≪晴れた空の下で≫
―――あ……。ちょっと、ダメかも……。
都内の大学に向かう電車の中で貧血を起こし始め、私の視界が徐々に暗くなる。
身体はもともと丈夫な方ではないが今朝は割りと調子もよかったし、それにすっごくいい天気だから、散歩がてらについ電車で行くことにしたのだが。
―――こんなことなら妙に張り切らないで、大学まで親に車で送ってもらえばよかった。
『風邪が治ったばかりなんだから、電車は止めたら?』
出かける間際に投げかけられた母親の言葉が、耳の奥で木霊する。
―――お母さんの言うとおりだ。
今更ながらに後悔するが、時すでに遅し。
それでも倒れるわけにはいかないから必死で自分に喝を入れるものの、そんなものは何の効果もなく、貧血は悪化する一方。
朝の8時過ぎの電車内は、通学と通勤の人たちでそこそこ混んでいる。
そんな中で私が倒れたら、周りの人に迷惑がかかってしまうのは確実だ。
―――もう少しで駅に着く。それまで頑張れば……。
冷たくなってきた指先をギュッと手の内に握り締め、懸命に耐えた。
しかし視界はチカチカと点滅し始め、脚の力が抜けていくのを感じる。
視線を車窓の外に向ければ、駅前に広がる商店街が見えてきた。
―――あ、あと、ちょっと……。
まだ春遠い二月。車内はエアコンが効いていて程よく温かいが、私の手は完全に体温を失っていた。
額には脂汗が滲み、さっきまでうっすら見えていた周りの人たちの顔に薄暗い霞みがかかる。
―――もう、ダメだ……。
グラリと頭が大きく傾いで、前方に身体が倒れていく。
その時、力強い腕と広い胸に抱きとめられた。
―――だ、れ……?
知り合いがいないはずの車内。自分を支えてくれる人物には、全く心当たりがなかった。
男の人だってことは分かる。
スーツを着ていて、私よりもだいぶ背の高い人だってことも分かる。
でも、それ以外は分からない。
だけど、守るように肩に回された腕が凄く優しくて、とても温かくて。
私は結構な人見知りなのに、なぜか安心してしまった。
―――いったい、誰?
もう一度心の中で問いかけると、頭の上から声がした。
「怪しい者じゃない。まぁ、いきなりこんなことをしておいて説得力ないだろうが」
凄く小さな声なのに、私の耳にはきちんと届く。
その声は意思の薄れる中で聞いても、低くて魅力的だった。
「駅に着くまで支えていてやるから、俺に寄りかかれ」
話しかけてくるその人に対して何か言わなくてはと思うものの、声も出せないほど具合の悪くなってしまった私は、ゆっくりと頷くのが精一杯。
それでもその人は私が聞こえていることを分かってくれたらしく、ホッと安心したように息を吐いたのだった。
正面から抱きとめられ、その人の肩口におでこを預けて揺られること5分。電車はホームに滑り込んだ。
「一人で降りられるか?」
たった5分で回復できるはずもないが、この人だって会社に行かなくてはならないだろうし、いつまでもこうして面倒をかけていては申し訳ない。
「だ、大丈夫……です」
俯いたまま何とか言葉にする。
「ありが……と、ござい……まし、た」
声なのか息なのか区別が付かないほどの声音で弱々しく言うと、その人がわずかに苦笑した。
「ちっとも大丈夫そうには見えないな。俺も一緒に降りるから、少しだけ我慢してくれるか?」
―――我慢?何を?
クラクラする頭でそう思った時、その人は自分の右側に私を立たせ、そして右腕で私の肩を抱き寄せた。
「初対面の俺にくっつかれるのは不快だろうが、ベンチまでの辛抱だから」
まるで仲のいい恋人同士のように、ピタリと寄り添う私たち。でも、それはその人が懸念するような不快感はない。
「遠慮なく俺に体重かけていい。でも、脚は動かしてくれ」
言われるがままに大きなその人に身体を預け、前に進むことだけに集中した。
しかし必死に頑張って脚に力を入れるけれど、じれったいほど前に出ない。まるで亀が歩くような進み具合だ。
それでも、その人は辛抱強く私の歩調に合わせてくれていた。
「ごめ、んなさ……い」
あまりの遅さに情けなく思っていると、少し崩れ落ちた体勢の私をグッと抱えなおしてくれる。
「無理するな」
短くぶっきらぼうな言い方なのに、私にはすごく優しいものに思えた。
一番近くにあるベンチに誘導され、その人に腕をとられながら私は腰を下ろす。
「すいま……せん、助かり……ました」
私は目の前に立つその人にお礼を言った。失礼とは思うが、俯いたままで。
できることならその人の顔を見て言いたかったけれど、眩暈がまだ治まらず、顔を上げるのがつらかったのだ。
そんな私を黙って見ていたその人が、『ちょっと待っていろ』と、一言残して足早に立ち去った。
程なくして戻ってきたかと思えば、手の中に紙コップを握らされる。
それはレモンティーだった。
「身体の中が温まれば少しは落ち着くはずだ」
そう言ったその人は、私の隣に座った。
私は少しだけ首を左に傾けてお礼を言う。
「ありがとうございます……」
ゆっくりとお辞儀をしてから、紙カップに口を付けた。
爽やかなレモンの香りが気持ちをすっきりさせてくれる。
湯気立ち上るレモンティーを一口、また、一口と飲んで、ホゥッと息を吐いた。
「少しは落ち着いたか?」
横からの声に、私は頷く。
「はい、だいぶ楽になりました。もう少し休めば歩けそうです」
「ならよかった」
心底安心したその人の声に、今度こそ顔を見てお礼を言わなくてはと、身体を左に向けた。
そこにいたのは私より10歳くらい年上に見える男の人で、すごく落ち着いた雰囲気を纏っていた。
ちょっと硬そうな濃いこげ茶の髪は、固まらないタイプのワックスで後ろにザッと流してある。
髪と同色の眉は意志の強さを表すようにキリッとしていて、髪よりもやや色の深い瞳は切れ長の二重に縁取られていた。
高過ぎず、それでいて低過ぎない鼻。
厚みのない唇は、眉と同じようにキリッと結ばれていた。
その風貌から一見すると威圧感があって怖い人に思えたが、見ず知らずの私を助けてくれたのだから、きっといい人なのだろう。
カッコいい部類に入るその人は、濃紺のスーツに身を包んでいる。
―――会社員、だよね?
その人がまったく焦っていなかったから私も深く考えていなかったが、仕事に行かないとマズイのではないだろうか。
貧血とは別の意味で私の顔が青くなる。
「あ、あのっ。私ならもう大丈夫です。だから、会社に行ってください。遅刻させちゃってごめんなさいっ」
ぺこぺこ頭を下げれば、パッと肩を掴まれた。
「そんなに頭を動かしたら、また貧血起こすぞ」
「は……、はい」
慌ててピタリと動きを止めた私に、その人はプッと噴出す。
「素直でよろしい。……ああ、そうだ。今日は10時に営業先に回ってから出社することになっているから、時間の事は気にしなくていい」
その言葉に私は肩の力が抜けた。
あれこれ迷惑をかけた上に遅刻させてしまっては、申し訳なさ過ぎる。
「それならよかったです」
私の言葉に、その人はちょっとだけ恥ずかしそうに指先で鼻の頭をかいた。
「本当は後1時間遅くてもよかったんだが、あまりにもいい天気でね。たまには空でも眺めるかと、早目に家を出たんだ。晴れた空を見ると、それだけで得した気にならないか?」
同じように感じていたその人の言葉が嬉しくて、私の顔がパァッと明るくなった。
「その気持ち、よく分かります。たいていは大学まで親に送ってもらうんですけど、今日は青空の下を歩きたいなって」
弾む声の私とは対照的に、その人の顔が少しだけ曇る。
「親に送ってもらうって?どこか怪我でもしてるのか?」
「あ、その、怪我はしてません。もともと身体が丈夫ではないから、それで……」
困ったように笑えば、その人は『そうか』と短く言って、それ以上は訊いてこなかった。
私がこういう話をすれば、大抵の人が『原因は?』、『なんていう病気?』、『どんな治療してるの?』と、根掘り葉掘り尋ねてくる。
心配してくれる気持ちは分かるが、私としては、正直放っておいてほしいのだ。この人のように。
初めて会って、初めて言葉を交わしたのに、この人の隣は妙に居心地がよくて、思わず微笑んでしまう。
「何だ?面白いものでも見えたか?」
突然頬を緩めた私に、その人は不思議そうに首を傾げた。
「い、いえ、別に」
慌てて手を小さく振れば、
「本当に?」
と訝しがられる。
「本当です。嘘なんか言ってません」
ジッと私の目を見ていたその人が、フッと肩の力を抜いた。
「ならいいが。先週の月曜日、朝から大事な会議があるのに遅刻しそうになってね……」
そう言った彼が、また鼻の頭を長い指でかきながら話し始める。
「大急ぎで顔を洗って着替えて家を飛び出したんだが、旋毛のあたりに寝癖がついたままで。俺の髪って硬いから、寝癖ってなかなか直らないんだ」
「ああ、そんな感じですね」
真っ直ぐでサラサラしていそうだけど、柔らかそうには見えない。
「で、会社のトイレで鏡を見た時、思わず唖然としたよ。まるで鬼太郎の妖怪アンテナみたいに、ピンとなっててさ。このまま電車に乗ってきた自分の姿を思い浮かべると、顔から火が出そうだった」
―――大人の男の人が、そんな可愛らしい寝癖を付けて、それに気付かず電車に乗ったなんて。
その人が指でつまんだ髪をピッと真上に引っ張ったのを見て、私は吹き出してしまった。
「ご、ごめんなさい。笑ったりして」
急いで口元を押さえる。
だけど、その人は機嫌を損ねることなく、
「笑えるくらい回復してよかったな」
と、耳に心地よい声で優しく言ってくれた。
それから暫くその人と話をして、紅茶を飲んでいるうちに眩暈が治まった。
「今日はありがとうございました。本当に、もう大丈夫です」
「無理はするなよ。じゃ、俺は行くから」
軽く右手を挙げて、その人はホームにやって来た電車に乗り込んだ。
あの人に言われたように無理はせず、ゆっくり大学に向かう。
もともと早めに家を出たので、のんびり歩いても講義には十分間に合うのだ。
駅から大学へと歩いていると、聞き慣れた声で後ろから名前を呼ばれた。
「実果子、おはよっ」
元気な挨拶をくれたのは、同じ3年生の利緒。
私とは違って、超が付くほど健康的だ。
何に対しても積極的で物怖じせず、そして心が広く優しい彼女は、私の親友であるが姉のような存在でもある。
スラリと背が高く、大人びた顔立ちと引き締まった四肢は、まるでショーモデルのようだ。
高い位置で結ばれた長い黒髪は、私が憧れる天然のストレート。
反対に私は明るい茶色にカラーリングした髪が肩の下まで伸びていて、少し癖のあるその髪がフワフワと風に揺れている。
目鼻立ちは同年代の友達に比べると、幼いと思う。周りからは『子猫みたい』と、よく言われていた。
身長も体重も、標準にはやや達していない。病弱というほどではないが、健康的とはけして言えない。
利緒はそんな私の保護者だ。
