三
「出てこい、水神童子──!」
突き出した岩に仁王立ちして、タツは大声を張り上げる。ミチは池に入りこそしなかったが、腹いっぱいに息を吸い込んで、両手を頬に当てた。
「水神様──! 出てきて──!」
いつもどおりのようで、確実にいつもとは違う。もう太陽は真上を通り過ぎているし、いまはミチも一緒になって叫んでいる。そして、タツの口から、「勝負」という言葉が出ない。
ああ、もし自分だったなら──考えてもしようのないことを、ミチは考えずにいられない。もし自分だったなら、いつもとこんなに違う様子なのだから、不審に思ってすぐにでも出てくるのに。
「童子、いわれたとおりに西瓜を持って来た! すぐに出てこないと、みんな食うぞ!」
機転を利かせたのだろう、タツが声音を変えてそう叫ぶ。すると、水面が渦を描き出し、中から水神童子が首だけを覗かせた。
「なんじゃあ、おまえら。先刻来たばかりじゃろうが。どうせ嘘じゃろう」
頭から信じていない。不満そうな顔をして、じろりとタツを、それからミチを見る。
「西瓜は持って来られんいうとったじゃろう。どうしてそんな嘘をつく」
「ごめんなさい、西瓜は嘘だけど、でも、どうしても出て来てもらわんといかんかったの。ねえ、タツ兄」
ミチは正直に謝って、タツに目線をやる。サキチのことは、何故だか、ミチではなくタツの口からいうべきことだという気がした。
タツは、不機嫌そうな顔をして、いいにくそうに切り出した。
「童子、おまえ、すぐにここを出ろ」
「なんじゃと?」
水神童子が目を瞬かせる。小首を傾げ、池から飛び出した。一切濡れていない着物を風にはためかせ、ミチとタツの真ん中に着地する。ミチは思わず目を閉じたが、水飛沫はかからなかった。水神童子は、ごく当たり前のような顔をして、水面の上に胡座をかいていた。
「この池から出ろいうことか」
その声に怒気はない。どちらかというと不思議そうではあるが、あまり感情の計れない声だ。
タツは水神童子に向き直り、深くうなずいた。
「そうだ。違う場所へ移れ。いますぐだ」
「なんでじゃ」
真っ直ぐに、水神童子が問う。その背中しか見えなかったが、ミチは水神童子がどんな顔をしているのかを想像して、悲しくなった。
二人が行けば、いつも楽しそうにしていた水神童子。それは、ミチもタツも、同じだ。本当は、雨を降らせたいという目的など、ほとんどどうでも良くなっていた。
「なんでじゃ」
繰り返す。ミチは、唇を噛む。
本当のことはいえない。タツだってきっといわないだろうと、ミチにはわかる。とはいえ、何もいわないのでは、水神童子は納得しない。
見上げると、岩の上から水神童子を見下ろして、タツは硬い表情をしていた。両拳を握りしめている。とうとう、真一文字に結ばれた口が開かれて、ミチは思わず目を閉じる。
「友だちだからだ」
しかし、聞こえてきた言葉は、ミチの想像していないものだった。
耳を疑い、タツと、それから水神童子の背中とを見る。
その背中が嬉しそうに、少しだけ照れたように──そして微かに寂しそうに、小さく揺れた。
「わかった」
「水神童子────!」
しかし、遅かった。空気を切り裂くような怒号が響いて、ミチは首をすくめた。
「タツ兄!」
「来たな、親父」
ミチは急いで駆け寄り、タツも岩から降りる。二人は水神童子を守るように、池の中に立つ。
そうして、言葉を失った。
声は、サキチのものではなかった。サキチのものなのかもしれなかったが、わかりようがなかった。
こちらに向かって叫んでいたのは、一人ではない。
二人や三人でもない。
村の大人たち全員が来たのではないかというほどの大勢が、池に押し寄せてきていた。
「水神童子──!」
「童子!」
「水神様ー!」
それぞれが、こちらに向かって呼びかけてくる。
「なんじゃあ、何事じゃ」
水神童子は目を丸くした。ミチは急いで水神童子を庇おうとしたが、興味があるのだろう、水神童子自身が首を伸ばすので、少しも隠すことができない。
「ど、どうしよう、タツ兄」
タツは答えずに、通せんぼをするように両手を広げ、池から出た。池の畔にまでやって来ている大人たち全員を、睨みつける。
「帰れ、帰れ! 神頼みなんてみっともないわ! 雨が降らんからって、よってたかって童子を泣かすて、恥ずかしいと思わんのか!」
力強くいいきる。ミチは心から頼もしく、兄貴分の背中を見守った。よくいうわと後でいってやろうとは思ったが、それはまた別の問題だ。
「水神様は悪くないわ! 雨だって、もう少し待ったらきっと降るわ、なあ!」
ミチも、負けじと声を張り上げる。
「何をいっとる」
