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スモーキン・レイニーブルー

作者: 日向 葵

「『羅生門』?」


 人気のない図書室で、彼は確かにわたしに問いかけた。窓から初夏の遅い夕暮れの光が差しこみ、部屋に濃い影を作る。


「え? あぁ……うん」


 彼の手にはわたしが貸し出しの手続きを頼んだ一冊の文庫本が。識別のバーコードを読みこんで、丁度私の手元に返す時のことだった。


「芥川、好きなの?」

「…………うん」


 嘘を一つ。わたしはよく、自分のための嘘を使う。

別に芥川なんて、好きではなかった。ただ、有名どころを少しくらい齧っておこうと思って。だから、芥川。名前さえ知っていれば夏目でも太宰でも誰でもよかったのだ。芥川のが一番薄かったから手に取っただけ、そんな偶然。そんな偶然から生まれた、拙い虚言。だって、にっこり笑って好きかと尋ねる目の前の彼に「興味ない」や「嫌い」なんて答えたら申し訳ない。きっと彼は、


「ぼくも好きだよ」


 わたしと違って芥川が好きだから。

 片手サイズの小さな本。受け取ろうとしたら、見えない本の下で指先同士が触れた。そのあたたかな指先に、彼の人柄全部がギュッと詰まっている気がした。普段教室で見かける、滅多に話さない地味で、まじめで、大人しい彼の、柔和さ、優しさ、誠実さが。まだまだわたしの知らない、嘘なんてつかない彼の全てが。

 死んでしまった作家に向けられた「好き」

今度はわたしに言ってほしいと思った。

 

。+:*○。+:*○。+:*○。+:*○。+:*


雨が降っている。

沖縄から始まって、数日前からこの街も梅雨入りした。六月にふさわしい天気は今日も続き、校舎も体育館もグラウンドも水煙の中。どこもかしこもくすんだ灰色をしている。

降り出した雨は今はまだ小降り。だけど雲行きから見てそのうち大雨になるだろう。クラスメイトとだべってないでさっさと帰ればよかったと思わないでもないが、折り畳みでも一応カサは持ってるしよしとした。

昼からかかったままの雨のカーテン。こんな日は、例え家へ帰るためだとしても表に出たくはなくなる。わたしは友人とおしゃべりを切り上げた後も教室にひとり残っていた。

クラス内は薄暗い。蛍光灯をつけてないからだ。別につけてもよかったんだけど、それは自分がここにいるよと主張しているようでイヤだった。雨の日のわたしはとにかくブルー一色で、ひっそりと呼吸するに限る。うつうつとした天気が嫌いなわけじゃない。ただ、雨の日は許される気がするから。

頭上からとめどなく紡がれる細い銀の糸はわたしを隠してくれる。やさしく、あてどなく。そんな天気に甘えて、ネガティブ思考になってもいいんじゃないか、ってつい思ってしまう。甘えて、思って、弱気になって。淀んだ空気を纏うわたしなんか誰にも見せられない。明かりをつけて仮に知り合いにでもここを覗かれたらたまったものではないのだ。

教室後方の入り口に寄りかかるようにして体育座り。腕を組むのは自分の身を包み守るためだと聞いたことがある。それと同じ原理だ。両腕で体を囲んで、やわい殻を作り保守に走る。制服越しの肌の温度は頼りなくて、でもこれしか頼れなかった。

最初のうちはつい先日借りたばかりの羅生門を読んでいた。表紙をじっと見つめていると、夕方の図書室での出来事がリフレインする。あの日を境に起きた急激な感情の変化に正直戸惑った。でも幸せだった。同じ空間に好きな人がいる時間は、満ち足りたものだった。

明かりを落とした教室で文字を追う作業が読み進めるごとに辛くなる。読書は諦めて文庫本は脇に置き、ひざに顔をうずめてることにした。

スカートからはかすかな雨の匂い。目をつぶった真っ暗な視界の中、雨音が途切れることなく響く。小刻みなリズムはワルツみたいだ。晴れの日の部活動の喧騒は聞こえない。その代わり、階段を下りる複数の濡れた足音と、楽しそうな笑い声がかすかにここまで届いた。

息を吸って、吐いて。窓を叩く雨粒が徐々に強くなる(もっと強く)(誰の声も届かないくらい)