会うと、真っ先に体調を気にかけてくれるのが彼女の日課。
「風邪、治ってよかったね。でも、まだ顔色がよくないよ」
並んで歩く彼女は、私の顔を覗きこんで心配そうに言った。
利緒に隠し事なんて無駄なことだと、この3年間で身にしみている私は、今までの出来事を正直に話す。
「うん。実はさっき、電車の中で貧血起こしちゃってね」
「電車の中で?!倒れて怪我しなかった?」
途端に顔色を変えて、利緒が私の頭や腕を触って確かめてきた。
一通り触って無事を確認した彼女に、私はニコッと微笑んだ。
「倒れなかったよ。親切な人がいてね、倒れかかった私を支えてくれたんだ」
支えてくれて、紅茶を買ってくれて、そして、青空の話をした。
短い時間だったけれど、いい人だって分かった。
ところが、利緒は眉をひそめる。
「それって、体のいい痴漢なんじゃない?」
その言葉に、ムッとなった。
「そんなことないよ!」
とっさに言い返す私。
そんな人じゃない。
あの人は、そういうことに付け入るような、卑怯な人じゃない。
今日初めて会って、少しの時間話しただけのあの人を、悪く言われるのはすごく嫌だった。
「どうしたの?そんなにムキになって」
いきなり感情を荒げた私に、利緒がキョトンとする。
我に返った私は、わざとらしく腕時計に視線を落とした。
「べ、別に、なんでもないよ。ほら、急ごう。いい席、埋まっちゃうよ!」
「ちょっと!走って大丈夫なの!?」
駆け出した私の後を追って、利緒も走り出した。
今日は午前中に1コマ。午後に2コマの講義を受け、授業は終了。
この後バイトがある利緒と大学の門のところで別れた私は、駅に向かいながら朝の出来事を思い返していた。
「世の中、冷たい人が増えたって言うけど、いい人っているんだな」
見ず知らずの私を助けてくれるなんて、世の中捨てたものじゃない。
うん、うん、と頷きながら、あることを思い出して私の足が止まる。
「……紅茶のお金、払ってなかった」
当たり前のように紙カップを差し出されて、何気なく世間話をして、さり気なく去っていったあの人。
今の今まで、すっかり忘れていた。
社会人のあの人にとって、自販機の紅茶1杯くらいどうってことのない出費だろうが、私としてはそのまま流してしまうことが出来ない性分なのだ。
「何かお礼しなくちゃ」
話の中で、通勤には毎日あの電車を使うと言っていた。
―――タイミングが合えば、また近いうちに会えるかもしれないよね。
私は近くにあるショッピングセンターに向かうことにした。
学校帰りに買い込んだのは、クッキーの材料。
品物を買ってお礼に渡そうと思ったものの、何を選んでいいのか分からず、グルグルとショッピングセンターを歩き回る。
結局いいプレゼントが見つからず、お菓子作りが趣味の私は得意なクッキーを作ることにした。
持ち運びにも不都合はないし、甘さを控えれば男の人でも食べられるだろうし。
「さてと、始めますか」
エプロンをキュッと結んで、私は腕まくりをした。
何枚か焼いたうち、特に良く出来たクッキーだけを取り分け、青い透明フィルムで出来た袋に入れる。
そして、真っ白なリボンで口を結んだ。
色のコントラストが、まるで晴れ渡る青空のよう。
「食べてくれるといいな」
チョンとリボンをつつくと、横からお母さんが覗き込んでくる。
「随分楽しそうね」
「ひゃぁっ」
気配に気付かなかった私は、変な声を上げてしまった。
「あらあら、そんなに驚くこと?」
「い、い、いきなり話しかけられたら、普通は驚くでしょ!」
口を尖らせる私に、ニコニコ(というよりニヤニヤ)と微笑むお母さん。
「ところで、それ、誰に渡すの?そのラッピングからすると、男の人よねぇ?」
これ以上見られたくなくて、クッキーを背中に隠す。
「だ、誰だっていいじゃない。別に、たいした意味なんてないもん。ちょっと迷惑かけた人に、お礼するだけなの!じゃ、私、部屋に行くからっ」
クッキーが入った包みを抱えてバタバタと部屋に向かう私に、お母さんは、
「もうすぐ夕飯だから、すぐに降りてらっしゃいね~」
と楽しそうに声をかけた。
翌朝。
お母さんに散々からかわれたクッキーを手ごろな紙袋に入れて、電車に乗った。
今日は貧血起こすわけにはいかないので、夕べは念のために早めに寝たし、朝ごはんもしっかり食べてきた。水分もきちんと補給した。
「このくらいの時間の電車に乗るって、昨日言ってたよね」
今日は午前中の講義がなく、時間に余裕があるのでゆっくり探せる。
とりあえず一通り車内を見回すが、あの人の姿はまだなかった。
―――私より、あとから乗り込んでくるのかな?
人を掻き分け、扉付近の位置をキープする。
そして、駅に着くたびにホームに目を向けた。
しかし、何駅進んでも、あの人を見つけることが出来なかった。
―――今日は、会議とかで早く出社したのかもね。
幸いクッキーは日持ちするので、2、3日中に渡せれば、美味しく食べてもらえるだろう。
明日は会えるといいなと願い、私は大学へと向かった。
ところが、私の願いは叶うことなく、次の日の朝も、その次の朝も、あの人には会えなかった。
講義の後、教授の手伝いをしていたら6時を過ぎてしまった。
すっかり陽がくれた中、トボトボと駅に向かう私。
「明日の朝会えなかったら、利緒と一緒に食べようかな……」
俯き加減で電車に乗り込んだら、後ろからポン、と肩を叩かれる。
「え?」
反射的に振り返れば、そこにはあの人が立っていた。
今日はこの前と違って、少し明るいグレーのスーツ。でも、全身から発せられる威圧感は変わっていない。
―――そういえば、帰宅ラッシュの車内だというのに、この人の周りには人が少ないような。
明らかに皆が彼を避けているようだが、私は不思議と怖いとは思わなかった。
無表情に近いその人が、少し背をかがめて私の顔を覗く。
「どうした?また、具合悪いのか?」
顔つきはそのままだけど視線は心配そうに私を見遣る彼に、私はブンブンと横に首を振る。
「だ、だ、大丈夫です。今日は元気ですっ」
「本当?」
「本当ですっ」
今度は縦にガクンガクンと首を振る。
「分かった、分かった。そんなに首を振ったら取れるぞ」
クスクスと笑うその人に、今度は頭をポンと叩かれた。
車両の奥まったところに進み、私とその人は並んで腰を下ろす。
そして、この3日間持ち歩いていた紙袋をおずおずと彼に差しだした。
「何?」
驚いたように私の顔と紙袋を交互に見ているその人に、頭を下げた。
「この前のお礼です」
「そんなこと、気にしなくてよかったのに」
「でも、紅茶のお金、払ってませんし」
やんわりと押し戻してくるその人の手に、軽く袋を押し付けた。
「あの程度の金額で、わざわざ礼を用意してくれるなんて。かえって悪いことしたな」
「悪くないです。だから、受け取ってください」
引っ込める気皆無の私に、その人は困ったように笑って受け取ってくれた。
「じゃ、遠慮なく。中、見てもいいか?」
「は、はい」
その人は紙袋の口を広げて、覗き込む。
「クッキーだ。もしかして、君の手作り?」
「はい。お菓子作るのが好きなので」
と、言ったところで、私はものすごい勢いで後悔し始めた。
―――もっと気の利いたものにすればよかった。それより、知り合いでもなんでもない私が作ったお菓子なんて、気持ち悪いんじゃない?
「あ、あ、あの、気持ち悪かったら捨ててください」
渡したばかりのクッキーを捨てろと言い出す意味不明な私の言葉に、その人は首を捻る。
「どうして?」
「だ、だ、だって、ちょっと顔見知りになったくらいの私が作ったお菓子なんて、食べたくないかと……。だから、無理に食べなくてもいいですから」
―――ああ、失敗した。どうせ食べ物なら、買ったものにすればよかった。
どんより顔を曇らせる私に、その人は予想外の言葉を口にする。
「……呪いでもかけたのか?」
「しませんよ、そんなこと!」
ガバリと顔を上げて否定する私に、その人はフッと小さく笑った。
「なら、問題ないだろ。ありがたく頂戴するよ」
「で、でも、迷惑じゃないですか?渡しておいて今更ですけど、お菓子とか苦手じゃないですか?一応、甘さは控えめに作りましたけど」
不安一杯に私が話しかければ、彼がごく僅かに目を細める。
「それが……、甘いもの大好物なんだよ、俺。洋菓子も和菓子も何でも食べるし、コンビニの新作スイーツチェックは欠かさない」
「え?」
―――いかにも大人のこの人が、甘いもの好き?
それは私に気を遣って言ってくれたのかもしれない。やっぱり大人の人は、対応がスマートだ。
そう感心していたら、彼は通勤カバンの中を見せてくれた。内ポケットには、板チョコとキャラメルと小さなお饅頭が。
「え?え?」
私の視線が、カバンの中とその人の顔を忙しなく行き来する。
「俺が甘いもの食べるのは意外?」
悪戯が見つかった子供のように、その人はバツの悪い顔になった。
「男のクセに、変だと思うか?」
「ええと、確かに外見からすれば意外過ぎてびっくりしましたが、変だとは思いません」
そうきっぱりと言ってのけた。
私の言葉は自分が考えていたものと違ったのか、その人の片眉がヒョイッと上がる。
「本当にそう思う?」
「思います!男の人でも、甘いもの好きだっていいじゃないですか!美味しいものは美味しいんです。“美味しい”は正義です!男の人とか、女に人とか関係ありません!」
―――って、私、何興奮してんだろ!?
「ご、ご、ごめんなさい。大きな声を出して」
いつの間にか空いていた車内には私たちの他に人はおらず、幸いにも、周りから変な目で見られることはなかった。
シュンとしょげ返って内心息を吐く私に、その人は優しい口調で話し出した。
「いや、そう言ってもらえて嬉しかった。俺の周りの連中は、みんな辛党でね。以前一度だけ会社の飲み会の締めにアイス食ったんだが、みんなして俺を冷たい目で見るんだよ」
私より年上で、スーツが似合う大人のこの人がアイスを食べる光景は、想像しただけでちょっとおかしいけれど、それが変だとは思えない。
むしろ微笑ましくって、できる事ならぜひ見てみたいものだ。
「今は雑誌やテレビでスイーツ男子特集が組まれてますし、気にすることないと思います。好きなものを食べた方がいいですよ」
私がそう言うと、よく見ないと分からないくらいほんの僅かにその人が頬を緩ませる。
「それを聞いて、凄く安心した。……ところで、今から時間はあるか?」
「時間、ですか?」
突然の話題転換に、キョトンとなる私。
「今朝から、どうしても寿屋の塩ちゃんこが食べたくてな。だが、そこは1人の客を取らないんだ。こんな日に限って友人は誰も捕まらなくて困ってたんだよ。奢るから、一緒に来てくれないか?」
「え?」
突然のお誘いに、私は固まった。
―――ど、ど、どうしよう!男の人と一緒にご飯なんて食べたことないよ!
