二歳上の同級生
「もう放課後だよ。帰らないの?」
目を開ける。
ぼんやりと滲んだ世界に一人、少女が笑顔でこちらを見ていた。
はっきりと見えないが、黄色に近いオレンジの髪留めが目に映るからきっと櫛咲玖亜だろう。
周りを見渡せば、確かに各々雑談をしている。
どうやら呆けている間に六時間目もホームルームも終わったらしい。
そうかい、なら帰るか。
大きく伸びをして、脳を起こす。
ぼやけていた視界が鮮明になり始める。
「帰る」
「うん、一緒に帰ろ?」
玖亜は真っ直ぐ俺のことを見る。
俺が断ることを考えてもいない、柔らかな笑み。
「……」
というかどうせ断ってもこいつは付いて来るので俺は返事をしてやらない。
「あれー、ちょっとー、返事はー? 紀実ー?」
実に楽しそうにからかってくる。
これもいつものことだ。
「名前で呼ぶなって。恥ずかしいから」
「いまさら綾文とか言いづらいよー。もう一年以上紀実って呼んでるよ?」
「……はぁ」
「まーたため息。幸せが逃げちゃうよ?」
ため息を吐いたのはお前のせいだお前の。
なんだって好き好んで名前で呼ばれなければならないんだ。
「ね、帰ろ? 紀実」
「わかったわかった櫛咲」
「わたしのことはむしろ名前で呼んで欲しいんだけどなー」
からかう玖亜に返事はしてやらない。
どうせ返事を期待してもいないだろう。
まぁせめて、普段頭の中じゃちゃんと玖亜って名前で呼んでるからそれで勘弁して欲しい。
そうでないと。
「お二人さんお帰りかい?」
「邪魔しちゃ悪いよー」
「ほらもう早く行きな。二人の愛の旅に」
これだ。
現時点でこんなにも勘違いされて冷やかされているのに、俺が玖亜のことを名前で呼び始めたらどうなるか、想像に難くない。
隣で帰宅準備を整えきっていた玖亜がどぎまぎしている。
精神年齢が低いからなこいつ。
クラスメイトにからかわれるとすぐにこれだ。
しばらくフリーズしそうなので俺はその間に教科書とノートのほとんど入っていない鞄に、必要最低限の荷物が入ってることを確認してしまう。
「俺は帰るぞ」
「あっ、ちょっと待ってってば!」
先に教室を出ると、慌てて玖亜が追いかけてくる。
別に追いかけてこなくてもいいんだがなぁ。
「わたしたち、付き合ってないって言わなくていいのかな!?」
いいに決まってんだろ。
アホか。
あいつらが本気だと思ってるのはお前だけだよ。
廊下にもまだ生徒がちらほら残っていて、俺と玖亜のことを一瞥してくる。
そりゃあ高校生の男女、それも部活や委員会が同じなわけでもない奴らが二人で一緒に下校しだせば目立つだろう。
目立つが、クラスほど誰かが露骨にからかってきたりはしない。
あるのはただ、冷ややかな目と見下すような視線だけだ。
どいつもこいつも、人を下に見て安心することしか能がない。
自分で何もできないから自分とは違う、異物を排除することでしか自我を保てないらしい。
そんなことを考えている俺もまた、ああいう有象無象を見下して自我を保っているだけなのかもしれないが。
「あー、今日も雨だねー」
玖亜は暢気に呟いて、俺の左に並んだ。
近い。
一歩右にずれると、何故かこいつはその一歩を縮めてくる。
ほどほど攻防を繰り返して、やはり俺が先に諦める。
あんまり続けていると壁にぶつかるかもしれん。
せめて反抗精神を表情に出すが、玖亜は「ん? どうかした?」と顔に出してくる。
自覚があるのか、ないのか。
微妙なラインだ。
「んー」
「紀実は雨、好き?」
聞いてどうする。
「わたしはあんまり好きじゃないんだー」
こっちが答える前に言いやがった。
あとそれはこないだも言ってたから知ってる。
「家から見る雨は好き」
そうかよ。
「やっぱり晴れがいいなぁ」
それも聞いたことあるっての。
聞いたことあるっつーか昨日聞いたわ。
昨日の今日で記憶とか消えねぇっつの。
その後も聞き慣れたマシンガントークを左から右に流して校内を進み、下駄箱のある昇降口まで来た。
来て、すぐに異変に気付く。
「傘、ねーし」
