初恋の人だから、よ
初めて会った日のことは未だに覚えている。
母が死んで、俺と父は二人で引っ越した。
その時の父の気持ちを知らない。
おそらくは辛かったのだろう。
母との思い出が溢れる町にそのまま住み続けることが。
母の事をまるで覚えていないと言ったら、嘘になるし、寂しすぎる。
しかし、あまり共に過ごした記憶が残っていないことも事実だった。
例えば、俺はおふくろの味なんていう料理を知らないし、何処かに遊びに連れて行ってもらった記憶もない。
それが不幸なことかどうかは判らない。
でも、俺が今生きているのは母が産んでくれたおかげであり、母を構成していた要素の幾つかは、今でも俺の中に息づいているはずだ。
そして、俺は引っ越して転校して、初めて、彼女、手広美幸と会うことになった。
その時のことを忘れられないと言ったら、彼女は笑うだろうか。
「井口祐輔です」
彼女は、窓際の席に座って、黙って空を見ていた。
普通なら、転校生が来たら、注目ぐらいするものだろう。
しかし、彼女は違った。
徹底的に無視するなんて、むしろ失礼なことだと思う。
だから、最初は、そんな彼女の態度を不思議に思ったものだった。
そして、彼女のその姿は強烈な印象を、俺の中に残した。
彼女のことが、何故か、気になった。
一見してつんと澄ましたように思える彼女の態度に原因があったのかどうかその時は知らなかったが、同級の多くから嫌われていたようだった。
それは、すぐに見て、わかった。
放課後を待って、話しかけた。
声を聞いてみたかった。
彼女は花壇の世話をしていた。
校庭の隅の小さな花壇に咲く花々の世話を一所懸命にしていた。
もの言わぬ植物に対する彼女の姿勢は、柔らかく、優しかった。
彼女の知られていない一面を見たような気がした。
意外と優しい一面があるんじゃないか。
皆の前でもそう振舞えばいいのに。
「優しいな」
突然、話しかけられてきょとんとした目で俺を見た彼女は、すぐに目を伏せた。
「そうでもないよ」
「え?」
「寂しさを紛らわしているだけ」
そんなことを言う彼女が俺はやはり気になった。
それはまだ恋愛感情ではなかったと思う。
彼女は孤高の人だった。
彼女の目は、深い瑠璃色だった。
濃い海の色。
周囲の者達とはわずかに異なっていたその特徴こそが、おそらく同級の子、とりわけ女の子の一部から強く嫌われていた原因だっただろうと思う。
自分達と異なる者を恐れ、そして、嫌う。
これはたぶんに本能的なものであるのかもしれない。
しかし、それが大きくなれば、人種差別や、あるいは過剰なまでの排斥主義までに膨張する危険性も秘めている。
通常は、教養を深めたりして成熟するにつれ、理性によってそれは制限される。
そして、人間同士の交流を深めることができる幅が広がっていくのだ。
たぶん、そういうものだろうと俺は思っている。
彼女の瑠璃色の瞳は、どこかしら寂しげな、だが力強い輝きを持っていた。
彼女本人は意識していなかったようだが、その瞳でじっと見つめられたなら、幼い子供ならもしかしたら恐怖すら覚えたかもしれない。
その瞳は、強すぎた。
あまりに気高かった。
だから、彼女は子供の皆から避けられたのだろう。
しかし、俺はその瞳にこそ惹かれた。
彼女を形成する全ての要素の中で、もっともそれが気になった。
なんとも不思議で神秘的な感じがして――それは、彼女の雰囲気にぴったりだった。
彼女はその瞳の事について、何も感じてはいないようだった。
今思えば、子供の頃から彼女は自分の両親の事を考えるのを極力避けていた節がある。
自分を捨てた両親の事を。
もしかしたら、その瞳の色は、いなくなった両親の事を彼女に思い出させるから。
だから、彼女はその瞳に特別な価値を認めなかったのかもしれなかった。
彼女は、両親のことを考えさせる、想像させる、己の外観についてきわめて無関心だった。
あるいは、無関心を装っていたのではないだろうか。
成長するにつれて彼女の瞳の色は徐々に濃くなっていき、いつしか黒色になっていた。
その変化に気付いていたのは、おそらくは少数だ。
俺の他に気付いていた者が果たして何人いるのだろう?
