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あなたに負けないで欲しいんです

ピエロに貰った風船を楽しそうに持っている有希を見ていたら、なんだか、まだまだ小さい子供のように見えた。

なぜか、それを見て安心した。


ベンチに座った俺に「アイスクリーム買ってきてあげる。何がいい?」と訊くから「バニラ」と答えた。

きっと自分がアイスを欲しかったくせに、そんなことを言う素直じゃない娘を可愛いと思った。

小銭を幾らか渡したら、駆けて行ってしまった。


なかなか良い走り方だと思った。

さすが、俺の娘だ。


そんな一部始終を見られていたらしい。隣に、女が座った。

だから、俺は言ってやった。


「娘とのデートの邪魔をするな。ジェットコースターなんて、いい大人が独りで乗っているんじゃない」

「気付かれていましたか」


ぺろっと舌を出して、可愛らしく謝る若いお姉さん。

この女が『月刊陸上』の記者だという事ぐらいは知っていた。

名前は覚えていない。


「ここが日本でよかったな。幸運だったな」

「何故です?」

「俺が、銃を持ってないからだよ。邪魔者は撃ち殺す」


冗談だと思われたらしい。

くすくすと笑っている。


「娘さんとデートですか――今日は、平日だったはずですが」

「なるほど、寂しいはずだ。休日もこの調子だったら、この遊園地は潰れるな」


女の嫌味には気がつかないふりをしておいた。

娘にもたまには休息が必要なのだ、たぶん。


「今年度一杯で閉まるようですよ。残念なことに」

「そいつは残念だね」


最近の記者は礼儀を知らないから、嫌いだ。

取材の日はちゃんと別に設けてあるのに。

プライベートの時間に邪魔をするとは、堕ちたものだ。


俺は、プライベートの不祥事さえ売名行為につなげてしまう恥知らずな芸能人とは違う。

プライベートの領域を取材されるのは、大嫌いなのに。


それをこの女が知らないはずがない。


「今日は、息抜きですか? 東京マラソンに向けての練習スケジュールの中での」

「さっさと消えろ。あの子が帰ってくる前に」


こちらの剣呑な雰囲気を全く気にしていないらしいようだった。

のんびりした口調で、女記者は続けた。

曲者だ。


「数あるスポーツ誌の中でも、たぶん、うちぐらいでしょうね。勘付いているのは」

「何が?」


女はおっとりした口調で爆弾を投げた。


「――井口祐輔は、東京マラソンを最後に引退する」


空気が凍った。

聞いた瞬間、動揺した。

しかし、それを表に出すほど、俺だって可愛い性格ではない。


駆け引き上手で知られるランナーを相手にして、それでも駆け引きで挑むとは、なめた小娘だと思った。


「この歳だ。いつ止めてもおかしくないだろ」


いつものように、笑った。

それで騙し通せたかどうかは判らない。


「そうですね。でも、井口祐輔の一ファンとしては寂しいです」

「ファン? ストーカーの間違いだろう?」


小娘がくすくす笑った。


無視して、空を見上げた。

師走の空は、ただ、ひたすら蒼くて、冷たくて。

なんだか、寂しく感じた。


「辻洋一が東京マラソンに出るそうです。私が注目している若手の選手です。警戒しておいてください。彼は強い。ポスト井口の最有力だと思っています。東京マラソンでは、真っ先に彼をマークするべきです」