さすがは高校という機関。
毎度のことながら傘は盗まれて当然という風潮があるらしい。
ビニール傘なら盗まれても仕方ないと諦めが付くが、なんとなく色がついたものが盗まれると腹が立つ。
つーかそもそも人の傘盗む神経がわからん。
てめぇの持ってきた傘すら覚えてないのか。
朝降ってなかった時ならまだ盗む気持ちもわからなくもないが、今日なんかは朝から降っていただろ。
この周辺じゃ進学校とか言われている高校でも所詮はこんなもんだ。
どうすっかな。
「紀実、ん」
既に上履きから革靴に履き替えた玖亜が、髪留めと同じオレンジの傘のボタンを外した。
紺のセーターとの対比で鮮やかに見える。
「入ったら?」
その提案は別に、無下にするようなものではなかった、が。
さすがにそれを受け入れるわけにもいかない。
「いや、職員室行ってくるわ」
「うーん。別に気にしないのに」
俺は気にする。
別に職員室もそんなに遠くない。
借りれるシステムがあるのだから、使わない理由もない。
ちょっと待ってろ、と思わず言おうとして、やめる。
別に俺は玖亜と一緒に帰る約束などしていない。
「待ってるからね」
だが、こいつは俺よりも常に一手先を読んでくるのだ。
いつもいつも。
適わない。
櫛咲玖亜は、俺にとってやや特殊な同級生だ。
ただし、俺に限らずここ幸魂高校の一年生にとって、もしくは二年生にとって、櫛咲玖亜が特殊であることから説明する必要はあるだろう。
幸魂高校の一年二組に在籍する玖亜は、同じく一年二組に在籍する俺よりも、二歳年上だ。
まず、俺の誕生日は一月二十日で、五日後に迎える誕生日で十六歳になる。つまり、現時点で十五歳だ。
対して、四月十二日が誕生日の玖亜は既に十七歳になっている。
あまり普通は見かけないだろうが、玖亜はつまり、留年している。
二回目の高校一年生を送っているのだ。
だから本来の学年は俺達の一つ上で、そのために一年生の間では悪い意味で有名で、二年生の間でも「あいつ留年したらしい」と同じく悪い意味で有名人になっている。
同じクラスにいる実は年上の同級生を相手に、普通の感性の高校一年生がすぐに対応できるはずもなく、玖亜はクラスではぶられていた。
いじめ、られていたわけではないと思う。
ただ、扱いに困っていただけだ。
現に、四月からある程度時が経ち、一月となった現在では多少なり、玖亜の人となりとやらを知って、友好的に接してくれている奴もいる。
そういう奴も、決して多くはないが。
二年生は二年生で結局は一年生と同じで、一部は玖亜と普通に仲良く接してくれている奴もいるが、大半はそもそも存在を知らず、二年に上がってからの噂で知って馬鹿にしてくるようなのばっかだ。
下らない。
俺は玖亜がどうして去年留年してしまったのか、知らない。
聞いたこともない。
風の噂も、友人らしい友人のいない俺の所までは流れてこない。
聞こうとも思わない。
過去がどうあれ、しつこく話しかけてくるこいつが変わるわけでもないだろう。
ただ一度だけ、
「出席日数がちょっとね。足りなかった」
とは言っていたので、病気なのかその他の理由なのか、学校に来ていなかった期間があるのだろう。
興味がない、と言えば嘘になるが。
別に知ったところで。
俺にどうすることもできない。
慰めることすら、できない。
「失礼しましたー」
軽く挨拶をして、傘を手にした俺は職員室を後にする。
下駄箱までさほど距離もないが、重い足取りでゆっくりと歩いているので、多少は時間稼ぎが出来ているだろう。
この間に玖亜が先に帰ってしまっていればいいのに。
なんて淡い期待をしながら下を向いて歩いていると、誰かの殺気を感じた。
殺気というか、俺のことを真っ直ぐ、敵意でもって見てくる視線。
目線を上げると、そこには一人の女子生徒が立っている。
仁王立ちだ。
「お前」
「はぁ」
「あまり玖亜に近づくなと言ったはずだが」
「……あいつの方から来るんすけど」
「黙れ」
黙れときたか。