大人たちの中で、前に出てきたのは、やはりサキチだった。よく見ると、タツの母親も、ミチの両親も、一緒に来ていた。皆が皆、何やら荷物を抱えている。ミチはどきりとしたが、どうやら武器の類ではないらしい。
ミチは、目を細めて、母親の持っているものをしっかりと見た。間違いない。小ぶりではあるが、西瓜だ。
「オレらが童子泣かしに来たと思っとるんか、阿呆」
呆れきった声で、サキチがいう。
「違うんか! 雨降らせるために泣かすか、そうじゃなかったら使えん神だって、退治でもすんだろうが! 見損なったわ、おやじ!」
「生きとるだろうが」
厳しい声で、サキチはいった。
「オレら、生きとるだろうが。どうして、使えん神だ。この村で、沢山の命をいただいて、生きとるだろうが」
「タツ兄」
ミチはそっと前へ出て、タツの着物を引いた。
「もしかして、うちら、勘違いしとるんじゃ……」
「ミっちゃんとこにだけ声かけるつもりが、道々でどんどん増えてしまったわ。ここにいるみんな、童子のことが懐かしいってな。なあ、童子! おるか! 聞こえとるか!」
サキチがさらに声を大きくする。タツが振り返り、ミチも水神童子を見た。確かにここにいるのに、どうやら見えていないらしい。
「オレのおやじも、見えんつっとったしなあ。見えんのだろうなあ。いつのまにか、もうおまえと遊べんくなってしまったわ。うちのタツは弱いだろう、なあ」
その声が、柔らかいものになる。ほかの大人たちも一様に、懐かしそうに目を細めている。
「水神様、ツルです。うちのミチがお邪魔していたようで、すみません。小さいですけど、おいしい西瓜、持って来ましたから」
ミチの母親が、ミチに向かって微笑んで、丸い西瓜をそっと置く。
「うちはトマトを!」
「なんもないから、都で流行しとる書っつうのを、持って来たわ」
それぞれが手にした物を、置いていく。野菜や果物、日用品の類まで、それはあっという間に山となった。
「童子ー!」
池の畔で、大人たちは皆子どものような顔をして、叫ぶ。
「いつも、ありがとう──!」
「感謝しとるよ──!」
ミチの腕に、滴が落ちた。ミチは驚いて、手の甲で目をこする。しかし、ミチの目から涙は出ていない。
タツでもない。タツも気付いたのか、ミチと顔を見合わせ、それから水神童子を見る。
水神童子は俯いて、小さな小さな声で、つぶやいた。
「ふん……決着の付いてない勝負、ばっかりじゃ」
水神様、とミチは呼ぼうとした。何かを感じたのだろう、繋ぎ止めようとするかのように、タツが水神童子の着物を掴む。
しかし、無駄だった。ミチとタツの真ん中にいたはずの水神童子は、池に押し出されるように、空に舞い上がる。
「あ……──」
口を開けて、タツとミチが見上げる。水神童子は最後に、二人を見下ろした。口の両端を上げ、悪戯坊主のように、にやりと笑う。
「じゃあな!」
その一言だけを残し、水神童子は姿を消した。
まるで空気の一部のように、ほんの一瞬ゆらりと揺らいで、あとはもう見えなくなってしまった。
それには気付かず、大人たちが未だ叫んでいる。遅れて追いついてきた何人かの子どもたちが、水神童子の姿を見たのか、それとも消えていくのを見たのか、声を上げているのが聞こえる。
ぽろりと、ミチの目から涙がこぼれた。タツが目を閉じて、やはりそこからも、水の玉がこぼれ落ちる。
しかし、すぐに、それが涙なのかそうではないのか、わからなくなった。
「雨だ」
誰かが、つぶやく。
ひと月ぶりに、村に、雨が降り注ぐ。
*
〽わらし わらし
みずがみわらし
わらしは むらの まもりがみ
わらしの なみだは そらの あめ
小さな子どもたちが、歌っている。ミチは声をかけようと口を開けたが、逡巡し、結局やめてしまった。
背の伸びたタツの後ろ姿に手を振り、小走りで追いつく。
「遅いわ、ミチ! 毎日毎日、なんで遅れるんだ」
「毎日毎日、用意するの大変でしょうが。自分の食べる分、減らしとるんだからね」
「そんなら、遅れんだろうが」
ミチは口を尖らせた。あれから二回目の夏が訪れていたが、体が大きくなっただけで、こういうところはまったく変わらない。
まだまだ、子どもだ。
だから、きっとまだ、大丈夫。
「さあ、行くぞ」
「うん!」
タツが走り出し、ミチが追いかける。
背負った袋の中で、胡瓜が踊った。
了
読んでいただき、ありがとうございました。
今後も精進いたします。
今作は伊那様主催「和風小説企画」に参加しております。
企画サイトにて、すてきな和風小説および和風絵がわんさかです。
企画サイト:http://wafuukikaku.web.fc2.com/