古豪の名門実業団チームの名前とともに、その名を挙げた。


辻洋一という名前には聞き覚えがあった。

次世代のホープ。


しかし、俺を脅かすほどの存在とは思っていなかった。

どちらかと言うと、他の国内外の有力選手に気をとられていた。

ただ、このストーカー女の選手を見る眼だけは確かだ。


「あそこの実業団、まだ報道こそされていませんが、どうやら解散の危機にあるそうですね。この前、取材に行きましたが、雰囲気が違った」

「ほう。餓鬼の頃、あそこにいた南というランナーを俺は好きだったんだが。そうか。そこまで切迫しているのか、あそこは」


不況のせいだろうか。

この遊園地といい、なにもかも寂しい話ばかりだ。


「惚けても無駄ですよ、井口さん」

「なんのことだ?」

「創業者一族の大株主の一人がチーム解散の阻止に動いたそうですね。確か、その方の苗字も井口という……」

「お前、売れない雑誌の記者にさせておくのは勿体ないよな。大手の総合週刊誌の記者ぐらいできそうな程の情報収集力だ」

「お褒めに預かり、恐悦至極」


女がにやりと笑った。


「古い知人を助けたかったそうだ。ただ、それだけ」


冗談交じりに親父が言っていた台詞を、俺は同じように繰り返して言った。

古い知人を助けることと、例の実業団の存続に助力することがどうして結びつくのかは知らない。

別に知りたいとも思わなかった。


親父も昔はランナーだった。

それなりに才能もあったらしい。

でも、家の事情で断念せざるを得なかった。


俺は好き勝手に自由な生き方をしているが、それは親父のおかげもある。

もしかしたら、親父はその夢を俺に託したのかもしれないし、そうではないかもしれない。

そんなことは親父しか知らない。


「ということは、当然、あちらの事情をご存知なのに、出場をお決めになったのですか?」


勝てなかったら解散するらしいと聞いた。

しかし、それはあくまであちらの事情であって、こちらはこちらの事情で動くだけだ。


「邪魔するつもりはなかったんだけどな」


勝負の世界だ。

手加減するつもりなんてない。

そもそも、そんな余裕もない。


「もう一人、小島周、というランナーがいます」

「小島? 知らんな」

「不気味な存在です。辻よりもさらに若い。荒削りですが、たぶん、才能は本物ですね」


このストーカー女の選手を見る眼だけは確かだ。

ということは、小島とやらも、ひとかどのランナーなのだろうと思われた。

若手の辻、小島、ねえ。

そいつらが次世代を担う選手になるのだろうか。


若さという暴力で蹂躙されるだけの老人にはなりなくなかった。


蛮勇にも似た若さを懐かしく思うとともに、それを失ってしまったことに苦々しさを覚えることがある。

本当に大切なものは、自分から失われ、無くしてしまってから、気付く。

若さもその一つなのかもしれなかった。


俺は黙って空を見上げた。

ふと、有希にこの女を見られたら、面倒だなと気付いた。


「とにかく、辻と小島には注意が必要です。彼らのデータを含め、国内外の有力選手の取材結果を揃えて置きました。参考にしてください」


そう言って、封筒を渡してきた。

それにデータが収められているということだろう。


そんなことは初めてだった。


つまり、この女は俺の状態を知っているのだ。

一つの時代が終わろうとしているということを。


だから、力を貸す気になったのだろうか。

とりあえず、俺は遠慮なく受け取ることにした。

貰えるものは貰う主義だ。


「お前、この為だけに、来たのか?」

「井口さんに伝えたいことがあります」と女は言った。


「井口さん、私が陸上競技専門誌の記者になろうと思ったのは、貴方がいたからです。貴方の走りを見て、感動したからです」

「――そんなことは、何度も聞いたさ」


空を見上げながら、そう言った。


俺の走りが誰かに感動を与えるかどうかなんて知ったことではない。

俺は走るのが好きだから、勝手に走るだけだ。

俺には走るぐらいしか取り柄がないから。


だから、離婚だってした。


「私は、あなたに負けないで欲しいんです」


隣の小娘が、小さな声で言った。

気が付かなければ、良かった。

女の声が僅かに震えていた。


女の演技かそうでないか、それを見破ることが出来ないほど、俺だってうぶではない。

この小娘が、ずっと、飽きもせずにいつも俺の記事ばかりを書いていた事ぐらいは知っていた。

それを読んできたのだから。


「心配してくれたのかい?」

「井口祐輔には、最後まで負けない欲しい。日本で最強のランナーでいて欲しい。私が大好きな井口祐輔というランナーには最後まで国内無敗のままであって欲しい」

「勝手な奴だ」


期待するのは勝手だ。

だが、こちらにはそれに答える義務はないのだ。


隣の女が、手に持っていたチョコチップアイスを無言で渡してきた。


「何だ、これ」

「これをあげますから、負けないでくださいね」


俺は、餓鬼じゃない。

そう抗議しようとして諦めた。


「では、私はこれで。もう、有希ちゃんが帰ってきますから」


「おい、ちょっと待てよ」と俺は女の背中に声をかけた。

「何ですか?」

「あんたの名前は?」

「――加藤百合子、です。短くない付き合いなのに、知らなかったんですか?」


「もう、二度と、忘れないさ」と俺は言った。「加藤百合子さん、ありがとう。俺は絶対に負けないぜ。負けられない理由も増えたことだしな」


女が振り向いた。泣き笑いの表情だった。


「ふんっ、負けたら、絶対に許しませんからね。私は、井口さんに、賭けているんだから」


溶けかけたアイスを持ったまま、仕方がないから、ベンチに座っていた。


空はとても寒々とした青空だったが、日差しはやけに温かい。

なんで真冬なのにアイスを売っているのか判らなかったが。

なるほど、ちょっと理解できる気がした。

この日差しなら、アイスを食べてもいいかもしれないと思った。

遊園地でアイスか。

たまには、それも悪くないかもしれない。


そんなことをぼんやりと考えていたら、両手にアイスクリームを持った女の子が走ってきた。

有希だ。


こういうのは本当は男の子の役目だろうに。

そういうのを率先して、こなす有希が面白いと思った。

誰に似たのか判らない。


「あ~!」


有希が俺の手にあるものを見て、叫んだ。


「なんだよ」

「そのアイスどうしたのよ、お父さん。わたし、そのアイスが欲しかったのに売り切れちゃっていて、凄くがっかりして、それで仕方なくチョコレートアイスにしたのに~」

「そうか、そうか。ご苦労だったな、褒美にこれをやろう」

「お父さん、好き」


現金な娘だ。

誰に似たのか判らない。


「はい、これ」


チョコレートアイスとバニラアイス。

その二つを代わりとばかりに、いっぺんに渡されて、思わず硬直した。


「冗談だろう?」


その言葉に対して、有希はにっこりと笑った。

どうやら冗談ではないらしい。

本気のようだった。


残酷な娘に泣きそうになった。


仕方なく、二つのアイスが溶けない間に、急いで食べた。

真冬の空の下で。

加藤姉は井口推し

加藤妹は小島推し

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