うろたえる私へ、畳み掛けるようにその人が頭を下げた。
「俺を助けると思って」
かなり真剣な目で私にお願いしてくる。
「え、えっと……」
どうやって断ろうかと頭を巡らせたその時、私のお腹がク~と鳴った。
―――うわぁ、恥ずかしい!
私は両手でお腹を押さえる。
その様子を、その人は味方を得たとのごとく嬉しそうに小さく笑う。
「ほら、君のお腹が“了解”だって」
「い、いえ、そんなはずないですっ」
と言ったところで、再びク~、キュルルルと音が響く。
―――いやぁぁぁ!穴があったら入りたい!むしろ、自分で穴掘って埋まりたい!
何も言えず、真っ赤になって俯いていると、ポンと頭を叩かれる。
「ほら、行くぞ。俺の腹も鳴りそうだ」
「……はい」
小さな声で返事をしたら、もう一度ポンッと頭を叩かれた。
連れてこられたお店は学生同士で来るには恐れ多いが、かといって有名割烹店ほど堅苦しさはない。
出迎えてくれた仲居さんは、薄茶のハーフコートにブラックデニム地のレギンスといったこの場にあまり似つかわしくない服装の私にも穏やかに対応してくれた。
ゆったりと流れる琴の演奏も、心を落ち着かせるもの。
が、私の心臓はハンパない速さで動いていた。
男の人と2人きりで食事をするという経験は、これまで父親と3歳上の従兄弟以外にない。
高校生の頃には仲のいい男友達はいたけれど、いつでも男女5、6人で行動していた。
ちなみに、彼氏はいない。人見知りが祟って、今もいないし、今までもいない。
なんとなく『この人いいな』と意識して、向こうも私のことを気にかけてくれているのが分かるけれど、交際に発展させるほどの勇気はお互いになく、結局“お友達”に納まっているというポジションの人はいる。
その人とも、2人だけで出かけたことはなかった。
つまり、身内以外でこういったシチュエーションを迎えたことが一度たりともないのだ。
―――神様!これは私の心臓を鍛えるための、何がしかの試練なのですか!
そんな私が、世間一般的に見てもなかなかにイケメンの人と個室で鍋をつつくなんて、誰が想像し得たであろうか。
―――うわぁん、緊張するよぅ!
掘りごたつになっている席に座って、丈の長いセーターの裾をつかんでモジモジする私。
目の前にある箸にすら手を伸ばそうとしない私に、正面に座った彼が首を傾げた。
「塩ちゃんこ、嫌いだったか?」
「ち、違います。ちょっと、緊張しちゃって……」
正直に話せば、その人も困ったように笑って話し出した。
「俺も緊張してるよ。ちゃんこが食いたいがために女の子を強引に誘ったりして、結構ドキドキしてる」
そう言うが、目の前の彼は何事もないように鍋に具材を入れている。
「そんな風には見えませんよ。大人の風格って感じで、落ち着いてるじゃないですか」
私の言葉に、その人は軽く肩をすくめた。
「それは見栄って奴だよ。女の子の前でかっこつけたいという、男の悲しい性」
「へぇ、そういうものですか?」
初めて男の人と2人きりになった私は、男性の心理というものをやはり初めて知った。
私みたいな子供にも一応緊張してくれているのが、ちょっと感動。
私の視線の先では大きな手が不器用に動いて、鶏肉のつみれ団子を鍋に落とした。
大きさがまちまちの団子をポトン、ポトンと浮かべながら、その人は話を続ける。
「そういうもんだ。それと、この前、支えるためとはいえ君の肩に触れたりしただろ?いつ、痴漢として訴えられるかというのも気になっていてね。それもあって緊張してる」
オーバーに怯えて見せるその人の様子がおかしくて、私はクスッと笑ってしまった。
お陰で緊張が解れる。
「訴えたりしません。私は恩を仇で返すような、薄情者ではありませんから」
あの時、この人がいてくれて本当に助かったのだ。
一人ではとても対処できず、きっと周りの人にすごい迷惑をかけたことになっていただろう。
改めて頭を下げて、『ありがとうございました』と述べると、フゥ、とその人が息を吐いた。
「よかった。人助けのつもりが痴漢だと思われたら、立ち直れないところだったよ」
「……あの、実は、友達には“本当は痴漢なんじゃないの?”って言われまして」
私が口を開くと、その人は切れ長の目を見開いた。
その目を静かに見返す。
「でも、私はそんなこと、ぜんぜん思いませんでしたよ」
「どうして?」
鍋に野菜を追加していたその人が、一度落とした視線を上げて私を見る。
「そう訊かれると答えに困るんですけど。えと、触り方に下心を感じなかったと言いますか。そんな感じです。それに……」
「それに?」
「青空が好きな人に、悪い人はいないと思うんです」
何の根拠もないけれど、この人にいたっては、そのことに当てはまる気がするのだ。
妙な自信を持って告げれば、おかしそうにその人が声を上げて笑った。
「ははっ。漠然とした言い方だが、君が言うとなんだか説得力があるな」
「そうですか?とにかく、私は感謝こそすれ、訴えることなんてしませんから。安心してくださいね」
「分かった。さて、そろそろ食べないと、煮詰まるぞ」
「はい、いただきます」
私はさっきとは打って変わったにこやかな表情で、自分の箸を取り上げた。
顔見知り程度の私を誘ってまで食べたかったという塩ちゃんこは、ものすごく美味しかった。
あっさりとした出汁は鶏ガラがベースで、鰹節と昆布がちょうどいい割合に加えられている。
そんな美味しい出汁を吸った鶏肉だんごは絶品で、箸が止まらなかった。
野菜もお豆腐も、締めの雑炊も、何もかもが本当に美味しかったのだ。
「ふわぁ、お腹一杯ですぅ」
追加した鶏肉だんごも野菜も綺麗に食べつくし、私は満足げにお腹を擦った。
「君が気持ちよく食べてくれるから、何度も食ってるのにいつもより旨く感じたよ」
目を細めて、その人はほうじ茶を飲んでいる。
私も香ばしいほうじ茶の入った湯飲みを手に取った。
「遠慮しないでパクついちゃって、恥ずかしいです」
店に入ったときの緊張は何処に行ったのやら。私は彼が取り分けてくれるままに、口に運んだ。
困り顔で照れる私に、その人はフッと微笑む。
「恥ずかしがることはないさ。これだけ旨そうに食べてくれるなら、もっともっと食べさせてやりたくなるな」
「そうですか?たくさん食べる女の子って、行儀悪くないですか?」
普通なら、『女のクセにガツガツ食べるな』って言われそうなのだが。
しかし、その人は首を横に振る。
「君は箸の使い方も食事中のマナーも、見ていて気持ちよかった。どれだけ食べても行儀が悪いなんて、ちっとも感じなかったさ」
「本当に?」
「ああ」
私の問に、その人は大きく肯定してくれた。
「会社の付き合いでよくあるんだが、せっかくこっちがご馳走してるのに、体重を気にして箸をつけない女性が結構多くてな」
ゴクリとお茶を飲んだその人が、やれやれといった体で息をつく。
「体調が優れなかったり、持病が理由で医者から制限されている場合は仕方がないが、“太りたくないから”と言って断るほうが、よほどマナーが悪いと思うな。金を出す上司や取引先に失礼だろ」
そういう見方があるのかと、私は小さく頷く。
「それならよかったです。私は基本的には小食ですけど、体調がいい時には、友達がびっくりするほどけっこう食べますし。こう見えて、実は気にしてたんですよ」
ニコッと笑って、私はほど良く冷めたお茶を飲んだ。
「食べることって大事なんですよね。私は体力に自信がないから、特にそう思います」
私の言葉に同意したように、その人が首を縦に振る。
「そうだな。沢山食べることは悪いことではないのに、若い女性はやたらに小食をアピールするだろ。そういうのはどうも苦手だし、それがか弱いとか、可愛いとは思えないんだよ。出された料理を美味しそうに食べる方がよほど魅力的だ」
湯飲みをテーブルに置いたその人は、すっかり綺麗になった鍋を見て満足そうだった。
「世の中にはそう言ってくれる人もいることが分かったので、これからも安心して食べることにします」
自分のお腹をポンと叩いた私に、その人が優しい目を向ける。
「いいことだ。若いうちはドンドン食べろ」
しみじみ言われた言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「あははっ。なんか、年寄りくさいですよ、その言い方」
「だが、俺は君より確実に年寄りだろ」
「でも、年寄りって言うほど年上には見えませんけど」
「そうか?27だぞ」
「えっ?私の6歳上ですか?」
サラリと告げられた年齢に、ちょっと驚く。
私の反応に、ほんの少しだけその人が悲しそうになった。
「思っていたより年上か?」
「いえ。その逆で、思っていたより若いなぁって。あまりにも落ち着いているので、35は超えているかと……」
「う~ん。それは喜んでいいのか、微妙だな」
苦く笑うその人に、私はまた声をあげて笑ってしまったのだった。
食事も終わったことだし、そろそろ帰るのかなと思っていたら、彼がおもむろにメニューを開いた。
「ところで、デザートは?」
「流石に入りませんよ。別腹も使い果たした感じです」
お茶を飲んで暫くたつのに、まだお腹が苦しい。
「なら、注文入れなくていいか」
その人はパタンとメニューを閉じてしまった。
