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本当はずっと前から、言いたかった

幸せって、なんでしょうねえ。

大学を卒業して、三井と会ってすぐに。

単純な俺は、彼女に会いに行った。


偶然を装って、彼女と再会した。


この世界に偶然なんて、ない。

全ては必然。

彼女と会いたいから、俺は彼女に会いに行った。

ただ、それだけのことだった。


彼女がそれをどう思っているのかは、知らない。


彼女が、故郷の海岸を散歩するのが習慣だなんてことは知っていた。

昔からの習慣だ。

波打ち際で靴を脱いで、水の中に足首のところまで入って。

足の裏の砂が、波に運ばれていくような感じを味わって。


仕事が終わってから、いつでもどこか懐かしい感じがする江ノ電に乗っていって。そうして海辺を散歩するのが彼女の習慣。


潮風の匂いが好きなのだ。

だから、彼女は、いつだって海の近くに住んでいる。


ふいに――、背後に気配を感じた彼女が、振り返った。

おそらくは、俺の足音を聞いたのだろう。


「奇遇だな、手広。あいかわらず、綺麗だな」

「そうね、でも少し、砂浜が減ったわ」


景色の事を言ったつもりはなかった。

でも、そうは思ってくれなかったらしい。


懐かしい声だった。

彼女の声。


そのアルトの声は、心の琴線に触れて、胸を一杯にした。

込み上げる気持ちを必死に抑えて、声を絞り出した。

強がって、平静を装っていた。


彼女は仕事帰りの格好をしていた。

女性らしい柔らかな後姿から、なんともいえない色っぽさが滲み出ている。

ダークグレーのピンストライプのジャケットの下に女性ものらしくフリルのついた白いシャツを着込んでいた。


潮風にかすかに女の匂いが混じったように感じた。


「――話したいことがあるんだ……」

「それは、今、聞いた方がいいのかしら、井口君」

「ああ」


久しぶりに会ったはずなのに。

高校卒業以来数年間会わなかったはずなのに。

彼女はまるで毎日顔を見合わせているかのような自然な感じだった。

まるで、あの頃と変わらない。


でも、年月は確実に流れている。


まだまだ、言うほど大人にはなりきれていなかったけれど、いつまでも子供のままではいられなかったから。

少なくとも、自分の気持ちをちゃんと判るほどには大人になれたから。


だから、俺は自分の気持ちを告げることにした。

瑠璃色の輝きを宿した瞳に。


「本当はずっと前から、言いたかった」

「そう」

「負けん気が強くて、恥ずかしがりで、意地っ張りで、日常の中ではなかなか言えなかったけれど――でもね、本当はいつも、言いたいと思っていた」

「何を?」


「君が好きだ。愛しているんだ、誰よりも」


彼女が絶句した。


たぶん、俺が言うことなんて、彼女には判っていたと思う。

ここで呼び止められた時に、予想がついていたと思う。

彼女の事だから。


でも、実際に言われてみたら、動揺したのだろう。


「どうして? どうして、そんなことを言おうと思った?」


問いかける彼女に向かって、言った。


「月がとても綺麗だから」


夕焼けの空には、白い月が浮かんでいた。

満月じゃない。

欠けていたけれど、でも綺麗な月が浮かんでいた。


「私も、貴方を想っていたよ、ずっと」


彼女は、とても綺麗に、笑った。

泣いた。

そして、また笑った。


   ■


その年の一二月二四日。

クリスマスイブ。


キリスト教の祝日なんて、無神論者の俺にはあまり関係ない話のはずだった。

夜の街はとても煌びやかで、周りを歩くのは、見ていて不快感を覚えるほどイチャついているカップルばっかりだった。


俺は、その刻、人生の選択を迫られていた。


突然、電話で彼女に言われた。


「私と結婚して欲しい。その気がないなら、別れて欲しい。――もし結婚してくれるのなら、今日、私のもとに来て欲しい。待っているから。でも、その気がないなら、もう二度と、私の前に現れないで欲しい」