誰かいる教室は明るくて、にぎやかで、騒がしい。それが時々、とても窮屈。

青春を謳歌する友達だっている。勉強だって、好きではないけど何とかこなす。部活も、もうそろそろで引退だから一層熱が入る。学校生活をふざけてじゃれ合うのは好きなのに、どうしても自分を含め全部が全部イヤになる。

臆病者なのだ。普段のわたしは波風たたないよう平気で嘘をつく(好きだよ、嫌いだよ、うんそうだね)(たくさんの偽りを、友人たちに向けてきた)

その嘘がもしとうの昔から見透かされていたのなら。わたしはそれが怖い。本当はみんなの方がよっぽど嘘つきで、わたしのちっぽけなでまかせなんてとっくに見破られ、でもそれを隠されていたら。一瞬でも被害者ぶった不安に駆り立てられるともうお終いだ。さざ波のように広がる誰かの笑い声が急に滑稽な自分に向けられた嘲笑のようで体が竦んでしまう。そんな日々が少しずつ重なっていけば、自然雨の日はこうなる。だって雨は、許してくれるようだから。

段々、眠気が襲ってきた。予想外に空の泣き声はほどよい子守唄だったらしい。眠るには辛い体勢だから熟睡はしないはず。睡魔に身をゆだねても困らないかとうたた寝を決めこもうとした時、背中がふっと軽くなった。


「ひゃ、」

「え、うわぁ!?」


 こっちもびっくりしたが、向こうはそれ以上の驚きだ。ドアを開けたら何の前触れもなく人が倒れこんできたのだ。そりゃそうだろう。足音も人の気配も感じず、完全に予想外の出来事だったので受け身の一つもとれずわたしは廊下側へ背中から転がるようになだれこんだ。


「み、(みな)()さん?」

「あ、羽鳥くん……。ぇっと、こんにちは?」

「こんにちは。……大丈夫?」

「はぁ、まぁ、なんとか」


 廊下に寝そべって羽鳥くんを見上げる形でなんともまぬけな会話をこなす。

遠い顔は明らかに困惑していた。分かりやすい。

とりあえず上体を起こし、それから立ち上がり汚れた背をはたく。……掃除くらいきちんとしてほしい。上手く背中に手が届かないことと相俟って思わず眉をひそめた。パタパタと制服を揺らし四苦八苦するわたしに羽鳥くんは助け船を出す。丁寧にほこりを払ってくれた。それも自分が悪いように申し訳なさそうに。


「……ごめん」

「こちらこそ、ごめんなさい。びっくりしたよね」


 わたしが謝れば羽鳥くんは苦笑い。困ってるけど、突然のハプニングに笑いたい。そんな感じだ。救いの手としてこちらから笑ってやれば、同調して笑顔を零してくれた。


「びっくりしたよ。誰もいないと思ってたのに、ドア開けたら水実さんがいきなり倒れてきて。一体どうしたのさ」

「ちょっと、考え事、を」

 また嘘。何もまともなことなんて考えていない。雨に甘えてただ自己嫌悪に浸っていただけ。でもこうやってはぐらかしておけば、誰も胸の内には触れてこないことをわたしは知っている。歯切れの悪さに、親切な羽鳥くんはそれ以上追及してこなかった。人の嫌がることは絶対にしない。それが羽鳥くんだった。


「羽鳥くんはどうしたの? 忘れ物?」


 授業が終わってから大分経っている。下校時刻ではないがこの悪天候じゃどの部も基本は中止のはずだ。だから人気は皆無と踏んでわたしはここに居残ったのだ。それなのによりにもよって。羽鳥くんに鉢合うとは思ってなかった。


「委員会の仕事だったんだ。さっきまで、図書室で当番やってたよ」


 当番というのは図書委員が交代制で行うカウンターの仕事。わたしもこの前、羽鳥くんにお世話になったばかりだ。

 入室する際羽鳥くんは屈んで、放置したままの『羅生門』を拾い上げ手渡してくれた。それからすいと横を通り抜け後ろの入口から薄暗い室内の前方へと歩く。


「それでさっき終わったばっかで帰ろうと思ったんだけど、玄関でカサがないことに気づいて」

「朝は降ってなかったもんね」

 羽鳥くんは自分の席へと辿り着いた。


「そう。で、予備の折り畳みを取りに戻りに来たんだ。そしたら、」

「わたしがいたんだ?」

「そうそう」


 背中を向け、ひょいと机の横に掛かった置きガサを手にする羽鳥くん。真っ黒のそれは几帳面に綺麗に畳まれている。わたしは手先が不器用で、いつも不恰好にまとめてしまうから素直に羨ましいと思った。


