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聞いたけど、すぐに忘れてしまったよ

初めてのオリンピックを走ってから、忙しくなった。


結果は振るわなかったつもりだったが、四位という成果は思っていたよりも評価されたらしい。

勝手に日本のマラソン界の第一人者と見做され、当時所属していた実業団からの意向もあり、様々なマスメディアに引っ張りだこにされた。


それでいて、日本一のランナーである為には、日本一の練習が必要だ。

忙しくなって、当然だった。


煽るだけの無責任なマスコミによって有名にされれば、家族の身の回りも騒がしくなる。

だからといっても、家庭は大切にしたかった。

彼女の傍にいたかった。

ランナーであることと、良き父、良き夫であることを両立させることは難しかった。

本当に難しかった。


あるいは、もう少し器用にやれる方法もあったのかもしれない。

しかし、俺にはそういう真似はなかなかできなかった。

馬鹿な男だ。

走ることしか取り柄がない。


「ねえ、離婚しよう」


だから、そんなことを彼女が言い出すのは当然のことだった。

彼女はただ俺の事を案じたのだった。


俺は走ることしか取り柄がない男だ。

そんな俺から走ることを取り上げたら、何も残らない。


俺には良き家庭人である前にランナーであれと、彼女は言った。

彼女は、そういう人だった。


「貴方が走れなくなったその時に、私の処に帰ってきてくれれば、それでいいよ」


笑って、そう言った。

とっくに眠ってしまった有希の頭を、そのまま優しく撫でながら。


――「一緒にいること」という約束は、そうして破棄された。


いつかは走れなくなる。

人間だから。

老いるから。

それはそれで仕方ない。


だから、走れるうちに走れと彼女は言った。

俺の走る姿が見たいのだと言った。

走っている姿に惚れたのだと言った。

何も考えずにただ走ればいいと言った。


走って、疲れて、倒れて。


そして、もう走れなくなったら、その時は慰めてあげるから。

ぼろぼろになった身体を、疲れを癒してあげるから。


だから、走れるだけ走ってこいと。


離れていても、常に永遠に二人の心は一緒だ。

そして、二人は離婚した。

約束は、約束だから。


破られた約束に対してけじめをつけるために、結婚関係を解消したのだった。

彼女はそういう人だった。

俺も同意した。


老いた親父の所に、彼女と娘の二人を預けた。

彼女にとっては離婚した夫の親と一緒に住むということで、ちょっと複雑な心境の組み合わせだったかもしれないが、それはそれでお互いにまあなんとか上手くやってくれたようだった。


有希がおそらくは、良い緩衝材になってくれたのだと思う。

あの娘は、いい子だから。

俺には勿体ないくらい、いい子だ。


離れていても、有希を愛していた。


いい子だから愛したわけではない。

例えいい子ではなかったとしても、俺は有希を愛した。

大切な娘だ。

世界で二番目に愛している。


それからの俺は、ただ、ひたすら走った。


世界中のあらゆる大会に参加した。

走って、走って、走り続けた。


また、オリンピックがあった。

今度は銀メダルだった。

つまり、負けだった。

四年に一度の舞台で世界一になるのは、やはり、なかなか困難なことだった。


毎日、毎日、走っていた。

走って、走って。

走るのは好きだった。

子供の頃から、毎日、走ってばかりいた。

そのまま大きくなったようなものだ。

馬鹿な餓鬼のまま。

俺には、走ることぐらいしか、ない。

そう思っていた。

そう信じていた。

だから、走っていた。


家にも帰らず、日本にも滅多に帰国しない。

アメリカに本拠地を構え、世界のレースを転々としながら。

マラソンランナーとして生きてきた。


言葉が違っても、宗教が違っても、肌の色が違っても。

人間は世界の何処ででも走っていた。

言葉が通じなくても、一緒に走った。

世界中の何処にでもランナーはいるのだ。

俺は、そんな世界中に星の数ほどいるランナー達の一人だった。


俺は、ただ、ひたすら、走っていた。


昨年のロンドンマラソンを走った時のことだ。

そのレースも勝った。

しかし、右膝にピリッとした痛みが走った。


なんでもない程度の痛みは、しかし、重大だった。

とても重大なことだった。


「もう、走れる状態ではない」


と、俺の目の前に座っていた英国人の老医師が言った。

勿体ぶって言った台詞の割には、やたらと陳腐だと思った。


老医師のすましたポーカーフェイスからは、感情が読み取れなかった。


幾つもの高価な検査を大人しく我慢して受けた代償として俺が教えてもらったのは、すぐ近くに迫った終焉だった。


「ミスターイグチ、聞いていますか?」

「聞いたけど、すぐに忘れてしまったよ」


そう言って、俺は席を立った。

振り返らなかった。


右膝がぼろぼろになっていた。

もう、走り続けることができない。

そんなことは、頭のどこかで判っていた。

予測していた。

なにしろ、餓鬼の頃から走っている。


人間の身体は永遠じゃない。

いつか、ぼろぼろになって、駄目になるなんてことは判っていた。

だから、我ながら呆れるくらい、すんなりとそのことを受け入れた。


――しかし、ランナーがその走りを終えるのは、常にゴールラインを超えてからでなくてはならない。


だから、俺はゴールを探すことにした。

なんとしても、ゴールまで辿り着かなくてはならないと思った。

俺は、走るしか取り柄がないランナーだから。

愚直なランナーだから。


その後も、誤魔化し、誤魔化し、練習を続けた――ただ、ゴールを探して。


最後のマラソンを東京に決めたことに深い理由はない。

東京マラソンは俺が初めて走ったマラソンだった。

だから、其処に戻ってきただけだ。

地球は丸いから、一方向に向かってずっと進み続けると、いつか最初の地点に戻ってきてしまう。


俺の旅路も似たようなもので、最後が最初だったということだ。

ただ、それだけのことだった。

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