一
〽わらし わらし
みずがみわらし
わらしは むらの まもりがみ
わらしの なみだは そらの あめ
「勝負だ、水神童子! 今日こそこのタツ様が、こてんぱんにしてくれる!」
タツは声を張り上げた。着物の裾をたくし上げ、ためらいなく池の中に突進し、水面が腰を濡らしたところで立ち止まる。突き出した岩によじ登ると、その上で仁王立ちをした。それから顎を引き、広がる池を見据える。
腹いっぱいに、息を吸い込んだ。
「さあ、いつでも来い! 泣かしたるぞ──!」
甲高い声は水面を揺らし、池の向こうの木々までもを撫でたようだった。しかし、それだけだ。
そのまま待つこと、数秒。
目当ての相手は、現れない。
「タツ兄、水神様、怒っとるんじゃないかなあ」
その背中を見つめながら、ミチはぽつりとつぶやいた。独り言でも良いというつもりだったのに、しっかりと届いたのだろう、タツは三角の目を見開いて、勢いよく振り返る。
「なんだあ、ミチ。どうして俺らが怒られるんだ」
ミチは呆れた。単細胞が服を着て歩いているようなこの幼なじみは、泣かしてやるといった相手が怒らないと本気で思っているのだろう。
ましてや、相手は神様だ。
「そりゃあ、怒るわ。仲良くしょうよ。せっかく水神様を見つけたんだから」
唇を尖らせて、やんわりと諫める。しかしタツは鼻を鳴らした。
「見つけたから、泣かしたるんだ。日照り続きで困っとんのは、ミチんとこも一緒だろ」
「でも泣いたって、雨が降るとは限らんよ」
「降るわ。父ちゃんも母ちゃんも、ばあちゃんもいっとったもん。歌にもあるだろうが。水神童子が泣きゃあ、雨は降る」
胸を張っていいきって、タツは前を向いてしまう。池も、その向こうの森も静まりかえって、不思議なぐらいに生き物の気配がない。
水神童子は、村の守り神だ。
子どもたちは、大人たちにそう聞かされる。この村は、雨を降らせ、村を豊かにしてくれる水神様によって、守られているのだと。
水神童子は、寂しがり屋でいたずら好きで、そして気まぐれなのだという。村の水場を転々とするため、会えるかどうかは運次第だ。その日南の川にいても、次の日には北の川にいる。かと思えば、一つの季節を同じ場所で過ごすこともある。
タツもミチも、水神童子に会うのはこの夏が初めてだ。とはいえ、それが特別貴重な体験だということではない。少なくともミチは、水神童子に会ったことがないという大人を知らない。皆一度は、子どものときに出会うものらしい。
「もう違うとこに行ったかもしれんよねえ」
恐らくそれはないだろうと思いつつも、ミチはそう口にする。返事がないので、少し考えて、いいかたを変えてみた。
「タツ兄が怖くて、逃げたのかもしれんよ」
「逃げた!」
効果は覿面だった。
「逃げた、逃げたか! 水神童子め、そんなに俺様に負けるのが怖いか!」
両手を腰に当て、タツは大きく笑いだす。ミチは反対に馬鹿馬鹿しくなって、タツ兄は単純だ、ととっくにわかっていた事実を改めてかみ締める。
「水神童子め、大したことないなあ!」
その水神童子に十二回も挑戦して、一度も勝てないでいるのは一体誰だ──わかりきっていることは口にせず、ミチはこっそりとため息を吐いた。本当に逃げたのだとしたら、タツの目的は達成されないことになってしまうわけだが、そのことに気づいている様子もない。
どうするべきかと、思案する。このままこの兄貴分を連れ帰るか。ここに留まるか。
しかし、思考は無用だった。高笑いをするタツの向こう側で、何かが跳ねるように動いたのだ。ミチは、あっと口を開けた。
「隙ありじゃ──!」
魚が飛び跳ねるように躍り出たのは、小柄な少年だった。自らの身体よりも長い髪は日の光を浴びて青く煌めき、先程まで水の中にあったはずの白い着物は一切濡れておらず、鳥のように宙を舞う。
「天誅!」
そう叫んだ水神童子は、すでに勝ち誇っていた。嬉しくてたまらないと聞こえてきそうなほどの満面の笑みで、組んだ両拳を降りおろす。
悲鳴を上げることもできず、タツが池に落ちていく。
ほら、また負けた──ミチは心の中で兄貴分の敗戦記録に数を一つ加えた。これで、十三回だ。
「水神様、今日は胡瓜を持って来とるよ」
どうせすぐに浮かんでくるタツのことは放っておいて、ミチは背負っていた麻袋を降ろす。中から採れたての胡瓜を取り出すと、水神童子は岩の上で飛び上がり、どすんとミチの前に着地した。
「ミチはわかっとるのう! タツのような無礼者とは違うわ」
差し出した胡瓜を受け取り、そのままかじりつく。唇の両端を上げて目を閉じると、おいしさを全身で表現するかのように首を何度も振った。
「たまらん!」
両手分をあっという間に平らげて、次に手を伸ばす。本当は三人で食べるつもりで持ってきた胡瓜だったが、ミチは快く残り全部を水神童子に差し出した。あんまりおいしそうに食べるので、見ているだけで充分だという気になってしまう。