「いいんですか?甘いもの、食べたいんじゃないですか?」
飲み会の時、最後は必ず食べると言っていたことを思い出してそう水を向ければ、
「店のデザートより、今はこっちが食いたい」
と、私が渡した紙袋を持ち上げて軽く揺すった。
「本当は飲食店でこんなことしたらいけないんだが、旨そうだから一枚だけ。仲居さんには内緒にしてくれ」
「いいですけど。でも、美味しいかどうか食べてみないと、分からないですよ」
「匂いからして旨そうだから大丈夫だろ。じゃ、頂きます」
軽く手を合わせたその人は、クッキーに噛り付いた。
自分で食べても美味しかったし、このクッキーは何度も作って利緒からも褒められているから、一応自信はある。
それでもドキドキして、反応を窺う私。
―――気に入ってもらえるといいなぁ。
初めの一口を嚥下したその人が、スッと目を細めた。
「うん。思ったとおり、旨いよ」
「よかったぁ」
教授にレポート提出する時よりも緊張していた私は 詰めていた息を一気に吐き出す。
「好みも訊かずにアーモンドとチョコチップを入れてしまいましたが、大丈夫ですか?」
「ああ、全然問題ない。その組み合わせは好物だからな」
その言葉はお世辞ではなかったようで、あっという間にクッキーを食べ終えた。
そして、1枚だけと言ったにも拘らず、それから更に2枚がその人のお腹に納まったのだった。
会計を済ませた私たちは、穏やかな仲居さんに見送られて店を出た。
「塩ちゃんこも無事に食ったし、旨いクッキーも食ったし、今日の夕飯は大満足だよ」
「私も大満足です。クッキーを渡すだけだったのに、こんなに美味しい夕飯を頂いてしまって、すいません」
「気にするな。俺から誘ったんだから」
「でも……」
紅茶に続いて奢ってもらったのは、やっぱり申し訳ない。
割り勘といわなくても少しくらいはと、お財布を取り出したのだが、この人は絶対にお金を受け取ってくれなかった。
「そうだ。悪いと思うなら、これに付き合ってくれるか?」
差し出されたのは、今週の日曜日まで都内の有名ホテルで開催されている有名なスイーツビュッフェのチラシだった。
「ずっと気になっていたものの、男一人だと入りづらくてな。とはいえ、男数人で行っても、それはそれで入りづらいし、そもそも同僚達や友人は誘うつもりはなかったし。……週末に君の都合が付けばの話だが」
さっきまで堂々としていた彼が、やや恥ずかしそうに申し出るのは逆に好感が持てる。
―――私もこのビュッフェが気になっていたから、ちょうどいいや。こういう所はお客さんが沢山いるし、二人きりってこともなくて緊張しないしね。
さほど悩まずに、私は快諾した。
「土曜日なら大丈夫です」
そう返事をすれば、彼の顔は嬉しそうに綻ぶ。心底、甘いものが好きなようだ。
「それなら途中、電車で乗り合わせていこうか。……あ」
何かに気付いたように、突然その人が押し黙る。
「どうかしました?」
「君の名前を訊いていなかった」
「そう言えば、私もあなたの名前を知りません」
これまで不都合がなかったから、言われるまで分からなかった。
「お互い名前を知らないのに、会話が成立していたからちっとも気にならなかったよ」
「そうですね」
苦笑いするその人に、私も苦笑いで返す。
「じゃ、改めて。俺は谷岡 秀介」
「野田 実果子です」
向き合ってお辞儀をして、姿勢を直して目を合わせた時、どちらともなく笑みが零れる。
「念のために連絡先を交換したいんだが、いいかな」
「はい、いいですよ」
利緒がこの場にいたら『ろくに知りもしない人に電話番号教えるなんて、馬鹿じゃないの!?』と怒られそうだが、やっぱり私にはこの人が悪い人だとは思えない。
それぞれの携帯にお互いの連絡先を登録する。
「何か用事が入ったら、遠慮なく断ってくれ」
「谷岡さんも、その時は連絡ください」
「いや。俺は何があっても行く」
やけに力の篭った返事に吹き出した。
「ふふっ。じゃ、私も何があっても行きます」
普段なら絶対に知り合うことがなかったであろう私たちが、こうしてスイーツビュッフェに出かける予定を入れるなんて、人生って分からないものだなと、しみじみ感じたのだった。
土曜日の朝。
休みともなればお昼までベッドでゴロゴロしているのだが、今日は学校に行くよりも早く目が覚めてしまった。
「楽しみだなぁ」
鏡の前でウキウキと着替え始める。
この日のために用意した服は、柔らかいクリーム色の無地で出来たゆったりタイプのAラインワンピース。
ウエスト部分にかなり余裕があり、食べる気満々の私にとって、ぴったりの戦闘服だ。
「何個のケーキが食べられるかなぁ」
壁にかけられた時計は9時を少し過ぎたところ。
もっと遅くに家を出ても待ち合わせの10時半には余裕で間に合うが、年下の私が谷岡さんを待たせるのは失礼だろう。
バッグへ携帯電話とお財布、化粧ポーチなどを詰め込んで部屋を出る。
「お母さん、出かけてくるね」
玄関に降りた私は、歩きやすい編み上げブーツを履きながら、リビングにいる母親に声をかけた。
「随分早いじゃない。あと40分は余裕あるでしょうに」
「土、日の新宿方面は混むからね。ギリギリに行って、電車に乗れなかったら困るもん」
「まぁ、そうね。それにしても……」
出てきた母親が上から下まで私の格好を眺めている。
「なに?」
「色気がないなと思って。なぁに?そのダボッとしたワンピースは」
「これからスイーツビュッフェに行くんだよ。お腹が苦しかったら、沢山食べられないじゃん」
当たり前の答えを返せば、お母さんがため息をついた。
「それにしたって……。もっと可愛らしい服にすればいいじゃない」
「いいでしょ、別に。じゃ、いってきまぁす」
あれこれうるさい母親の話に付き合っていたら遅刻してしまう。
私は持っていたコートを羽織り、急いで家を飛び出した。
待ち合わせは下平駅のホーム。
私が貧血を起こして降りた駅の2つ手前の駅だ。そこから谷岡さんは電車に乗り込んでくる。
ホームに入ってきた電車は、思っていたよりも人が少なかった。
空席は沢山あったが、下平に着いてすぐ降りられるように私は扉の左側に立つ。
電車が動き出し、流れる外の景色に目をやっていた時、不意に大きなガラスに映った自分の姿に目がいった。
―――そんなに、この服おかしいのかなぁ。
食べ放題に行くのに、ピチッとした服を着て行くほうがおかしいと思うのだが。
それに、色気なんて必要ないだろう。今日必要なのは食い気なのだから。
「お母さん、何か勘違いしてるんだろうなぁ」
クッキーの時といい、今日といい、私に彼氏が出来たのだと思っているのだろう。
「谷岡さんは、スイーツ大好き仲間ってだけなんだけど」
家に帰って母親にあれこれ余計な詮索をされることを考えると、せっかくの楽しい気分が半減されたように思えた。
間もなくして下平駅に電車が到着する。
「どの辺にいるんだろう」
速度を落としてホームに入る電車の窓から、様子を伺う。
すると、すぐに谷岡さんが見つかった。
ベロア素材の黒のジャケットの中は、オフホワイトのVネックカットソー。
洗いざらしな感じのジーンズに、すっきりとした濃茶のショートブーツが良く似合っている。
背が高い彼はスタイルがよくて、誰よりも目立っていたのだ。
車内の私に気付いた谷岡さんが、私に小さく手を振って近付いてきた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
見慣れない私服姿にちょっとドキドキする。
ペコリと頭を下げれば、改めて自分の服装に目が行った。
いかにも“大人です”といった谷岡さんの隣に並ぶには、あまりに子供じみている。
俯いたまま顔を上げない私に、いぶかしげな声がかかった。
「どうしたんだ?」
「いや、その、私の格好、子供っぽいなぁって。それに、あんまり可愛くないですし」
地味なワンピースの裾をそっと掴む。
―――いくら食い気全開でも、もう少し気を遣えばよかったかなぁ。
そう気落ちする私に、谷岡さんは穏やかに言う。
「そうか?そのフワッとした形がいいと思うが」
「そうでしょうか?」
「ああ。優しい感じが、実果子ちゃんのふわふわの髪によく合ってる」
そう言われた途端、心臓がバクンと跳ねた。
―――おおぅ。名前、呼ばれちゃったよ!
初めて目にした私服の谷岡さん。
洋服が褒められたこと。
どちらもドキドキしたが、名前を呼ばれたことが一番ドキドキした。
同じゼミの男の子達には『野田さん』か『野田』と呼ばれているから。
―――男の人に、初めて『実果子ちゃん』って言われたぁ。しかも、すっごい良い声で。
変なことに感動していたら、電車が動き出した。
構えていなかった私の身体が、ガクンと傾く。
「ひゃぁっ」
いきなり後ろに引かれた感じで仰け反れば、パッと左手首が掴まれた。
「ボンヤリしてると危ないぞ」
「は、はい。気をつけます」
「立ってると危ないから座るか。幸い席は空いてるし」
そう言って、谷岡さんがシートへと歩き出す。私の手首を掴んだまま。
私が再び倒れないようにという心遣いなのだろうが、骨ばった大きな手の存在は更に私の心拍数を上げる。
塩ちゃんこ個室試練に続く第二段だ。
―――か、か、か、神様!これでは心臓が鍛えられる前に、破裂してしまいます!
