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月が綺麗だから

月が綺麗だから、ラブストーリー、始めました。

「わたし、地べたを這いずり回るしか能がない生き物は、嫌い」


つまり、有希は人間が嫌いだった。

空を飛べないから。


窓の向こう、遥か彼方の空を見上げながら、そんな事を呟く有希に対して、俺は投げ掛けるべき言葉を持たなかった。


この娘は、母親似だ。


まだとても幼いはずなのに、時々、憂いを帯びた表情を浮かべるようになった。

その表情が母親そっくりだ。

自分に似なくて良かった、と素直にそう思う。


この娘の母親は美人だ。

そちらに似るべきなのだ。


「でも、お父さんのことは、嫌いじゃない――他の女のことを考えてなければ」


異様に鋭い。

そんなところも母親似だった。


有希が、俺の頬に手を伸ばす。

とても小さかったはずのその手は、いつの間にか、女性らしくなってきている。


「お父さんはね、よく私のことを見ているようで、見ていない時があるの。そんな時は、たいていお母さんのことを考えてる」

「まあな」


否定するつもりもなく、素直にそう認める。

そのまま、ぎゅっと頬を抓られた。


「デートの時は、ちゃんと相手の女性だけを想うべきよ。祐輔さん」

「抓られると、痛い」

「わたし、手加減するのがイマイチ、苦手なのよね」


そういうところは俺に似たらしい。

容赦のないところ。

似なくても良かったのに。


「そんなきつい性格じゃ、友達はなかなかできねえだろうな」


そこそこ可愛らしいウエイトレスがさっき運んできたコーヒーを口に含む。


不味い。救いようがない味だ。泥水のようだ。吐きたい。

でも、我慢する。

大人になるとは、たぶん、そういうことだ。

とにかく、我慢する。


「わたし、こう見えても人気者なのよね――主に、異性から」

「同性からは、あまり人気ねえのか。母親そっくりだな」

「女の子の世界は陰険でね、わたしの肌には合わないみたい」

「言い訳まで、母親そっくりだな」

「お母さんの事は、今はどうでもいいでしょう、祐輔さん」

「名前で呼ぶな。俺は日本人だ。父上と呼べ、大和撫子風に」

「イヤ」

「俺はそんな娘に育てた覚えはないんだが……」

「そもそも育ててないでしょう」

「ばれたか」


有希は呆れたように眉を可愛らしく顰め、何も言わなかった。


自分の顔を見られているのを感じながら、窓の外に視線を移し、不味いコーヒーを啜る。


窓ガラスの向こうに見える観覧車がゆっくりと回っている。

ジェットコースターやらメリーゴーランドやらも見えるが、人気は少ない。

どうやら遊園地に人が集まる時代ではないらしい。

思春期と、日本経済がバブルの絶頂だった頃が重なった者としては、その光景にちょっとした寂寥感を覚える。


そして、そうして感傷的になった分だけ、歳をとったような気分になるのだ。


「今度は、何処を走るの?」


有希がそんなことを訊ねてきた。

答えなんてだいたい見当が付いているくせに。


おそらくは俺から直接聞きたいが為にわざわざそんなことを聞く有希を、可愛いと思った。

この娘のことは、本当に気に入っている。


店内なのに有希は白っぽいダッフルコートを脱がずにピンク色の毛糸のマフラーだけを外している。

内側には、子供らしくフリルの付いたドレスシャツに細身のジーンズを着ている。

足元は、綺麗な新品のスニーカー。

長すぎず短すぎない肩までの長さの髪は、まとめずに、流している。

邪魔な前髪は、耳に掛けていた。


その風貌は、有希の母親を思い出させる。


さっき怒られたばかりのことを思い出し、視線を逸らした。

目の前の女性のことだけを考えることに集中しなくてはならない。


「東京」


不味いコーヒーに視線を落としながら、答えた。


「オリンピック選考レースね。じゃあ、しばらくは日本にいるのね」

「ああ」

「マラソンランナーとしてのキャリアで最後のオリンピックになるの?」


その質問は容赦がない。


何とも言えずに、曖昧に微笑んだ。

この娘は、選考会なんて当たり前のように勝つと思っているようだった。

でも、現実はいつだってそんなに甘くはないということを、大人ならば、皆、知っている。


年齢を考えれば、そろそろ潮時だった。

ランナーの強さには、三つの要素があると思っている。

大切な順に身体、精神、そして運だ。

そのいずれが足りなくても、やはり一流にはなれない。


歳をとれば身体が弱くなってくるのは当然だ。

怪我もある。

ぼろぼろの左膝を誤魔化しながら走ってきた。

しかし、そろそろ潮時なのだろう。


老兵去るべし。

陸上界には、いつだって若くて力強い風が吹くべきなのだ――かつての自分のような若い風こそが。


だから、何とも言えずに、曖昧に微笑んだ。


「わたし、応援しないよ?」

「今までだって、そうだっただろうが」

「地べたを這いずり回りながら、それでも必死に走る姿を、わたしは美しくないと思っているの。汗をだらだらと流して、顔を歪めながら、走る。ただ、醜いだけじゃない」


あいかわらず、手厳しい。

ランナーの娘の癖に、とりわけランナーの事が嫌いらしい。


「美しく走ろうと思って、走っているわけじゃないさ」

「――ねえ、どうして井口祐輔は走るの?」


何度そんなくだらない事を様々な人間から訊かれたことだろう。

その度に、仕方ないから、きわめて正直に芸のない答えを言うことにしている。


「月がとても綺麗だから」


彼女が呆れた感じに眉を顰めた。

その表情は母親にそっくりだ。


「意味、判らない」

「それはとても残念だ」

「だいたい、今は昼だし、月は見えないし……」

「そうか、じゃあ、次からは『好きだから』と言いたい時には、素直にそう言うよ」

「まるで告白みたいな台詞ね」

「そうかもな」


「お父さん、きっと以前にもそんな台詞を言ったことがあるでしょう」と言いながら、有希は確信しているようだった。


「きっと、お母さんにね」

すこしくたびれたお父さんをイメージして頂ければ。

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