ゴールには、やっぱり、君が居て欲しいんだ
夕暮れの帰り道、有希はあまり口を開こうとはしなかった。
彼女には夕飯の前に有希を家まで送り返すように言われていた。
だから、デートは日が沈むまで。
子供の時間はそこまで、だ。
有希は疲れているようだった。
一日中遊びまわったからか、あるいは現在の関係に、疲れているようだった。
「何か冷たいものでも飲むか? のどが渇いたろう。任せろ、俺にだってジュースを奢る金ぐらいならある」
「いい」
「あ、そう」
遂に反抗期か、やれやれ、お父さん泣いちゃおうかな。
そんなことを呟いたら、冷たい目で見られた。
本当に、反抗期に入ったんじゃないだろうな、こいつ。
子供は、大人になっていく。
成長していく。
それは嬉しいことだけど、でもやっぱり寂しい。
そう思うのは我侭だろうか。
「――ねえ、お父さん」
「なんだよ」
「お母さんとはやり直せないの?」
「やり直せるよ」
きっと俺がそう言うとは思っていなかったのだろう。
有希は目を丸くした。そして、急に顔を赤くしたかと思うと、捲くし立てた。
まるで機関銃だ。
それはいつも静かな口調の母親には似ていない。
彼女だけの動作だった。
「じゃあ、どうして? どうしてなのよ! ――お母さんは……、お母さんはねえ、待っているんだよ。何も言わないけど。でもねえ、お父さんを待ってるんだ」
「そうか」
「そうか、じゃないでしょ! お父さんのバカ! なに格好つけてるのよ」
有希は怒っているようだった。
「お母さんはお父さんが好きで! お父さんだって、お母さんの事が好きなんでしょ! ――ねえ、違うの?」
「違わない」
そう言って、有希の頭を撫でた。
この娘は、いい娘に育った。
彼女が立派に育ててくれたらしい。
まったくもって、彼女には頭が上がらない。
そう思う。
「お父さんなんて、嫌い」
有希は、本当に怒っているようだった。
困った。
何と言えばいいか判らないから、黙ってそっと手を差し伸べた。
有希はちょっと迷った後で、やっぱり何も言わずに手を握り返した。
■
久しぶりの家だった。
「おかえり」
「ただいま」
有希が笑って、彼女の方へ駆け出すのを黙って見守った。
彼女は、家の前で立っていた。
少しだけ、痩せたようだった。
頬のラインが、少しだけ。
でも、綺麗だ。
凛としたその姿は、昔と変わらない。
いや、昔より綺麗になった。
昔より、ずっと、綺麗になった。
彼女はゴールなのだ。
俺が走って、走って、最後の最後に到達できればいい場所。
まだ、ゴールする訳にはいかなかった。
「お母さん」と有希が言う。
俺の方を目で示しながら、何かを伝える為に口を開こうとした。
それを遮って、彼女が言った。
「有希を送ってくださって、ありがとう」
「ああ」
彼女の前では、いつもこうだ。
何か気の利いたことを言いたいのに。
結局、いつも通りの俺の貧弱なコミュニケーション能力。
たぶん、絶対的に語彙数が足りていないのだ。
馬鹿だから。
「話って、何かしら」
彼女は柔らかく微笑みながら、訊いた。
いきなり本題だが、俺達はいつだって、こうだった。
彼女の表情はとても優しいもので、見る人を安心させるような、それでいてどこか寂しげな雰囲気を持っていた。
やっぱり、電話で言えば良かった。
そう思った。
彼女にこんな表情をさせるぐらいなら……。
後悔した。
でも、きっと、直接伝えるべきことだ。
「今度の東京マラソンで、引退する」
俺は、さもなんでもない事であるかのように、さらっと言った。
空を見た。
日は地平線の彼方に沈んでいて、星が儚く輝いている。
日本の星空だ、と思った。
冷たい風が吹いて、俺のコートが靡いた。
「そう」
彼女が、それだけを言った。
目を伏せていた。
「もし良かったら、その刻には来てくれないか」
「え?」
俺が、彼女にレースを観に来るように言ったことなどなかった。
だから、彼女はあまり俺のレースを直接見ていたことがない。
家でテレビ中継の映像を見ている方がよっぽど俺の走っている姿が良く見えると言っていた。
画面に集中しているから、その間、いつもほったらかしにされている幼い有希が拗ねるのだ、とも。
「ゴールには、やっぱり、君が居て欲しいんだ。頼む」
「――祐ちゃん……」
「話は、それだけだ」
踵を返した。
一人で薄暗い道を歩き出し、それから走り出した。
最後のレース。
彼女が待つゴールに真っ先に辿り着きたいと。
そんなことを願いながら。
俺は、何もかも捨てて、走り続けてきた老兵だった。
何もかもを得ようと躍起になっている若造には負けるわけにはいかない。
勝ちたい。
今、心からそう思う。
あとはスタートの号砲を待つだけだった。
明日、東京マラソンシリーズのおまけを投稿予定です。