彼氏と付き合ったことのない私にとって、身内以外の異性にこういったことをされるのは慣れていないのだ。
なのに、谷岡さんはいつもどおりの表情。
「ここでいいか」
と、短く言って腰を下ろした。
「座らないのか?」
手首をクイッと引かれて、慌てて私も座る。
腰を下ろした私に安心したのか、ここでようやく手首が開放された。
「空いててよかったな」
「そ、そうですね」
隣の谷岡さんに気づかれないように、ゆっくり息を吐いた。
―――いくら慣れてないからって、子供みたいで恥ずかしいよね。もっと、落ち着かなくちゃ。
谷岡さんは何も意識していないのに、一人でパニックになって馬鹿みたいだ。
何度か深呼吸をするうちに、ようやく心臓が大人しくなる。
私がもう一度、ハフゥと息を吐いたところで谷岡さんが話しかけてきた。
「それにしても、随分手首が細いな」
しげしげと眺めては、そう呟く。
「言うほど細くはないと思いますけど」
「いや、細いって。あんまり細いから、握り潰すかと思った」
「握り潰す?!」
サラリと告げるその内容に驚く私。
「どれだけ握力あるんですか!」
「ん~。大人になって測ることが無くなったから、正式な数値は分からないな。だが、片手で林檎は潰せる」
それを聞いて、いつだったか、テレビで見た筋骨隆々のプロレスラーがグシャリと林檎を握りつぶしていた光景を思い出した。
谷岡さんはいい体格をしているが、そのプロレスラーに比べたらずっと細い。
「嘘だぁ。本当ですか?」
疑わしげな目を向ければ、
「本当だよ、ほら」
ニヤリと笑った谷岡さんが、おもむろに右手で私の頭を鷲掴みにしてきた。
彼も本気ではないだろうが、それでもギリギリと頭が締め付けられる。
「いっ!?いたっ、痛いです!分かりました、信じます!信じますから、止めてください!」
反泣きで訴えれば、彼は満足そうに手を離した。
「素直でよろしい」
いつか聞いたセリフと共に彼が頷く。
「あぁ、びっくりしたぁ」
崩れた髪を手櫛で直す私に、クスクスと笑う谷岡さん。
「何するんですか。私が怪我したら、今日のスイーツビュッフェ行きは中止ですよ?」
笑い続ける彼を恨めしく睨めば、ようやく少しだけ笑いを収めてくれた。
「それは困るな」
「でしょ?だから、手首とか頭を握り潰さないでくださいね。分かりましたか?」
「はい、分かりました。以後気をつけます」
わざとらしく神妙な面持ちになった谷岡さんに、私は
「素直でよろしい」
と、さっき彼が言ったセリフを返した。
訪れたビュッフェはやはり女の人たちばかりだ。
付き合っている彼女と一緒に来ている彼氏の姿もチラホラと見えるが、それでもお客の9割以上は女の人。
確かに、こんな中に谷岡さん一人では入れないだろう。
でも、今日は私という心強い(?)味方がいるのだ。
「さ、行きましょう」
開店してまだ間もないというのに、すでに女性客で賑わう店内へと私たちは足を踏み入れた。
二人用のテーブルを確保してから、私たちはそれぞれ席を立った。
お互いが好きなスイーツ目指して店内を歩き回る。
10分ほどして席に戻ると、谷岡さんも戻ってきた。皿から零れそうなほどケーキを載せて。
「ものすごい量ですね……」
私の皿にも6種類のケーキ類が載っているが、彼の皿にはその倍。
「何度も取りに行くのは面倒だし、それに、ここのスイーツはくどくないから、いくらでも食える。ほら、実果子ちゃんも早く食べた方がいい。制限時間なんてあっという間だぞ」
「あ、そうですね」
私もフォークを手に取り、彼に倣って食べ始めた。
美味しいスイーツに舌鼓を打ちながら、お互いに色々な話をした。
谷岡さんは名前に聞き覚えのある出版者の社員さんで、雑誌編集部のチーフだとか。
仕事は主に原稿の取りまとめをしているとか。
2年前から下平駅の近くで一人暮らしを始めたとか。
中学から大学3年までバスケットをしていて、でも、膝を壊してプロになるのは断念したらしい。膝の手術を済ませた今では、日常生活に支障はないとか。
下に妹2人、弟1人という4人兄弟の長男だとか。
私も自分のことを話した。
都内の某大学の3年生で、心理学を専攻しているということ。
運動は得意ではないが、ゆっくりジョギングするのは結構好きだということ。
勝気な姉と甘えん坊な妹にはさまれた次女だということ。
谷岡さんは口数が多いとは言えず、私もそれほどおしゃべりではなかったが、けっこう会話は続いた。
美味しいケーキに楽しい会話。こんなに充実した休日は久々、いや、初めてかもしれない。
止まることなく口も手も動かしていると、谷岡さんがまじまじと私を見てきた。
「実果子ちゃん。君は俺のこと、怖がらないんだな」
「はい?」
キョトンとする私に、彼が苦笑する。
「俺は上背もあるし、目つきは悪いし、話し方もぞんざいだ。だから、会社では女性社員はもちろん、男の後輩にも怖がられることもよくある。だが君は怯えた様子も無い」
彼の正面に位置する席に座っている私は、切れ長の鋭い目を向けられても恐怖は感じていなかった。
「そうですね、怖いとは思ってませんよ。まぁ、本当のこと言えば、初めはちょっと怖かったです。私よりずっとずっと背は高いし、ダークカラーのスーツは威圧感ありまくりでしたし。……でも、今は平気です」
「なぜ?」
そう訊かれて、答えに詰まる。
私は瞬きを何度か繰り返した後、口を開いた。
「う~ん。前にも言いましたけど、青空が好きな人に悪い人はいないから、ですかね。それと、声が優しいです。確かに口調は少し乱暴ですし、迫力ある低音ですし。だけど、具合の悪い私を心配してくれた声は、凄く優しかったです。今もこうして話している谷岡さんの声は、私には優しく聞こえます」
「そうか……」
曇っていた彼の表情がほんの少し緩んだ。
でも、まだ何か気にかかっていることがあるらしい。
私は紅茶を飲みながら、谷岡さんが口を開くのを待つ。
暫くして、テーブルの上で組んだ手を握ったり開いたりしていた彼が、その動きを止めて淡々と話し出した。
「……周りの人間が言うんだ。俺が甘いものを好んで食べる姿は、イメージとはかけ離れ過ぎて変だ、と。中には“気持ち悪い”とまで言う者もいる。そのことがずっと気になっていてな。最近では、周りからのイメージを裏切る自分に向けられる視線に少し疲れてきたんだ。ま、いちいち気にするなんて、くだらないとは思うんがな」
谷岡さんがソッと微笑む。
だけど、どう見ても笑顔とは言えない。苦しそうで、悲しそうだった。
私は手にしていた紅茶のカップを、静かにソーサーに戻す。
「あのですね、“イメージを裏切る”と言えば悪い印象を受けますが、今は同義でいい表現があるんですよ」
「いい表現?」
私はニッコリ笑って、こう言った。
「はい、“ギャップ萌え”です」
「…………は?」
私の言葉に、谷岡さんが目を大きくする。
「ギャップ萌えですよ、ギャップ萌え。ギャップも萌えも、意味は分かりますよね?」
「ん、あ、あぁ。分かるが……」
鳩が豆鉄砲で撃たれたような、呆気にとられた顔の谷岡さん。
その顔を見ながら、ニコニコと話を続ける私。
「男らしくて大人の谷岡さんが実は大の甘党だなんて、それこそ意外です。でもその意外性が魅力なんですよ。それが、ギャップ萌えです!」
自信満々に言い切る私に、谷岡さんがおずおずと口を開く。
「魅力、なのか?」
「そうです。万人に通用するとは言い切れませんが、女性は本来ギャップに弱いんです。そのうち、谷岡さんのそんな姿にハートを鷲掴みされちゃう女性が続々現れるかもしれませんよ。……ファンクラブとか出来たりして」
クスクス笑って言えば、谷岡さんも笑ってくれる。
「ははっ。いくらなんでも、ファンクラブはありえないだろ」
声を上げて笑う彼の顔は、もう悲しそうではなかった。
「まったく、6歳も下の君に励まされるなんてな」
クツクツと笑い続ける谷岡さんに、私は急いで頭を下げた。
「ごめんなさいっ。生意気でしたね、私」
「いや。そういう意味で言ったんじゃない」
笑いを治めた彼が、目を細めて首を小さく横に振った。
「ありがとう。すごく気が楽になったよ」
普段の無表情がすっかり崩れた谷岡さんは、晴れ晴れとした笑顔を見せてくれたのだった。
「実果子ちゃんと知り合えてよかった。これからも一緒に出かけてくれるか?」
「はい、いいですよ。でも、自分が食べた分は支払います」
そう申し出れば、すぐさま谷岡さんが口を開く。
「遠慮するな。俺の都合で連れ出してるんだし」
それに対して、私もすぐに言い返した。
「たまにはご馳走になるかもしれませんが、毎回奢ってもらうのはどうも気が引けてしまって。そうなると、全力で食べられないんですよ」
私の正直な言葉に、谷岡さんの肩が震えだす。
「あははっ。実果子ちゃんはいいキャラクターだなぁ。分かった。君の可能な範囲で支払ってもらおう」
谷岡さんが一応は納得してくれたことにホッとしたが、私は別のことが気になってしまった。
「あ、あ、あのっ。あまり高いお店には誘わないでくださいね?」
大学生の私が支払える学なんて、たかが知れているのだ。
社会人でチーフの谷岡さんは、使えるお金が私の何倍もあるだろう。
そんな彼に付き合って食べ歩いていては、財布がいくつあっても足りないに違いない。
とっさにそう考えてお願いすれば、谷岡さんは『心配するな』と言ってくれる。
「その時は俺が払うさ。何しろ大切な協力者様だからな。これからもよろしく」
「は、はい。よろしくお願いします」
スッと差し出された大きな手を、ちょっとドキドキしながら握り返した。
この日を境に、谷岡さんと定期的に出かけるようになった。
1週間から10日に1度は約束して出かけ、その他にも学校帰りに偶然鉢合わせて夕食(もちろんデザート込み)を食べに行ったり。
頻繁に会うことはないが、途絶えることもない。
そんな感じで時は過ぎ、私は大学4年生になった。
卒業単位はクリアしているので、卒論ゼミや興味のある講義にだけ出席している私が偶然谷岡さんに会う機会は格段に減った。
それでも、月に2回はデザートビュッフェや、谷岡さんおすすめのレストランに出かけたりしている。
そして、普段はお勧めのスイーツ情報をメールでやり取り。
学食で早めのお昼を食べていると、午後から講義のある利緒がやってきた。
「ちゃんと食べてる?」
彼女は私の前に置かれたトレイに目を向ける。
今日の私は、春キャベツが沢山入ったクリームパスタをチョイスした。そのパスタが、もうすぐ完食されるところだ。
「よしよし、食欲があるのはいいことだ」
満足そうに私の頭を撫でる利緒。
「やっぱり、食事は大事だもんね」
ニコリと笑って、私は側に置いていたシュークリームの包みに手を伸ばす。
これはコンビニスイーツの中で、特にイチ押しだ、と谷岡さんから教えてもらったもの。
パクリ、とかじりつけば、綺麗に焼きあがった皮の中から苺ムースとカスタードクリームが口の中に広がる。
―――うん、美味しい。流石、おすすめするだけの事はあるよ。
モグモグと口を動かす私を、利緒がニコニコと見ている。
「実果子、楽しそうな顔するのが増えたね」
「そう?」
「ここ2ヶ月くらいは特に。どっぷり落ち込むこともなくなったしさ」
利緒の言う“どっぷり落ち込む”というのは、けして大げさな表現ではない。
私は時折心が凄く弱くなって、自暴自棄になったり、逆に無気力になったり、周りをよく心配させていた。
今でも落ち込んだりすることはあるけれど、以前のように何日も部屋から出てこないということはなくなった。
「うん、そうだね」
「いい傾向だよ。……もしかして、好きな人でも出来た?」
ニマニマしながら私を見る利緒に、即答する。
「違います~。でも、結構充実した生活を送ってるよ」
「本当に違うの?」
「残念ながらね。ほら、早く食べないと、そのうどん伸びちゃうよ」
私は空になったシュークリームの包みを小さく畳んで、ギュッと手の中に折り込む。
そう。私にとって、谷岡さんはそんなんじゃない。
そんなんじゃ、ない。
6月に入り、雨の日が続くようになる。
今日の講義を終えた私は、重いため息をついてから傘を広げた。
―――早く、梅雨が明ければいいのに。
晴れた日が大好きな私にとって、雨の日は憂鬱でしかない。
しかも湿気の多い日はクセのある髪の毛が広がってしまい、フワフワと落ち着かなくて困る。
「そんなに空を睨んだって、雨は止まないよ?」
隣に立つ利緒が苦笑している。
「私だって実果子と同じで晴れの日が好きだけど、雨も大切なんだよ。夏場に水不足になったら困るでしょ?」
毎年繰り返される利緒の言葉。
「それは分かってるよ。でもさ、もう5日も雨なんだよ。いい加減、晴れてほしい。雨の日ってすっごいつまんないんだもん」
唇を尖らせて言い返せば、苦笑を深める利緒。
「実果子、大学1年の時とぜんぜん変わってないね。小学生みたいなセリフも相変わらずだし」
「いいでしょ、別に。私はとにかく青空が見たいの!」
「はいはい。そんなに言うなら、照る照る坊主をつるしておけば?」
「3日前から既にやってる」
「……あんたって、ホント子供みたいだわ」
