺さなきゃ。
「綾文紀実、幸魂高校に来てもらおうかな」
それにわたし出席日数足りなくてまた一年生からだし、ちょうどいいや。
同じクラスになって。
真後ろの席でずっとその人間性を観察して。
一体どんな奴なのかを把握してやろう。
「あなたの仇は取るよ。柚亜」
わたしの能力は順調に働いてくれた。
様々な確率を乗り越えて、綾文紀実は幸魂高校のわたしと同じクラスでしかもわたしの前の席についた。
ちなみに、わたしが綾文紀実の後ろの席になるために、座席は出席番号順に普通は縦に並ぶところが横に並ぶこととなっていたりする。
「はじめまして。わたし、櫛咲玖亜」
どうだ。どんな反応をする。
この苗字、それに一文字違いの名前。何か思うところがあるでしょう?
「ども、綾文っす」
うん、そっか。そっかそっか。そっかそっかそっか。
……あぁれぇ?
君、確かに綾文紀実くんだよねぇ?
「あー……ねぇ、もしかしてさ、わたしのこと、知らない?」
ほらほら。
お前が殺した、櫛咲柚亜の、姉だよ?
知らないわけないよね?
ないよね?
ね?
「は……? いや初対面だろ」
……。
初対面。
うん、初対面だ。
確かにわたしとあなたは初対面。
事実確認は、重要。
抑えろ堪えろわたし。
「うーんと、あの、さ。わたし、留年しちゃってさ、歳が違うんだ」
「はぁ」
適当な嘘を並べる。
いや、留年したことは嘘じゃないけど。
初日からこいつ留年してるとか、知るわけないよね。
二年生の間で噂になっててもおかしくないけどね。生徒会役員やってたわけだし。
「出席日数がちょっとね。足りなかった」
「はぁ」
実に興味がなさそうだ。
なんなんだよ。
それっきり会話をやめる。
もう話すことはなにもない。
うん、こいつ。
わたしのことを本気で知らないらしい。
っていうか、柚亜のこと、忘れてんじゃないだろうか。
反応が全体的に薄いのは素なのか、それとも親がいなくなった影響なのか、その辺はまだ要観察だ。
でも一つ、わたしの中での決定事項。
綾文紀実は、いつか殺す。
そう胸に抱いて、わたしは偽りの高校生活を。
青春する気のない高校生活を開始した。
それからは、不思議な毎日だった。
例えばお母さんなんかは、わたしが学校に戻ってくれたことを喜んでくれた。
柚亜の死を乗り越えてくれた、みたいに考えているんだろうか。
そう思うと、少しだけ罪悪感がある。
ごめんなさい。
わたしはあくまで、彼を殺すために学校に通っています。
わたし自身も、すぐに死ぬつもりです。
ごめんなさい。
それで、わたしはと言えば、順調に綾文紀実に近づいた。
あんまり友人を作らなかった。
作っても仕方ないし。
仲良くなったら、向こうにも申し訳ない。
大事な友人が死んでしまったら、きっとその人は悲しむだろう。
あんな気持ち、誰も知らなくていいんだ。
知るべきじゃない。
駄目だよ、人を悲しませたら。
まぁだから、ごめんなさい。
お母さんにお父さん。
それに、去年、ちょっと短い間しか一緒に仕事はできなかったけど、生徒会役員として共に働いた萌映、悠、宇理。
三人には、今も仲良くしてもらっちゃってる。
ありがと。
ごめんね。
「紀実、一緒に帰ろ?」
「断る」
「えー、一緒に帰ろうよー、楽しいよー?」
「何がだ」
「お話するの、楽しい」
「知らん」
わたしは今日も紀実を誘う。
一緒に帰ろう、なんて。
そういえば最近、クラスでわたしと紀実が付き合っているって噂が流れてるみたいだ。
変なの。
わたしのこういう態度、女子とかが見たらすぐにわかるんじゃないかと思うけどな。
露骨に嘘っぽい笑顔を浮かべてるし。
なんか、男子が考えそうな、天然? みたいな。
養殖天然とでも表現すればいいのかな。
わざとらしく隙を見せて、相手の失言だったり本音だったりを誘おうとしてたんだけど。
当の相手、紀実にはほとんど効果がなくて。
結局はちゃんと、普通に人間観察をしてみることで少しずつ紀実の人間性を知っていくことにした。
それで、知ったこと。
紀実はけっこう頭がいい。
紀実はけっこう運動神経もいい。
でも、あんまりやる気がないみたい。
やる気がない、っていうよりは、生きる気がないみたい。
紀実は運が悪い。
その最たる例としては、ジャンケンに必ず負ける。
他には、テストで分からなかった選択問題は必ず外れるとか、抽選が絶対はずれるとか、マインスイーパー最後の二択も絶対爆弾に当たるとか。