「なあ、水神様。タツ兄を怒らんといたって」
座り込んだ膝に両手を乗せて、ミチは水神童子を見つめた。
「本当は、こうやって水神様に会いに来るの、楽しみにしとんのよ。一緒に遊んでるつもりなんだと思うわ」
「喧嘩売りに来とるんじゃないか。わしがいつあれと遊んだよ」
そう返しながらも、水神童子は笑顔だ。にやついている。恐らく、遊んでいるつもりなのはお互い様なのだろう。
「わからんなあ」
ミチは頬を膨らませた。そんなふうにしてわかり合いたいとも思わないが、やはりどこかつまらないものがある。自分には見えない、男同士だからこその絆があるようで、おもしろくない。
「何を勝手なこといっとる、ミチ! いつだれが童子と遊んだ!」
脱いだ着物を両手で絞りながら、タツがびしょぬれの身体で現れた。しっかり水気を切った着物で乱暴に頭を拭き、ふんどし一丁でミチの隣に座り込む。
「俺は泣かしに来とるんだ。こんな卑しい童子と友達になんかなれんわ」
卑しい、を強調して、水神童子の手から最後の胡瓜を奪い取る。無理矢理全部を口に入れると、タツは「勝った」といわんばかりに顎を上げ、笑ってみせた。
水神童子はふんと笑って、タツを睨めつける。
「卑しいとはなんじゃ、卑しいとは。ミチ、次は西瓜じゃ、西瓜を持って来い。タツにはやらんと、わしが全部食べてやるわ」
「西瓜かあ。西瓜は、なあ……」
ミチはいい淀んだ。今夏は、西瓜の出来が良くない。それどころか、作物という作物に、元気がないのだ。
「阿呆、ミチがどんな思いで胡瓜持って来たと思っとるんだ。親父さんにばれたら拳骨だぞ。童子がさっさと泣かんから、こうなるんだ」
「何」
明らかに喧嘩腰でタツがいうと、水神童子は目を見開いた。
「雨か。まだひと月かそこらじゃろうが。すこうし雨が降らんだけで、ぬしらはすぐに弱るんじゃなあ」
そこに皮肉は含まれておらず、ただ単純に不思議そうに呟かれた言葉だった。しかしミチはずきりと胸が痛んで、うつむいてしまう。
「うちらは、駄目ねえ」
自嘲する。冗談のように笑うつもりがうまくいかず、タツの怒りの声に押しやられた。
「そのいい方はないわ! 童子、おまえが村の守り神だろうが! 泣かしたるで、さっさと雨降らせえ!」
「そんなもん、迷信じゃ。昔から時々、タツみたいな餓鬼が来るけどな」
「ほら、タツ兄」
ばつが悪くなって、ミチはタツの腕を引く。
「水神様に失礼よ。そんなこといわんと、仲良くしょう」
「できんわ! 絶対泣かしたる!」
しかし、タツはその手を振り払った。いまにも殴りかかりそうだ。
ミチはどうにか止めようと腰を浮かせたが、水神童子を見てはっとした。外見の年齢とは似つかわしくない複雑な表情で、静かに笑っていたのだ。
「わしに降らせるもんなら、降らせるわ。あのな、わしを泣かそうが、泣かすまいが──どれだけ良い行いをしようが、悪い行いをしようが、変わらんのじゃ。それらはぬしらの内面に干渉するが、天には届かん。そういうふうに、できとる」
「そんな……」
そんなことはないと否定したかったのか、そんなことをいうなと懇願したかったのか、口を開いたものの、ミチにはわからなかった。言葉が口の中で行き場を失って、ぐるぐると絡まって、戻ってきてしまう。
「知らんわ!」
しかし、そんなミチを笑い飛ばすかのように、小気味良いほどはっきりと、タツはいった。
「知らんことは考えん! とにかく俺は、童子を泣かすったら、泣かす! さあ、今度は騙し討ちできんぞ。正々堂々と、勝負だ!」
タツが立ち上がると、すでに乾いたふんどしが風に揺れる。座り込んでいる水神童子を見下ろして、タツは両手を腰に当てた。
「立て、童子!」
どうしてそこまで偉そうなのか。止めようかとも思ったが、恐らくこれは彼らなりの遊技の一種なのだろうと、ミチは立ち上がって場所を空ける。池から離れた木の根本に日陰を見つけ、そこに移動した。
どちらを応援するということもない。どちらが勝つのかはわかりきっているので、する必要がないのだ。
「待て、待て。正々堂々というからには、わしが胡瓜の食べ過ぎで腹を下しそうなのを考慮してくれるんじゃろう。もうちょっと、待て」
座ったままで、水神童子が腹を押さえる。タツは眉をひそめ、腰を屈めた。
「なんだ、大丈夫か、童子。水神のくせに、貧弱だな」
「いかん、駄目じゃ。本格的に駄目じゃ。草むらに行ってくる」
「お、おう。大事にな」
ミチは二人から視線をはずし、遠くの空を眺めた。昼が訪れようかという空に、どこまでも育ちそうな大きな雲。ああ、本日二回目だというのに、また結果は同じなのかと、ほんの少し兄貴分を哀れむ。
「阿呆が! 隙ありじゃ──!」
喜々とした水神童子の叫び声と、続くタツの悲鳴。
これで、十四回。