それほど自然にゆっくりと、だが確かに、その瞳の色は変化していった。
彼女の瞳の色が変わるにつれて、俺の気持ちもだんだんと変化していった。
それは雨が大地に染み込んでいくようにゆっくりと。
深く。
そして、溢れた。
いつしか、彼女を好きになっている自分に気付いた。
彼女を想わない日なんて、なかった。
人には、気品というものがある。
人間の価値を便宜的に評価するとしたら、俺ならばその人間の持つ気品をこそ基準に据える。
人としての品格をこそ重視する。
彼女は、客観的に見て、その外面は人目を引き付けるような華やかな美人ではないかもしれない。
だが、美しい。
その理由は彼女の持つ気品にこそあると思っていた。
彼女は、確かに、高潔だ。
その気品には時々圧倒されるものがある。
しかし、それは人の上に立つ者が持つそれではなかったと思う。
ひたむきな者が持つものだった。
例えば、尼や修道女が信仰対象に抱くようなひたむきさ。
彼女は極端に禁欲的で、他人に何も求めずに自己完結させるような性格だった。
それは気高い強さであり、おそらくは同時に、彼女の弱さでもあったはずだ。
ふと気が付いたら、彼女の姿を目で追っている自分がいた。
それは、時に教室の授業中に集中する彼女の横顔であったり。
一人で下校する彼女の寂しげな後姿であったり。
朝に友達と楽しそうに談笑しながら登校する彼女の笑顔だったり。
彼女の一挙手一投足に、嫉妬したり、不安になったり……。
彼女は俺の事を特別に意識したりなんてしていなかっただろうに。
彼女が好きだった。
でも、それはまだまだ本当の恋愛ですらない。
ひたすら一方的な片想い。
しょうがない。本当の恋愛ってものは、一人でやるものじゃないのだから。
自分と相手、その二人の心が同じじゃないと出来ないものなのだから。
あの頃、俺がやっていたのは片想いというには、少々、幼すぎたかもしれない。
だからこそ、俺の心は、自ら勝手に振り回されて、疲れてしまったのかもしれない。
彼女に振り向いてもらいたかったら、声を掛けて呼んでみればいいのに。
聞こえるまで何度も呼んでみれば良かったのに。
そんな勇気も持たないくせに、ただ、願っていたのだ。
彼女が、自分に、振り向いてくれることを。
その綺麗な笑顔を向けてくれることを。
しかし、結局は、怖くて想いを伝えることも、手を伸ばすことすらしていなかったけれど。
そんな臆病な初恋だった。
■
東京の大学に進んだ。
俺には走ることぐらいしか取柄がない。
高校時代に長距離で高校日本一の実績を築いたのを評価した人間が俺を推薦した。
だから、大学へ進学することになっただけだ。
周囲に駄々漏れだった初恋を手放して、やや荒んだ気持ちでいた俺は、何人かの女性と関係を持ち、乱れた生活を送りながらも、練習には真剣に励んだ。
それは意地だった。
レースに出場しては勝った。
俺には走ることぐらいしか取柄がなかった。
「――もしかして、井口?」
懐かしい人物と会ったのは、大学を卒業してすぐの四月一日のことだった。
新宿で、たまたま昼食に立ち寄った店。
知っている誰かに会うとは思っていなかった。
だから、話しかけてきた人物が誰かなんてとっさには判らなかった。
「――えっ、ええっと、どちら様ですか?」
「ぷっ」
いきなり、笑われた。
悪戯っぽく笑うその笑い方をどこかで見たことがあったような気がした。
「三井?」
「ぶっぶー。不正解です。大ハズレでーす」
「三井だろ」
「わたくし、真田真理子と申します」
「結婚……、したのか」
シンプルな結婚指輪を、ちょっと照れながら、しかし幸せそうに見せた懐かしい友人の姿に、素直に祝福してやりたい気持ちになった。
そして、気がついた。
気付いたら、いつのまにか、俺は自分の意志で結婚できる年齢になっていた。
三井真理子は、古い知り合いだ。
