二話 いつぞやの再会
―――黎堂依頼古書店。
それは、山梨の甲斐市、とある田舎の、極普通な古書店である。
店主は家鳴三郎さぶろうというご老人で、つい最近に他界したばかりだ。
老人は古書が大好きで、好き過ぎるあまりに、自分の屋敷を古書店にしてしまったほど、古書に人生を注いでいた人間であった。
よって、この古書店は老人の唯一の財産と言えよう。しかし当の屋敷は年季が入ったもので、大きいだけが取り柄の、正におんぼろ屋敷と言ったような家である。
この財産を子孫に継がせたとて、欲しがる人はまずいないだろうし、こんなぼろ屋敷を売っぱらっても金はあまり入らないわけだ。しかし、三郎の死後、親戚たちの関心は誰もがあの金にならない屋敷にいった。
何故だろうか。全く不思議でたまらない。
他者から見れば、そう思うに違いないだろう。しかし、彼らが屋敷を心配する理由は、明確にあったのである。
実は、この屋敷には妙な噂が流れていた。
三郎が古書店を開く前から流れていた噂で、開いてから噂がさらに広まった、というような具合だ。
曰く、この屋敷は人でない者の声が、まっ昼間から幾多なく聞こえるそうだ。
それも、女の声から男の声、はたまた赤子の声まで、聞こえてくる声は様々だという。
屋敷の近くに住まう人々は、それを妖怪の仕業ではないかと疑った。
屋敷には妖が住み着いているのでは、と。
親戚たちは屋敷に妖怪が住むことにより、この方面のことに興味のある輩に売りたいと思っているのだ。
その方が、普通の人に売るより高く値がつけられる。それに、不気味な屋敷を早く売りたいという思いが、親戚たちの中にはあったのだろう。
とにかく、その噂はこの屋敷の見た目で相乗効果となり、近所では知らぬ人はいない、と言う程に信憑性の高い噂となっていた。
故に、彼らはこの屋敷のことを古書店の名では呼ばずに、こう呼んだ。
―――――「妖怪古書屋敷」と。
★
「はぁ、はぁ・・・・・・つ、疲れたよ・・・」
春の麗かな日差しの下。
水彩で描いたような色とりどりの花の小道を、弱々しい足取りで進んでいく一人がみえる。
少年は、その両手に一冊を大事に抱えながら歩いていた。
「何を言う、主さま。まだ歩き始めて十分も経っちゃあいないだろうに」
古書から呆れた声が聞こえてくる。突っ込まれた少年は、少し不満げに眉を寄せた。
「七唐だって知ってるくせに・・・僕、運動音痴なんだよ」
「それでも、十分歩いただけで息が上がる運動音痴はおいらの知る限り、主さまだけやんすよ」
「うっ・・・、仕方がないじゃないか」
少年が気まずそうにそう言う。すると突然足を止め、ふんわりとした茶髪を風になびかせながら、彼は前方に見えた小さな屋敷を見据えた。
「屋敷が見えてきたね」
そう呟きながら、憂鬱そうにため息を一つ漏らす。
屋敷には必ず、親戚の一人や二人、酷ければ全員が集合して少年を出迎えるかもしれない。その際にどんな悪口を浴びさせられるのか・・・はたまたどんな嫌がらせをされるのか、と考えると、彼は気が気でなかった。
少年は分かっていた。自分は親戚から嫌われている存在だと。原因も大体の見当が付いていた。
亡き祖父、三郎が、自分を異常なほどまでに溺愛していたからだ。
祖父の娘、つまりは少年の母が、家の誰よりも優秀であったためか、それとも少年が、親戚たちの生んだ子供の中で唯一の男であったからか、それはわからない。
祖父の全ての愛情は少年にささげたと言っても過言ではなかった。彼は、あの世へ旅立つまでの全身全霊を少年にあげたのだ。
少年ほどの愛情を貰っていなかった親戚にとっては、これは面白い話ではなかったにちがいない。
そう。一言で言えば、彼らは嫉妬しているのである。
何故こんな孤児にこれほどの愛情を捧げるのかと、皆不満であったのだ。
だから彼らは、少年と会うたびに嫌がらせをしてきたり、古書店の跡取りなんぞ無理だと言ってくる。
精神が弱い少年は、いつも彼らの嫌味で小さく縮まってしまう。少年は親戚たちが大の苦手だった。
その中にも、とりわけ苦手な人物がいる。
へとへとになった体を引きずりながらも、少年は屋敷の近くへやってきた。
目の前には相変わらずの大きなぼろ屋敷。小さいころからよく遊びに来ている家だけれども、四畳半に住み慣れた故にか、彼は「大きいなぁ」と感嘆の声を漏らした。
「そりゃあ、あんな狭い部屋に住んでいるあんたからみればデカイもんでしょ」
背後から突然、声がかかってきた。その声に、少年の体がぎくりと硬直する。
それは己が良く見知った声であった。そして、少年が最も聞きたくない人物の声でもある。
振り返る勇気がない。・・・でも、振り返らなければ失礼だ。
そう思いながらも、ぎぎぎ、という効果音が付きそうな速度で、少年は背後にいる人物を見た。
視線の先には、一人の化粧の濃い女。三十路を越えたばかりに見えて、キャリアウーマンが着るようなシャツを身にまとい、その下は純白のロングスカートを穿いている。なんとも奇妙な衣装の組み合わせ。
その特徴とも言える服装を目にした少年は、さあー、と顔が青ざめるのを感じた。