俺に近づいてきてるのは玖亜の方だし、今話しかけてきてるのはお前だ。
妙に怖い眼光で俺のことを睨むこの女は、夢叶萌映。
二年生なので俺の一つ先輩だ。
昨年、玖亜と仲良くしていて、現在も関係が切れていない珍しい存在だ。
学年が上なので一応は夢叶先輩と呼称している。
が、どうやらこの夢叶先輩は俺のことを嫌っているようで、会うといつもこれだ。
まぁ、仲良くする義理もないからいんだけどな。
あと口は悪いが女だ。
口が悪いのは人のこと言えないがな。
「どうして……お前が玖亜と一緒にいられる……」
「学年とクラスが一緒だからじゃないすか」
「黙れ」
事実だろが。
「なら夢叶先輩も留年したらいいんじゃないすか」
「黙れ」
俺の軽口に付き合う気はないらしい。
俺もさっさと帰りたいしこのくらいにしておくか。
「じゃ俺帰るんで」
「おい、綾文」
帰ろうとすると声をかけてくる。これもいつものことだ。
顔自体は整っているのだが、眉間に皺を寄せて睨むばかりなのであまり綺麗だとかそういった感想を抱いたことが俺はほとんどない。
こんな意思疎通が図れないくせに生徒会役員だったりするからこの学校は不思議だ。
「必要以上に玖亜に関わるな。でないと、玖亜が壊れる」
「……気には、留めときます」
これも、毎度のことだ。
玖亜が壊れる、とか。
意味が分からない。
分かろうともしてない、けどな。
昇降口に戻ると、落ち着かない様子で髪をいじる玖亜の姿があった。
やっぱり待ってたらしい。
「もー遅いよー紀実」
「待てとは言ってない」
「わたしは言った」
「……遅くなった」
「うん、許してあげよう」
雨の中、二つの傘を並べて歩く。
無言の俺に対して、べらべらと話を進める玖亜。
何が、楽しんだろうな、こいつ。
俺といて。
「あれ、紀実? どうかした?」
「どうもしねぇよ」
どうかしてるのはお前の周囲だよ。
あとお前。
ついでにお前。
「雨、明日は止むかなぁ。止むといいなぁ」
「明日も雨らしいぞ。残念だったな」
「じゃあ明日は相合傘、してくれる?」
「しねぇ」
「そっか。残念」
一体何に残念がってるんだお前は。
全くわからない。
じゃあって何だじゃあって。
現代文の授業で接続詞の問題あっただろ。なんか『イ』から『ヘ』くらいまでの選択肢のやつ。あれ間違える奴って日常会話に難があるだろって思うのは俺だけなんだろうか。
いや、でも問題になってるくらいだから意外と難しいんだろうか。日本語って難しいからなぁ。文法めちゃくちゃ指示語めちゃくちゃ単語の抽象度めちゃくちゃでも通じるしなぁ。
「あ、そういえばまた席替えするねー」
「んなこと言ってたか?」
「紀実は寝てたからね。明日の放課後やるってさ」
「あぁそう」
なんで楽しそうなんだこいつ。
席替えとか、どうせ何も変わらないだろうに。
幸魂高校の最寄り駅で、ようやく俺と玖亜は別れる。
方向が違うもんねと言って、玖亜は手を振って離れていった。
本当に楽しそうなまま玖亜がどこかへ消えていく。
いや電車って逆方向しかないんだからどこかって言っても俺と別れるなら別のホームに降りてるんじゃないかと突っ込みたいんだが。まぁもしかするとバスなのかもしれないし案外駅の近くなので歩いているのかもしれない。
聞いたことがないからわからん。
「やぁやぁ」
なんてことを考えていると、すぐに声をかけられた。
まるで俺と玖亜が別れるのを待っていたかのようなタイミングだ。
にしてもどうしてこうも急に現れて絡んでくる奴らばっかなんだろうな俺の周り。
思春期真っ只中な俺を放っておいてはくれないものだろうか。
んで、こいつに関しては俺のことを揶揄する気が見え見えなので当然のごとく無視しておく。
「おいおい無視はひどいなぁ紀実くんよ。まだなんも変なこと言ってないだろ?」
「どうせすぐに言うだろ先輩は」
「うーん、そうだね。言うかもね」
飄々としているこのいけ好かない男は侑李悠という、学年が一つ上の先輩。
夢叶先輩と一緒で昨年玖亜と仲が良かった数少ない人間。
こんなんでも生徒会役員らしい。
