三話 古書店のなぞ
変色し始めた木造の古書店は、その二つ名の通り、薄気味が悪い屋敷であった。
祖父が「黎堂」を経営してから三十年は経ったが、昔に屋敷で世話になった少年は、そこの本が実に売れないということを知っていた。
何故なら、古書店に置いてある本は全て「古すぎる」からだ。鎌倉の御伽絵本や江戸の赤本まで、どこで入手したのやらと突っ込みたくなるような本ばかりが本棚に揃っていた。古書店というより、この店はまるで骨董屋だ。
よってそんな本を買う客は当然、いたって少数であり、限られた常連客しか来ない。この古書店の収入はあまり理想的ではなかった。
少年は、店に足を踏み入れるより先に、今後のことを考え込んでしまう。
「ねえ、七唐」
心配そうに声をかけてきた主に、薄黄色の古書は心外そうに反応してきた。
「なんだい、主さま。あの叔母が言った一ヵ月後を今から心配しているのかい?」
「うん、まあそうかな」
「気にするでないよ、主さま」
やたら真剣な声で、古書は答える。そこには主を信頼している古書の気持ちが、言葉の内に含まれていた。
「我らの主さまならなんでも大丈夫だと、おいらは信じているよ」
「・・・うん。ありがとう、七唐」
照れくさそうに少年は笑った。しかしまた、すぐに思案顔に戻る。
「でも、僕はちゃんとおじいちゃんの店を継げられるのかな・・・。お金を貰う前に餓死しちゃうかもしれないよ」
「そりゃあ、気合でなんとかなるよ、主さま。水さえあえば、人間、生きていけるからね」
「・・・・・・潔く言いすぎだよ」
苦笑するほかない。古書は人の感覚がわからないからすっぱりと物事を言えるのだろう。
少年は時々、そのはっきりとした物言いをうらやましく思う。
「まあ、いいじゃないか、主さま。昔の古書仲間にも会えるだろうし、前向きに物事を考るといいね」
これからの心配事が絶えない少年に対して、古書はうきうきとした口調で話していた。
なぜならば、この古書、七唐はもともと、この屋敷に住んでいたからだ。
否、売り物として少年の祖父が店に出した古書であった。
少年が両親を亡くした前、この屋敷に遊びに来たときに、彼が祖父からもらった本であった。
言い換えれば、七唐という本は、少年にとっての祖父の唯一の形見でもあるのだ。
七唐はこのぼろ屋敷での古書仲間が多い。だから、これから仲間に会うのが楽しみで仕方がないのだろう。
「うん、心得とかもまだいるのかな?」
古書の弾んだ声を聞いて微笑んだ少年は、ふと思いついたように言った。七唐はその名を聞いて、更に舞い上がった様子だ。
「ああ、師匠かぁ!懐かしいなぁ。心配せずとも大丈夫だよ、主さま。師匠だけは永遠に売られない運命だからね」
「え、どういうこと?」
「あのお方はもうじき付喪神となる、偉いお方なんだ。偉いから、人に売れられたりなんかしないんだよ」
「あ、そういえば心得はもうじき百歳になるのかぁ。・・・っていうか、褒めてるのか貶してるのかよくわからない言い方だね、それ」
「なにを言う!もちろん褒めてるんだよ」
ぷうっという音がして、七唐が膨れたのが分かった。少年はただ笑って、言葉を続ける。
「はは、じゃあとりあえず、中に入ろうか」
言葉を切るのを合図に、彼は屋敷の入り口の門を開いた。
この屋敷の門はとても和風的な構造をしていて、木造の扉を横に引くという、まるでふすまを開くような、なんとも防犯機能に疎い扉である。
しかし幸い、ここは住んでいる人もそう多くはいないし、田舎だからか、この古書店近くで強盗や泥棒事件が発生したことはないに等しい。
この古書店も、こんなに脆い扉をしているのになんの問題も起こしていないのだ。
もしかしたら、泥棒をしようとする人が単に、古書店の外貌をお化け屋敷だと認識して近づけなかったのかもしれない。
それだけが、この屋敷の外貌のメリットだといえよう。
「お邪魔します」
重い焦げ茶色の扉を開ける。懐かしい思い出がいっぱい詰まっているんだろうなと、少し早まった気持ちで薄暗い屋敷の中に入る。
今はまだ昼だというのに、この屋敷は日の当たり所が悪いのか、あたりがきちんと見回せない。やはりお化け屋敷のようだと思わず苦笑が漏れる。
しかし、次の瞬間。
だんだんと視界が明るくなってきたのを境に、少年の目はまるで信じられないものを見たように見開かれた。
「こ・・・これって・・・・!」
★
「なっ・・・・・・どうなってるんだい、主さま!」
少年が抱きしめてる本、七唐が、やけに焦った声で質問を投げ出してきた。
しかし少年がこれを答えられるわけもない。質問された彼は、ただ呆然と目の前の情景を見ていた。
目の前の情景。それはまさしく酷く雑乱としたものだった。