同じ高校を卒業した。
それほど親しかった訳ではないが、知らないというには薄情すぎる関係だ。
なにより、三井真理子は彼女の親友だった。
だからこそ、その姿は思い出深い。
彼女の、手広美幸の数少ない同姓の親友が、三井真理子だった。
あまり性格が似ていない二人の友情を昔は不思議に思ったものだった。
「おめでとう」と俺はいった。
「ありがとう」と三井はいった。
「結婚していたなんて知らなかったよ。しかし、三井でも結婚できるものなんだな」
「あんた、あいかわらず失礼だね。一応、あんたも結婚式には呼んでやろうと思っていたのに、住所も電話番号も知らなかったもんだから、招待できなかったんだよ。引っ越したんなら、連絡先ぐらい教えろっ」
「すまん」
「今、何をやってるの?」
「走っている」
「そういや、あんたは体育系の大学に行ったのよね。で、今はどこかの実業団ってとこか。凄いね、本当に。その道を進むなんて。力がなくちゃできないよ」
その頃には俺は陸上界では割と有名な存在になっていたけれど、陸上ひいてはスポーツ全般に全く興味のない三井のような人にとっては、やはり知られていないようだった。
「まあ、なんとか食べていけそうかな」
だから、そんな当たり障りのないことを答えた。
それから簡単に三井の近況を聞き、俺の事を話した。
その時は、あまり時間を取れなかったから、その日の夜に再び会う約束をして別れた。
彼女の事は聞かなかった。
聞けなかった、ともいう。
「これって、もしかして不倫かしら。いけない人妻なんてね。ドキドキ」
「ラーメンしか奢らないからな」
「ケチ」
夜は代々木でラーメンを食べた。
聞くと、ご両親に子供を預けてきたのだという。
そうやって、三井は、たまに新宿に遊びがてらの買い物に来るらしかった。
それがいけないことかどうかは判らないが、たしかに三井は母親の顔をしていた。
一人前の母親の顔を。
それが、やけに俺を感慨深くさせた。
「ねえ、何で訊かないの?」
「何を?」
三井が言おうとしていることをなんとなく察しながらも、俺は敢えてとぼけた。
「あいかわらず、臆病者だね。がっかりだよ」
大げさに溜息をつく三井。
やっぱりコイツは苦手だと思った瞬間だった。
あいかわらず、他人の気持ちにずかずか入り込むのだ。
不法侵入で訴えてやりたい。
「訊かないの?」
「――手広のことを、教えて欲しい」
「姫ちゃんなら、また、綺麗になった。それから、優しくなった気がするよ」
姫ちゃんとは、手広美幸の綽名に他ならない。
三井は彼女のことをそう呼んでいた。
そして、それは継続中なのだ。
「まだ、役所に勤めているのか?」
彼女は、高校時代に優秀な成績を収めていたのに、大学へ進学しなかった。
おそらく、彼女の出自が何らかの影響を与えているのだろうと思った。
彼女のことだ、親の金を湯水のように使って大学に遊びにいってる馬鹿共とは違って、一刻も早く社会人になることを望んだのかもしれない。
彼女は地元の役所に勤める予定だったはずだ。
当時、立派だと思ったものだ。
それから後は、知らない。
「うん、勤めているよ。元気に働いているよ」
「へえ、元気なんだ。君と同じように――、結婚した?」
さりげなく訊いたつもりだった。
冗談交じりに。
だが、三井には通用しなかったらしい。
冗談交じりの中に忍び込ませた本気に、三井は気付いたようだった。
しばらく会わなかったとはいえ、だてに長い付き合いじゃない。
そういうのは、やりづらい。
「していないよ」
真剣な表情で、三井は繰り返した。
「姫ちゃんは、結婚していない。私と違って」
「――そ、そうなんだ……」
「安心した?」
何も答えなかった。
その問いの答えは、おそらくは汚いものだから。
安心しなかったはずがないじゃないか――まだ、望みがあるのなら。