すごいよね。
気になって一回、わたしの確率制御の力を使ってジャンケンに勝たせてあげようと思ったんだけど、わたしの能力を打ち消して負けていた。
なのどうやら、紀実には能力があるらしい。
言ってみれば、わたしの逆バージョン、なのかな。
わたしの力を消すくらいだから、けっこう強力だと思うけど。
でも使えないね。
ほんとごみみたいな能力だよねこれ。
うん。
別に自分の運が悪くなるからといって誰かが幸福になるわけじゃないしね。
まぁ相対的に誰かが得することは多いみたいだけど。
っていうか、あれ。
でも、わたしの能力が、ちゃんと高校で同じクラスで席が後ろにするよう働いてるってことは、あれか。
紀実にとって、わたしと同じ高校で同じクラスで席が前後になることは不幸なことってことなのかな。
運が悪い、と思っているのかな。
そう思われてるんだと思うと、ちょっぴりいらっとくるかも。
わたしだって別に好きで紀実の隣にいるわけじゃない。
殺したい。
死ねばいいのに。
幸魂高校は行事も盛んだから、体育祭とか文化祭とかはやっぱり皆真剣にやるし、仲も良くなる。
あと、一年の十二月には修学旅行で京都にも行ったし。
クラスの雰囲気も大分落ち着いてきた、かな。
わたしもさすがに完全なぼっちというわけにもいかず、でも、あんまり仲良くなるのもどうかなって思って、そこそこの距離を保って、それなりな位置につけておいた。
嫌われたり無視されたりってのも悪くはないけど、それはやっぱり生きづらい。
わたしにストレスを溜めさせるのは紀実で十分なのだ。
で、その紀実も、どういう意図があってか、わたしと同じようなポジションにいた。
積極的に誰かと関わろうとはしない。
でも宿題を見せてとか言われたら悪意なく見せてあげているし、運が悪いことが知られてからはいい感じに距離も詰まってきていて、それでいてやっぱり適切な距離は守っている。
で、だ。
この頃からわたしに少し、変化が生まれた。
自分でも気付かない内に。
自分でも、気付かなかった、ことなのだけれど。
まぁ、この頃から、と、いいますか。
その場は意外でもなんでもなく、十二月の京都修学旅行なのだけど。
別になんということもなく紀実と同じ班になって紀実って京都に興味あるんだろうかっていうか歴史好きなのかしら教科としては理系科目の方が得意みたいだけどなー、なんて考えていたのだけど。
わたしたちが泊まったのは、二つの班の女の子が合同でも平気な広い和室のある旅館で。
当然とばかりにその夜には恋のお話があるわけだけど。
「ねぇ、櫛咲さんってやっぱり綾文くんと付き合ってるの?」
またきた。
これまで何度も聞かれた問い。
もちろん答えは決まってる。
「ううん、付き合ってないよー?」
付き合ってるわけがない。
わたしの能力がなければ、きっと一緒にいることすら、ない。
「でもさ、綾文くんって結構いいよね。愛想はないけど格好つけてないし、頭もいいし、意外と運動もできるし」
「あーちょっとわかるかも。あんま喋ってくんないけど、こっちから話すと返してはくれるんだよね」
「でも私はちょっとなぁ。なんか話合わなそう」
「そうかなー、こないだ櫛咲さんとレジ袋の話してて、ジョークもいける奴なんだって知ってから私の評価は高いよ?」
「なにそれ? そんな話してたの? 櫛咲さん」
むむ。
思ったより人気あるんだ、紀実。
意外だ。
驚きだ。
びっくりびっくり。
じゃなくて、ええと、なんだっけ。レジ袋の、話?
それって確か……。
「あの、あれでしょ。スーパーとかでたまに、レジに並ぶ列のところ、っていうのかな。もうレジの手前にビニール袋が掛けられてて、『有料レジ袋 一枚二円』とか書いてあることがあるよねって」
「それが、なに?」
「いやもうそれレジで渡されてすらいないのに、どうしてレジ袋って呼ぶんだろって」
「妙な着眼点だね……」
「まーそれを言ったのはわたしだけど。そしたら紀実が『そもそもなんでレジで渡されるからってレジ袋なんだろうな』って」
「乗っかった!」
「ね、意外でしょ?」
「確かに、そういうくだらない話にも付き合うんだー」
くだらない話、案外付き合うぞ紀実は。
くだらない話をくだらないと思いながらちゃんとくだらないレベルに合わせて返事してくれるよ。
紀実はいい奴なのさ。
「まぁ、それでも、鈍すぎるし。競争相手が櫛咲さんじゃなー」
……うん?