っつーか去年玖亜と仲良かった奴はほぼ生徒会役員みたいだけどな。俺の知ってる限り。
「いやー、さっきまた萌映が不機嫌になってたからさー。たぶん紀実くんに突っかかったんだろうってね」
「見事な推測で」
「間違ってるかい?」
「合ってる。あれどうにかなんないんすか」
「ならないね。俺だって気持ちの上では萌映と同じ態度を紀実くんに取りたいくらいなんだぜ? これでもさ」
そう、夢叶先輩と同じく侑李先輩もまた、俺のことを嫌っている。
むしろ直接的には感情を剥き出しにしない分、この人の方が怖いくらいだ。
全く表情から真意が読み取れない。
いつも俺を見下ろしているような、からかっているような、そんな笑いを浮かべちゃいるが。
闇が深そう、っつーか。
脳内に怪物でも飼っていそうだ。
「まーでも事情を話しもせずにあの態度はひでーよなぁ。俺だったらとっくにブチ切れてるぜ?」
「切れるくらいなら事情とやらを聞きますよ」
「はは、減らず口だけは一流だなぁ」
夢叶先輩達が一体どういう理由で俺のことを敵視しているのか。
どう考えても玖亜が関わっていそうで。
たぶん玖亜が留年した理由にも繋がるんだろうとは思うが。
別に俺には関係ない。
夢叶先輩に嫌われたところで、そもそもあの人と俺は友達じゃない。
ついでに侑李先輩ともな。
だがしかし、あんなに嫌われる理由に心当たりはない。
「で、どうだい最近の玖亜はさ」
「どうって別に、変わんないすけど」
「無愛想だなぁ。クラスどころか学年が違うと中々情報が入ってこないんだよ。そりゃあ心配で心配で」
「なら本人に聞けばいいんじゃないすかね。俺じゃなく」
「へぇ? 玖亜が自分のこと話すとでも思ってるのかい? それこそ君がよく知ってるだろう?」
「……まぁ」
喋らない、だろうな。
あいつ、にこにこと下らない話は延々とするくせに、自分のプライベートは微塵も晒そうとしない。
俺が聞かないってのも大いにあるだろうが。
それにしたって、俺は玖亜のことをほとんど何も知らない。
家族構成も。
家がどの辺にあるのかも。
これまでどんな小学生でどんな中学生だったのかも。
編み物が趣味らしいってのは知ってるが、それ以外どうやって過ごしているのかも、知らない。
五日後の俺の誕生日のために何かを編んでいるらしいってのも、ばればれなので分かっている。
散々何が欲しいか聞いておいてサプライズのつもりらしい。
まぁ、それくらいなら、偏屈にならずにありがたく貰おう。
祝われたくないってほど人を嫌ってるわけじゃあないし、質については問題なかろう。
と、そんなあたりを話しておけばいいか。なんか自慢っぽくなるのは仕方がないだろう。
「最近は俺に隠れて、俺の誕生日プレゼントを作ってくれてるみたいすよ。編み物」
「そういえばもうすぐなんだっけ誕生日? 俺もなんかあげよっか?」
「結構す」
「つれないなぁあげるよー? ほら、なんか、過去問とか」
「要らないす」
高校生で過去問を頼りにする奴も珍しいだろう。風の噂で、大学に入ると人脈と過去問によって成績が決まると聞いたことがあるが。それってもう教育機関の体をしてないだろ。
いやむしろ、日頃からそこそこやる気があるソロプレイヤーよりも、締め切り直前にしかやる気出さない群れる奴のほうがより良い成果を出すことを知る経験にはなるのかもしれない。あとその群れすら超越する個人が会社立ち上げて成功したりとか。
ともかく、高校一年生である俺には不要なものだ。
今のところ成績も悪くないし。
「今日もまた忠告っすか」
「あぁ、忠告さ。俺は萌映ほど極端じゃないけど」
侑李先輩は口元を吊り上げて、不気味に笑う。
俺を試すように。
「何か玖亜に違和感を感じたらすぐに話してくれよ? でないと」
この言葉も、一体何度目だろう。
毎度毎度、ご苦労なこった。
「玖亜が壊れる」
返す言葉も、慣れてしまった。
もうほとんど反射的に答えられる。
「気には、留めときますよ」
本当に何かがあるだなんて、俺は、考えてもない。