「そうだ。羅生門は、読み終わった?」


 お目当てのものを片手に出て行くと思いきや、回れ右をした羽鳥くん。後ろ姿を見つめるだけで無防備だったわたしはばっちり目が合ってしまった。急にぶつかった視線に恥ずかしさがこみ上げ、突然の質問にスムーズに反応できなかった。


「あ、まだ……。最初の方を読んだだけ」

「そっかー。あれは後半になればなるほど面白くなっていくからね。下人の追いこまれた状況が、自分も体験してるみたいでどんどん物語に捕らわれていくよ。ぼくのお薦め」


 好きなものを語る時は誰でも表情は生き生きとする。羽鳥くんもその例に漏れず、表情は明らかにぱっと輝いた。電気をつけない教室で羽鳥くんの笑顔はただ眩しいだけ。もっと見ていたい。もっと話していたい。でも、自分の願いを包み隠さず言葉にしたらきっと羽鳥くんはびっくりする。目立たない空気みたいなクラスメイトが、急にそんなこと口走ったら。

 羽鳥くんは一体どんな反応を見せてくれるのだろう。もし、関わったことのない女子が、好きだなんて告白したら。故意に傷つくような振る舞いはしないはず。さすがに関係がいくら希薄であろうがそれくらいは分かる。しばらくクラスメイトとしてやってきたし、たった数日前といえども恋をしてからはこの目で追いかけてきた。  

羽鳥くんはやさしい。笑顔で、声色で、雰囲気で、人を安心感に包んでしまう。その居心地の良さはあまりにも自然で、たいていは見過ごしてしまう。

 わたしを庇う雨の日と同じだ。わたしが嫌うわたしを雨は痛めつけない、癒してくれる。あの日触れた指は、決してわたしを傷つけない。直感で分かるほどの、羽鳥くんからにじみ出る友愛だった。


「あー、降ってきちゃったかぁ」


 窓の向こうへと視線を投げかける羽鳥くんにつられる。ガラスの向こうの景色は教室と同じくらいどんよりとした灰色で、土砂降りだった。話しこんでいるうちに勢いが増したらしい。透明な板に打ち付ける水滴は大きく、とても折り畳みガサで凌げそうになかった。


「これじゃあ帰れないなぁ」

 手元のカサに視線を落としてため息交じりに羽鳥君がぼやく。それはわたしもだった。


「雨宿り、してく?」

「下人みたいに?」


 後ろのドアに寄りかかってここは一つと提案してみれば、羽鳥くんは楽しみを見つけた子供のように相好を崩し頷いてくれた。どうやら自分の好きな物語と重なる状況がお気に召したらしい。

いつ止むとも知れない雨。ずっと降り続ければいいのに。

 居座ることを決めて羽鳥くんは自分の席に腰かけた。天気の回復を待つんだからわたしも座ろっかな、と悩んでいればちょいちょいと手招きされる。誘われたと思い至って歓喜した脳を少し落ち着かせ、しばらく冷静な思考回路で迷った挙句右斜め後ろに腰を下ろした。

 羽鳥くんはイスを百八十度回転させた。あ、お話するんだ。呼ばれた時点で分かり切った未来にわたしはなんとなく姿勢をピンと正して向き合った。

 人の良い穏やかな笑顔はリラックス効果がある。今まで有り得なかったシチェーションで好きな人を前にして、不思議といつも通りでいられた。それでもやっぱり、初めてのことだから多少はぎこちないけど。


「水実さんって、本が好きなの?」

「んーん。人並みに読む程度だよ。羽鳥くんは好きだよね、読書」

「うん。よく知ってるね」

「休み時間のたびに本を開いてるんだもん。みんな知ってるよ」


 眉尻を下げる羽鳥くん。バカにしてしまったわけではないけど、嫌味に聞こえたかもしれない。でもそれは杞憂だった。


「そっかぁ、みんな知ってるのかぁ」

「? どういう……」

「水実さんだけが知っててくれたら嬉しかったんだけどなぁ」


 危うく勢いよくイスから転げ落ちるところだった。が、「水実さんなら、本ばっか読む僕を見てもバカにしなさそうだし」と理由をつけられて何とか耐える。そうだよね。読書家って、地味だネクラだって軽視されがちだし。危ない、今のは危なかった。自分に都合よく言葉尻を捉えてしまいそうで、羽鳥くんへの好きを実感する。