利緒が呆れたように、ポツリと呟いた。
駅で利緒と別れ、私は電車に乗り込んだ。
窓ガラスの外側では、いくつもの雨粒が伝って流れ落ちている。
―――いい加減、晴れてくれないかなぁ。
動く水滴を眺めていたら、ポンと肩を叩かれた。
「え?」
振り返ると、谷岡さんが立っていた。
「どうした、暗い顔して」
「あ、いえ、なんでもないです」
そう言って、慌ててふてくされた顔を隠す。
「珍しいですね、こんな時間に」
「今日は思ったより仕事が捗ったんだ。そうだ、良かったら、ちょっと早いがこれから夕飯食わないか?この前、いい手打ち蕎麦の店を見つけたんだよ。旨い物を食べれば、鬱屈とした気もなくなるさ」
麺類全般が好きな私は、谷岡さんの言葉でちょっと元気が出た。
「はい、行きます」
「じゃ、次の駅で降りるぞ」
私の頭をポンポンと叩いて、彼がやんわりと微笑んだ。
下平の1つ前の駅に降り、路地裏へ入ったところにそのお蕎麦屋さんはあった。
古い建物で、壁や柱には沢山の傷。
でも、辺りを漂う出汁の香りがとてもいい匂い。
「隠れた名店って感じですね」
小さなテーブル席に、谷岡さんと向かい合わせで腰を下ろした私が店内に視線を巡らせてしみじみ言った。
私の言葉に、谷岡さんは嬉しそうに頷く。
「何の気なしに入った店だが、想像以上に旨かったんだよ。それに、そば粉のクレープがまた絶品」
「そば粉でクレープですか?」
「日本ではあまり馴染みがないから、意外に思えるがな。ガレットと言って最近ではカフェでも食えるぞ。ただそれはデザートではなく食事的なもので、スモークサーモンや生ハムと一緒に食うらしい」
「へぇ」
蕎麦といえば、お菓子よりも食事としてしか聞いたことがなかった。
出版社に勤めている谷岡さんは私よりもいろいろなことを知っているので、会話はとてもためになって楽しい。
「お蕎麦のイメージからは想像できないですね」
私の言葉に、谷岡さんも深く頷く。
「確かに。……で、ここで出されるそば粉のクレープは」
「谷岡さんが気に入るってことは、甘いんですよね?」
確信を持って話を振れば、さっきよりもゆっくり大きく頷かれた。
「そうだ。香ばしく焼き上げた生地に、自家製の黒蜜ときな粉をたっぷりかけて食うんだよ」
「うわぁ、美味しそう。早く食べてみたいです!」
「落ち着け。まずは食事してからな」
谷岡さんはおかしそうに笑うと、お店の人を呼んで天ぷら付のざる蕎麦を二つ注文した。
ざる蕎麦もそば粉のクレープも、彼が旨いと太鼓判を押すだけあって本当に美味しかった。
「私もこのお店のファンになりました。今度、友達誘ってみます」
「気に入ってもらえてよかった。……で、どうしたんだ?」
椅子の背にもたれ、ゆったりと腕を組んだ谷岡さんが私に問いかけてきた。
「なにがですか?」
「電車の中で窓の外を睨んでいただろ?結構怖い顔してたぞ」
まさかそんなところを見られていたなんて、自分は本当に子供だ。
だけど、私と同じ青空好きの彼になら、この気持ちを分かってくれるだろう。
そう思って、口を開いた。
「最近ずっと雨ばかりで嫌だなって。やっぱり、晴れの日がいいですよね。谷岡さんもそう思いませんかっ?」
勢いよく尋ねれば、彼は少しだけ逡巡し、
「んー、思わないな」
とあっさり答えた。
てっきり私の意見に賛同してくれると思ったのに、即答に近いスピードで返ってきた言葉を聞いて、私は目を瞠る。
「何でですか?谷岡さんだって、晴れた日が好きですよね?青空の下を歩きたくて、わざわざ早めに家を出たりするんですよね?なのに、雨の日が嫌いじゃないんですか!?」
テーブルに身を乗り出す勢いで言い募る私に、谷岡さんは一度瞬きをした。
「俺が思うに、曇りの日や雨の日があるからこそ、晴れた時は更に嬉しく感じるんじゃないか?」
腕を組み直し、穏やかな口調で彼は話を続ける。
「人生も同じだ。駄目な時があるから、良い時の喜びが増すんだぞ。駄目な時があっていいんだ、いろんなことに躓いていいんだ。だからこそ、先に進めた時は喜びも一入ってわけだ」
そんな風に考えたことなど一度もなかった。
駄目なものは駄目。それ以外はなかった。
次に進むためのステップだなんて、思いつきもしなかった。
だから、壁にぶつかった時の私は、とにかく自分が嫌いになった。
嫌いで、嫌いで、大嫌いだった。
谷岡さんの言葉で、私は心の奥にあった重たい“何が”が軽くなってゆくのを感じる。
「そう考えると、雨の日も悪くないだろ」
片頬を上げて笑う谷岡さんにうっすらと涙ぐんだ目を見られたくなくて、私は俯いて頷くのが精一杯だった。
6月最後の土曜日。
久しぶりに谷岡さんと待ち合わせて、出かけることになった。
今日は中華街に行くのだ。
なんでも、テレビで某中華料理店のコースメニューが紹介され、それを見た谷岡さんは最後に出てくる杏仁豆腐と桃饅頭がどうしても食べてみたくなったとのこと。
そして、その中華料理店のコースは2人前からしか予約を受け付けないらしい。
早めに起きて、何を着ていくのか、クローゼットの前で考え込む。
「そうだ。この前買った薄黄色のショートパンツにラベンダーカラーの網タイツとか、鮮やかでいいかも」
私はうきうきと服を引っ張り出した。
梅雨明けはまだ遠くて、今日も外ではしとしとと降っている。
それでも、いつもなら雨の日のお出かけは憂鬱で仕方なかったのに、谷岡さんのあの話を聞いてから、それほど雨の日が嫌いではなくなった。
駅で待ち合わせて、電車に乗り込む。
谷岡さんの格好は薄いブルーの綿シャツ、ダークブルーのジーンズ。何気ない様相なのに、スタイルの良さで5割り増し。うんうん、今日も男前ですね。
電車のシートに並んで座りながら、いつの間にか髪型の話になった。
「前よりは雨の日が好きになりましたが、湿気が多い日は髪の毛がまとまりにくいので、それを考えると大好きにはなれないですねぇ」
固まらないタイプのヘアスプレーで纏めてきたけれど、私の髪はすでに広がり始めている。
「俺からすれば、実果子ちゃんのゆるくカーブをしているふわふわの髪がうらやましいが」
左側に座る谷岡さんが、しげしげと眺めてくる。
「フワフワにしたいなら、パーマを掛けてみたらどうですか?」
私の提案に、彼は思い切り眉をしかめた。
「そう思って、大学入学と同時に掛けたんだよ。ところが、1週間も経たないうちにパーマが取れてきて、2週間後にはすっかりもとのストレートに戻った」
「え?たった2週間でですか?」
ありえない。
私は思わず声を上げる。
「ああ。だから、馬鹿馬鹿しくなって、それ以来パーマをかけることはしなくなった。俺の髪、どんだけ剛毛なんだよ」
前髪を指で摘んで睨みあげる谷岡さんの様子に笑ってしまう。
「私からすれば、真っ直ぐな髪がうらやましいです。雨の日は湿気で広がるし、寝癖を直すのも一苦労だし」
この時期、出かける前は毎日洗面所でドライヤーとブラシを持ってひたすら格闘しているのだ。
「そんなことをしないで済めば、あと30分は寝ていられるのに」
ブツブツとぼやく私に、谷岡さんがフッと小さく笑う。
「ふぅん、お互い無い物ねだりしてるな」
「ホント、そうですね」
クスクスと笑う私の頭を、彼がいつものように目を細めてポンポンと軽く叩く。
これまで何度となくされてきた仕草なのに、胸のドキドキがいつもより大きかった。
梅雨が明け、暑さが本格的になりだした7月初旬のある夜。
私はベッドに仰向けで寝転がり、気だるげに枕を抱きしめている。
今日だけで、何度ため息をついただろう。
谷岡さんとお蕎麦を食べに行って以来、私の心がざわついていた。
それから少しずつ、そのざわつきが大きくなっているのを感じている。
これまでは一緒に美味しいもの食べたり、なんてことのない世間話をしたり、新しいスイーツの情報を交換したり、彼との些細な交流が楽しかったのに。
今では、前のように単純に楽しいと感じることが出来なくなっている。
その理由は……。
―――私、谷岡さんのこと、好き、かもしれない。……ううん、好き。
小説とかドラマみたいに、出逢った瞬間に運命を感じたりはしなかったけれど。
でも、話をしているうちに、彼のことがどんどん気になっていって、その想いが大きくなって。
私の心にあった重たい“何か”がなくなったスペースに、谷岡さんが入ってきて。
ドキドキが止まらない自分の心の中を覗いてみたら、彼のことで一杯になっていた。
―――だけど……。
谷岡さんは大人の人。
私も成人しているから世間的に見れば大人。
だけど、彼に釣り合うほど“大人”じゃない。
異性として意識していないから、それか妹みたいに思っているから、彼は私のことをあんなにも気軽に誘えるのだろう。
谷岡さんと出かけるのは嬉しいのに。
そう考えると、同じくらい悲しくなった。
それから少しだけ夜更かしをして雑誌を読んでいると、枕元に置いていた携帯電話が鳴った。
チラッと目を向ければ、ディスプレイには“谷岡さん”と表示されている。
ちょっと迷ったものの、私は電話を取った。
「もしもし?」
『遅くにごめん。もう、寝てた?』
「いえ、まだですけど」
『なら、良かった。急なんだが、日曜日、時間あるかな?』
「どうかしました?」
『休日出勤の予定が、先方の都合で流れてね。だから実果子ちゃんを誘って、甘いものを食いに行こうかと』
突然空いた時間を埋める為、気軽に誘える程度の間柄なのだ、私と彼は。
耳元から聞こえる彼の声は穏やかで優しくて、そして残酷。
いつまでも聞いていたいのに、それと同時に今すぐ電話を切ってしまいたくなる。
私は携帯電話をギュッと握り締めた。
「……ごめんなさい。日曜はお母さんに頼まれた用事があって」
本当は用事なんてない。
彼と一緒にいるのがつらくて、私はウソをついた。
『そうか』
なんて事のない一言だが、谷岡さんが気落ちしているのが伝わってくる。
申し訳ないと思うが、それでも、私は誘いには乗れない。
彼に会ってしまえば、今までのように無邪気な笑顔を向けることなんて出来ないのがわかっているから。
「ごめんなさい」
『いや。俺のほうこそ、急に誘ったりして悪かった。そのうち、また飯食いに行こうな』
「……そうですね」
私は心にもない返事をする。誘われても、行くつもりはないのに。
『そろそろ切るな。夜遅くにかけて、ホント悪かった』
「気にしないでください」
『じゃ、おやすみ』
「おやすみなさい」
切った電話をソッと枕元に置き、私はゴロンと仰向けになった。
両腕を顔の前で交差させ、瞼を覆う。
電話から聞こえる声は普段の会話の時よりもすごく近くて、ドキドキが止まらない。
―――やっぱり、谷岡さんの事が好き……。
彼が告げた『おやすみ』の一言が、いつまで経っても耳の奥で響いていた。
7月の連休を前に、久々に学校に顔を出した。
今日は朝から爽やかに晴れているというのに、私は見るからに憂鬱な面持ち。
食堂で待ち合わせていた利緒が、私の姿を見かけるなり駆け寄ってきた。
「ねぇ、実果子。顔色悪いよ?大丈夫なの?」
「暑いからちょっと食欲なくて、だるいだけ」
我ながら覇気がないと分かる声で、私は利緒に返事をする。
「それだけじゃないでしょ?この間のことで、また自分を責めてる?」
「そんなわけじゃ……」
利緒の言葉にはっきりと言い返せず、私は黙り込んでしまった。
10日ほど前。
心理カウンセラーを目指している私は、ゼミの教授の計らいで知人でもある現役のカウンセラーを講師室に招いて講話会を開いてくれた。
実際の現場で働いている人の話は凄く興味深く、将来に向けての夢にますます胸を膨らませる私。
ところが、現実は厳しかった。
講話会を終え、部屋を出ようとしたところに教授とそのカウンセラーさんが私のところにやってきた。
「心理カウンセラーを目指しているんだってね」
「はい。今日はとてもためになるお話をありがとうございました。凄く勉強になりました」
私の言葉に、カウンセラーさんが困ったように笑う。
「高畑教授に聞いたよ。君は精神的に抱えている症状があるのだとか」
「そうです。だからこそ、病院でカウンセリングを受けているうちに、私もやってみたいと思うようになったんですよ」
興奮冷めやらぬ私の様子に、その人は迷いながら口を開いた。
「……でもね、君のような子には正直、向いてないよ」
「え?」
私は突然聞かされた言葉に、耳を疑った。
「向いて……ない?」
短く聞き返せば、その人は苦々しいため息をついた。
「私たち心理カウンセラーは、心が疲れている人たちと真剣に向き合わなければならないんだ。だからこそ、身体も心も元気な人じゃないと勤まらないんだよ」
―――それって……。
私の頭の中がグラグラと回り始める。
呆然としている私に、その人ははっきりと言った。
「現実は思っている以上に厳しいから、今からでも違う道に進んだほうがいい。そのほうが君のためだよ」
その人は私に気の毒そうな顔を向けると、教授に連れられて講義室を出て行った。
誰もいなくなった部屋で、私は立ち尽くしていた。
―――それはつまり、私には心理カウンセラーが向かないってこと?