なんですと?
「え、と? どういうこと?」
「え、だって櫛咲さん、好きなんでしょ? 綾文くん」
「えぇー、いや、そんなことないけど」
ないでしょ。
ないない。
確かにいっつも一緒にいるし、さっきみたいな生産性のない会話にも付き合ってくれるし。
別に一緒にいて不快感を催したりはしないけど。
「ほんとにー? 我々女子の目は欺けないよー、もうこの場で隠し事は禁止だぞー」
「そーだそーだー」
「なんか櫛咲さん、私たちと喋るときはちょーっと距離を保ってるけどさ、綾文くんと話してるときはいつも本当に楽しそうだよ
「そう、言われて、も……あれ?」
あれれ?
なんかおかしい。
なんだって?
紀実といるときのわたしが、楽しそう?
いや待って待って。
その前に、さ。
わたし、今、なんて考えた。
別に一緒にいて不快感を催したりしない?
なんだそれなんだそれなんだそれ。
何を考えてるんだわたしは。
わたしは綾文紀実を殺すために近づいて、彼を知るために道化を演じていたはずじゃないか。
なのに、どうして。
どうして、不快じゃない?
どうして、楽しんでる?
いつからわたしは、紀実との会話を楽しんでる?
「あーほら、櫛咲さん」
「へ、え、な、なに!?」
「顔、真っ赤」
「えぇっ!? ど、どこが!?」
「いやだから、かーお」
慌てて頬に手をあてる。
熱い。
熱い。
熱い。
顔が、違う、顔だけじゃない、全身が、熱い。
な、なにこれなにこれ。
「な、なんで?」
「……もしかして、櫛咲さん、その、自覚、なかった?」
「さらにもしかしてだけど、初恋、とか?」
「ちっ、ちがうっ!!」
はずだ。
たぶん。
「櫛咲さん、簡単に調べる方法をお教えしよう」
「は、はいっ」
「まず、脳内に綾文くんを浮かべます」
「はい」
「綾文くんは、そうだね。いつも通り櫛咲さんの前の席にいて、振り返って話をしてます」
「うん、いつも通りだ」
「そんでそうだなー、放課後、誰もいない教室で二人仲良く雑談をしてます」
「うん、あんまり紀実は放課後残らないけど」
「で、顔が急に近づきました」
「近いってどのくらい」
「吐息が触れ合うくらい。あ、ちなみに言っておくけど普段からパーソナルエリア狭いと思うよ櫛咲さん」
「え、嘘」
「ほんとに」
そうなのか。
自分ではあんまりよくわかんないな。
近いかな。
あ、でも確かに話しやすい距離に近づくと紀実はなんか離れるかも。
「それで、綾文くんが『キスしたい』って」
「……え、え?」
「そう言って、櫛咲さんの唇と綾文くんの唇が優しく柔らかく、ちゅっ、と」
「きゃあああっ!?」
な、なんだその状況!?
そ、そんなことになったら、わ、わたしは。
ど、どうしよう……。
「で、どう、櫛咲さん」
「え、え、何が?」
「妄想の中で、キス、した?」
「しっ……たない」
「してないなら、キスが想像できない相手、つまり恋愛対象じゃない。したなら、キスが想像できる相手、つまり好き」
「……」
「その様子は……ま、詮索していどいてあげるけど、そういうことー」
「普通は通用しないけどねー」
「初恋限定ですなー」
「初初しくて可愛いねー」
結論から言って。
わたしはキスしてしまった。
キス、してしまったんだ。
「もう放課後だよ。帰らないの?」
紀実が寝てる。
まぁ、寝てるっていうか、目を瞑ってぼーっとしてるだけ、かな。
かわいい顔。
あ、起きた。
「帰る」
「うん、一緒に帰ろ?」
こう言うと、きっと紀実は困って黙っちゃう。
「……」
ほら見ろ。
せっかくだからいつものようにからかってやろう。
「あれー、ちょっとー、返事はー? 紀実ー?」
間延びした声。
ちょっとぶりっ子にね。
「名前で呼ぶなって。恥ずかしいから」
「いまさら綾文とか言いづらいよー。もう一年以上紀実って呼んでるよ?」
もちろん呼んでいない。
第一こうして会ってから一年も経ってない。
でも、まぁ、こうやってわざと隙を見せないとね。
本気だって思われたら。
困る。
「……はぁ」
「まーたため息。幸せが逃げちゃうよ?」
っていうか、わたしにため息とか、やめて欲しい。
「ね、帰ろ? 紀実」