 その後も雨降る午後の私言は続いた。小さな声を決して外に漏らさないように水の奏でる音楽のボリュームはヒートアップしていく。まるで二人だけのためにあつらえたモノトーンの世界で、雨は一切の邪魔者を許さないように強まった。

お互い趣味も部活も好きなものも嫌いなものも違った(たとえば羽鳥くんは熱帯魚が好き、わたしは猫が好き。違和感もなく古典が得意な羽鳥くんの苦手な数学がわたしは得意、とか)共通点の少なさにがっかりはしたけど、それ以上に羽鳥くんの中身を覗けて嬉しかった。どうしよう、わたし、浮かれてる。

 ひとり好きな人との時間に幸せでいれば、羽鳥くんがぽつりと呟いた。

「雨、止まないね」


 二人して見上げる空はグレーのまま。わたしが止まないでって、くだらない、だけど必死な願いをかけたからだろうか。そうなると少し過去の願掛けを後悔する。意図して迷惑をかけたかったわけではないけど、羽鳥くんは困ってる風だ。

 でも、もしかしたらこれは神様がくれたチャンスではなのかも。雨が止む、もしくは雨脚が弱まっただけでも羽鳥くんは帰ってしまうかもしれない。だったらその前に、当たって砕ける勢いで羽鳥くんにぶつかったら。

 普段受動的な自分からは想像の出来ない勇気が勢いよく湧き上がった。

 雨の日は、許される気がするから。


「羽鳥くん」


 精一杯五つの音を繋げる。意味を成さない音色を重ねてどうしてこんなにも素適な響きになるのだろう。名前を口にしただけで胸が弾む。好きな人の名前を口にする幸せをひしひしと感じた。


「わ、たしは」


 不自然に揺らいだ言葉。小首を傾げる真正面の羽鳥くんの頭上に疑問符が浮かぶ。そのハテナマークに急かされるように、雨の匂いと混じった空気を一度吸い、口を開く。

今から、嘘じゃなくて、本当を。


「羽鳥くんが好きです…………」


 言った。言い切った。思いの丈は、短い恋の日々と比べて随分な質量だった。いつの間にここまで膨らんでいたんだと我ながら呆れるほど。じわじわと恋の病特有の発熱と不整脈に罹る。

 雨音に押し潰されそうな静寂が照明のない教室に漂う。海に沈んだように息が難しい。雰囲気の重さに耐え切れず、どんどん私は項垂れていった。当然相手の表情は分からない。

 長い長い間、二人は押し黙っていた。あんまりにも無言で、本当は告白なんてしていないんじゃないのかと自分で自分を疑うほどだ。でも、顔は確かに熱いし脈も平常より十分早いから、きっと幻なんかではないはず。幻覚ではないのなら、わたしは返されるべき返事を待った。ただ、望む言葉は期待しないでおく。羽鳥くんに今日一日で大分近づけた喜びは、羽鳥くんの分け隔てない長所から生まれたものであって、決して恋愛感情からではないとは百も承知だからだ。

 下降する自信と比例して雨は小さくなる。


「帰ろうか、」


 一緒に。

 視線はかち合わなかった。横顔を向けて、羽鳥くんが窓を挟んで向こうの雨上がりを確認したからだ。

 帰ろうか、一緒に。わたし宛てのセリフを何度もゆっくり咀嚼して、思わず机に手をついて立ち上がる。それって。

 状況がうまく飲み込めない置いてけぼりのわたしに現実を示そうと、羽鳥くんは開いたわたしの手の甲にあの日と同じ体温で五指を重ねてくれた。

 

 やさしく。

最初にあんなこと言ってながら、結局「好き」って言ってもらえてない水実さん。やっちまったなぁ(笑)

この小説の目標は「遣らずの雨」と「弱者同士の恋」を取り入れることでした。学校も社会である以上、目立たなくて隅に追いやられる弱者はいると思います。そんな健気な二人を目指しました。


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今後の文芸部活動に役立たせてもらいます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 羽鳥くん、なかなか積極的だと思います。でも、 「ぼくも好きだよ」 みたいなことは絶対に言わない気がする。 I love you をどう翻訳するか、という話を思い出しました。「月がきれいですね…
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