知識が足りないから、カウンセラーに向かないんじゃない。
努力が足りないから、カウンセラーに向かないんじゃない。
“私”だから、カウンセラーに向かないんだ。
そのことがずっと引っかかり、私はいつかのように部屋に閉じこもるようになってしまった。
食事もほとんど喉を通らず、部屋の真ん中で膝を抱えて、徒に時間だけが過ぎてゆく日々。
カウンセラーに向かないと言われたことが、私の存在自体を否定されたように感じて悲しかった。
人生の選択肢は他にもあるのに、もうここで全てが、何もかもが潰えてしまったのだと思えて苦しかった。
心配した家族が病院に連れて行ってくれたが、今まで私の支えであり目標であった心療内科の先生の存在が、とたんに色褪せて見えてしまう。
とても外出する気になれず暫く学校を休んでいたものの、卒業に関係するゼミの提出物があるので、今日はどうしても登校しなくてはならなかった。
親の運転する車で大学にやってきた私は、レポートを提出する為に教授の部屋を訪れた。
先日のことを教授も気にしているらしく、何処となく気まずい空気が流れる。
レポートを受け取った教授は、何度か頷いた後、静かに口を開いた。
「野田君、あまり深く考え込まない方がいい」
考え込むなと言っても無理だ。
これまでカウンセラーになりたいという夢をかなえる為に頑張ってきたのに、それが無駄なことだと思い知らされたのだから。
「……はい」
ようやく一言だけ返し、私は頭を下げて部屋を出て行った。
食堂の片隅にある席に、利緒と向かい合わせで座る。
「ねぇ、実果子。講話会の時に言われたこと、気にしすぎだよ。自分が将来何になりたいのかを決めるのは、実果子自身でしょ」
いつもなら利緒の励ましのおかげで浮上できるのに、今の私には彼女の言葉が心に響かない。
「でもね、その道の人に“無理だ”って言われたんだよ。私みたいに弱い人間には向いてないって……」
どう頑張ったって、自分は自分以外になれない。
諦めたくないけど、諦めるしかない。
だけど、やっぱり諦め切れなくて。
そのやりきれない思いは、自分に向けてしまう。
何で、自分はこんなにも弱い人間として生まれてしまったのだろう。
こんな弱い自分、いなくなってしまえばいいのに……。
「実果子が悪いんじゃないよ」
「ううん、私が悪いの」
利緒にそう言われても、私にはそうとしか考えられないから。
こうなってしまえば、私は底なし沼から自力では出る事が出来ない。
「……ごめん。私、もう帰る。利緒はまだ用事があるんでしょ?」
とてもお昼を食べる気になれず、私は席を立つ。
「ちょ、ちょっと、実果子!」
テーブルを回ってきた利緒が私の手首を掴んだ。
「一人で帰る気?1時間くらいで私も帰るから、待っててよ」
私は首を横に振る。
「学校にいたくない」
「じゃ、お母さんは?来てくれるんでしょ?」
帰りも迎えを頼んだけれど、お母さんに急用が出来て、待ち合わせの約束は2時間ほど後になった。
「すぐに帰りたいんだ」
弱々しい力で利緒の手を自分の手首から外す。
すると、その手を利緒がギュッと握ってきた。
「実果子……」
「無理だと思ったら、座って休憩する。家に着いたら、ちゃんとお昼ご飯を食べる。だから、大丈夫だよ」
硬い表情を何とか動かして、利緒に微笑みかける。
利緒はキュウッと眉を寄せて私を見た。
「絶対だよ、絶対無理しないでね。何かあったら、すぐ電話して」
「分かった。バイバイ」
心配そうに私を見つめている利緒に小さく手を振って、私は門に向かって歩き出した。
平日の昼間の電車はガラ空きで、私は扉近くのシートにもたれるように座り込んだ。
―――ホント、いい天気だなぁ。
揺られながら、首を捻ってボンヤリと外を眺める。
この青空が似合う元気な女の子だったら、私は自分の夢を叶えられたはず。
眩しい日差しに目を細めていると、ポン、と頭を叩かれた。
ゆっくりと振り向けば、そこに立っていたのは谷岡さん。
今日もドキッとするほどカッコいい。
ううん、彼のことが好きだと自覚した今は、前よりももっとドキドキしている。
思いがけなく会えて嬉しいのに、彼にとって私は何気なく頭を触るような気を遣わない存在だと分かっているから。
谷岡さんには分からないように、そっとため息をついた。
窓から視線を戻し、私は正面に向き直る。
でも谷岡さんの顔を見ることが出来なくて、バッグをいじる振りをして俯いていた。
そんな私に気を悪くするでもなく、彼はいつものように話しかけてきた。
「こんな時間に会うなんて珍しいな。もう、帰り?」
「はい。今日はレポート提出だけなので……」
目を合わせずそう答えると、谷岡さんが首をかしげる。
「顔色が悪い。また貧血か?」
「違います」
「じゃ、風邪?」
「いえ、病気じゃないです」
私のはっきりしない返事に怒ることもなく、彼は空いている隣にスッと腰を下ろして更に私の様子を伺ってきた。
「だが、なんでもないにしては、青い顔してるぞ。それに、少し痩せたんじゃないか?」
体調の悪い私を本気で心配してくる。
ぶっきらぼうで怖そうに見えるのに、谷岡さんは本当に優しい。
「最近食欲なくて……」
当たり障りのない言い訳をすれば、谷岡さんは顎先に手を当て、何かを考え込んでいる。
「……実果子ちゃん、昼飯は?」
「まだです」
「俺もまだ食ってないんだよ。確か、次の駅に薬膳料理を出す店があったはずだ。そこに行こう」
「え?あの、私はいいです」
谷岡さんと一緒にいるのがつらくて、誘いを断わる。
すると私が断った理由が薬膳にあるのだと勘違いした彼が、優しく目を細めた。
「その店の料理はいかにも薬くさいものじゃないし、薬膳以外のメニューもあるから安心しろ。それに、ちゃんこ屋みたいに一人客お断りなんだよ。苦手じゃなかったら、一緒に行ってくれないか」
「いえ、味の問題ではなくて……」
「じゃ、なにが問題だ?」
「それは……」
本当の理由が言えなくて困っていると、電車は駅に着いてしまった。
「とりあえず、降りるぞ」
私の返事を聞かずに、彼は私の腕を掴んで電車を降りる。
「あ、あのっ、谷岡さんっ。私、行きませんからっ」
慌てて呼び掛けるが、彼は歩みを止めるどころか、腕を放してくれない。
今の状況に泣きたくなってきた。
強引に食事に連れ出すほど、私が心配なのだろうか?
だけど、その優しさが、今はつらい。
唇を噛みしめて視線を落とす私に、谷岡さんは肩越しに振り返る。
「暑さに参っているだけじゃないだろ、その顔は。俺に話してみろ」
「……別に、話すほどのことじゃないです」
「だが、その“話すほどのことじゃない”ことに、実果子ちゃんは悩んでいるんだろ?それは、けっこう深刻な問題だってことだと思うが」
的を得た指摘に、思わず私は黙る。
足を止めた谷岡さんがチラリと腕時計に目を落とした。
「ちょうど昼時で混んでるから、少し時間をずらそう」
そう言って、彼は道路沿いにある小さな公園へと入ってゆく。
木陰にあるベンチが空いていたので、そこに並んで座った。
「で?何を悩んでいる?」
長い脚をスッと組んで、背もたれに右肘を乗せた谷岡さんが、彼の右側に座る私へと身体を向けて尋ねる。
私は俯いて、膝の上に載せたバッグの取っ手を握りしめた。
「本当に大したことじゃないので……」
「とにかく話してみろ。そんな思いつめているなら、いっそ全部吐き出してしまったほうが楽になる」
―――楽になれるの?本当に?