「わかった」


それはあまりに一方的で突然の宣告だったけれど、なにより真剣な声だった。


まだ俺は二三歳。

したがって、彼女も二三歳。

確かに、結婚することは可能な年齢だった。

友人の三井だって、とうに結婚している。


幸い、大手企業の実業団陸上部にかなり良い待遇で就職していた俺にとって、彼女と家庭を持つことに経済的な支障はなかった。

一家の大黒柱になれるとは思う。


それなのに、「結婚しようか」って言葉がその時に咄嗟に出てこなくて。

電話で黙り込んだ。


駆け引きなんかできなかった。

彼女の声は、あまりに真剣だったから。


強がりな彼女は、辛い時ほど毅然としている。

そのことを昔からよく知っていたから。


彼女は悲しんだろうか。

即答できなかった俺に、幻滅しているかもしれない。

そんなことを思った。

情けなかった。


彼女のことはとても愛している。

その気持ちは、嘘じゃないから。

本当だから。


彼女の隣に居てこそ安らぎ、彼女の傍に在ってこそ憩う。

――それでも……。


それでも。

結婚に、酷く尻込みしている。


これまでの間、考えてこなかったわけじゃない。

でも、まだ先の話だと思って、現実のものとしては意識していなかった。


いきなり選択を迫られて、自分でも驚くくらい動揺した。


家族になるという契約。

相手の人生に責任をもつ契約だと、馬鹿な俺は考えた。


彼女を失うのは嫌だ。

守りたいとも思うし、ずっと一緒にいたいとも思う。

しかし、その一方で、背負う責任は自分に対してだけでありたい。

自由でいたいと強く思っていた。


陸上だって、マラソンだって楽しく充実していたけれど。

怪我をして、唐突に選手生命を絶たれることだってあるのだ。


――それでも、彼女と結婚できるのか?


逡巡した。

迷った。


それから、ふと想像した。

幸せな二人の未来を。


それは例えば、俺がベランダの安楽椅子に座りながら、好きな音楽を聴いている。

向こうには海が臨んでいる。

穏やかな潮風が吹きぬける部屋で、日向ぼっこをしている。


突然、小さな女の子が手を引っ張る。

孫だ。

可愛い孫。

昔話をして欲しい、と言う孫。

今日は何の話をしてあげよう。


階下から、呼ぶ声。

凛としたその声は、昔からあまり変わらないけれど。

穏やかに柔らかくなった彼女の声。


孫はしぶしぶ立ち上がる。

おばあちゃんが呼んでいるよ。

そう言って、孫がせかすから。

立ち上がって、微笑んだ。


孫が、彼女そっくりに笑ってくれた。

幸せそうに笑ってくれた。


――もしかしたら、それはどこかに在る可能性かもしれないし、あるいはどこにも在り得ない未来なのかもしれない……。


「そうだな……、やっぱり、彼女じゃなきゃ、無理だ」


そう思った。

俺みたいな男と上手くやれるとしたら、それは彼女ぐらいだ、と。

彼女を幸せにしようと思った。

彼女が幸せになるなら、それは俺の幸せでもあるから。


「こんばんは」


たぶん、人生で最も緊張していた。

顔面なんて蒼白だったはずだ。


「――来ないかと、思った……。祐ちゃんは来てくれないんじゃないか、と」

「ごめん、ちょっと遅くなったな。心配した?」

「バカ」


俺は、緊張していたくせに、笑った。

強がりで馬鹿だから、笑った。


精一杯微笑みながら、小箱を差し出し、それを開けた。

ダイヤモンドの指輪を差し出した。

俺が選んだ芸のない指輪だから、永遠に光ることぐらいしか取り柄がない。


「俺から言う。どうか、結婚して欲しい」

「――バカ……」


すぐに結婚して欲しいと彼女に伝えた。

二人でいる分には結婚という形式に拘る必要はなかったけれど、それでも結婚して欲しいと伝えた。


彼女は結婚にあたって一つの条件を出した。

それは「ずっと傍にいること」だった。


二人とも、どうせ、お互い以上に好きになる存在なんて見つからない、と諦めていた。

お互い、一世一代の恋愛対象だと思っていた。


離れていても、どうせ、心は常に一緒。

俺が素直じゃない彼女の心なんて、ほとんど判ってしまうように。

彼女には、どうせ俺の気持ちなんて、筒抜けだ。


だから、「一緒にいること」なんて身体的な距離を条件に掲げたのだ。

馬鹿な俺は、ほとんど何も考えずに、それを了承した。

そんなの簡単だと思っていた。


あの時、彼女はすでに身篭っていた。

だから、そんなことを言い出したのだろうと、後で思った。


照れて、赤い顔をして、ぼそぼそと小さな声でそんな報告をする彼女を世界で最も愛しく思った。


二人は子供を授かった。

彼女がその娘に有希と名付けた。

男の子なら俺が、女の子なら彼女が名付けようと決めていた。

性別は生まれるまで二人とも知らなかった。


なぜ、その名を娘に付けたのか、俺は知らない。


でも、どんな偶然なのだろう、有希という名は、俺の母親の名だった。

もう、いなくなってしまった母の名前だった。

父は何も言わなかったけれど、たぶん喜んでいた。


「有希か……、良い名前だ」

「そうね。なにしろ私が付けた名前だからね」

「幸せになって欲しい。この子には、有希には幸せになって欲しい」


母の名を持つ娘に、幸せになって欲しいと思った。

心から、そう願った。


「泣いているよ、祐ちゃん。みっともないなあ」

「泣きたい時は、泣くことにしているんだ」

「じゃあ、その時は、私が抱き締めてあげることにする」


そう言って、俺よりよっぽど小柄な彼女は俺を抱き締めた。

子供を産んだばかりのその華奢な身体で。


まるで俺も彼女の子供になったみたいだった。


そんな両親を見て、赤ん坊はにっこりと笑っていた。

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