「わかったわかった櫛咲」
「わたしのことはむしろ名前で呼んで欲しいんだけどなー」
呼んで欲しい。
ほんとに。
「お二人さんお帰りかい?」
「邪魔しちゃ悪いよー」
「ほらもう早く行きな。二人の愛の旅に」
あ、またからかわれた。
でも、別にやじゃない。
なんか照れちゃう。
「俺は帰るぞ」
あ、行っちゃう。
「あっ、ちょっと待ってってば!」
ま、ちゃんと追いつけるようなペースで、ゆっくり歩いてくれる。
うん。
優しい。
優しさに免じて、もう一発。
「わたしたち、付き合ってないって言わなくていいのかな!?」
いいよね。
まだ、付き合ってないんだから。
さて、と、追いついた。
紀実の左に並ぶ。
「あー、今日も雨だねー」
あ、また適当に会話始めちゃった。
まぁいっか。
話せる距離に近づくと、紀実は一歩右にずれた。
あれれ。
遠くなっちゃった。
近づく。
離れる。
近づく。
離れる。
なんか反抗的な目で見られたので、あどけない顔でさらりと流す。
意識的にこういう表情を浮かべるの、けっこう難しいんだけどね。
「んー」
「紀実は雨、好き?」
聞いてどうする。
「わたしはあんまり好きじゃないんだー」
あっちが答える前に続けちゃった。
あとそれはこないだも言ったからたぶん紀実も知ってる。
「家から見る雨は好き」
実はそうでもない。
「やっぱり晴れがいいなぁ」
それはほんと。
昇降口に着いたら、なんか紀実が立ち止まった。
あぁ、もしかして。
「傘、ねーし」
やっぱりそうか。
仕方ないなぁ。
「紀実、ん」
オレンジの傘のボタンを外して、誘ってみる。
これもやっぱり、柚亜が好きな色に合わせてる。
紺のセーターに対して、けっこう映えてるんじゃないかな。
「入ったら?」
入ってよ。
「いや、職員室行ってくるわ」
「うーん。別に気にしないのに」
気にしないどころか。
気にしてる。
まぁ、うん。
「待ってるからね」
待ってるよ。
気付いてくれるの。
わたしのことも。
柚亜のことも。
気付いてくれれば、さ。
気付いてくれれば。
ううん。
気付かないで、欲しいなぁ。
紀実は、気付いた。
わたしが体調を崩して休んだ次の日のことだ。
急に紀実がわたしを学校外に連れ出して、何を言うかと思えば。
わたしが柚亜の姉であること。
柚亜のせいで、紀実の両親が死んだこと。
紀実のせいで、柚亜が死んだこと。
気付いちゃった。
あぁ、駄目だ。
終わりだ。
わたしはもう、矛盾に耐えられない。
わたしはもう、自分で自分を許せない。
わたしは、なんのためにここにいるんだっけ。
柚亜のためだよね。
なのにどうして。
どうしてわたしは彼に恋をしているんだろう。
どうしてわたしは彼といることを楽しんでいるんだろう。
駄目だ。駄目駄目だ。
普通に恋を楽しんでるじゃないか。
柚亜がいない世界を、謳歌してしまっているじゃないか。
これ以上は、駄目。
柚亜、ごめんね。
わたしはもう、柚亜を殺した人のこと、好きになっちゃった。
柚亜の仇、取れない。
柚亜がいない世界で、柚亜じゃない誰かとの未来を望んじゃった。
自分が一番なりたくなかった存在に、なってしまった。
汚い。醜い。
わたしは、死ぬべきだ。
これ以上柚亜を裏切ってしまう前に、死のう。
「玖亜」
「ん、なに?」
なに?
まだ、なにか聞くことがある?
「お前、死にたいか?」
うん、死にたい。
「うん、死にたい」
「本当に?」
ほんとに。
「ほんとに」
「俺が嫌だって、言ってもか」
言わないよ。紀実は。
そんなこと絶対、言わない。
だってさ。
「ふふ、紀実はそんなこと言わないよ。わたしに興味ないんだもん」
ないよね。
ないよ。
それに、気付いてない。
「俺は、玖亜に死んで欲しくない」
「そうだね。紀実が本気でそう思ってくれたなら、死にたくない、かなぁ」
本気なら、死にたくないよ。
でも、気付いてない。
紀実は、気付いてない。
わたしが紀実を好きだって気持ちには、気付いてない。
でも。
気付いて欲しく、ない。
この第6話の後に、第1話と第4話での同じ会話シーンを読み返していただけたら堪らなく幸せです。