「み、美和おばさん・・・・・・」
必死に搾り出したような震えた声音で、少年がその女の名を言う。
美和と呼ばれた女は、少年の怯えように鼻を一つ鳴らし、言葉を続けた。
「久しぶりだね、坊や。しばらく会わないうちにまた随分と生意気な顔になったこと」
「ご・・・ごめんなさい・・・」
少年は必死に謝っている。それを見た淡黄色の古書は、一般の人間である美和に自分の声が届かないことを承知して、「怯えるな、主さま!言い返せやーー!」と、騒いでいる。
しかしその主さまが言い返せるはずもない。なにせ主さまは、優柔不断で内気な方なのだから。
こんな強気な叔母に主さまが勝てるはずがないと、七唐は分かっていた。しかし、自分の主が縮まるのは歯痒くて見ていられないものなのだ。せめて声援ぐらいしよう、と思ったわけである。
家鳴美和。この方こそが、少年が最も苦手とする親戚だ。亡き母の妹でもあり、祖父の娘でもある女。
気が弱い少年とは正反対な性格をしているため、二人の相性は最悪だといっていい。
そんな彼らにとって、今日の対面は二年ぶりの再会になる。
少年は両親を亡くしてからすぐに、祖父によってこの屋敷に引き取られたのだ。小学一年生のころのことだった。
美和は祖父の娘であるから、休日になるとたまたま屋敷に戻っては、幼き少年を苛めていた。
勿論、古書が命、孫が第二の祖父にその現場を見つけられると、美和はこっ酷く叱られたのだが。
たぶん、自分の父に叱られる度に、彼女の少年に対する嫉妬心が増していったのだろう。
そして、それから七年後。律儀な少年は、祖父の屋敷にずっと置かされているのを申し訳なく思ったのか、十四になってから、東京の四畳半に住むことに決心したのだ。
しかし、幼きころの記憶が原因で、今も少年は叔母の美和に対抗することができない。
「・・・どうして、お父様はあなたに古書店を継げと言ったのかしらね」
開口一番、彼女は現在親戚たちが最も心配していることを言い始めた。
その言葉に、少年の肩がびくりと揺れる。
「親戚たちは皆、私が継ぐべきだと言ってくれてるの。お父様のように古書を愛してる私が一番、継ぐのに相応しいってね。なのに何故、坊や、おまえなの?おまえは大して古書が好きじゃあないんでしょ?」
美和の瞳が怒りに燃えている。少年は突如に思い出した。
(そうだ・・・。叔母さんは親戚の皆と違って、純粋におじいちゃんの古書店を継ぎたい人なんだ)
親戚たちは皆、古書店を早く売り払って金を作ろうと考えている。だからこんなにも三郎の古書店に目が行っているのだ。
あそこは妖怪屋敷と呼ばれているが、なんだかんだ言って、所在している位置も自然が豊かでいいし、屋敷もぼろいが大きい。一時的な金儲けは期待できるだろう。
しかし、この叔母は違った。
彼女は本気でこの古書店を継ごうと思っているのだ。
祖父にも負けないぐらいの古書好きな彼女は、なんとしてでも少年から店主の座を奪い取りたいと思っていた。
「美和おばさん・・・ぼ、僕は古書が好きです・・・」
強い意志を据えた美和の瞳に、おずおずと少年が反論した。しかし、そんな弱々しい異議に、美和はぴくりともしない。
逆になにかを思いついたように、にやりと口角をあげたのだ。
「そういえば、あんたは昔っから奇妙な子だったよねぇ。本と会話できるとか、そんなバレバレな嘘なんかついたりして。
気味が悪かったわ~」
少年の肩がぎくりと震え上がる。手に抱えていた古書、七唐を更に抱きしめて、彼は黙り込んだ。
それをなんと判断したのか、美和は乾いた笑い声を上げる。
そして、実に愉快そうに言った。
「知ってる?お父様はね、最期の日に私に言ってくれたのよ。もし坊や、あなたが古書店をちゃんと経営できなかったら、店は私に任せたってね」
「そ、それってもしかして・・・・・・」
「そう。あなたがちゃんとこの店を運営できなかったら、この店は私のものになるってことよ」
言い終えて、彼女は滑稽な笑顔をあらわにした。少年はまるで、蛇に睨まれた蛙のように体がすくんで動かなくなってしまう。この叔母がこのような満面の笑みをするときは必ずなにかがあるのだ。
そう思い、警戒していた少年だが、思いのほかに美和はくるりと踵を返し、少年が今歩いてきた道に足を向けた。
「え・・・?」
思わず、戸惑い気味な声を出してしまう。しかし彼女は案の定、なにかを企んでいたらしく、帰る前に一言を残していった。
「もし一ヵ月後、売り上げがなかったら、この店は私のものになるから」
一瞬、何も言えなくなった。
少年は祖父の古書店に依存しているわけではない。本来ならば美和がほしければ、彼女にすっぱりとあげてしまいたいいぐらいだ。
しかし、少年はなぜかそうはしなかった。それは祖父の遺言に仕方がなく従ったのではなく、彼は何故か店を彼女に譲りたくないと思い始めていた。
(なんだか、僕らしくない考え方だな)
自分の考えに思わず苦笑する。離れていく叔母の背中を複雑な思いで見つめながら、ほどなくして、彼は目的の古書店へと踵を返した。