一列一列と綺麗に並べられた本棚が全部崩れ、その中にある大量の古書が床に散らばっていたのだ。
古書は積み立てられて本の山のようになるや、棚の下敷きになるやとして、古書店の全体をそれで覆っていた。
「ど、どうして・・・」
混乱した頭で、彼が必死に出した言葉がそれだった。
祖父が亡くなり、一寸の間に誰もいなくなった古書店に誰かが侵入して、こんなことをやらかしたのだろうか。
これは単なる悪質ないたずらとはとても考えにくい。その雑乱さから見れば、明らかに悪意からしていることであった。
少年はその「悪意」を考えて、背筋が凍るのを感じた。
(一体誰がこんなことを・・・・・・)
あれこれと考え始めた少年。そんな彼に、七唐が不安そうな声で忠告した。
「あ、主さま!とりあえず古書のみんなを助けてくれよ!棚の下にいる奴なんか、つぶれて死んでしまうかもしれない!」
あ。
七唐の話を聞いて、少年ははっと我に帰った。
そうだ、荒らした相手が誰かなんてのは後だ。古書は人間と同じく、その身に魂を宿っている。本という物質が彼らの肉体なのだ。
本棚の下敷きになっている本は、人間と同じように苦しみもがく。現に、彼らの「声」が聞こえる少年は、その助けを求めるような声が沢山耳に入ってくるのを感じた。
『助けて・・・たすけておくれ・・・』
「そうだ、まずは助けなきゃ!!」
その声とともに、少年は慌しく散乱している古書たちの方へ駆け寄った。
見れば古書たちは思った以上に酷い有様になっていて、ページが破れたり、装丁がへし折られたりと、本来の姿を失くしてしまいそうな程に、痛々しい光景であった。
運動神経が悪い少年は、この重たそうな棚をどうやって持ち上げればいいのかと焦ってしまったが、やってみれば意外と本棚は軽かった。
棚の軽さに感謝しながら、彼らを押しつぶしている本棚を次々と持ち上げる。
棚から開放された古書たちは、助かったとほっと一息を付いた。かと思うと、彼らは本棚をあげていく少年にこう叫んだ。
「わ、我らよりも、先に心得殿を助けてくだされ!」
「え、心得って・・・!?」
先程話していた古書の名前ではないか。もしや心得も本棚の下敷きになっているのだろうか。
またしも混乱し始めた少年に、古書たちは「心得殿は一番奥の棚の下敷きになっているのでございます!」と彼を急かした。
言われるがままに一番奥の棚に駆け寄る。そこには前の棚の比にもなれないほどの本が山になっていて、人間でもその山に埋められるほどの大きさの山だった。
「師匠!?どこにいるんだい!?」
七唐の焦った声が、本棚に向けられる。しかし、今度は本棚からはなにも助けの声が聞こえない。
少年はまさか、と思いながら、恐る恐るとその本の山をどけ始めた。
古書・心得は他と違って、真っ黒な装丁をしているから一目でその存在を確認できる。
しかし、いつまでたってもその真っ黒な本は出てこなかった。代わりに、少年はもっと重大なものが埋まっているのに気づいたのだ。
「え、ちょ、人・・・・・!?」
驚かざるおえない事態だった。
確かに少年は、人でも埋めそうなくらいの高さの山だと思っていたが、まさか本当に人が埋まっていたなんて、夢にも思わなかったのだろう。
目の前で失神している人間――色白の青年に、少年は切羽詰った口調で声をかけた。
「だ、大丈夫ですか!?」
しかし、意識を失った青年が返事をするわけがない。慌てた少年は、唯一の頼りになる七唐に聞いた。
「七唐、どうしたらいい!?」
「わ、わからないよ、主さま!おいらもこんな経験初めてだ!しかも人間が出てくるなんてそんな・・・!!」
薄黄の古書も随分と混乱している様子であった。これじゃあ頼りになるどころか更に事態をややこしくしてしまいそうだ。
少年は焦りながらも、目の前に横たわるかすり傷だらけの青年を見た。
見たこともない顔だった。しかし、何処かであったような気がする。
よく見れば、青年の着ている服は真っ黒の着流しだった。襟元が胸元まで開いていて、本棚に潰されたときに傷だろうか、その所々に真新しい傷跡が刻まれている。
その傷跡に目を顰めながらも、少年は「お爺ちゃんがいたときの常連客かな?」と考えた。
この古書店の常連客は、店の品が常と離れているから少ないが、何故か美形の者が多い。
少年が彼を常連客だと思ってしまったのは、この青年が、一言で言えば美男だからだ。
色白な面長に、切れ長涼やかな眼元、鼻筋がすっと高く、町に出ればたちまち女に騒がれそうな男だ。
この者の服装に印象を受けたのだろうか、髷をしてなかったら江戸からタイムスリップしたような人だと、少年は後々、落ち着いた心でそう考えた。
数分後。やっとのことで頭を冷やした少年は、とりあえず、青年を二階の寝室に運ぶことにしたのだった。