何日もずっと考え続けて苦くて、その苦しみからどうにか解放されたかった私は、谷岡さんの言葉に誘われておずおずと口を開いた。
今回のことだけではなく、これまでのこともいつの間にか話していた私は感情的になってしまい、とても順序だてて話すことができなくなっていた。
それでも谷岡さんは途中で口を挟むことなく、何度もつかえてたどたどしい話を真剣に耳を傾けてくれる。
そして、私が話し終えると大きく一度頷いて、『そうだったのか』と、真面目な声で呟いた。
暫くお互いが黙り込む。
さわり、と弱く風が吹き、私の頬を撫でた。
ふぅ、と息を吐いて、私は空を見上げる。
木の葉の隙間から覗く青空が、うっすらと滲む涙でぼやけた。
「私は自分が嫌いです。身体も弱くて、心も弱くて、大嫌いです」
親にも、利緒にも言わなかった言葉が、つい零れてしまう。
それほどまで、今の私は弱っていた。
視界の端に映る谷岡さんは、まるで自分が苦しんでいるかのように渋い顔になる。
「そんな風に思ったら駄目だ。何があっても、自分のことを嫌いになるな」
「でも、こんな私、何の役にも立たない。親にも友達にも心配ばかりさせて、迷惑かけてる……」
悲しくて悔しくて、ますます空がぼやける。
「やっぱり、自分のこと、好きになれません。……いっそのこと、いなくなってしまいたい」
苦々しく漏らせば、カバンの取っ手を握り締めている私の手を谷岡さんの大きな手が覆う。
「え?」
顔を空から谷岡さんへと向けると、怖いくらい真っ直ぐな彼の視線にぶつかった。
「役に立たないなんて言うものじゃない!いなくなりたいなんて、簡単に口にするものじゃない!」
まるで叱り付けるように、その目は鋭く怖かった。
怖いけれど逸らすことができなくて、私はジッと見つめ返す。
すると、谷岡さんはすごい勢いで話し出した。
「転んだ痛みは、転んだ人にしか分からない。実果子ちゃんは自分の心と身体に向き合って毎日苦しんでいるが、だからこそ、君と同じように苦しんでいる人の痛みを分かってあげられる。単なるサラリーマンの俺より、心身ともに健康な人よりも、ずっと深く。
心が弱っている人が求めているのは、状況を推察して同情してくれる人ではなく、その苦しみを理解し、分かち合ってしてくれる人だと俺は思う。同情なんて、それこそ何の役にも立たない、ただのおせっかいだ」
ここまで一気に話した谷岡さんは、ふっと表情を和らげる。
「だから、この先、自分の内側にある苦しみを知っている実果子ちゃんに救われる人が必ずいるさ。自分を嫌いになったりしたら駄目だ。君は何も出来ない子じゃない。諦めなければ、何だって出来る」
重ねた手に一度ギュッと力を入れてから、谷岡さんの手が私から離れてゆく。
彼の言葉と温もりで、私の瞳がさっきとは違う感情で潤み始める。
―――私、夢を諦めなくてもいいの?こんな私でも、ううん、こんな私だから、出来ることがあるの?
嬉しかった。
自分を丸ごと認めてもらえて、すごく嬉しかった。
「分かりました。もう、自分を嫌いだなんて、言いません」
弱々しいながらも、私は微笑むことが出来た。
だけど、彼の言葉が嬉しかったからこそ、困ってしまう。
―――こんな風に言ってもらえたら、ますます好きになっちゃうよ。
叶わない恋など忘れてしまいたいのに。
―――やっぱり、これ以上谷岡さんと一緒にいられない。
私はバッグを胸に抱きしめて立ち上がる。
「ごめんなさい、お昼には付き合えません。話を聞いてくれて、ありがとうございました」
ペコッと頭を下げて、谷岡さんに背を向けて歩き出す。
しかし、彼に追い抜かれると同時にまた腕を掴まれた。
「ちょっと、待ってください!」
戸惑う私にかまわず、谷岡さんは強引に歩き続ける。
「放してくださいっ」
「放したら、君は逃げるだろ?」
彼は私と目を合わさず、前だけを見て言った。だけど、歩調は弛めてくれる。
―――何がしたいの?
ここまで強引に食事に誘う谷岡さんの真意が分からない。
「逃げたっていいじゃないですか」
ふてくされ気味に言えば、
「よくない」
と、ぶっきらぼうに告げた彼が、掴む手にグッと力を入れてきた。
―――ちゃんこ屋さんみたいに、一人客じゃ入れないお店に行くから?
そんな理由で逃がしてくれないことに、本気で泣きそうになってきた。
「具合の悪くなった私を助けてくれたのが、たまたま谷岡さんで。それから、ご飯を食べに行くようになったご飯友達で。ただ、それだけじゃないですか。そんな私が逃げたって、いいじゃないですか……」
本格的に溢れてきた涙を乱暴に拭う。
泣き顔を見られたら、さっきのように理由を追及されそうで。それだけは絶対に避けたいから。
公園の出口に差し掛かったところで、ようやく谷岡さんが足を止めた。
はぁ、と肩を落として大きく息を吐いた彼が、ゆっくりと振り返る。
「あのなぁ。俺が何とも思っていない女性を何度も誘うような、軽々しい男に見えるか?」
彼の言葉に、ドキン、と心臓が跳ねた。
―――なんで?いつもは私のことを“女の子”って言うのに、どうして今は“女性”なんて言うの!?
恥ずかしさと、そしてそれ以上に、よりによってこんな時にいつもと違う彼の物言いに腹が立って、顔が赤くなる。
「それはっ!甘いものを食べるのを付き合わせるのに、深い付き合いのない私がちょうど良かったからで。会社の人でもないし、友達でもない私だから。谷岡さんが甘いものを好きなことを知られない為に、何の関係もない私がちょうど良かっただけで!」
これ以上顔が赤くならないように必死で落ち着こうとしているのに、谷岡さんは空いているもう一方の手で、スルリと私の頬を撫でた。
「なっ?!」
今度こそ、顔が赤くなるのを隠せない。
そんな私を、なぜか彼は嬉しそうに見ていた。
「誰にも知られたくない自分を、君だけに見せてきたんだ。そんな俺の想い、そろそろ分かってくれよ」
「え?」
―――分かってくれって、何を?
ポカン、と背の高い谷岡さんを見上げると、普段は表情に乏しい彼の顔が珍しくほんのりと赤い。
「君だから見せてきたんだ。……好きな人には、ありのままの俺を見て欲しいからな」
「……え?え??」
―――今、なんて言った?
脳が言葉を処理できない。
目をパチクリさせていると、谷岡さんが苦笑した。
「本当はもっと雰囲気のある場所で言いたかったんだが、タイミング的に今しかないだろうしな……」
「タイミングって、なんのでしょうか?」
思考回路がストップしてしまった私は、彼の前から逃げるということを忘れて思わず訊き返してしまった。
すると谷岡さんは空を見上げて『あー』とか、『うー』とか、低く唸った後、覚悟を決めたように私に向き直る。
「一目惚れというか、一聞き惚れというか……。君に、“青空が好きな人に、悪い人はいない”と言われた時から気になってたんだ。一緒に食事するようになって、俺のことを怖がらないでいてくれる君の態度が嬉しくて。外見と違う俺のことを否定しなかった君の言葉が嬉しくて。気がついたら、好きになっていた」
彼の言葉に、呼吸が止まった。
―――谷岡さんが、私を、好き?!
「う、そ……」
―――そんなこと、ある訳ない。
「わ、私は、社会を知らない学生で……。谷岡さんから見たら……、ぜんぜん、こ、子供で……」
突然の告白にパニックを起こし、言葉に詰まる私。
こういう時、サラリと対処できない自分が心底情けなくなる。
こんな自分が、谷岡さんに好かれるはずなんてない。
「そ、れに、私は……谷岡さんより6つも下で、ちっとも、大人っぽくなくて……」
俯いて言い訳を続ける私に、谷岡さんは大きなため息を一つついた。
「実際、年齢差は否定できないよな」
しかし次の瞬間、彼はゆるりと頬を上げる。
「だが、俺の両親は10歳離れている。それに比べりゃ、6歳差なんて余裕だろ」
「で、でも、私じゃ、谷岡さんには釣り合わないから……」
―――年齢差以上に埋められない溝があると思うから。
弱々しく呟いて俯く私の肩を谷岡さんが掴む。
「釣り合うとか釣り合わないとか、そういうことは関係ない。大事なのは気持ちだろ?実果子ちゃんは、俺のことが嫌いか?」
―――嫌いなんかじゃない!そんなはずない!
嫌いじゃないからこそ、こんなに悩んでいるのだ。
私はとっさに小さく首を横に振った。
その様子に、彼がホッと息を吐く。
「じゃ、改めて……」
谷岡さんがコホン、と小さく咳払いをすると、私が大好きな優しくて心地よく響く声で彼は言った。
「実果子が好きだ」
素っ気無いセリフだが、嬉しくて、幸せで、とたんに涙が溢れ出す。
「わ、私で……、いいん、で……すか?」
「君がいい。君じゃなきゃ、意味がない」
ぼろぼろと泣き出した私を、初めて逢った時と同じように谷岡さんが優しく抱きしめる。
「泣き虫だな。ま、嬉し泣きみたいだから大歓迎だが」
涙腺が壊れてしまったのか、一向に泣き止むことが出来ない私。
涙で谷岡さんのスーツが濡れちゃうのに、ぜんぜん放してくれない。
彼の腕の中で泣きじゃくる私を宥めるように、谷岡さんは大きな手で何度も何度も髪を撫でる。
「それで、返事は?」
この状況なら、今更言わなくても分かるだろう。
それに谷岡さんが『嫌いか?』と訊いた時に首を振って否定したのだから、答えはその反対なのに。
それでも彼は問いかける。これまで聞いたことのない甘い声で。
「実果子の口から聞かせてくれよ。なぁ、返事は?」
嗚咽を堪えて、私は自分の正直な気持ちを一生懸命言葉にした。
「す……好き、で……す。秀介さんが、好きです……」
私が言い終えると同時に、更に強く優しく抱きしめられる。
ピカピカに晴れた空の下。
私と秀介さんは恋人同士になりました。
≪オマケ≫
~ある日の2人~
「いいなぁ、秀介さんの髪。いつでもサラサラ真っ直ぐで、すごく好きです」
秀介さんの部屋のソファーに並んで座り、私は自分と違う彼の髪をうらやましそうに眺めている。
すると、秀介さんがヒョイと片眉を上げた。
「好きなのは俺の髪だけか?」
普段よりも低い声で、まるでこちらを脅すような雰囲気だ。
それに負けてしまうのが悔しくて、私はわざと捻くれた答えを彼に告げる。
「……髪“も”好きです」
すると案の定、秀介さんは更に声を低くした。
「“も”ってなんだよ」
「いいじゃないですか、別に。気にしないでくださいよ」
ジリジリ迫る彼から逃げようと後ずさりするが、私の背中がソファーの肘掛にぶつかり、これ以上下がれない。
とっさに立ち上がろうとすると、それよりも早く秀介さんが私の右手を掴んだ。
「こら、はっきり言え」
握力自慢の彼だが、私の動きを阻む力はちっとも痛くない。
だけど、ぜんぜん放してくれそうにない。
仕方ないと諦めて、私はポツリと呟いた。
「……秀介さんも好きです」
恥ずかしがり屋の私にしてみれば、相当大胆な告白。
にも拘らず、彼は納得行かなかったようだ。
「そこで、“も”は要らないだろ。ほら、言えよ」
掴んだ手をグイグイ引いて、私に催促してくる。
この人は基本的に優しいが、時々意地悪になるのだ。
でも、その意地悪がちょっとくすぐったくて、嬉しかったりもする。
私はゆっくり息を吸い込んで、そして、ゆっくり口を開いた。
「…………秀介さん“が”好きです」
すると思い切り腕を引かれて、私は彼の胸の中に倒れこんだ。
「ひゃぁっ」
小さな悲鳴を上げる私に、満足そうな微笑を向ける秀介さん。
「よく出来ました」
そう言って、彼は私をギュッと抱きしめて、おでこにチュッとキスをしてくれた。