「結婚していようがいまいが、手広が幸せなら、それでいいさ」
「幸せなはずがないじゃない」
「どうして?」
「――あんたが、いないからね」
いきなり言われて、動揺した。
口に含んだ水が少し気管に入りそうになり、咳き込む。
三井は、そんな俺の様子を、面白そうに意地悪そうに見ていた。
「姫ちゃんって、頑固じゃない?」
「そうかもね」
「私が何度、男を紹介してもさ、迷惑そうにするのよね」
「――へ、へえ……」
そんな余計なことをしていたのか、三井め。
そう思って、それから、そんなことを思う自分の存在を発見し、ひどく動揺した。
まいった。
俺の気持ちは、昔からちっとも変わってないらしい。
そのことが、よく判った瞬間だった。
「――どうして……」
「ん?」
「どうして姫ちゃんと付き合わなかったの?」
「どうしてかな。どうしてだと思う?」
「姫ちゃんのこと、あんたは好きなのだと思っていた」
「そう見えた?」
そりゃあ、近しい人間から見たら、ばればれの好意だったろう。
「少なくとも、私にはそう見えたよ。でも、臆病者のあんたは告白にすら踏み切らなかった。自分からは言わないと決めていたのか、あるいは本当は好きではなかったのか」
俺は、その時、なぜか素直に答えた。
言わなくてはいけないような気がした。
「好きだったよ、ずっとずっと。今でも愛しているさ、誰よりも――でも、それだけじゃ、駄目だった」
告白した俺を、意地悪そうに見ながら、三井は呟いた。
「ホント、馬鹿だね」
「そうかい?」
「彼女は、今も待っているのに、あんたを」
俺は黙って、三井を見た。
三井は黙って、俺を見返した。
「こういうことを私が言うのも良くないかもしれないけどね、彼女は今も昔もあんたを好きだよ。ずっとね」
その言葉は、例え偽りだとしても、嬉しかった。
好きな人に、自分を好きになってもらえたなら――それは、たぶん、幸せなことだから。
「――そう、かな?」
「あんたは馬鹿で臆病者だ。彼女に気持ちを伝えるだけで。それだけで良かったのに」
「好きだからこそ、言えなかった言葉も、あるさ」
彼女に自分は相応しいだろうか。
あの気高い彼女に、自分ごときが。
「言い訳なんか聞きたくないね」
言い訳、か。
だから苦手なんだ、三井は。
そんなことを思った。
その感覚は、やはり、ちょっとどこか懐かしくて――少しだけ、笑ってしまった。
昔のように。
気が強いがどじな三井と、しっかり者だが人見知りの手広の二人組。
そんな懐かしい思い出が俺の中にまだ残っていた。
俺が、あの三井に励まされるなんて思わなかったけれど、心のどこかに納得する気持ちも潜んでいた。
「で? いつまで姫ちゃんを待たせるつもりなの? いい加減にしなよ」
「さあ、どうしようかな。こう見えても、迷っているんだ、色々と」
「――とか言って……、本当はもう気持ちなんかとっくに自分で判っていて……、あとはさ、誰かに背中を押して欲しいだけなんだよね」
「ああ。なにしろ、俺は臆病者らしいからね」
くくく、と可笑しさを堪えるように三井は口を歪めた。
目は笑っている。
「好きな人には幸せになってもらいたい。あんただって、そう思うでしょう?」
「ああ」
「だから、あんたは手広美幸を迎えに行くべきなんだ。彼女の幸せの為にも、ね」
「なあ」
「ん?」
「どうして、お前は俺にそんなことを言うんだ?」
「どうしてだと思う?」
「分からない」
「あんたが、初恋の人だから、よ」
「――えっ――、ええっ?」
驚いた俺に向かって。
「エイプリルフール……、なんてね」
三井はそう言って、笑った。
たしかに4月1日だ。
俺は笑えなかった。
笑えない冗談だった。
エイプリルフールには、笑い飛ばせるような、馬鹿げた悪戯や冗談が欲しいところだ。
つまるところ、最後にそっと俺の背中を押してくれたのは古い友人だった。
大切な友人だった。